bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ハワイ旅行 帰国(十一日・十二日目)

ハワイ旅行十一日・十二日目は帰国だ。リフエ空港からの出発便は8時12分だ。コンドミニアムを6時半に出発だ。朝食を取っている暇はないので、空港で食べられるようにと、パウンドケーキを購入し、また、Gayeがパイナップルのカットを用意してくれた。運の悪いことに、前日の夜から激しい雨が降り始め、携帯電話には道路が冠水する恐れがあるという警報が届いていた。

激しく雨の降る中、コンドミニアムをGayeの運転で出発。恐れていた道路の冠水はなく、空が明るくなり始めたころにリフエ空港に到着。Gayeは運転席から離れられないので、座席からお別れを言い、Edとはスーツケースを車から降ろしたあとに、大きなハグをして別れた。

我々の便は国際線との接続なので、機械ではなく、ハワイアン航空のカウンターに向かった。リフエとホノルルの間は頻繁に飛んでおり、この日は1時間ほど早い便に空席があったので、それに振り替えてくれた。荷物の計量をして、ホノルルまでの国内線のチケットと、東京までの国際線のチケットを渡された。荷物を預かってくれるところまでスーツケースを運び、そして保安検査場へと向かった。朝早いせいかとても空いていて、手荷物の検査も簡単に済んだ。

ホノルルには8時に着いた。東京への便は12時15分発のJL781便だ。1時間早い便に振り替えてくれたので、ホノルル空港では時間がたっぷりあった。国際線あるいは米国本土への飛行機に乗り換えるためには、植物検査を受けなければならない。パイナップルのカットを持っていたので、引っかかるかなと思ったが、無事通過した。JAL便が出発するC区域は、殆どのお店がまだ閉まっていて、電燈も付いていないところが多かった。搭乗ゲートを確認したあと、唯一開店していたスターバックスでコーヒーを買い、持参してきたパウンドケーキとパイナップルのカットで、ゆっくりと朝食をとった。

朝食を済ませたのが9時ごろ、まだまだ、出発まで時間があった。子供たちから買ってきて欲しいと頼まれたパイナップルの形をしたクッキーを、ホノルル・クッキー・カンパニーのお店で購入した。
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1時間前に搭乗ゲートに向かった。しばらく待っていると、名前が呼ばれた。JALのカウンターへ来て欲しいというアナウンスだった。国際便への乗りつぎだったので、パスポートの確認が行われ、搭乗券もJALのものに代えられた。

飛行時間は9時間だ。昼食を食べたあとの暇つぶしに、映画を観ることとした。今年のカンヌ映画祭パルムドール賞を獲得した「万引き家族」を鑑賞することにした。映画が始まると、不思議な現象に襲われた。耳から入ってくる音を英語のリズムで聞き取ろうとしている。このため、何を話しているのかとても把握しづらい。さらに悪いことに、字幕は英語だ。耳からの音が聞き取りにくいので、字幕を一生懸命に読む。このため、耳から入ってくる音は日本語とは程遠いものとなり、バックグラウンドの音へと変わってしまう。映画を見るのにひどく疲れ、眠り込んでしまった。

今回の旅行では、GayeやEdがいる場所では、疎外感を味合わせてはいけないと配慮して、日本語は使わず、英語だけで通した。そのため、英語耳になってしまったようだ。さらに、このあと2本の日本映画を観ようとしたが、やはり同じ現象に見舞われ、10分も経たないうちに眠り込んでしまった。おかげで十分に睡眠をとった。

Gayeは小学校の先生をしていたこともあって、英語の発音には厳しい。今回も随分と直された。特に粘土を表すclayについては、10分間の特訓をさせられた。Lの音がRに聞こえるようだ。Lの音は、歯茎に舌を強く押し付けて、舌の両端から音を出す。しかし、私のLは、舌を押し付けるのに意識が行き過ぎて、息が強く吐き出され、Rの音に聞こえるようだ。「リラックスして」と指摘されるのだが、舌を押し付けることにより生じる緊張が除かれず、息を強く吐いてしまう。帰国後もGoogle Translateで確認しながら特訓を続けている。

成田には次の日の午後4時に到着した。エアポートバスでたまプラーザに戻り、そのあとはタクシーで自宅へと戻った。心配した交通事故もなく、病気にもならず、良い旅だった。かくして10月20日から31日まで続いたハワイ旅行は完了した。彼らと約束したようにオリンピックの年の2月に、カウアイ島をまた旅行できることを楽しみにしている。

ハワイ旅行 チョコレート・ガーデン(十日目)

ハワイ十日目、カウアイ島三日目は、チョコレートの庭園だ。Googleでの道案内によると下図のように出てくる。一番端にあるはずの目的地(赤い印)が道の途中にありなにか変だ。
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56号線を北上していくと左側に目的地のGarden Island Chocolateが出てくる。しかし、Googleの道案内によれば、ここを通り越して、はるか先のハナレイ国立野生棒物保護区のロータリーで引き返すようになっている。56号線は高速道路なので、Googleは左折することができないと認識している。このため、Uターンできる地点を探しているのだ。我々はこの道案内に従ったために損をした。危うく集合時間に間に合わないところだった。

参加者名簿に名前を記入した後、朝食代わりにおかれていたハワイ名物の果物を食べたあと、チョコレート農園のツアーへと向かった。最初に驚かされたのが、ハワイの植物に外来種が多いことだ。

綺麗な花を見せてくれるブーゲンビリアやプリメリアは中南米が原産、ハイビスカスも園芸用の多くは外来種。馴染みのある果実もほとんどが外来種だ。マカデミアナッツはオーストラリアが原産。パパイヤはオーストラリア東部から、バナナはマレー半島から、パイナップルはブラジルからの外来種だ。マンゴーはインド・ミャンマーから、スターフルーツはアジアからだ。さらに、ココヤシは東南アジア・インド洋の島々から、ライチは中国広東省福建省から、ザボンはアジア南部から、グアバ南アメリカからだ。コナ・コーヒーはエチオピアから、そして、これから見学するカカオは熱帯アメリカ原産だ。

チョコレートはカカオの実から作られる。カカオの木を見るのはおそらく初めてだったと思う。カカオの花は枝ではなく幹に咲く。下の写真で幹のところどころに白い花を咲かせている。実は赤く楕円形をしている。
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もう少し大きくしてみよう。5223
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熟した実を割って中を見せてくれた。そこにはカカオの豆が詰まっている。この豆を焙煎し、いくつかの複雑な工程を得てチョコレートが生まれる。
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その他の植物についても説明があり、1時間かけてのツアーが終わった。そのあとは、チョコレートの試食会。チョコレートの種類ごとに説明を受け、それを試食するというプロセスを繰り返す。いやというほどたくさんの種類のチョコレートを食べ、やっと終了した。ツアーと試食を合わせて3時間のコースだった。ここは農場だけなので、説明を受けたチョコレートを購入することはできなかった。

