bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

津軽・弘前を旅するー弘前藩菩提寺・長勝寺

江戸時代の弘前藩主は津軽氏である。移封されることもなく、江戸時代ずっと続いた。菩提寺もずっと弘前にあったが、戦国時代には藩主とともに移動している。その菩提寺長勝寺である。

司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の中の「北のまほろば」の中で、長勝寺とその周辺について、「いまの弘前の地に、高岡(鷹岡)という標高18メートルほどのひくい丘が隆起していた。[中略]。(この丘からは)津軽平野を一望に見ることができ、さらには天然の要害として岩木川がめぐり、西方と北方の備えをなしている。ただめざわりなのは、城の南に茂森という丘のあることだった。攻城する側がこれを奪えば、付城に使える。 「あれを平らに削れ」などと、津軽為信はいったはずである。げんに津軽為信が慶長12年(1607)、京で客死したあと、元和元年(1615)、茂森の丘はほとんど削られた。そのあとの西茂森に藩主の菩提寺長勝寺をはじめ多くの寺院が集中して置かれた。戦いのときは城方兵を籠めるのが、本来の目的だった」。

寺院の移動については長勝寺のホームページで確認できる。それを要約すると、次のような経緯を辿って弘前にきた。津軽家の祖・大浦盛信が父光信の菩提を弔うために、享禄元年(1528)に当時居城があった種里(現鰺ヶ沢町)に、長勝寺は建立された。その後、大浦(現弘前市五代、旧中津軽郡岩木町)を経て堀越(弘前市堀越)へと、津軽氏の本拠地の移転とともに移り、慶長16年(1611)に、弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前に居城を移すとともに現在地に移った。

さらに同じホームページによれば、曹洞宗長勝寺移転とともに、領内の曹洞宗寺院33寺が、同じ場所に集められ、寺院街を構成した。弘前城を防衛するための前線基地のような軍事的性格を持ち、現在も残る土塁を含め長勝寺構(がまえ)と呼ばれている。江戸時代初期での同一宗派33寺による寺院街建設は全国でも例がないとされている。一直線の禅林街の一番奥、突き当りに位置するのが長勝寺である。

グーグルマップからはその様子が分かる。写真で手前(南)が長勝寺、まっすぐに上の方に延びる道路に沿って寺院が並び、禅林街をなしている。

禅林街の一番奥にある長勝寺を参詣するためには黒門を抜ける。案内板には次のように説明されている。黒門は外枡形、土居、濠跡及び曹洞宗寺院群とともに史跡弘前城長勝寺構を構成する重要な遺構の一つで、長勝寺三門杉並木等とあいまって西茂森禅林街の歴史的好環境をつくりだしている。現位置における記録上の所見は貞享4年(1687)作成「長勝寺耕春院惣構」の図に見られ、黒門は長勝寺境内入口を示す総門(表門)としての機能を有していた。この門が城郭建築にみられる高麗門形式となっているのは長勝寺一帯が弘前城の出城として性格付けられていたことによる。弘前城にない高麗門形式が出城としても長勝寺構に現存することは興味深いことであるが、建造当初からの形式によったかどうかは定かでない。

黒門を抜けて、禅林街を歩いていくとは先の方に長勝寺が見えてくる。

振り返るとスタート地点の黒門が見える。

それでは長勝寺の説明に移ろう。境内の案内文によれば、三門・銅鐘・本堂・庫裏が国指定重要文化財に指定されている。そしてそれぞれは次のように説明されていた。

三門:嘉永6年(1629)、2代藩主信牧により建立された。この後数回の改造を経て、文化6年(1810)には火燈窓を設けるなど、ほぼ現在の形となった。上下層とも桁行9.7m、梁間5.8mで棟高は16.2mである。組み物は三手先詰組とし上層縁廻の勾欄親柱に逆蓮柱を用いるなど、禅宗様の手法を基本としている。また、柱はすべて上から下までの通し柱で、特殊な構造となっている楼門である。

銅鐘:鐘は、嘉元4年(1306)の記年銘があるところから嘉元の鐘と呼ばれている。寄進者の筆頭に鎌倉幕府執権・北条貞時法名があり、さらに津軽曽我氏の棟梁や安藤一族と考えられる名前なども陰刻されている。中世の文献がほとんどない当地において、北条氏と津軽の関係を示す貴重な資料である。

本堂:慶弔5年(1610)に造営されたと伝えられている。桁行22.7m、梁間16.3m、入母屋造。折桟唐戸を吊り、上に筬(おさ)欄間を設けている。部屋は8室構成とし、間切りは1間毎に角柱を立て2本溝の仕切りを置く。仏間は板敷きとし、正面中央に円柱を立て、左右の脇間には菱欄間を設けている。古い形式を随所に遺し、津軽菩提寺の本堂として記念すべき遺構である。

庫裏:桁行18.1m、梁間13.9m、屋根は切妻造で茅葺、大浦城台所(文亀2年(1502)建築)を移築したと伝えられ、各柱に登梁を架け渡し、これに小屋束を立てて和小屋を構成する。一部改造個所もあるが、当初の姿で保存され、中世にまで遡り得る構造形式を残している遺構として貴重である。

内部

庫裏の反対側には、五百羅漢が安置されている蒼龍窟(そうりゅうくつ)がある。

そして蒼龍窟の入口には厨子堂がある。長勝寺のホームページによれば、大型の1間厨子で、入母屋造の木瓦葺。百沢寺の本尊を祭るために1638(寛永15)年に3代藩主信義が造営した建物で、もともとは現在の岩木山神社拝殿内部に設置していた。明治時代の神仏分離令により百澤寺(ひゃくたくじ)が廃寺となり、長勝寺に移築。三尊仏は、津軽為信が慶長8(1603)年に岩木山百沢寺大堂の本尊として祭ったものと伝えられ、三体とも寄木造り、胡粉箔仕上げの桃山時代の作とみられる。

境内の右奥には、津軽氏の墓所がある。御影堂は国指定重要文化財である。弘前市のホームページには次のように説明されている。御影堂は初代藩主為信の木像(県重宝)を祀った堂で、内部の厨子須弥壇は重要美術品に認定されていた。創建は三門と同じ寛永6年(1629)と伝えられ、文化2年(1805)に正面を南から東に改め、全面的な彩色工事が実施されたという。方3間、屋根を宝形造の銅板葺とし、軒は二軒疎(ふたのきまばら)垂木である。四周中央間には、内側に草花図柄を密陀絵で描いた黒漆塗の桟唐戸がついている。内部の架構は虹梁を主体とし、来迎柱や天井などには極彩色で絵や文様が描かれている。厨子も極彩色で、各部に金箔や金泥が多用され豪華である。この建物は、南に配された津軽家霊屋と一体となった藩祖を祀る御影堂として貴重である。

中央が御影堂。

霊屋は国指定重要文化財である。案内板によれば、霊屋は御影堂より南へほぼ一線に並び、環月臺(初代藩主為信室霊屋・寛文12年(1672)造)、碧巌臺(2代藩主信枚霊屋・寛永8年(1631)頃造)、明鏡臺(2代藩主信枚室霊屋・寛永15年(1638)頃造)、白雲臺(3代藩主信義霊屋・明暦2年(1656)造)、凌雲臺(6代藩主信著霊屋・宝暦3年(1753)造)である。5棟とも方2間、入母屋造、こけら葺で妻入である。また正面は桟唐戸、他は板壁で、各棟各面とも外面に津軽家家紋の杏葉牡丹が描かれているが2代信枚室の満天姫が徳川家康の養女であったことから、明鏡臺の各面は葵の紋で飾られている。内部には石造無縫塔が安置され、壁に板卒塔婆が張り巡らされているほか、鏡天井には白雲臺に天女、他の四棟に龍の絵が描かれている。いずれも江戸時代前期から中期に属するもので、本格的造りになる霊屋が建ち並ぶ景観は優れており、年代の明らかな近世の霊屋群として重要である。

左から右へ、碧巌臺、環月臺。

左から右へ、白雲臺、明鏡臺、碧巌臺。

左から右へ、明鏡臺、碧巌臺。

長勝寺の説明はここまでである。古風で威厳のある三門に圧倒されたが、境内は通常の寺院とは趣が異なり、武士の館を連想させるような本堂と庫裏には、宗教的な雰囲気が感じられず、戦国時代に戻ったような異様さの中に吸い込まれた。次回は、寺町の雰囲気が漂う禅林街を説明する。

津軽・弘前を旅するー弘前城と歴史

今回弘前を訪れた主な目的は、満開のソメイヨシノを心ゆくまで堪能することであったが、その他にもいくつかの目的があった。その一つは、小説や紀行文で興味深く描かれている弘前の地を踏み、そこの歴史に触れてみたいという願いであった。青森県は、江戸時代には西側の弘前藩(津軽藩とも言い藩庁は弘前)と東側の盛岡藩(南部藩とも言い藩庁は盛岡)に分かれていた。下図は、Wikipediaからのもので、津軽地方は、津軽平野を中心とした青森県の西半分である。

司馬遼太郎さん(1923~96)は、紀行文『街道をゆく』の「北のまほろば」で、けかち(飢餓)に悩まされてきたこの地には、縄文の豊かな生活の跡が埋まっていると述べている。

その部分を引用すると、「私は、まほろばとはまろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持のいい野、として理解したい。むろん、そこに沢山に人が住み、穀物がゆたかに稔っていなければならないが。[中略]。ところで、青森県津軽と南部、下北)を歩きながら、今を去る一万年前から二千年前、こんにち縄文の世といわれている先史時代、このあたりはあるいは〝北のまほろば〟というべき地だったのではないかという思いが深くなった。[中略]。津軽も、あるいは南部をふくめた青森県ぜんたいが、こんにち考古学者によって縄文時代には、信じがたいほどにゆたかだったと想像されている。むろん、津軽だけでなく、東日本ぜんたいが、世界でもっとも住みやすそうな地だったらしい。山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べもののほうから、身をよじるようにして──サケ・マスのことだが──やってくる。そんな土地は、地球上にざらにはない」、と描かれている。

司馬遼太郎さんが指摘するように、縄文時代には、遮光器土偶で有名な亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市)や、大規模集落跡が発見された三内丸山遺跡が存在し、定住型の狩猟採集生活が営まれていた。土偶や土器の優れた装飾や大規模な集落などから、縄文の人々がこの地で豊潤な生活をしていたことが容易に想像できる。