昼食は近くにあるキラウエア(Kilauea)の町でとる。
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この町はかつてはサトウキビで栄えた。日本やポルトガルから入植者を迎えた。ところどころに歴史を伝える写真がある。
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午後は、カウアイ島の北にあるハナレイの町を散策することにした。
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ハナレイの街に入るためには、狭い鉄橋を渡らなければならない。ここは一車線だ。橋の前は双方から来る車で渋滞していた。一台一台が交代に渡るということではなさそうだ。我々が渡ろうとしたときは、3台の車が続いて渡ってきて、4台目が停車して道を開けてくれた。町の人に聞いてもルールはないそうで、適当にということらしい。橋を渡って、ハナレイに入ると、一面に畑が広がっていた。後で調べると、タロイモ畑だ。

街の中に入り、賑やかになったところで車を駐車し、あたりを散策する。最初に入った建物には、Old Hanalei Schoolという看板があった。洋服屋さんを皆で覗いてみる。この建物を出ると、ハワイの歴史を教えてくれる展示があった。ハワイ島で訪れたヘイアウを描いたものだ。
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その右手にアート・ショップがあったので覗いてみた。ハワイのスタイルなのだろうか、腰巻だけをつけた大男が現れたのでのびっくり。ポリネシアの美術品を扱っている店だ。YouTubeで、彼が宣伝している。
www.youtube.com

ハナレイの南側は、急峻な山が迫っている。滝というよりは、川がまっすぐ真下に落ちていくような光景だ。
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夕飯は、宿舎の近くの武士道というお店で、米国味の海苔巻きや寿司を食べた。EdとGayeは週末までカウアイ島に残るが、我々はあす帰国する。旧交を温めることができとても良い旅だった。食事の前に、日本製のビールで乾杯した。

ハワイ旅行 コーヒーカンパニーを訪問(九日目)

ハワイ九日目、カウアイ島二日目は、妻のたっての希望でコーヒー園だ。ハワイ旅行に出発する前は、ハワイに在住する知り合いからの情報もあって、ハワイ島のマウンテン・サンダー・コーヒー(Mountain Thunder Cofffee)でコナコーヒーを買うことを、妻は希望していた。Gayeに相談すると、カウアイ島にもっといいコーヒーのお店があるからと説得され、待ちに待っていたコーヒーカンパニーの訪問だ。

この日の朝食は、宿舎先の近くのオノ・ファミリーレストランでとった。
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当初レストランの名前は日本人の姓の「小野」を指すものとばかり思っていた。ただ、それにしてはあまりにもあちこちでオノという看板を多く見かけるので不思議に思っていた。帰国して何気なくBSのDlifeというチャネルをつけていたら、ハワイを話題にしたアニメが流れていた。その中で、オノはハワイ語で「美味しい」という意味だよとしゃべっていた。今まで抱いていたわだかまりが一瞬にして解けた瞬間であった。このオノでは定番のオムレツとパンケーキを注文し、分け合って食べた。朝食には少し多めだったが、美味しかったので、残さず食べてしまった。
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この後、カウアイ・コーヒーカンパニー(Kauai Coffee Company)へと向かった。
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カンパニー前の庭はブーゲンビリアがきれいに咲きそろっていた。
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お店の入り口はこぢんまりとしている。落ち着いた深い緑色の壁を背景にし、カンパニーの名前が明るい色で、対照的だ。ハワイ風の鮮やかさとでもいうのだろうか。5174
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妻が購入したかったのはこれ。ピーベリー(Peaberry)だ。小粒の豆で少量しか取れないため、貴重品だそうだ。もちろん、値段も高い。
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店内では試飲もできる。焙煎の違いによるミディアムとダーク、さらに香りつき、合わせて3種類のテーブルが用意されていた。我々が気に入ったのはダークローストのテーブルだ。その中でも、ピーベリーとブルーマウンティンが最も気に入った。どっしりとした重みと深い苦みが調和し、我々の好みにぴったり合う味だった。
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もちろん妻はどっさりと購入した。
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次の目的地は潮吹きパーク (Spouting Horn) だ。
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波が海中の溶岩の穴の中に流れ込み、それが押し出されて、岩の隙間から塩が激しく吹き上げられる。
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そして、今日の夕飯の場所へと向かう。
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レストランの名前はキーオキズ・パラダイス(Keoke’s Paradise)だ。ハワイ島を訪問しているときに予約したレストランで、カウアイ島でのビッグ・ディナーをする場所だ。

ハワイアンの演奏もフラダンスの実演も伴う、いかにもハワイというお店だった。
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ここの料理は魚がよいということなので、Keoki’s Style FishとPanko & Mac Nut Crusted Fishを注文して分け合った。また、パイがおいしいというので、デザートにOriginal Hula Pieを頼んだ。
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アメリカで食事をしたときに、どれだけチップを払ったらよいのか悩むが、相場は20%だ。ハワイはセールス・タックス(小売売上税)が4%なので、これの5倍が目安だ。暗算を得意としない彼らを見ていると、セールス・タックスの半分を求め、それを10倍している。また、演技者に対してチップを払うのも常識だ。我々の席は、非常に近かったこともあり、それぞれの家族が20ドルずつ払った。

チップになれていない日本人にとっては、何とも面倒くさい習慣だが、アメリカではサービスに従事している人たちは、チップが主な収入源だ。このため、チップを出さないと彼らの生活に響いてくるので、必ず渡さないといけない。しかし、サービスが悪い時は少なめに、気に入った時は大目に上げて、こちらの意思を示すことができる。今回の旅行では、いくつかのお店では、18%、20%、22%のチップの額を明示した伝票を渡してくれた。

今回は2家族で食事をしている。現金主義の日本では割り勘は簡単にできるが、カードでの支払いが当たり前のアメリカではどうするのかと思ったら、”Split”と言って、それぞれのカードを出せばよい。”Exactly equal?”などと聞かれた場合には、”Yes”と言えばよい。カードとともに伝票がホールダーに入れられてテーブルに運ばれてくる。伝票はそれぞれのカードに対応しているので、伝票に書かれているカードの番号を確認して、チップと合計額を書き込む。それぞれの伝票は二枚一組になっているので、一枚をホールダーの中に、残りの一枚を持ち帰る。

チップは、アメリカ独特の制度なので、アメリカ人とともに過ごしていないと分からないことが多い。カウアイ島で利用しているコンドミニアムは週3回メイドさんが来て掃除をしてくれる。この人にも当然チップを払うが、その相場は3ドルとのこと。玄関を入ったテーブルのあたりにメッセージとともにチップを置いておくそうだ。Gayeの運転にチップを払う必要はなかったのだろうか。冗談で聞いてみたが、もちろんいらないといった。

ところで、このブログを書いているときに、食事をしたオーキオズ・パラダイスから東に1Kmも離れていないところに、カネイオロオウマ・ヘイアウ(Kaneiolouma Heiau)があることを知った。草木が生い茂っていて人が立ち入ることができなかったこのヘイアウは、2010年から復元事業が始まり、昔の姿に戻りつつある。その活動は、次のホームページから知ることができる。
www.kaneiolouma.org

機会があれば、ぜひ訪ねてみたいと思っている。

ハワイ旅行 カウアイ島に移動(八日目)

ハワイ八日目はカウアイ島へ向かう。ハワイ諸島の中で、ハワイ島が一番新しい島、これに対してカウアイ島は一番古い島だ。ハワイ諸島は太平洋プレートの上にのっているが、この太平洋プレートは毎年少しずつだが北に向かって移動している。一方、火山を発生させているホットスポットは移動しない。ホットスポットの上に形成された島が、プレートの移動に伴って北に移動し、島が去った跡に、すなわちホットスポットの上に、新たな島が形成される。このプロセスが繰り返されることで、ハワイ諸島が生まれたと説明されていた。しかし、最近ではホットスポット自体も移動するという学説が出され、ハワイ諸島の成り立ちはもう少し複雑なようだが、ハワイ島は43万年前に、カウアイ島は510年前に誕生した。

カウアイ島に向かう便は15時10分だったので、コンドミニアムをチェックしたあと、コナ空港の近くにあるカロコ・ホノコハウ(Kaloko Honokohau)国立歴史公園を訪れた。
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この一帯は火山岩で覆われている。
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このような土地で、ハワイの先住民の人々はどのように生活したのだろう。説明図があった。漁村だったようだ。5146
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生活用具も復元されていた。
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近くの海岸は今日でもこのように綺麗だ。彼らにとっては素晴らしい環境の中で生活したことだろう。5155
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コナ空港を飛び立ち、カウアイ島のリフエへと向かう。
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リフエで出迎えてくれたのは、野生化した鶏。
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野生化した鶏の説明として、1992年のハリケーンで鳥小屋が倒壊したときに逃げ出したという説と、19世紀にプランテーションに持ち込まれた鶏が放たれたという説とがあるそうだ。いずれにしても、この島には立派な鶏が多い。

レンタカー会社で車を借りる。この度はシボレー・タホ(Chevrolet Tahoe)だ。一段と大きな車で、ステップを使って乗り込む車だ。このような大きな車にひるむことなく運転席に向かうGayeを見て、改めてタフな人だと感じ入った。

今回泊まるところは、カパア(Kapaa)にあるポノカイリゾート(Pono Kai Resort)だ。
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ここはタイムシェアのリゾートで、Edは所有者の一人だ。制度の細かいことはわからないのだが、ともかく、我々の宿泊費はタダ。これに越したことはない。今回利用するコンドミニアムは、ハワイ島でのそれが立派過ぎたので、狭いように感じる。日本から直接来ればかなり広いと感じるだろう。
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夕飯は、和風テイストのこじゃれたレストランのJO2 Natural Cuisineでとった。妻は気に入ったようだった。

そして、ここを拠点にして、短い期間だが、もう一つのハワイを楽しむこととなった。

ハワイ旅行 ボタニカル・ガーデンを訪問(七日目)

ハワイ旅行七日目はボタニカルガーデン。アメリカ人の休暇の楽しみ方は、日本人とはずいぶんと違っている。我々は有名な遺跡や評判のよいお店をいくつ回ったかを、ともすれば競っているのに対して、彼らはゆっくりと時間をかけて、初めてであった人とのおしゃべりを楽しんでいるように見える。そのため、彼らの旅行はゆったりとしていて、長い時間をかける。GayeとEdは春には南アフリカを1カ月も旅行したし、今回も、もっとずっと長い期間を提案してきた。日本での我々の日程を考えると1週間がやっとだったが、最大限に伸ばして10日余りにした。

今回の旅行は、彼らのスタイルに合わせて、一日一か所にしてそこで楽しむことが原則だ。観光地の名所・史跡を見るということももちろん目的に入っているが、それよりはそこで出会った人々とのおしゃべりを楽しむことのほうが大切だ。

この日は、前日カヤックツアーに行くときの道すがらに見つけたボタニカルガーデンだ。少し長いがその名前は、パウ・マウ・プレース・植物園(Pua Mau Place Arboretum and Botanical Garden)だ。植物学者のプレイス博士(Virgil Place)によって、1974年に造られた。
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このガーデンはハワイ島の西側にある。ハワイ島は東側が湿潤で、西側は乾燥している。ガーデンを作る前のこの土地は、砂漠に近かったそうだ。膨大なお金をかけて、植物が成長できるように、水やりなどの設備を整えたそうだが、それを維持していくのは大変だろうと容易に想像できる。

あらかじめ電話をしておいたので、案内をしてくれるイリナ(Irina)さんが出迎えてくれ、入場料を払うやいなや、彼女の説明が始まった。まるで、大学の講義を受けているようだった。一本、一本の木について、名前の由来に始まり、その性質などについて、質問を織り交ぜながら、分かりやすくしかもとても専門的に説明してくれた。聞いているときは分かった気になったのだが、二週間以上もたってしまった今となっては、詳しい説明だったということだけが強く印象に残っているのみだ。

ただ、蜘蛛の糸には、虫を捕まえるための粘り気のあるものと、卵を包むための乾いた糸があるという説明だけは、そうだったのかと納得したためよく覚えている。樹木の方はその場限りの知識になったので残っていないのだろう。

イリナさんの英語の発音はとてもきれいだったが、米国人の発音と比べると少し強く発音している音があったので、ヨーロッパのどこかの国から移住してきたのだろうと想像した。説明はなんと1時間以上にもわたり、その後の我々には植物園を巡る体力はあまり残されていなかった。

わすかに残っている体力で、ガーデンを小半時回った。道に沿って、ブーゲンビリアが所々に咲いていた。
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クジャクもいた。
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土地の芸術家が作った作品もあった。
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帰り道にマラサダ(ドーナッツ)を販売しているトラックを利用したお店を発見した。複数の集団が購入していたので、我々も仲間入りした。その中の一つの集団は、4人の水着姿の若い女性たちだった。写真を撮ってくれとGayeが頼まれた。あとでGayeから聞いたところでは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の学生だった。ここは医学を専門とした著名な大学だ。日本とは制度が異なり、米国の医学部はいずれかの学部を卒業した後に進学する。従って、アメリカの医学部は学部はなく大学院だけだ。サンフランシスコ校も大学院だけのこじんまりとした大学だ。米国中間選挙の前だったので、別れ際に、どの政党にとは言わないけれど選挙には行くように、とGayeが彼女たちにお願いした。選挙への関心の高さが伝わってきた。