弥生時代になると、2400~2300年前に砂沢遺跡(弘前市三和)で、そして2100~2000年前に垂柳遺跡(田舎舘村)で稲作が始まったが、紀元前1世紀には稲作は放棄されてしまう(再開されるのは6世紀ごろ)。縄文の文化が狩猟と交易であるのに対して、弥生の文化は蓄積である。稲作がすぐに棄却されたのは、弥生の文化に移行しないでも、作物が豊潤で交易が盛んな縄文の文化の中で、より満たされた生活ができるとこの土地の人々は判断したのだろうか。知りたいところである。

歴史を振り返ると、奈良時代から鎌倉時代にかけての東北地方は、縄文と弥生の文化がせめぎあっている。そして、その戦線は次第に北上していく。鎌倉時代の中ごろから南北朝時代にかけて、押しつぶさそうな縄文の文化が、あの「北のまほろば」が、最後の光彩を放つ。安部龍太郎さんが小説『十三の海鳴り』で、蝦夷地から若狭にかけての日本海交易及び中国大陸や沿海州方面との北方交易で繫栄した十三湊を中心とするまほろばの津軽を、躍動的に描いた。

少し時代を遡って津軽の歴史を観察すると、鎌倉時代が始まるころ、源頼朝は栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府の有力御家人陸奥留守職とする。しかし、鎌倉幕府の2代執権・北条義時は奥州安倍氏奥州藤原氏の流れをくむ安藤氏を、蝦夷管領に任じ、陸奥の支配を任せた。

鎌倉時代末期には、安藤氏は蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に出羽国秋田郡から下北半島まで一族の所領を広げた。13~15世紀前半の十三湊は、出土した多数の土器や、少数だが奢侈品の中国陶器・白磁四耳壺などが含まれていることや、大規模な都市が形成されていたことを示す遺構などから、国際港湾都市として繁栄していたことが明らかになってきている。十三湊だけでなく安藤氏支配下の各湊では、上方からの織物・古着・酒類穀物・雑貨品などが陸揚げされ、北の産物である昆布・鮭・マス・ニシンの油などが積出され、繁栄していた。

しかし、この繁栄も長くは続かなかった。南北朝時代(1336~1392)には、陸奥西部・津軽地方に勢力を有していた安藤氏は南朝方に、東部・南部地方の南部氏は北朝方となる。そして両者の抗争は応永年間(1394~28)に始まる。南部氏は、足利幕府によって陸奥国司に任命され、安藤氏は巧みに生き延びようとするものの享徳2年(1453)に滅ぼされ、津軽は南部氏に支配されてしまう(南北朝時代に安藤氏は秋田と津軽に分立し、前者を上国家、後者を下国家となる。上国家は秋田氏を名乗り、江戸時代を通じて大名として存続する。また、下国家の方は分家筋が系統を保ったようである)。

延徳3年(1491年)、十三安藤氏残党の反抗に対処させるために、南部(大浦)光信が津軽西浜種里に移封されたと伝えられている。光信は津軽大浦家の祖とされ、その5代目は大浦為信である。為信は、なかなかの策略家で、天正17年(1589年)に、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上する。うまく立ち回った為信は、秀吉から津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならびに合浦一円の所領を安堵され、南部氏から独立する。この時の独立に対して、南部氏側に遺恨が残り、江戸時代を通じて津軽藩南部藩は対立関係にあったことは有名である。

太宰治さんは、この地(北津軽郡金木村(現在五所川原市))の出身で、津軽を描いている。司馬遼太郎さんが、津軽まほろばの国と高揚感をもってたたえているが、太宰治さんは、津軽を悲しき国と嘆いていると『街道を行く』の中で司馬遼太郎さんは指摘している。二人の津軽に対する見方が正反対なのは、子供のころから住んでいた深い経験と、旅人としての表面的な浅い経験との違いから生じたのだろうか。あるいは二人の性格の違いによるものなのだろうか、知りたいところである。

さて、太宰治さんは小説『津軽』の中で、弘前城と為信を含む歴代の藩主について述べている。すなわち、「弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信枚(信牧とも:のぶひら)の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧(のぶやす)の宝暦ならびに天明の大飢饉津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親(やすちか)は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承(ゆきつぐ)の時代に到つてからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭(つぐあきら)の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。[中略]。弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ」、と記している。

ところで、冒頭で取り上げた稲作はその後どのような経緯を辿ったのだろうか。東北農政局にその説明があった。これによれば、「本地域(津軽)では、田舎館村の垂柳遺跡(たれやなぎいせき)における水田跡の発見により、2000年以上も前から稲作農耕が行われていたことが分かっている。その後、気候の寒冷化により稲作は一旦すたれるが、戦国時代に津軽為信がこの地を統一して以降、歴代津軽藩主によって積極的に新田開発が進められ、稲作中心の水田社会が広がった。しかし、江戸時代の元和、元禄、宝暦、天明天保年間には5大飢餓と呼ばれる飢饉が発生し、多数の餓死者が出たほか、用水不足により近代まで流血の惨事に発展するほどの水争いが絶えなかった。また、飢饉とともにこの地を襲った天災が洪水である。津軽地方は、上流部では河床勾配が急で水が一気に平野部へ流れ落ちるが、逆に平野の下流部では、河床勾配が緩く水がなかなか流れないため、1615年から1940年の325年間で計108回の洪水を数え、およそ3年に1度の割合で、洪水被害に見舞われた」、と説明されている(文章はである調に変えてある)。

上記の説明によれば、水田稲作が本格化するのは戦国時代の16世紀ということになる。司馬遼太郎が「北のまほろば」としたのは、光彩を放った時期だけでなく、長いこと縄文的な文化の色彩を残し、狩猟と交易を生業としていたためであろう。しかし水田稲作が推進されると、その当初は著しい成長を遂げる。同じ東北農政局の資料によると、津軽藩の石高(実質)の変化は著しく、1593年は4.5万石、1645年には10.2万石、1664年には 15.7万石、1694年には 29.6万石と増加した。

津軽藩の表向きの石高は、当初は4.7万石(陸奥国津軽領4.5万石+ 上野国新田郡大舘領0.2万石)であった。実質の石高が表向きのそれを大きく上回ることにより、その分の米は商品作物となる。北前船により、大坂と江戸に廻送された。大阪へは鯵ヶ沢より西回りで、江戸へは青森より東回りで運ばれた。

9代藩主・寧親(やすちか)時世の文化5年(1808)に10万石に加増された。しかし、加増による家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたもので、実際の加増を伴わなかったので藩の負担増を招いた。なお新田開発が終わった5代藩主・信寿(のぶひさ)以降は、太宰治が説明しているように、災害や凶作により、領民の生活は窮乏し、藩の財政は悪化した。


それでは弘前城を見ていこう。下図は、前回の記事で用いた弘前公園案内図である。

太宰治が説明しているように、鷹岡城(のちの弘前城)の築城は、初代藩主・ 為信時代の慶長8年(1603)に始まり、為信が慶長9年に京都で客死したため中断される。2代藩主・信枚が慶長14年に再開し、慶長16年に鷹岡城がほぼ完成する。寛永5年(1628)、信枚は鷹岡を弘前に改称し、城名も弘前城となる。

天守。これを見たときの第一印象は、かなり小ぶりだと感じた。そして、これは櫓の一つで、天守はよそにあるのではと辺りを見回したが、それらしきものは発見できなかった。それもそのはず、最初に建築された天守は、寛永4年(1627)に落雷で、本丸御殿・諸櫓とともに焼失した。当初は5層6階であった。

江戸時代には、5層以上の天守閣を建築することは厳しく制限されていたため、この後200年近くも長いこと、天守のない時代が続いた。9代藩主・寧親は、石高の加増に伴って家格が高くなったので、それに釣り合うようにということで、三層櫓の新築を幕府に願い出て、3層3階の三階櫓(天守)を建てた。これが今日見る天守である。重要文化財に指定されている。なお城壁の工事に伴って本丸は移動している。本来の位置は本丸の隅である。


現存する三つの櫓は三層建てである。いずれも、城郭にとりつく敵を攻撃したり、物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺きになっている。軒下や格子の木部は素木のままで飾り気がなく、独特の美しさを見せている。三つの櫓は同じような形であるが、窓の形など細部の造作には違いがみられる。いずれも重要文化財である。

二の丸辰巳(たつへび)櫓。天守から見て南東にあたる。歴代藩主はここから三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列を観覧したようである。

二の丸未申(ひつじさる)櫓。天守から見て南西にあたる。

二の丸丑寅(うしとら)櫓。天守から見て北東にあたる。

城門は、築城当時は10棟であったが、現存するのは5棟である。これらは周辺を土塁で築き、内側に桝形を設けた2層の櫓門である。門の前面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、1層目の屋根を特に高く配し、全体を簡素な素木造としていることから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。いずれも重要文化財である。

三の丸追手門。弘前公園の正面玄関とも言えるのがこの追手門である。藩政時代にも、初期を除いてほとんどの期間、この門が正門であった。

北の郭北門(亀甲門)。この門は他に比して大きく、銃眼がないなど外観もやや異なり、また、柱間に京間(六尺五寸)が用いられている。築城当初大手門として建築された。今でも風格のある佇まいをしているのはこのためである。

三の丸東門。

二の丸東門。

二の丸南門。

現存している橋は八つである。その中から写真を撮った三つの橋を紹介する。

下乗橋。内濠を隔て、本丸と二の丸に架かる橋である。藩政時代、二の丸側には下馬札が置かれ、藩士は馬から降りるよう定められていた。築城当初、橋の両端は土留板だったが、文政11年(1811)年に石垣に直された。藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋で、このような立派な姿ではなく、簡素なものだった。

鷹丘橋。内濠を隔て、本丸と北の郭に架かる橋である。弘前城は、先に説明したように、築城されたころは鷹丘城(高岡城)と呼ばれていた。鷹丘橋という名は、由緒ある城の旧名にちなんだものと思われる。この橋は寛文10年(1670年)に4代藩主・信政が母の屋敷のある北の郭へ行き来するために架けたとされている。藩政時代は敵の侵入を防ぐため、戦時には壊される架け橋であった。

杉の大橋。中濠を隔て、二の丸と三の丸に架かる橋である。築城当時、スギ材でつくられた橋であったため、杉の大橋という名が付けられた。この橋は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋であった。そのため、壊すにしても焼き払うにしても、柔らかく燃えやすい性質を持ったスギが用いられた。文政4年(1821)、濠の両側が石垣になるとともに、ヒノキ材による架け替えが行われ、欄干と擬宝珠が付け加えられた。

内濠。本丸・二の丸・北の郭をそれぞれ隔てる濠である。二の丸から本丸へは下乗橋が、北の郭から本丸へは鷹丘橋が架かっている。

本丸近くの内濠は、石垣を修理していた。修理が終われば、本丸はここにそびえる。

中濠。二の丸と三の丸を隔てる濠である。この濠には杉の大橋と石橋の2つの橋がかかっている。

外濠。弘前城の外周、三の丸と四の丸を囲む濠である。

西濠。西濠は、もともと築城時には岩木川の支流を引きこんだものであったが、現在は岩木川と独立している。

今回の旅行を切っ掛けとした俄か勉強で、太宰治さんや司馬遼太郎さんの足元にも及ばないが、私が住む関東とは異なる歩みをした弘前の歴史を垣間見ることができてよかった。今後もこのような機会に恵まれることを望んだ次第である。

参考書:
小瑶史朗、 篠塚 明彦:津軽の歴史、弘前大学出版会、2019

津軽・弘前を旅するー弘前さくらまつり

これを逃したら二度とチャンスは訪れないだろうと、ちょっと大げさ過ぎるが危機感を抱き、すべての予定をキャンセルして(これも大げさ)、みちのくの弘前公園を訪れた。目的はもちろん満開のソメイヨシノを堪能することである。弘前公園は日本三大「桜の名所」の一つで、 残りの二つは長野県の高遠城址公園奈良県吉野山である。高遠と吉野は若いころに訪れたことがあるので、ずっと弘前が気になっていた。

弘前の桜は、これまでゴールデンウィークに満開となっていたので、民族の大移動のような時期に行くことには躊躇していた。しかし、近年は温暖化の影響を受けて開花の時期が早まり、今年は昨年よりもさらに9日も早いと予想された。旅行会社が、こんな早い時期のパックやツアーを企画できなかっただろうから、絶好のチャンスと見て、先週末頃から開花予想を見ながら、最適な日を狙っていた。

今週の月曜日になって、満開になるのは金曜日(19日)と予想されたので、この辺りにと決めてホテルの予約状況を調べた。当初は迷惑をかける人が少ない金・土と考えたが、私と同じことを考えている人が多かったようで空き室が全くなかった。仕方なく一日早めて木・金でホテルを探した。明け方に検索したときは、手ごろな値段のものがいくつかあったので、それではと新幹線の時間や弘前での過ごし方を纏めてから、8時半ごろに再び検索した。ところが、予約する人が増えているようで部屋がどんどんと埋まっていく。あれよあれよという間に高い価格帯のものだけになってしまった。こんなに高い料金を払って満足できるだろうかと悩みながら、半ばやけっぱちでもう一度検索したら、突然手ごろな価格のものが現れた。ラッキーと思って即座に予約した。新幹線のチケットの購入も済ませて、我ながら驚く速さで、あっという間に旅行の段取りを済ませた。

ところで、いつごろから日本人は桜を愛でるようになったのだろう。農林水産省のホームページに、サクラ博士の勝木俊雄さんが監修した「日本の桜の歴史」がある。それを要約すると次のようになる。

日本には古くから野生種の桜(ヤマザクラエドヒガン・オオシマザクラなど)が存在し、特にヤマザクラは身近な存在だった。江戸時代までは花見と言えばヤマザクラであった。3月3日の桃の節句は中国からの伝来で、奈良時代まではその儀式に中国からの外来種である桃や梅を利用していた。貴族社会では桃や梅を珍重していたが、平安時代になると身近な桜を愛でるようになり、儀式や行事にも利用されるようになった。奈良時代万葉集にも桜が詠まれているが儀式的な意味はなかった。

平安時代にはヤマザクラの栽培化が始まり、野生種でない栽培品種も誕生した、最も古い歴史を持つのが枝垂桜で、平安時代の文献にもある。オオシマザクラ伊豆大島の野生種で、室町時代の文献に、京にまで伝わったのであろう、オオシマザクラらしき記述が見受けられるようになった。染井吉野(ここでは原文のまま)は、エドヒガンとオオシマザクラの種間交雑で生まれた栽培品種で、染井村(東京都豊島区駒込)が名前の由来である。江戸時代の頃、染井村に多くの植木職人が住んでいて、接ぎ木苗が作られていたようで、染井吉野の接ぎ木苗は初期成長が早く、美しい花が多くつくことがわかり、各地へと広まったようである。

桜は芸術にも大きな影響を与えた。桜を詠んだ歌が万葉集に44首、古今和歌集に70首ある。江戸時代に発達した浮世絵にも多く描かれ、歌川広重「名所江戸百景」や葛飾北斎富嶽三十六景」の作品から、庶民が花見を楽しむ様子がうかがえる。また演劇の世界でも、能の「西行桜」、歌舞伎の「義経千本桜」など、桜を演出要素とする作品が存在する。

今日(土曜日)のNHKの朝のニュースでも、弘前公園の桜がライブで紹介された。それによれば、公園は周囲が4kmの広さで、52種2600本の桜が植えられている。私が訪れたときに見ごたえがあったのは、ソメイヨシノと枝垂桜であった。特にソメイヨシノのあふれんばかりの咲きざまに圧倒されたが、アナウンサーの説明によれば、通常は一つの芽に咲く花は3~4個だが、弘前公園では多い場合には7個になるため、ボリューム感が出るとのことだった。また古木の多さにもびっくりした。これもアナウンサーの説明だが、通常桜の寿命は60~80年だそうだが、弘前公園には100年を超えているものが400本以上もあるそうだ。このように維持・保全されているのは、40人からなるチーム桜守が丁寧に手入れをしていることの恩恵だそうだ。満開は、予想通り金曜日から始まったとのこと。3日間満開が続き、その後は散った桜で堀は花筏になるとのことであった。

写真はたくさん撮ったのだが、その中から15点を紹介する。

天守と枝垂桜、

天守内部から見たソメイヨシノ

本丸内のソメイヨシノ

本丸内の古木・枝垂桜、

本丸内から見た岩木山ソメイヨシノ

辰巳櫓・中濠・観光舟とソメイヨシノ

丑寅櫓とソメイヨシノ

鷹丘橋とソメイヨシノ

東内門付近の古木・ソメイヨシノ(旧藩士の菊池楯衛から明治16年(1882)に寄贈された。現存するソメイヨシノでは日本最古級)、

追手門・外濠とソメイヨシノ

北門(亀甲門)付近のソメイヨシノ

外濠のソメイヨシノ

西濠に沿ってのソメイヨシノ

西濠に沿って花のトンネルを形成しているソメイヨシノ

藤田記念庭園内の古木・枝垂桜。

なお弘前公園案内図は次のとおりである。

今回、訪れたときは弘前さくらまつりが開催されていたが、その歴史はホームページによると次のとおりである。

弘前公園に桜が植えられたのが正徳5年(1715)で、このとき藩士が京都の嵐山からカスミザクラなどを持ち帰った。明治の初めごろは城内は荒れ果てていたが、そこに1000本のソメイヨシノが植栽された。このとき一部の士族は「城を行楽の地にするとは何事か」と引き抜くなどして反発したが、明治維新の混乱も納まった明治28年(1895)には、弘前城跡が公園として一般開放された。その後もソメイヨシノの植栽は続き、大正時代には弘前公園は見事な桜で埋め尽くされ、大正7年(1918)からは「観桜会」が始まった。昭和36年(1961)からは「観桜会」から「弘前さくらまつり」へと名称を変え、現在ではソメイヨシノを中心に枝垂桜・八重桜など50を超える品種の桜が園内を埋め尽くしているとのことである。

まつりの会場には出店が並んでいた。

お化け屋敷もあった。

今回の旅の感想は如何にと問われれば、予想が当たって木曜日は比較的少ない見学者で恵まれていたが、それでも平安末期から鎌倉初期にかけての歌人西行法師*1の歌を借りて、
「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」*2
と返したい。

*1:元永元年~文冶6年(1118~90)、鳥羽院に仕えた武士で、俗名は佐藤義清。左兵衛尉となったが、保延6年(1140)に出家、東北や四国など全国を旅して和歌を詠んだ。

*2:ベネッセ教育総合研究所のホームページによれば、これは「桜の花を見にと人々が大勢やって来ることだけは、独りで静かにいたいと思う自分にとって、惜しむべき桜の罪であるよ」と解釈されています。

ジョシュア・ヤッファ著『板ばさみのロシア人』を読む

高校生の頃か大学生の頃か定かではないのだが、学生時代に感銘を受けた書物の中に、ルイス・ベネディクトさんの『菊と刀』がある。文化人類学に関心を持っていた頃で、国ごとにあるいは地域ごとに行動が異なるのはなぜだろうと疑問に感じていた。ベネディクトさんは集団として行動しがちな日本社会や文化の内面を炙り出してくれた。

この後、集団としての行動についてもう少し詳しく知りたくて、中根千枝さんの『タテ社会』を丁寧に読んだ。中根さんは社会集団を構成するには二つの異なる原理があり、それは「資格」と「場」であると説いた。「資格」は、その人が努力によって勝ち取った学歴や地位や職業だけでなく、生まれたところの氏・素性も含まれる。「場」は、一定の地域や所属機関などである。

何年も前になるが、テレビアナウンサーに対する社会的認知度が高まった時、「TBSアナウンサーのXXです」と自己紹介する人が現れた。私は「それは変だよ」と即座に妻に問いかけた。「TBSの番組の中で、わざわざTBSとつける必要はなく、地位のアナウンサーだけでよい」といった。妻は「なにも不思議なことはない。正しい使い方だ」と反論した。このような紹介の仕方を聞くたびに、「へんだ」と繰り返していたのだが、妻からは「そんなことはない」とそのつど反撃された。近年では、NHKのアナウンサーまでもが、NHKアナウンサーのYYですというので呆れているのだが、この不満を言い出す場所がなくて困っている。