そのあとマカデミア・ナッツのお店を訪れて、お土産を仕入れた(写真はTripAdvisorより転載)。
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ワイ島最後の夜は、ラバラバ・ビーチクラブ(Lava Lava Beach Club)で地元のビールを飲んだあと、食事をした。我々は、主食にココナッツ・シュリンプ(Coconut Shrimp)とアヒ(Chinese five spice rubbed Ahi)をとった。残念ながら写真は撮らなかったので、昼間の写真だがTripAdvisorより転載しておこう。
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帰宅した後、パッキングを行い、翌日のカウアイ島に向けての準備に入った。

ハワイ旅行 カヤックでアドベンチャー(六日目)

ハワイ旅行六日目はカヤック・アドベンチャーだ。EdとGayeから提案があったとき、転覆も起きるような激流を下っていくアドベンチャーと想像して一瞬躊躇した。服装はと聞くと水着(bathing suit)という。でも腰には浮き輪をつけるから大丈夫だともいう。彼らは80歳以上の老人だ。彼らが大丈夫なら、一回り年が若い我々にとってはなんてことはないだろうと賛成した。

どのような場所に連れていかれるのか、不安と期待が混じる中、午前7時半にカヤック・ツアーを運営している会社へと向かう。会社の名前はフルーミン・コハラ(Flumin’ Kohala)だ。
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会社の事務所で登録手続きをした後、ここからカヤックの乗り場まで、会社のマイクロバスで向かう。30分かかったが、この時間を利用してツアーの説明をしてくれた。「川下りだろう」と思っていたが、そうではなかった。サトウキビ農場へ水を引くための人工的に作られた水路だ。しかし入植した日本人が工事をしたと聞いて親近感がわいてきた。ガイドの説明とその後に入手した情報によれば、この水路には次のような歴史をもつ。

ハワイでは、「ワイ(wai)」という要素を含む単語に頻繁に出会う。ハワイ語でワイは「新鮮な水」を意味する。最初にハワイにたどり着いた人々にとって、新鮮な水はとても大切だったのだろう。この後に続いて訪れた人にとっても、新鮮な水がとても大切だったのは疑う余地もない。そのことを伝えてくれるのがこの水路だ。英語ではditchだ。

ワイ島北部には3か所の人工水路が造られた。以下の説明図は、Star Bulletinの記事からの転載で、1がコハラ水路(Kohala ditch)、2が上ハマクラ水路(Upper Hamakua Ditch)、3が下ハマクラ水路(Lower Hamakua Ditch)だ。
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今回訪れたのはコハラ水路である。この水路は、18カ月にわたる厳しい工事の末に、1907年に完成した。全長26マイル(42Km)、その内、16マイルがトンネルで、6マイルが開いた空間だ。トンネルの数は57、最長のトンネルはおよそ半マイルである。残りの4マイルが渓谷の上に橋のように作られた人工の水路だ。このような人工の水路を英語ではflumeという。今回のツアー会社の名前はfluminだ。酷似した単語を用いているが、こちらの方はラテン語だ。fluminは、flumenの複数形で、「流れ」という意味だ。

建設作業者の中に600人の日本人労働者がいた。一日の給料は1ドル。彼らは岩石から方形のブロックを切り出す作業を主に行った。これらのブロックはトンネルの壁として使われ、その値段は1ブロック当たり5セントだった。彼らの手作業での工賃は、空気あるいは電気ドリルを使うよりも安かったそうだ。日本人労働者は、他のどの国から来た労働者よりも、ブロックづくりが上手だったとも言われている。渓谷の中での水路の工事は難工事であり、17人の死亡者が出た。

それでは、なぜ水路を作ったのだろうか。

ヨーロッパ人が訪れるよりも前に遡って説明を始めよう。

このころのコハラ地域では、先住民たちは、タロイモ、サツマイモ、バナナなどを栽培していた。1779年にクック船長が訪れたあと、新しい人々が入ってくる。彼らは、コメ、ジャガイモ、パイナップルなどを持ち込むが、とりわけ影響が強かったのはサトウキビだ。この背の高い植物が調味料として使われるようになると、たちまちのうちにタロイモを凌駕してしまう。そして、コハラ地区で商用として栽培されるようになるや否や、土地と水と人力を必要とするサトウキビは、それまでのハワイを永遠に変えてしまった。

サトウキビでの成功は、増産への欲望を広げ、さらなる土地、さらなる人力、さらなる水が求められた。ときどき生じる干ばつは、そのつど安定的な水の供給への要望を高めた。1880年にハヴィ(Hawi)のプランテーションの長であったハイド(Jone Hide)は、湿潤な森の峡谷からハヴィの村へ、トンネルや石を連ねた水路で、水を引くことを思いついた。しかし協力者がなかなか得られなかったことと、建築コストが高すぎることで、彼はこのアイデアをいったん諦めた。

1901年に、土木技術者のタトル(Arthur Tattle)が、コハラの渓谷の水資源利用の有用性について調査をし、その結果、高価で困難ではあるが、達成可能であるという結論をだした。これに力を得て、ハイドは技術者などの協力のもと、建設に取り組んだ。いろいろな国の人が参加したが、その中で日本人労働者の技能、忍耐強さ、肉体的努力は傑出していたそうだ。

水路は、1907年に完成し、サトウキビ農園の灌漑用として利用された。しかし新興国の参入などもあってサトウキビの栽培は衰退し、1970年代にはサトウキビ農園の運営は終了した。その後は、農業、水力発電、養殖業で利用され、観光でも利用されている。

説明が長くなったが、マイクロバスもカヤックの乗り場に着いたので、話を旅行の方に戻そう。とはいっても、このときはカメラを持参しなかった。濡れるといけないので、持ってこない方がよいとアドバイスされたためだ。従って、写真がないので、トリップ・アドヴァイザーの写真を借りよう。

最初は出発地。
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峡谷の上に渡された水路2枚。。
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トンネルから出たところ。
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もしかして激流を下るアドベンチャーと秘かに期待と不安を抱いて臨んだカヤックであったが、静かな流れの中、開発当時の苦労した人々の姿が思い浮かび、有意義なツアーであった。

3時間のツアーを終えて、お昼はハヴィでとることにした。旅行の本にはバンブーレストランがお薦めと書いてあったが、カヤックツアーのガイドが地元の人から見ると、コハラ・ビレッジ・ハブがよいというのでそこにした。このお店は、コハラ・フルーミンとは道を挟んだお隣さんだった。
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皆で分けようということで、次のものを頼んだ。カラマリとハンバーグ
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帆立のポキライス
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タコス
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夕飯はコンドミニアムで満月を楽しみながらバーベキューにした。