この記事を書いている時に理解できたのだが、大学院での教育をアメリカで受けた私は「資格」を重視しているのに対し、日本的な妻は「場」に慣れているため、意見が食い違ったようである。

最近、世界を大きく揺るがした事件の一つは、ロシアのウクライナ侵略だろう。メディアは「プーチンの戦争」と単純化しているが、本当にそうなのだろうか。プーチン一人だけであれだけの戦争を起こすことができるのだろうか。選挙が正しく行われているかどうかについては大きな疑念が残るものの、それでも80%以上もの支持があるのはなぜだろう。まんざら嘘でもなさそうだと疑問が生じる。プーチンの影響は大きいとしても、集合体としてのロシアの人々が牽引・助力しない限りは、ここまで維持できないのではと考えられる。

そこで、ロシアの人々の内面が知りたくて、ジョシュア・ヤッファさんの『板ばさみのロシア人』を読んだ。英語でのタイトルは、” Between Two Fires: Truth, Ambition, and Compromise in Putin's Russia”である。

英語でのタイトルにtwo firesとあるが、一つのfireは個人が抱いている野望あるいは志(ambition)である。もう一つのfireはどこにでも潜んでいる国家からの抑圧である。人々は、個人の野望と国の抑圧の板挟みとなっているなかで、どのように折り合いをつけたのか、すなわち妥協(compromise)したのかについて、政治家・聖職者・芸術家・歴史家などの実例で説明してくれる。

この本の終りの方で、若い世代がどのように考えているのかを調査するために、19歳の高校生マキシムに尋ねている部分がある。2018年のロシア連邦大統領選挙の時に、反体制派指導者のナバリヌイが立候補しようとしたが、資格なしということで拒絶された。マキシムは、ナバリヌイが候補者であれば彼に投票したであろうが、そうでなかったのでプーチンを支持したと言った。この本の作者は、反体制派から体制派にかくも簡単に変わることに疑問を持ったのであろう、その理由を聞いた。マキシムは、「最初の選択(ナバリヌイへの支持)は、政治的な変化を見たいということであった。しかし、成功する見込みを持った人たち(ナバリヌイたち)は、競争という考え方を代表しているため、候補者からは排除されている。候補者として残っているのは、現状というものに順応した人たちで、彼らは落ち着き、そして安定を作り出す。マキシムはこの安定には反対しない」と答えた。

マキシムたち若い世代は、開放的で好奇心があり野心もあるが、少なくともこのことについて必死でないし、騒乱を望んでいないということを、作者のヤッファさんは認識した。そして今流行っているのは、「成功と良い生活をすること」なのだと感じた。つまり、変化を求めるナバリヌイと、安定を約束するプーチンの双方に引き付けられる二重性を説明しているかもしれないと、作者は考えた(タイトルにあるtwo firesのどちらにも惹かれている若者)。

この二重性は、何も若者たちだけが抱えているものではなく、前の世代も、そしてずっと遡った世代までにも見られるものだと指摘したのは、ソ連時代の社会学者レバダである。レバダは、「ソ連の市民は国家を前にすると臆病で隷属的になってしまい、そうした態度は、抑圧から生まれる不安や国家なしの自分自身など想像できないという無力感の産物で、国家と個人の家父長的な共生関係といってよい」とし、なぜ家父長的共生関係(two fires:野望と抑圧の板ばさみの中での妥協)をとるのかということに疑問をもち、後にホモ・ソビエティクス(ソヴィエト人)と呼ばれるようになる研究に取り組んだ。

この種族(ホモ・ソビエティクス)にとって、「国家とは、単に歴史的に形作られた多くの社会的機構の一つではなく、その機能や活動領域は普遍的な組織を超えており、人間が生活するあらゆる場所に浸透している近代以前からの家父長的形態のようなものだ。社会主義国家ソヴィエトという大事業は、本質的に全体主義で、そこでは、いかなる形態にせよ、独立した空間を持つ人間を放っておくことはない。そして重要なことは、その国民は国家に依存するだけでなく、感謝しなければならないのである」と説明した。

社会科学上のソヴィエト人を発見した後に、ソ連邦は解体する。その後のロシア人についても同じように研究し、ソヴィエト人やロシア人を包み込むような、もっと永続的で普遍的な人間である「ずる賢い人間」を導き出すに至った。

レバダは、ロシアのずる賢い人間は「ごまかしを大目に見るだけでなく、騙されることを望み、自分を守るためなら自分を騙すことさえ必要だと思う人間である」とし、さらに、「ずる賢い人間は、社会の現実に適応し、統治機構の中の見落としや欠落部分を探し、自分のために『ゲームのルール』を使おうとしている。同時に見逃せないのは、この人間はいつもこの同じルールをずる賢い方法で回避しようとしていることだ」と説明した。

さらに、ずる賢い人間にとって、国家とのやり取りは事実が半分の話やごまかしの駆け引きであり、それらは捧げものとして官僚機構に提供される。そして、野心と道徳観念を抑え込む正当化のためにお互いがそれを使うのである。社会的な結びつきや社会組織が未発達なことを前提にすれば、ずる賢い人間は詰まるところ孤独で、それは、数世代前までさかのぼる矛盾に満ちたロシアの生活につながっていく。

そして、最終的には、ずる賢い男と女は、国家の本当の性格について幻想を抱くことなどないのだ。彼らは、ただ国家に代わるものを見出せないのであって、国家に反抗するというよりは、時流にのって泳ぎ渡るための計算をするのである。レバダは、「ロシア人は、国家の保護を必要とするように見えるが、しかし、国家のために奉仕したいとは望まない」ということに気づいた。

このような概念的な説明からはずる賢い人間の冷徹な狡猾さが伝わってこないが、具体的に個別の事案が示されると、そのような世界で良心を守りながら生きていくことの困難さを強く感じる。例に示されているいくつかの事例を示すと次のようである。

第1章では、反体制派的な前衛映画の監督を目指した芸術家が、人を魅了する才能を活かしてロシア国営第1チャネルの最高責任者となる。そして、プーチン体制を支えるメディア担当総合プロデューサーとして、偉大な指導者、偉大なロシアを国民に焼き付ける役割を果たす。

第4章では、クリミアに居住するロシア人でサファリパークの経営者は、クリミアがロシアに併合されることで、彼の実業がさらに拡大するだろうと夢を抱く。そして状況に合わせながら巧みに事業の拡大を図るが、いったんロシアに併合されると、彼の役割は幻想であったことが分かり、後悔することとなる。

第6章では、人権擁護活動をしていた医師は、その活動がロシアのプロパガンダとして利用されていることを知らされながらも、中立的な活動であると自身では納得し、国からの多大な援助を受けながら活動を拡大していく。さらにシリアでも活動して欲しいと国から要請され、そこへ向かう軍用機の墜落で亡くなってしまう。

この本の中では、プーチンは国家の支配者というよりはむしろ集団的な潜在意識の表れなのだと説明している。今日のロシアの現状は、プーチン一人の権力からではなく、集団としての意識を体現していて、彼をバックアップしていると言えそうである。レバダの教え子であるグトコフは「プーチンにとって、ソヴィエト人の強迫観念は非常に理解しやすいことだった。彼はその感情を利用したのだった」と言っている。また「他人への依存や嫉妬心があり、抑圧された攻撃的な人間の性格はある意味でずる賢い」としている。

場(組織)という集団を好む我々の社会にも「長い物には巻かれろ」とか、「面従腹背」とかのように、ずる賢い人間を表す言い回しがある。しかし支配者が抑圧的であるときは、その場を去ればよいのであって、ロシアのようにその内部に居続けなければならないということはない。しかし、もし私が逃げ出せない環境に置かれたならば、どのように振舞うだろう。ずる賢い人間になれるのだろうか、それとも信念を貫こうとするのだろうか。間違ってもそのようなところには入り込みたくはないと思う次第である。

辰野金吾設計の東京駅・駅舎を上から眺める

辰野金吾は明治を代表する建築家である。彼は嘉永7年(1854)に佐賀県に生まれる。工部大学校(東京大学工学部)の第一期生として入学し、ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルに学び、明治12年(1879)に卒業した。英国に留学し、バージェス建築事務所、ロンドン大学で学んだ。明治17年(1884)にコンドルが退官したあと工部大学校教授に就任した。明治31年(1898)に帝国大学工科大学学長に、明治35年(1902)に工科大学を辞職した。明治36年(1903)に葛西萬司と辰野葛西事務所を開設した。大正8年(1919)にスペイン風邪に罹患し、64歳で亡くなった。

辰野金吾が最も設計したかった建物は、おそらく国会議事堂であっただろう。テレビ東京の「美の巨人たち」は、2011年の夏に建築シリーズ「国会議事堂」を放映している。その中で、国会議事堂の設計を巡って、建築界の大御所・辰野金吾と官庁建築の第一人者・大蔵省臨時議院建築部の妻木頼黄とが激しく争ったことを紹介している。その様子は、木内昇著『剛心』にも詳しく描かれている。妻木も辰野も本人が選ばれそうになった時、運がなかったとしか言いようがないのだけれども、亡くなってしまう。

辰野の作品の中で、特に優れているのは東京駅の丸の内駅舎(中央停車場)だろう。赤煉瓦に白い花崗岩を使った「辰野式」洋式の重厚な駅舎は、オランダのアムステルダム中央駅を参考にしたと言われている(写真はWikipediaより)。

先日、大学の同期会がKitte丸の内(JPタワーの低層階)であった。JPタワーは東京中央郵便局の跡地に建てられ、高さが200m近くある(写真はWikipediaより)。跡地再開発に当たって、当時の鳩山邦夫総務大臣が「重要文化財の価値を有する建物を再開発で取り壊すのは、トキを焼き鳥にして食べるようなもの」と異議を申し立て、古い建物の一部が低層階として残された(写真はWikipediaより)。

低層階の屋上は展望台になっていて、ここからは東京駅を上から眺めることができる。
丸の内駅舎と駅前広場、

丸の内駅舎の南側、

東京駅、

丸の内ビルディング(丸ビル)。

東京駅を上から眺めるのは、おそらく初めてである。駅の周りに立ち並ぶ建物もすべてと言っていいくらい、高層のものに建て替えられてしまい、東京駅のところだけが窪地となり、昔の面影を残している。鮮やかなレンガ造りの明治の西洋建築と、ガラス窓の反射がまぶしい平成・令和の近代建築が調和し、平穏で綺麗な街を醸し出していると感じた。

早春の四国・中国旅行-美術館巡り・大原美術館

今回紹介するのは美術館。それも長い歴史を誇る民間の大原美術館である。岡山駅からは山陽本線を利用して倉敷駅で降り、さらに歩いて15分ぐらいのところにある。

開館はなんと昭和5年(1930)で、これから6年後には開館100年を迎える。創立者は倉敷の実業家・大原孫三郎である。大原孫三郎はパトロンとして洋画家の児島虎次郎を援助していた。また児島虎次郎に西洋近代美術、古代エジプト西アジア美術品の収集を託した。そしてこれらの収集品を展示するために美術館を開館した。今でこそ国内には何百という美術館が存在するが、この当時としては珍しく、しかも民間であることにとても意義がある。

大原美術館には、エル・グレコの『受胎告知』、モネの『睡蓮』、ルノワールの『泉による女』、ゴーギャンの『かぐわしき大地』、ミレーの『グレヴィルの断崖』、セザンヌの『水浴』など、すぐれた作品が展示されている。撮影は許されていないので、残念ながらこれらの作品の紹介はできないが、建物はもちろんOKであった。

本館入口。本館は総社市出身の薬師寺主計(かずえ)により設計された。イオニア式柱を有する古典様式である。

工芸・東洋館。中国陶器や棟方志功などの作品が展示されている。

倉敷川の橋を挟んで、大原美術館の前には語らい座大原本邸(国重文:旧大原家住宅)がある。

さらにその隣には有隣荘がある。大原孫三郎の私邸兼迎賓館であった。大原美術館と同様に、薬師寺主計が設計した。

大原美術館倉敷美観地区の中にある。美観地区の風景も美術館に劣らず見ごたえがある。

倉敷観光案内所。大正6年(1917)に倉敷町役場として建てられた洋風の木造建築である。

倉敷川。倉敷の地名は倉敷地-中世に荘園領主や中央官衙などの貢納物を納めた倉庫の敷地-に由来するといわれている。この川は倉庫への物資の輸送のために使われたことだろう。

井上住宅。倉敷美観地区内では最古の町屋で約300年経っている。倉敷窓といわれる窓には、防火用の土塗りの扉があり、倉敷市内に唯一現存している。

美観地区の街並み。いつもはインバウンドの人々でごった返しているのだろうが、朝早くでしかも雨のため人っ子一人いない。おそらく珍しい光景であろう。

別の街並み。ここも人影はほとんどなしである。

美観地区。中央の建物は倉敷公民館。軒高を抑えて設計、外壁は白壁と小さな窓、倉敷格子、貼瓦などで倉敷美観地区の伝統的な街並みを意識して建てられた。右の建物は、中国銀行倉敷本町出張所。第一合同銀行の倉敷支店として大正11年(1922)に竣工したルネサンス風の建物で、やはり薬師寺主計が設計した。

大原美術館の紹介はこれで終わりである。美術館としては、この他に、鳴門市にある大塚国際美術館を訪ねた。昨年も訪れているので、その詳細は昨年の記事を参照して欲しい。今回は、3種類の定時ガイドに参加した。

到着とともに、ガイドしてもらったのが、システィーナ礼拝堂天地創造」・「最後の審判」であった。システィーナ礼拝堂は、ローマ教皇公邸のバチカン宮殿にある礼拝堂で、サン・ピエトロ大聖堂の北隣にある。その内壁は、ミケランジェロボッティチェッリ、ペルジーノ、ピントゥリッキオらによって描かれた絵画で飾られている。とくにミケランジェロが、ローマ教皇ユリウス2世からの注文で描いた天井画(1598~12年)と、クレメンス7世が注文し、パウルス3世が完成を命じた最後の審判(1535~1541)は有名である。大塚国際美術館には、システィーナ礼拝堂を再現し、ミケランジェロの絵画が復元されている。ガイドの方からは、天井画に描かれている天地創造と、正面に描かれている最後の審判の絵画について、キリスト教についてあまり詳しくない人でも理解できるように、とても分かりやすく説明してもらった。とても上手だったので、写真を撮るのも忘れて、聞くことに集中した。

さらに「B3(古代・中世)、B2(ルネサンスバロック)の見どころ5点」と「人気作品ベスト7」のガイドをしてもらった。人気順に挙げると、モネ「大睡蓮」、ダ・ヴィンチモナリザ」、フェルメール真珠の耳飾りの少女」、④ムンク「叫び」、⑤システィーナ礼拝、⑥ゴッホ「ひまわり」、⑦クリムト「接吻」であった。この二つのガイドともたくさんの観客を連れてのガイドで、人の間から絵画をやっと見るので精いっぱいであった。

今回の四国・中国地方の旅は4泊5日で、
一日目は姫路城・兵庫県立歴史博物館、
二日目はうずの丘大鳴門橋記念館公園「おっ玉葱」・淡路人形・鳴門市ドイツ館・一番札所霊山寺・三番札所金泉寺
三日目は大塚国際美術館
四日目は備中松山城備中高松城吉備津神社吉備津彦神社、
五日目は阿智神社・本栄寺・大原美術館倉敷美観地区岡山城
を見学した。
地図で大まかに示すと、

天気の方は初日だけ晴天、残りはほとんどが雨か曇りで、天気に恵まれたとは言えない。例年だと桜を楽しめる時期なのだが、今年は遅れていて、一輪も咲いていなかった。それにも関わらず予定したところはほとんど見学ができ、旧交を温めることもでき、良い旅であった。

早春の四国・中国旅行-民俗芸能巡り・阿波踊り

鳴門大橋を渡ると、ここは四国・阿波国(徳島県)である。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆あほなら踊らにゃ損々」の掛け声で始まる阿波踊りで有名なところである。今日では阿波踊りはブランド化されているので、何か特別な踊りのように思えるが、本を正せば盆踊りである。始まりもはっきりしないのだが、天正13年(1585)の徳島城築城の祝いに、城主蜂須賀氏が城下の者を無礼講で踊らせたのが始まりと土地には言い伝えられている。今の阿波踊りのかたちがつくられたのは文化・文政年間(1804~30)頃と考えられている。そして現在では、最も大規模な徳島市阿波踊りは毎年8月12~15日に行なわれている。

阿波踊りについてコトバンクからの情報をまとめると次のようになる。男性は半纏(はんてん)やゆかた、手拭のほおかぶりに白足袋、女性はゆかたに鳥追い笠と呼ばれる編笠、下駄履き姿で、連(れん)と呼ばれるグループを組み、腰を落とし両手足を交互に突き出すようにして踊る。踊りの基本は三味線・鉦・太鼓・締太鼓・鼓・笛が奏でる 2拍子の軽快なリズムによる「ぞめき」である。それに「踊る阿呆に見る阿呆」などの「よしこの」と呼ばれる歌が伴う。「ぞめき」は騒がしいことを意味し,派手に浮かれたにぎやかな踊りの呼び名で、江戸時代以来の盆踊の要素と考えられている。一方、「よしこの」は江戸時代後期に東海から関西にかけて流行した歌で、大正時代中頃には阿波踊りの歌は「よしこの」だけとなった。

阿波踊りの盛衰は次のようである。明治時代になって「文明開化」路線とは相容れないものとされ、徳島県当局は1868~1870年にわたって取締令を出した。さらに徳島特産の藍産業の衰退などもあって、民間芸能は停滞した。大正時代になり第一次世界大戦大正天皇即位、徳島市制30周年などの祝賀行事で踊りが催行されたことを契機に、再び盛り上がりをみせ始めた。大正末期は景気後退・疫病流行などで踊りの熱気は冷めたが、地域振興策として盆踊りの観光資源化が推進された。第二次世界大戦中は阿波踊りは中断されたが、戦後再開され、今日の賑わいを見せるようになった。

旅行の計画を立てたときは、阿波おどり会館に見学に行こうとなっていたが、宿泊した旅館で夜間に実演があるということで、こちらに参加した。実演してくれたのは、賢楽十人会の方々であった。






間近で初めてみたせいもあるのだろう、「よしこの」の踊りの躍動感、「ぞめき」の軽快なリズム感につられて、参加してみたくなった。そのような機会も与えてくれたが、手と足がバラバラになり、教えてくれた人にクスッと笑われてしまった。練習を重ねて、次の機会にはちゃんと踊れるようにしておこうと秘かに思った。

次は美術館巡りである。

早春の四国・中国旅行-民俗芸能巡り・淡路人形座

明石海峡大橋と鳴門大橋が開通して以来、淡路島を素通りする観光客も増えたようだが、今回は淡路島に立ち寄り、伝統文化を鑑賞することとした。最近は、淡路島と言われると、たまねぎを思い浮かべる。栽培が始まったのは130年前で、昭和39年には栽培面積が3000haを超え、日本一の大産地となったとのことである。温暖な気候で、日照時間も長く、寒さが苦手なたまねぎ栽培に適した地だったようである。水稲の裏作として栽培されてきたが、米とたまねぎの交互栽培や、飼育されている牛の堆肥を用いることで、たまねぎが育ちやすい土作りに成功したとのことである。うずの丘大鳴門橋記念館には大きな「おっ玉葱」が飾られていた。

淡路島は、日本誕生の地であることを知っている人も多いであろう。8世紀前半に書かれた歴史書古事記」と「日本書紀」の冒頭には、国生み神話が次のように記述されている。地球上がまだ混沌としていた時、いざなぎ(男神)といざなみ(女神)が、天空に架かった橋の上から、矛を海中に突き刺してかき混ぜて引き上げると、矛先からしたたり落ちた滴が固まって小さな島(おのころ島)となった。2人の神はその島に降り立って結婚し、次々と日本の国土を生んでいった。幕末から明治にかけての浮世絵師の小林永濯は『天之瓊矛(ぬぼこ)を以て滄海を探るの図』(ウイキペディア)を描いている。