ハワイ旅行 ビッグアイランド・キャンディーズでお買い物(五日目)

ハワイ五日目は妻の希望でヒロにあるビッグアイランド・キャンディーズに行く。先日、キラウエア火山に行ったときに、ヒロで朝食をとることに失敗したので、リベンジをしようということになった。

Gayeがそれではポールのお店はどうかと提案した。調べてみると、とてもおいしいが、2人座りのテーブルが3つしかないので、予約なしでは食べられないことが多いとあった。Edが食べられそうもないので、他にしようと提案した。Gayeは「トライしようよ」というのだが、Edが1時間半もかけて行くにはリスクが大きすぎると反論した。

このあたりから二人の感情がもつれて言い争いになった。夫婦喧嘩はどちらに味方をしてもさらに燃え上がってしまうので、私は静観を決め込んだ。

そうこうするうちに、Gayeが激しく非難した。しかし、初めて出会った単語で意味が取れなかった。”You are xxx. You are xxx” といっていた。口では勝てなくなったEdが静かに部屋から退場し、冷却の時間になった。xxxの意味を聞きたかったのだが、私の方に攻撃が回ってくると大変なので、耐えた。教科書にもなく、通常の会話にも出てこないので、とても興味があった単語だが、今となっては単語の音を忘れてしまったので、調べることもできない。

こういうときの諍いは、たいていの場合、女性の勝ちと相場が決まっている。この場合も御多分に漏れずだ。Gayeの意見に従って、ポールのお店へと向かう。往きは内陸部を、帰りは海岸線に沿って移動しようということになった。
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横断道路の右側の4分の3は、「ダニエル・イノウエ・ハイウェイ」と呼ばれる。このハイウェイは2013年に完成したが、それまでは未舗装のアップダウンの激しい道路で「サドルロード」と呼ばれていた。サドルは馬の鞍という意味だが、馬の鞍に乗っているようなワイルドな道だった。現在は整備され、北にあるマウナ・ケアと南にあるマウナ・ロアの山の間を縫う、景色の素晴らしい道路だ。

出発地のワイコロア・ビーチのあたりの道路は溶岩が広がっている。
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内陸部のワイコロア・ビレッジに近づくころから、緑が広がり始める。遠くに見える山は、標高4207mのマウナ・ケアだ。なだらかな稜線のため高く感じられないが、富士山よりも高い。
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途中には円錐形の噴石丘(cinder cone)も見える(写真右端奥)。やはり噴火によって生じたものだ。
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島のちょうど真ん中、ヒロ・フォレスト保護区に入ると、天候は一変した。深い霧に覆われ、雨の中へと入っていく。
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溶岩の黒い景色が、緑で覆われた森林に代わり、街が現れ、ポールのお店に到着する。
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二人の諍いはGayeが「正しかった」となった。お店に入ろうとした時に、食事を終わった客が出てきた。中に入ると、テーブルが二つ我々を待っていた。

小さなレストランなので、ないだろうとは思ったが、レストルームはどこと聞いてみた。このお店のオーナーのポールは、ファーマーズ・マーケットのトイレの見えるところまで、親切にも案内してくれた。トイレのドアーを開けようとすると鍵がかかっていて開かない。ポールは既にお店に戻っているので、聞くわけにいかない。しばらくトイレの前に立っていると、ファーマーズ・マーケットのお店の人が出てきて、暗証番号を教えてくれた。共同トイレの不用心を避けるための方策なのだ。

お店に戻ると、女性たちはご満悦。ポール特製の朝食に舌鼓を打っている。
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Gayeは満面のほほえみをたたえている。背後には寂しそうなEd。このあと出会った旅行者の人たちそれぞれに、ポールのお店はとても美味しいので、是非行くべきだとGayeは伝えていた。妻もとても美味しかったと喜んでいた。
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次は妻が最も行きたがっていたビッグアイランド・キャンディーズだ。
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たくさんの買い物をした。私が着ていたバークレイのTシャツを見て、店員の一人が「私も卒業生。でも、ずっと前だけど」と話しかけてきた。ハワイにもバークレイの卒業生は多いらしく、このあとも他の場所で話しかけられた。

帰路は滝めぐり。まずはレインボー滝(Rainbow Falls)に向かう。
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レインボー滝はハワイ語ではWaianuenueと言う。水の中の虹という意味だ。残念ながら、今回は虹を見ることはできなかった。

次はアカカ滝(Akaka Falls)だ。
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滝を巡るトレイルがある。Gayeは疲れたのだろう、車の中で昼寝をしたいと言うので、残りの3人でトレイルを散策した。滝だけでなく野生の花々も目を楽しませてくれた。
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次の訪問地はホノカア(Honokaa)だ。
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岡田将生初主演の映画ホノカアボーイの舞台となった場所だ。岡田将生が演じるレオは映写技師として映画館で働いていたが、それがここ。f:id:bitterharvest:20181107055230j:plain
岡田の他に、倍賞千恵子、庄司照枝、喜味こいし蒼井優松坂慶子などが出演し、とてもゆっくりと時間が過ぎていく映画だ。

ホノカアの町の紹介もしておこう。人口は2000人ちょっとで、大きくはない。産業はサトウキビだった。ハマクア砂糖会社(Hamakua Sugar Company)は、このホノカワで、1873から1994年までの長きにわたって事業をしていたが、町はこの砂糖生産に依存していた。会社が廃業する頃には、砂糖と観光の衰退によって町は活気を失ったが、現在はヒロのベッドタウンとなって生き残りを模索している。映画館は1930年にタニモト家によって建てられ、1993から2006年までと2009年にハマクア音楽祭が開かれた。

映画館をカメラに納めていたら、建物のベンチに座っている人が、この店で主人公が散髪をしたと教えてくれた。そうこうしているうちに、夕闇が迫ってきたので、帰路に着いた。

アメリカ人の夫婦と一緒に過ごしていると、チップの払い方から、出会った人との会話の仕方、夫婦喧嘩のありさままでいろいろなことが分かり、得難い経験をたくさんする。楽しい旅だと改めて感じる。

ハワイ旅行 ビッグ・ディナーで再会を祝す(四日目)

ハワイ4日目、再会を期してビッグ・ディナーをしようとあらかじめ決めてあった日だ。すでにレストランは予約してある。昨日の運転が長かったこともあり、夕飯までのんびりと過ごすことにした。朝食もしっかりとることとし、私は目玉焼きを作る。