淡路島はこのほかにも話題の多い島だが、忘れてはならないのは淡路人形浄瑠璃である。三人遣いの人形芝居で、農村的な特色がみられ、都市的な大阪の文楽と対比して語られる。始まりについては諸説あるが、中世末ごろに摂津西宮の傀儡師(かいらいし)の伝承を継ぎ、阿波藩主蜂須賀家の庇護のもとに発展したとされている。江戸時代の最盛期には、人形座は40余を数え,人形遣いは930人に達した。淡路人形は旅興行をもっぱらとする職業的な玄人の郷土芸能集団であった。しかし大正時代以降とくに第2次世界大戦後は急激に凋落し、現在では独立した人形座は姿を消した。いまでは公益財団法人・淡路人形協会により保存され、福良にある淡路人形浄瑠璃館で淡路人形座が観光用公演を行い、伝承している。また淡路人形浄瑠璃は国指定重要無形民俗文化財になっている。淡路人形浄瑠璃館は建築家・遠藤秀平さんの設計で2012年に完成した。淡路島特産のいぶし瓦や兵庫県産の木材・竹などが使用されている。建物の形も、そして表面の肌触り・色合いもなかなかユニークで、伝統芸能を保存していくという強い意志を感じる。

公演の前には、人形の操り方についての説明があった。

今回鑑賞した演目は『一谷嫩軍記 須磨浦組討の段』であった。この作品は、平清盛亡き後の源平の合戦を描いた名作の一つである。一の谷の合戦で敗れ、西国に落ち延びようとする平家の若き武将敦盛と、源氏の武士熊谷直実の悲劇を描いている。源氏方の平山武者所を追っていた敦盛は、途中で敵を見失い、須磨浦の波打ち際に出て、沖にいる味方の軍船に追いつこうとした。しかしその姿を熊谷が見つけ、戦いとなる。熊谷が組み敷いた若武者の顔を見ると、ちょうど我が子と同じ年頃だった。哀れに思った熊谷は、見逃すので落ち延びるようにと敦盛に勧めるが、味方の平山に見咎められ、泣く泣く敦盛の首を討つ。熊谷は心重く馬を引き、その場を立ち去る。このような内容を、浄瑠璃と三味線で奏で、人形を上手に操りながら、臨場感たっぷりで、観客を楽しませてくれた。

この間はもちろん撮影禁止。最後に人形座の方々と一緒に写真を撮る機会も与えられた。左側の人が集まっているところがそれである。

最後に淡路人形座について少し紹介しておこう。先に説明したように、淡路島には江戸時代の初期から昭和の初めまで大小様々な人形座があり、淡路島内だけでなく全国を興行して、人形浄瑠璃の魅力を伝えていた。吉田傳次郎座もその中の一座で、「引田家文書」(元文6年(1741))の「相定申一札事」に署名捺印している三十八座の一つであった。主要3座の源・久・六(上村源之丞座・市村六之丞座・中村久太夫座)と同様に綸旨・櫓免許書などを持って諸国を巡業した。そして明治20年~40年頃までは小林六太夫座からも座員を入れ、若衆組を作り、二組に分かれて興行をした。主な巡業先は淡路・徳島・讃岐・伊予・紀伊・播磨・山陰道北陸道などであった。また伊予には得意先が多く、伊予の細工人の名手・面光義光が作った様々な人形の頭を保有していた。淡路人形座は吉田傳次郎座のこれらの道具類を継承して、公演を続けている。ちなみに緞帳についているロゴマークは、吉田傳次郎の「傳」である。

淡路人形座は、自前の会館を持ち、1日4回の公演を行っている。伝統芸能を維持していくことは、並大抵のことではないと思われるが、淡路島の振興と合わせて頑張って欲しい。

早春の四国・中国旅行-寺院巡り・倉敷の神社(阿智神社・本栄寺)

四国・中国旅行の最終日は一人旅となり、かねてから訪れたいと思っていた倉敷の町に赴いた。前日までは案内してくれる友達に伴われての見学だったので、効率的に要所を見ることができたが、この日は足の赴くままである。とりあえずの目標を決めて、山陽本線を利用して岡山駅から倉敷駅に向かった。

倉敷駅の案内板で美観地区を見つけたので、そこを目指して歩くことにした。親切なことに全ての角で美観地区への道が示されていた。時たまどちらの道に行っても良いと案内されている。この旅行中に仲間内で話題になったbifurcation(分岐)である。もっとも仲間との会話では、人生の分岐というもっと重い話だったのだが、このような些細な分岐でもどちらを選択したら良いか迷う。それぞれの道にどのような差異があるのかわからないので、運を天に任せるしかない。

いい加減な選択をしながら歩いていると、阿智神社という目印を見つけた。ちっぽけなbifurcationだが、どうしようかと迷った。博物館の開館時間までまだ間があるので寄ってみることにしたものの、少し急な細い道が続き、行けども行けどもそれらしきものが見えてこない。引き返したほうが良いのかと悩みながらも、せっかくここまで来たのだからと登り続ける。道案内もなかなか現れずどこかで間違えたかと思った矢先、やっと阿智神社の方向を示す標識が現れた。丘の頂上にたどり着いたようだと思った時、神門が現れた。

阿智神社は鶴形山の上にあり眺めがよい。雨のためくすんではいるが、倉敷の美観地区を目の当たりにすることができた。

阿智神社のそばには鶴形山公園が隣接していて、季節ごとにきれいに花が咲くそうだが、今年は桜の開花が遅れていたので、残念だった。

日本書紀』「応神天皇二十(二九一)年九月条」に「倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて、来帰けり」とある。阿知使主(あちのおみ)の一族が渡来した事が記されており、この一族の一部がこの周辺に定住した事が「阿知」の地名の発祥となったそうだ。また神社名の由来であるとも伝えられている。

この周辺は古くは阿知潟と呼ばれる浅い海域であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、天正12年(1584)には宇喜多秀家が新田開発をおこない、それ以降広く開拓された。江戸時代の寛永19年(1642)に幕府直轄地となった後、物資輸送の一大集散地として、また周辺新田地帯の中心地として繁栄した。江戸時代は神仏混淆で妙見宮と称していたが、明治2年(1869)に神仏分離令により阿智神社となった。倉敷中心街の鎮守神として篤く崇敬を集めている。

神門の階段を登り拝殿に行った。主祭神は「宗像三女神」で、航海の安全や水難から守ってくれる神様である。

阿智神社から美観地区に下っていく途中に、鶴形山の鐘楼がある。江戸時代に村の時刻を知らせる鐘として造られた。その当時の鐘は倉敷・新田の白入庵に寄付されたと伝えられている。明治38年に現在の位置に建物と鐘を大原幸四郎が寄付した。鐘は戦争中に回収され、戦後になって大原総一郎が新たに寄付したとのことである。

さらに下ると観龍寺がある。平安時代の寛和元年(985)に倉敷市北部の西岡の地で創建され、室町時代に現在地に移転された。
本堂(左)と大師堂(右)。本堂は寛延2年(1749)に再建され、大師堂は享和年間(1801〜1804年)に建てられた。

鐘楼。左後方に見えるのは鶴形山の鐘楼である。

足の赴くままに、倉敷・鶴形山の寺院を見学した。倉敷の町を守り続けた寺院にふさわしい建築で、雨の中ではあったが良い巡り会わせを体験できた。

これで寺院巡りは終了で、次回は民俗芸能巡りである。

早春の四国・中国旅行-寺院巡り・吉備津神社(備中一宮)

吉備国と言われたときに真っ先に思い出すのはなんだろう。奈良時代の学者・政治家で遣唐使でもある吉備真備を浮かべる人は歴史に興味のある人だろう。奈良から平安時代にかけての貴族で、道鏡天皇になることを妨げた和気清麻呂を知っている人はさらに進んで歴史に詳しい人だろう。しかし歴史には関係なく、桃太郎の昔話を知っている人は多いだろう。お婆さんが川で洗濯しているときに桃が流れてきてそれを家に持ち帰ると、その中から桃太郎が生まれる。そして桃太郎は老夫婦に育てられる。成長した桃太郎は、きびだんごをもって鬼退治に出かける。途中で、犬・猿・キジに会い、きびだんごを与えて家来にし、鬼が島の鬼を見事に退治して、金銀財宝を持ち帰るという話である。この話の中に、きびだんごが出てくる。このきびは穀物の黍であるとともに、地名の吉備でもある。

ところで今回訪れた吉備津神社に伝わる神話に温羅退治がある。昔々吉備に温羅という鬼がいて、鬼城山を居城として村人を襲い、悪事を重ねていた。大和の王から温羅を退治するよう命じられた吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、巨石の楯を築いて守りを固め、温羅も城から弓矢で迎え撃った。激しい戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃走し、吉備津彦命は鵜に変身し、温羅を捕まえ退治したとのことである。

温羅退治の神話が桃太郎の昔話になったとのことである。このような伝説を持つ吉備津神社を尋ねた。ところで吉備津神社は3社ある。東から吉備津彦神社(岡山)、吉備津神社(岡山)、吉備津神社(広島)である。律令制が敷かれる前はこの辺は吉備国と呼ばれ、その総鎮守は吉備津神社であった。しかし律令制とともに吉備国は、備前、備中、備後の3国に分かれた。もともとあった吉備津神社は、備中国の一宮となり、備前、備後には分霊が祀られてそれぞれの一宮となり、吉備津彦神社と吉備津神社になったとされている。

友人に車で案内されて岡山県側の吉備津神社吉備津彦神社を参拝した。最初は備中一宮の吉備津神社である。
拝殿から本殿を見る。朱のところが本殿である。

本殿(左)と拝殿(右)。二つの建物はつながっているように見える。拝殿の中心の身舎(もや)は立ちが高く、屋根(右側上部)は檜皮葺で本殿の屋根(左側上部)に突き刺さるようにして一体化している。身舎の周りは裳階で囲われ、その屋根(左側下部)は本瓦葺で、本殿からは分離している。このため拝殿と本殿は、下部では独立した別々の建築である。

吉備津神社本殿。吉備津造り(比翼入母屋造り)という珍しい建築様式で、国宝に指定されている。

廻廊。全長400mある。

犬養毅像。五・一五事件で凶弾に倒れた総理大臣・犬養毅は、岡山の出身で、吉備津神社に縁のある家系とされている。遠祖犬飼健命(たけるのみこと)は、主祭神吉備津彦命の随神とされている。桃太郎の昔話に出てくる犬と想像を膨らませることもできるが、果たしてどうであろう。

そして備前一宮の吉備津彦神社を訪れた。夏至の日には朝日が鳥居の正面から昇ることから朝日の宮とも呼ばれているそうだ。
吉備津彦神社拝殿。

拝殿内部。

本殿は見損なった。現存の本殿は、寛文8年(1668)に岡山藩主の池田光政が造営に着手し、子の綱政が元禄10年(1697)に完成させた。流麗な三間社流造りの神殿で、飛鳥時代の社殿建築の粋がつくされ、吉備国の神社建築が伝統とする流造りの正統な姿を示しているそうだ。吉備津彦神社の境内ガイドに紹介されている。

今回見学した二つの神社を誕生させた吉備国は、大和国出雲国と並んで、古代には大勢力を有していたと考えられ、古墳を始めとする古代の遺物に優れたものがある。機会があれば、次はこれらを見学したいと思っている。

早春の四国・中国旅行-寺院巡り・金泉寺(三番札所)

1番札所から始めて、順打ちに行けるところまで行こうと計画していたが、あいにくの雨ですっかりやる気が失せ、1番の霊山寺の後は2番を飛ばして3番札所だけを巡った。

3番札所は金泉寺である。霊山寺からは歩いて50分ほど、車なら7分ほどのところにある。我々は車で向かった。車中からは、菅笠を被ったお遍路さんが、雨に打たれながらも懸命に歩いている姿を目撃した。この日のように天気の悪い時や、寒い時や暑い時は大変だろうと同情した。

ウィキペディア金泉寺の歴史を調べると次のように紹介されている。寺伝によれば、天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したといわれている。弘仁年間(810年~824)に、弘法大師が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたという。亀山法皇(天皇在位1259~1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。『源平盛衰記』には、元暦2年(1185)に源義経屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載がある。天正10年(1582)年には長宗我部元親による兵火で大師堂以外の大半の建物を焼失したが、建物はその後再建され現在に至っている。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定されている。

それでは境内を見ていこう。
入母屋造楼門の山門。鮮やかな朱が目立つ。そして手前は極楽橋

本堂。聖武天皇勅願時の寺なので、軒丸瓦の上半分は菊の御紋になっている。

大師堂。

八角観音堂義経が祈願した聖観音が祀られている。

鐘楼。

多宝塔

不動明王の化身とされる俱利伽羅(くりから)龍王像。剣に龍がしがみついているが、これは仏と人が一体になっていることを著しているそうである。

左端が満願弁財天社。すべての願いを叶えてくれるありがたい弁天が祀られている。

怠け者の遍路さんだったが、二つの寺を参詣したので、この続きはまたということにして、暖かい温泉が待つ旅館へと向かった。

次は、神社を紹介する。

早春の四国・中国旅行-寺院巡り・霊山寺(一番札所)

ここからは寺院巡りで、四国遍路に関連した寺から紹介する。四国遍路の由来は、四国八十八ヶ所霊場会のホームページで紹介されていて、それをまとめると次のようになる。古くから四国は国の中心地から遠く離れており、様々な修行の場であった。讃岐で生誕した弘法大師(空海)もたびたびこの地で修行し、八十八ヶ所の寺院などを選び四国八十八ヶ所霊場を開創したと伝えられている。その八十八ヶ所霊場を巡礼することが遍路で、当初は修行僧などが中心であった。その後、弘法大師信仰が高まり、日本全国から多くの人が遍路するようになったということである。

遍路の始まりについては、51番札所の石手寺に衛門三郎伝説が伝わっている。コトバンクでの説明を引用すると次のようである。

伊予国浮穴(うけな)郡荏原の郷に衛門三郎という強欲非道な長者がいた。ある日きたない乞食僧が門前に立って食を乞うたが三郎はこれを追い返した。僧は懲りず、毎日のように門前に立ったので、激怒した三郎は手にした箒で僧の持つ鉢をしたたか打った。鉢は8つに割れて虚空に飛び散った。その夜から三郎の子が1人ずつ死んでいき、8日にして8児を失った。三郎は初めて乞食僧が弘法大師であったことを知り、自らの罪業に気づき、大師に一目会って謝罪したいと思い巡拝の旅に出た。八十八ヵ所を5回、10回と巡ったが会えず、21回目に老いと病のため12番札所の焼山寺で倒れた。そこに大師が現れ、修行によって罪業は消滅したと告げ、なにか来世に望みはないかと尋ねた。三郎は「来世は一国一城の主として生れたい」と答えたので、大師は小石を拾い「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長8年(831)のことという。のち道後湯築城主河野息利の一子息方が生れたが左の手をかたく握って開かない。河野家では安養寺の僧を招いて祈祷をさせると初めて手を開き、衛門三郎と記した1寸8分の石が現れた。これにより石を宝殿に納め、安養寺を石手寺と改めたというのである。

最初に紹介するのは、1番札所の霊山寺(りょうぜんじ)である。今回は友達の車で行ったが、電車で行くときは高松駅から高徳線で坂東駅で降り、そこから歩いて10分のところにある。

この寺の歴史は、ウィキペディアでは次のように紹介されている。

寺伝によれば奈良時代天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。弘仁6年(815)に空海がここを訪れ、21日間留まって修行したという。その際、天竺の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し、天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け、持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は、空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像である。室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つとして栄えたが、天正10年(1582)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩蜂須賀光隆によってようやく再興されたが、明治24年(1891)の出火で、本堂と多宝塔以外は再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し1番札所としてふさわしい景観になった。

山門は入母屋造楼門である。

本堂。

本堂の内部。地蔵菩薩三尊像が祀られているはずだが、確認はできなかった。

大師堂。全身漆黒の大師像が祀られている。

鐘楼堂。

多宝塔。応永年間(1394〜1428)の建造で、600年近い歴史を持ち、五智如来像が祀られている。

不動明王堂。

明治の庭で、阿弥陀如来が座している。

さすがに1番札所ということもあり、境内も広く、本堂・大師堂も立派である。1番札所から88番札所まで順番に回ることを順打ちというそうだ。このため霊山寺から始める人も多いのだろう。遍路さんのためのお店もあって、遍路となるための衣服・道具もここで整えることができる。最近はインバウンドの人にも人気があるようで、外国からの人の姿をちらほら見かけた。

なお近くには、鳴門市ドイツ館がある。ここ坂東町には、大正6年(1917)から3年間、第一次世界大戦時に捕虜となったドイツ兵を収容した「板東俘虜収容所」があった。人権を尊重して自主的な生活を認めたので、ドイツ兵たちは様々な活動に取り組んだ。中でも盛んだったのが音楽活動で、ベートーヴェンの「交響曲第九番」が、アジアで初めてコンサートとして全楽章演奏された。捕虜への待遇が優れていたことから、板東俘虜収容所は模範収容所と評価されている。

次は3番札所の金泉寺である。

早春の四国・中国旅行-城めぐり・備中高松城跡

城めぐりの最後の記事は備中高松城跡である。そこは知らないという人でも、羽柴(豊臣)秀吉が水攻めにした城と聞けば納得だろう。あるいは本能寺の変が起き、織田信長が自害したことを知った秀吉は、目にもとまらぬスピードで京へ引き返したが、その時に戦っていたところが備中高松城であったことを知っている人も多いことだろう。今回は、友達が車でここを案内してくれたが、電車でも簡単に行ける。吉備線備中高松駅からすぐのところで、岡山駅から歩きも入れてせいぜい30分ぐらいのところである。

コトバンク備中高松城跡を次のように紹介している。ここは中国統一の鍵を握る吉備平野の一角、背後に山を控え、南西は足守川、三方が沼という平城ながら要害の地であった。永禄12~元亀元年(1569~70)ごろ備中松山城に拠る三村氏の重臣の一人石川久式(ひさのり)によって築かれ、久式が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされたあと、久式の家臣だった清水宗治が毛利氏に取り立てられて城主となった。天正10年(1582)に羽柴秀吉は3万余の大軍で包囲したが容易に落ちず、足守川をせき止めて城を水攻めにし、ついに講和開城させた。

高松駅の近くには蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡があり、そこには水没地域を示す案内があった。秀吉は、現在の吉備線高松駅から足守駅までの路線の南側に沿って、約3kmにわたって堤を築き、足守駅のちかくから足守川の水を取り込んだ。その時、梅雨とも重なって水かさが高くなり、高松城は水没した。

ウィキペディアには高松城の水攻めの錦絵が紹介されている。湖に浮かぶ城のように見えるが、籠城していた武士はさぞかし恐ろしかったことだろう。城は完全に孤立してしまったので、毛利氏は援軍を送ることができなかった。

蛙ヶ鼻築堤跡は現在は公園になっている。

このあと、備中高松城跡に移動した。高松城は北西から南東にかけて細長く延びる微高地上に築かれ、微高地の北西側に土壇をもつ本丸、中央部分に二の丸、南東側に三の丸があり、これらを取り囲むように微高地の北東側には堀または低湿地を挟んで家中屋敷があったと推定されている。本丸と二の丸は高松城址公園、三の丸や家中屋敷の辺りは宅地や田畑などに利用され、標高は本丸跡で7.7m、二の丸跡5~6m、三の丸跡5m前後である。高さを表示する板もあった。

三の丸跡。

城跡付近の光景。高松城水攻めののぼりがその場所を知らせるかのように立っていた。

水攻めの結末は急展開となった。天正10年(1582)6月2日に本能寺の変がおき、そのことを直ちに知った秀吉は、戦闘を交えている毛利氏と講和を結ぼうとして、領地の譲歩や城兵の助命などを条件に交渉した。6月4日に高松城城主の清水宗治が自刃することで和睦が成立し、開城となった。清水宗治は家来を守るために城を出て、水上の船において切腹した。辞世に「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と詠んだ。意味は、「浮世を離れ今こそ死後の世界に行くぞ。武士としての名を高め、高松の地に生えた色あせない苔のように永く忠義の名を残して」である。秀吉は、振る舞いの見事さに「宗治は武士の鑑である」と嘆賞し、手厚く葬り、石塔を建てて冥福を祈らせた。

備中松山城の山城、姫路城・岡山城平山城備中高松城の平城を見学して、戦国時代から江戸時代初期の時代にかけての武士たちの夢を追いかけた。姿をとどめていない城もあったが、美術的に見てとても美しい城もあり、楽しむことができた。

天守閣が現存している城は、弘前城(青森県)、国宝・松本城(長野県)、丸岡城 (福井県)、国宝・犬山城(愛知県)、国宝・彦根城跡(滋賀県)、世界遺産国宝・姫路城(兵庫県)、国宝・松江城(島根県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)の12城である。このうち弘前・丸岡・彦根宇和島の4城はまだ見ていない。近いうちに見ることができれば良いのにと思っている。