午前中は、宿泊地のワイコロア・ビーチ・ヴィラスの周辺を散策することにした。Edが絵葉書を出したいというので、ポストがありそうなキングスショップへ向かう。ついでに、散策しようということになり、「物は買わない」という約束をして、キングスショップのお店を見て回る。素敵なお店がたくさんあり、クレイジー・シャツ(Crazy Shirts)の看板を見たとき、Gayeが約束を守れないと言って、中に入っていった。我々も昨年誕生した孫にTシャツを購入した。
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このお店の前の風景もまた素晴らしい。
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午後2時を過ぎたころ、レストランのあるワイメア(Weimea)に向けて行動を開始した。海岸沿いでも、内陸部を通ってもほとんど同じ距離だ。ただ、海岸沿いは工事している箇所があったので、それを避けて内陸部を行く。
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この道は溶岩で覆われた大地で始まるが、途中から緑が多くなり草原が広がってくる。そして、ときどきヤギが出現する。あとでレストランの方に尋ねたら、野生化したとのこと。
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また、わずかな長さであるが並木になっている箇所もある。
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パーカー牧場の入り口に来る。
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パーカー牧場は、総面積が1,000平方キロメートル、東京23区の1.5倍を有する米国でも最大規模の大牧場だ。その歴史についての説明を見つけたので、牧場が始まったころのことを簡単に纏めておこう。

始まりは5頭の牛。1788年に英国人のバンクーバー船長(George Vancouver)が、これはクックが上陸した10年後だが、ハワイを訪れ、カメハメハ大王に牛を献上した。カメハメハ大王は、牛を放し、牛がハワイ島の中を歩き回っても構ってはならないと島民に指示を出した。ハワイ語でkapu(制限なし)と言ったそうだ。

次の20年で、牛は数千頭にまで膨れあがった。1809年、19歳のパーカー(John Palmer Parker)がハワイ島を訪れたときは、焼き印のない牛が田園地帯を支配し、農家の農場や庭に大きな被害を与えていた。パーカーは大王に養魚池を献上するが、第一次世界大戦の間この地を離れた。1812年、この地に居住するために再び戻り、そのとき、当時最新のマスケット銃を持ってきた。大王は、野生の牛を狩猟することだけでなく、島内外で肉と皮を売ることを認めた。しばらくすると、塩漬けにされた牛肉がこの土地の主要な輸出産業となり、パーカーは裕福なリーダーとなり、皆から尊敬されるようになった。彼は、ハワイ語を修得し、ハワイのやり方を取り入れ、1816年にカメハメハ大王の孫であるキピカネ(Kipikane)と結婚した。マウナ・ケアの山麓に8000平方メートルの土地が与えられ、3人の子供に恵まれ、そして「パーカー・ダイナスティー」が始まった。

パーカー牧場の入り口を入ると、正面に博物館がある。
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博物館の中には当時のマスケット銃が展示されている。
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天皇とも交流があったようで、寄贈品が飾られていた。
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また、博物館とは別にパーカーが住んでいた建物が資料館として残されている。
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奥さんのキピカネが来ていた洋服もあった。背後には肖像画が飾ってあった。
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この牧場はツアーも用意されている。また、ハワイアン・カーボーイもまだここで活躍しており、その雄姿を見学するのも面白いと思う。

さて、我々は今回のメインイベントであるビッグ・ディナーをするためにレストランへと向かった。名前はメリマンズ(Merriman’s)。お店の写真を撮らなかったので、ホームページから転載する。
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我々のテーブルを担当してくれたのはダニエル(Daniel)。テキサス出身だがハワイ島が気に入って住み着いたそうだ。奥さんは日本人。彼は日本語は話せず、あいさつ程度だ。彼の今日のお勧めは、ハワイ語でアヒ(Ahi)、日本語ではまぐろを炙った料理。妻がこれを選んだので、分けることにして、私はラムにする。4人とも話に夢中になってしまったために、主食の写真がない。そこでレストランの写真を転載する。
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妻の料理は
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ラムは肉が柔らかく、ハーブの味付けも馴染んでいて、とてもおいしい料理だった。

さて、このレストランは主食ももちろんだが、デザートがとても有名だ。3品がセットになっているのがお薦めだということだったので、これを4人で分けた。このときはちゃんと写真を撮った。しかし残念だが名前を憶えていない(最初のデザートはおそらくCoconut Crème Brûlée)。
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美味しい料理と楽しい話をいっぱいして、再会を祝すことができ、幸せな気分で帰路に着いた。

ハワイ旅行 キラウエア火山を訪れる(三日目)

ハワイ三日目。この日は月曜日だ。月曜日が旅行者にとって都合の悪い曜日であることに我々は気がついていなかった。

目的地はキラウエア火山(標高1247m)。今年の5月から火山活動が活発になり、日本でも何度か報道され、ハワイ島への旅行者のキャンセルが相次いだ。しかし、8月6日の観測では、溶岩流の流出がストップし、火口でも噴火が発生していないことが確認され、8月17日には警戒レベルから監視レベルに引き下げられた。9月22日からは公園の一部開園が始まった。

キラウエア火山はハワイ島東側のヒロから行くことができる。朝食をヒロで8時半にとることにし、簡単なスナックを口に入れ、コンドミニアムを出立した。ヒロまでは一時間半弱の行程だ。
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運転をしているGayeから、朝食のレストランを探して欲しいと頼まれた。日本からのモバイルは「アメリカし放題」だが、データ量に応じて料金が発生する。どの程度になるかに不安に覚えながら、モバイルを操作した。得られた情報によれば、Paul’s Placeがおすすめだった。さらに開店時間を調べたところ、なんと月曜日は閉店となっていた。嫌な予感がしたが、次のおすすめはKens House of Pancakeだった。妻もパンケーキを食べたいと言っていたので、さらに調べると、ここは24時間毎日営業。ここに行きましょうと決めて、地図で詳しい場所を調べた。

今回借りたレンタカーにはナビゲーションがついていなかった。どうもどのレンタカーも付いていないようだ。殆どの人がモバイルを道案内に使っていることに起因しているのだろう。モバイルの地図情報を使いながら道案内をすることとなったが、困ったことに、モバイルから出てくる道路名はカタカナだ。これを頭の中でアルファベットに変換して、車外の道路上に現れる地名と一致しているかどうか確認しなければならない。このため判断が遅れる。交差点で正しい指示を出さなければとさらに焦る。幸いに一度だけの間違いですみ、何とか目的のレストランが見えるところまで来た。

このとき先ほど感じた不安がよみがえってきた。なんとレストランの駐車場には車が止まっていない。しかし妻は明かりがついているという。看板にも24時間毎日営業と書いてある。皆でレストランに入っていくと、食事をしている人たちがいた。不必要な心配をしたと思ったとき、お店の人がやっていないといった。お客がいるのにというと、月曜日は予約客だけで、もう閉店する時間だと言われた。仕方がないのでトイレだけを借りて外に出た。入れ替わりに入ろうとするお客さんがいたので、閉店だと教えた。彼らは、朝食をとるためにあちらこちらのレストランを訪れたが、いずれも閉店だったと教えてくれた。

しかたなくヒロで朝食を取るのをあきらめ、持ってきたお菓子を食べながら、キラウエア火山へと向かった。
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キラウエア火山は今回の爆発で中心の部分が陥没した。写真の奥の左半分のへこんでいるところが今回の陥没だ。
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もう少し大きく撮ってみる。
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アメリカ地質調査所(USGS)が5月22日に発表した溶岩の流れ。人家を飲み込んでいる様子が分かる。
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USGSが撮影した道路に流れ込んだ溶岩流。
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なお、USGSは自由にダウンロードしてよいビデオを公開している。
volcanoes.usgs.gov

次の仕事は、逃した朝食のリベンジに昼食探しだ。火口近くにレストランがあるのだが、再開に向けて準備中だ。ギフトショップにはサンドイッチがあると教えられたが、そこもすべて売り切れ。麓のVolcano Garden Artsで食事がとれそうという情報を得て、そこに向かう。お店の人に丁寧に迎えられるが、美術品の展示はしているが、カフェは休みと言われ、疲労感がどっと出る。とてもがっかりしたので、写真を撮るのも忘れてしまった。仕方がないのでお店のホームページにある写真を転載する。
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このお店は100年前に建てられた家を改造したとのこと。主人のOnoさんは芸術家で、彼の作品が所狭しと展示されていた。Onoさんに開店中のレストランを教えてもらい、午後4時ごろやっとこの日初めての食事にありつけた。店の名はDimple Cheek Cafe & Local Market、ここでお店と同じ名前のDimple Cheek Burgerを頼んだ。Dimpleは「小さなくぼみ」あるいは「えくぼ」という意味だ。従って、Dimple Cheekはえくぼのあるほほ。
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お腹が空いていたこともあって、とても美味しかった。また、レストランの裏にはこの地域でとれた野菜が並べらていて、その中に、ハワイの先住民の人々にとって糖質を取るのにとても重要だったタロイモが売られてた。日本のさといももタロイモの一種だそうだが、それよりはずっと大きかった。写真は別の場所で見たタロイモの栽培だ。
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旅をしていると、初めて経験することが多くとても楽しい。

ハワイ旅行 プウコホラ・ヘイアウを訪れる(二日目)

ハワイ二日目は時差の克服だ。米国本土勢は3時間遅く、日本勢は5時間早く朝が来る。遅めに起床して、分担しての朝食づくりだ。Edはコーヒー、Gayeは手作りのサラダ、妻は食器並べ、そして私はスクランブルエッグの担当だ。バターがなかったので、オリーブオイルを代用にする。ハワイのたまごの黄身は、なんと淡い黄色だ。不思議に思ったので調べてみた。日経電子版に卵の色に関する記事があり、それによれば、日本では色を濃くするためにパプリカやマリーゴールドなどを餌に加えているそうだ。色が濃いと栄養価が高いように見えるけれども、それは誤解だそうだ。

この日のメインの訪問先は、ハワイの歴史を知るために下調べをしたヘイアウ(Heiau)だ。そこは神が宿る場所。国立公園に指定されていて、プウコホラ(Puukohola)にある。借りているコンドミニアムから10.5マイルと近いところにある。
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車窓から見たヘイアウ。石が積みあがっていて、小さな城郭の様にも見えた。
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プウコホラ・ヘイアウ国立歴史公園の入り口。
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入口に入ってプウコホラ・ヘイアウを望む。プウコホラ・ヘイアウは、ハワイ語で「鯨の丘の聖所」という意味だ。
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ヘイアウにさらに近づく。
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当然のことながら、ヘイアウの中に入ることはできない。内部の様子を教えてくれる看板がある。
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ヘイアウは石造りだ。これらの石は、25マイル離れたポロル渓谷(Pololu Valley)から、一列に並んだ人々の間を手渡しで運び積まれた、と考えられている。ヘイアウの大きさは、横70メートル(224フィート)、縦30メートル(100フィート)、高さ5~6メートル(16~20フィート)だ。西洋の影響を受ける前のハワイ島の中では、最後に作られた聖域の構造物であったらしい。

ハワイ諸島統一した王として有名なカメハメハ大王は、ハワイ島北端のカパアウ (Kapaau)で生まれたと伝えられている。カメハメハ大王はやがてハワイ諸島統一に乗り出す。このとき聖職者(kahuna)から、戦争の神であるクカイリモク(Kukailimoku)を祀るヘイアウをプウコホラに建造して奉じれば、統一は達成されるだろうと予言される。カメハメハ大王は1790から1791年にかけてヘイアウを建設し、1810年にはハワイ諸島を統一し、聖職者の予言が実現される。

このころのヨーロッパ人とのかかわりは次のようだった。最初の出会いはジェームズ・クック(James Cock)で、彼は三回目の航海でハワイ諸島を訪問している。1778年にはカウアイ島に、1779年にハワイ島に来ているが、このときに村人との諍いの中で落命した。1789年にはアメリカ人のメットカーフ(Metcalfe)親子が率いる2隻の船がハワイ島を訪問した。このときも島民との間で諍いが起こり、双方に大きな被害が発生した。このときの争いによって、デービス(Isaac Davis)とヤング(John Young)の二人のアメリカ人がハワイ島に残された。カメハメハ大王は、彼らを自身の軍事顧問とし、そのあと火器・火薬の調達に努めた。

プウコホラ・ヘイアウから下ったところに別のヘイアウがあり、これはマイレキニ(Mailekini)と呼ばれる。カメハメハ大王のときにこのヘイアウは要塞に変えられたと考えられている。ここにはカメハメハ大王が調達した大砲が装備されていた。
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またビジターセンターには大砲も展示されていた。
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この時代の伝統的な武器も展示されていた。これらは、木、石、骨、サメの歯などで作られていた。カメハメハ大王の時代に初めてヨーロッパの人々と出会った。道具だけで見るとその頃のハワイの人々はまだ石器時代だ。その人々が、産業革命(1760~1830)を迎えている頃の人々と出会ったのだから、大変な出来事だったろう。
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マイレキニ・ヘイアウをさらに下り海岸に沿ったところには、ペレカネ(Pelekane)と呼ばれる集落があったようで、その当時の集落の様子が描かれていた。
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この地を去り、さらに北上するとラパカヒ(Lapakahi)・ステート・ヒストリカル・パークに向かう
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ここには猟師の家が復元されている。
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ハウィ (Hawi)で遅いお昼をしたあと、プウコホラ・ヘイアウの建造に使われた石の採取場所であるプロル渓谷(Pulolu valley)に向かう。ヘイアウで建築のために使う石は神聖なものと見なされ、下に置くことを許されなかった。そのため、人間の鎖を作って手渡しで、ここからプウコホラ・ヘイアウまで運んだ。一つ一つの石は相当に重く、ビジターセンターにおいてあったサンプルを私の力では持ちあげられなかったが、当時の人々は体力に恵まれていたのだろうか。そうであったとしても、大変な仕事だったと思う。
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渓谷の眺めはきれいだ。
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写真ではよくわからないが、海岸線には黒い砂の海岸が広がっている。渓谷も素晴らしい。
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渓谷の中に分け入ることもできるが、我々は躊躇した。
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虹まで我々を歓迎してくれた。
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帰りは内陸部を通って戻った。
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ワイメア(Waimea)に向かう途中で、ハワイのサンセットを見ることができた。
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そしてヘイアウを訪れるというこの日の目的は無事達成された。