このあとは寺院巡りへと続く。

早春の四国・中国旅行-城めぐり・岡山城(烏城)

今度の記事は黒い城として知られている岡山城である。真っ黒いカラスになぞらえて烏城とも呼ばれる。この城の付近には旭川が流れていて、その流域には岡山、石山、天神山という三つの丘があった。戦国武将の宇喜多直家は、石山にあった城を手に入れて本拠地とし、この地域を戦国の表舞台に立たせた。そして直家の子・秀家は岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(豊臣秀吉の指導によるとも伝えられている)。城下町は、城の北と東を旭川が守るように河道を変更し、さらに内堀、中堀、外堀をつくり、南北に長く作られた。岡山城は、平野の中の丘の上にあるので、姫路城と同じように平山城である。

岡山市政策局事業政策課発行の『都心創生まちづくり構想』によれば、岡山城の内堀、中堀、外堀は旭川に沿って作られた。

城下町も同じように形成された。南北に長いのが特徴である。

岡山城は、岡山駅からは2km足らずだが、この日はかなりの雨が降っていたので、バスを利用した。

県庁前までバスで行き、その後天守を目指した。

上図の下部にある橋・内下馬橋の中ほどから見た内堀の石垣。烏城公園の碑がある。

鉄門(くろがねもん)跡。1階部分の木部をすべて鉄板で覆い、堅固で厳めしい造りであったため、この名がついた。

不明門。普段は閉ざされているので、この名になった。

天守。明治以降も残され、詳細な図面も起こされたが、戦災で焼失してしまった。昭和41年に往時をしのばせる天守が再建された。大入母屋造りの基部に高楼を重ねた望楼型である。姫路城と同じである。

廊下門。本丸の北側から中の段に上るための裏(搦手)門である。

廊下門近辺から天守を見る。

月見櫓の石垣。池田忠雄が1620年に築いた石垣で、隅は算木積(長方形の石を交互に振り分けて積む方法)になっている。

コトバンクによれば岡山城の歴史は次のようである。正平年間(1346~70)に上神高直によって築かれた石山城が初めとされている。元亀元年(1570)に宇喜多直家が金光宗高を謀殺して城を奪い、天正元年(1573)に入城し増築する。その子秀家は豊臣秀吉の養子となり備前57万石を領し、城もそれにあわせて大改修された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで秀家は城と所領を没収され、かわって小早川秀秋が城主となった。しかし秀秋が病没したため、慶長8年(1603)に池田輝政の二男忠継が28万石で入封し、以来池田氏の一族が世襲した。なお、姫路城のところで、本田忠刻と千姫の娘・勝姫を紹介したが、その勝姫は播磨藩三代目藩主・池田光政の妻となった。

あいにくの雨が降っている中での見学となった。そのため薄暗い背景の中に黒い城が溶け込んでいるような感じで、城を正面から見たとき、2次元の平らな面に描かれた厚みのない建造物のように見え、不思議な感覚にとらわれた。このブログでの写真を見ても同じである。黒だと厚みがあるように感じさせるのが難しいのだと知った。このあと後楽園を見る予定であったが、雨脚が強くなってきたのであきらめた。

次は備中高松城跡である。

早春の四国・中国旅行-城めぐり・姫路城(白鷺城)

姫路城はよく知られているように日本を代表する城で、ユネスコ世界文化遺産に指定され、国宝でもある。是非見学したいと思ってはいたが、今に至るまで果たせずにいた。今回が初めての見学になるが、一緒に旅行する仲間から、ガイドをして欲しいと依頼された。見ていない場所をガイドするのは憚られたが、友達同士なので上手に説明できなくても許してくれるだろうと思い、引き受けた。このためちょっと荷の重い見学となった。

姫路城は兵庫県の西部にあり、山陽新幹線の姫路駅で降り、北口から大手前通りを北の方に向かうと辿りつく。姫路城の近くには動物園、美術館、歴史博物館、文学館、図書館、好古園、公園、学校などがあり、文教地域となっている。

姫路城として現在残っている部分は内堀とその内部である。かつては内堀の外側には、中堀、外堀があり、外堀は姫路駅の近くを巡っていた。外堀と中堀の間の外曲輪には町人の居住地が設けられ、中堀と内堀の間の中曲輪には武士の屋敷が造られ、内堀の中の内曲輪には天守・櫓・御殿など城の中枢が置かれた。*1

姫路城は播磨平野(播州平野とも)の中に建てられているため山城ではない。しかし平城でもない。天守などの城の中枢は鷺山・姫山と呼ばれる小高い丘の上に造られているので、平山城である。

それでは姫路城を見ていこう。内堀では数日前から和船の運航が始まったので、なんでも体験ということで、乗り込んだ。なんと乗客は、江戸時代体験ということでもないだろうが、笠をかぶらされた。理由を聞くと、大手門前に架かる高さがあまりない橋をくぐるとき、乗客の頭が何かの調子でぶつかっても大事にならないようにするためだと教えてくれた。

舟からは城壁の様子がよくわかる。下の写真は石垣が切れるところである。左側の木があるところは、急斜面をそのまま利用して、城内への侵入を防いでいるとのことだった。

舟から見た大手門。左側の橋は桜門橋。この門は昭和13年に新造された。当時、姫路城は陸軍の練兵場として使われていたため、軍用の車両を通すため、間口が大きくなっていると話してくれた。

大手門を抜けると三の丸。姫路城がとても優雅に見える。

これから姫路城の奥へと入る。

城の中は次のようになっている。今回は、東京に戻らなければならない仲間がいて、時間が限られていたので、一気に天守へと向かった。

最初にある菱の門。華頭窓・格子窓の金色の装飾金具が輝いていた。また木彫りの花菱が冠木(かぶき)に取り付けられているのが見えた。

門を抜けると三国堀がある。ここからの城の眺めが一番良いとされている。

いの門。門にはイロハ順に名前がふられている。この門のつくりは高麗門である。

ろの門。これも高麗門である。

はの門。櫓門で、通り抜けるときに上から鉄砲や槍で攻められるようになっている。

にの門。やはり櫓門である。

ほの門へと進む。

ほの門の近くに「姥ヶ石」がある(金網で覆ってある石)。言い伝えでは、羽柴秀吉がこの地に城を建てようとしたとき石がなかなか集まらなかった。これを聞いた老婆が、この臼を使ってくれと申し出た。喜んだ秀吉はこの石臼を天守の土台に積んだ。この話を聞いた城下の人々が我先にと石を提供し、城は瞬く間に完成したということである。

そして天守に登る。天守は連立式で、大天守、西小天守、乾(いぬい)小天守、東小天守の大小四つからなる。大天守は、高さが33メートル、外観5層、内部7階で、現存天守としては最大規模を誇っている。

天守から見た姫路の街並み。下に三国堀が見える。

姫路城の歴史は古く、元弘元年(1331)の乱(鎌倉幕府打倒をもくろむ後醍醐天皇と北条家との戦い)のとき、播磨守護・赤松則村が陣を構えたのに始まり、正平元年・貞和2年(1346)則村の子貞範(さだのり)が築城したと伝えられる。赤松氏は目代・小寺氏にこの城を守らせた。

嘉吉の乱(1441)の後、一時山名持豊(宗全)が入ったが、天文14年(1545)小寺氏が御著(ごちゃく)城に移ってからは、その臣黒田氏が入った。天正8年(1580)に羽柴秀吉が毛利氏との戦いの拠点として本格的に改修し、三層の天守を築いた。これが現在の姫路城の始めである。

しかし今日みるような建物が建てられ、現在のような規模に拡張されたのはもうすこしあとで、慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入ってからであった。輝政は徳川家康の女婿で、播磨・備前・淡路を領する大々名で、本格的な近世城郭に大改修することを計画した。入封の翌1601年に着工し、9年の歳月をかけて完成させた。

天守が完成したのは1609年で、そのあと元和3年(1617)に池田光政(みつまさ)が鳥取へ転封し、桑名より本多忠政が入り、さらに松平(奥平)、松平(結城)、榊原、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と入れ替わり、寛延2年(1749)に酒井忠恭(ただずみ)が前橋より転封され、以後明治維新まで世襲した。

西の丸は時間の都合で訪問できなかったが、そこには千姫化粧櫓がある。千姫は、慶長2年(1597)に誕生、父は2代将軍となる徳川秀忠。母は織田信長の妹・お市の三女・江(ごう)である。7歳になったとき、11 歳の豊臣秀頼と結婚し、大坂城に入った。12 年後の大坂夏の陣のとき、千姫は落城する城内から救出された。

元和2年(1616)、本田忠刻(ただとき)の正室となる。義父の本田忠政が姫路に転封となり、忠刻と姫路入りした。この時西の丸に忠刻のための御殿が建てられた。間もなく、勝姫、幸千代姉弟を相次いで出産、本多家中は華やいだ雰囲気に包まれた。しかし幸せな日々は長く続かず、元和7年(1621)幸千代が、5年後には夫・忠刻、続いて忠刻の母・熊姫、さらに千姫の母・江が次々と他界した。忠刻亡き後、千姫は江戸・竹橋の御殿に帰り、下総・弘経寺の了学上人により落髪、天樹院と号した。寛文6年(1666)に没した。享年70歳。

姫路城の隣に兵庫県立歴史博物館があり、そこに大天守の骨格模型があった。大天守は地下1階・地上6階の7階建てで、地下から5階まで2本の心柱が貫いている。一方の心柱は一本の大柱で、他方は2本の大柱を継いで作られた。1階から5階までの床はこの心柱で支えられ、心柱がバランスをとっている。6階と7階の層は心柱の上に乗っかって、心柱の重しとなっている。下層が入母屋造の建物になっていて、その上に望楼を載せた天守を望楼式というが、姫路城も望楼式天守である。

今回の訪問では、俄かガイドの方に神経を集中したため、じっくりと姫路城を堪能することはできなかったが、白さが鮮やかで、とても優雅な城であるという印象を強く受けた。また機会があれば、その時はゆっくり見学したいと思っている。

次は岡山城である。

*1:明治22年(1889)に市政をひいたときの人口は24958人なので、江戸時代は2万人くらいと推定される