夕飯はクイーンズ・マーケットプレイスにあるいわゆるアメリカ風のお弁当屋さん(Ippy's Hawaiian Barbeque)で簡単に済ませ、明日の早出に備えた。

ハワイ旅行 ワイコロア・ビーチ・ヴィラズに到着(一日目)

いよいよ、ハワイに出発だ。2年前に息子がホノルルで結婚式を挙げたので、久しぶりというわけではない。しかし、今回は、オアフ島ではなく、ハワイ島とカウアイ島への旅行だ。

10月20日(土)に成田発・コナ着のJAL770便でハワイ島に向かう。日本航空にとっていまやハワイ便はドル箱路線になっている。かつて運航していたハワイ島への直行便は、経営破綻のときになくなったが、昨年の9月15日に再開された。ハワイ島への旅行者にとってはありがたい便だ。

今回旅行を共にするのは、カリフォルニアのサン・ルイスオビスポに住むEdとGayeの夫妻だ。Gayeをカタカナ表記にすると別の意味にとられるので、英語表記で続ける。彼らとは留学したときに知り合った。そのとき最初に着陸したエアポートはホノルルだった。当時の飛行機は米国本土へ直行するほどの航続距離がなく、米国へ向かう便はすべてホノルル空港で給油のために着陸した。入国審査もホノルルで行われ、留学に際して必要とされた原寸大の胸部のレントゲン写真を抱えながら、初めての入国手続きをしたことを今でも鮮明に覚えている。

バークレイでの大学院留学に先立って、英語力を高めるためにUCLAで一月近く英語のインテンシブコースを受講した。その時にホストファミリーになってくれたのが彼ら夫妻だ。当時、彼らには3歳のGlenと8か月のCarenの二人の子供がいた。言葉を覚え始めていたGlenも今や50歳、そして、Gayeはなんと80歳だ。47年もの長い付き合いになる。

我々の便はハワイ時間で同じ日の午前10時に到着した。夜に発って昼前に着くという「過去に戻る」パターンだ。「一日」得した気分となる。コナ空港は、飛行機に寄せられた階段を下りて直接地上に出るスタイルだ。1950~60年代に戻ったような懐かしい気分にさせてくれる。
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飛行機を降りて入国手続きに向かう。
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成田での出国手続きは機械で行ったが、コナでの入国手続きも機械が主役になっていた。パスポートを機械の上にのせて顔写真と指紋を撮るだけだ。その結果によって二つのグループに分けられる。一つのグループは機械でほとんど入国手続きが済んだ人たちで、簡単な質問だけで入国審査のゲートを抜けることができる。もう一つのグループはこのあとにこれまでと同じ入国手続きが行われる。我々は、妻は前者に、私が後者になったので、二人とも後者のグループの列に並ばされた。私だけが係官から質問されて、顔写真と指紋を再度取り直し、妻は何もなく一緒に通り抜けた。

入国審査を終わると、ターミナル3の建物に出る。日陰を得るための屋根だけのいたって簡素な建物だ。ハワイに来たという気分にしてくれる。
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ここは国際線用なので、EdとGayeが到着する国内線のターミナルへ向かう。
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彼らはアラスカ航空だ。
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定刻に到着し、再会を祝してハグした後、レンタカー会社へと向かい、シボレー・エクイノックスを借りる(下は宿泊先でとったもの)。
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今回の旅行の運転者はGayeだ。Edは視野が狭くなっているということで運転はしない、私も日本と反対の右側を運転する気にはならない。このため、Gayeにお鉢が回った。日本では80歳での運転は本人だけでなく周囲も嫌がるが、アメリカでは生活の足なのでそのようなことはないのだろう。しかし無事に旅行がすむことは祈った。

我々が宿泊する場所は、コナの北に位置するワイコロア(Waikoloa)だ。クイーンズ・マーケットプレイスにあるイタリアンレストラン(Romano's Macaroni Grill)で食事をとった後、宿泊先のコンドミニアムに向かった。

旅行を計画した昨年の11月には、ここではなく、ヒロから南に下った一軒家を予約した。
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ところが今年になってキラウエア火山が爆発した。この家は被害に遭わなかったようだが、ここの家主は貸家3軒と自宅の家をこのときの溶岩流によって失った。我々は予約を取り消して、島の反対側の溶岩流の恐れのない地域にコンドミニアムを借りた。今回の噴火はyoutubeに説明がある。ちなみにこの家のレンタル料は一日173ドルだった。2家族で分割すれば格安でとてもいい家が借りられたと思うと残念だ。
https://www.youtube.com/watch?v=2BfPLExqi2M

我々が宿泊したコンドミニアムはワイコロア・ビーチ・ヴィラズ(Waikoloa Beach Villas)だ。
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大きなリビングルーム
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二つのベッドルーム
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何でもそろっている台所
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目の前のゴルフコース
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家を選ぶならアメリカとよく言われるが、今回の家も広い空間と大型の家具と電気製品に溢れていた。

近くには、ショッピングセンターのクイーンズ・マーケットプレイスやキングスショップスがあり、この快適な空間を拠点にして、一週間をハワイ島で過ごした。
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横浜北部の中世城郭の茅ヶ崎城を訪れる

横浜市の港北ニューたんに住んでいたころ、センター南駅へと通じる道沿いに小高い丘があり、その頂でときどき工事をしてたので、「何をしているのかな」と疑問に感じていた。それも不快感に近く、「せっかくの自然を壊さないでもよいのに」とも思っていた。この地を去ってから10年近くたつが、それが中世の城跡であることを最近知った。かつて遠目に見た風景は、公園へと整備するための工事だった。いまは茅ケ崎城址公園となり、中世の城郭の遺構を伝えてくれる。先日この近くに行く機会があったので訪れてみた。

茅ヶ崎城址公園は、横浜市の北部、横浜市営地下鉄センター南駅の近くにある。
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公園の入り口には案内図があり、城跡の全体が分かるようになっている。
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案内によれば、茅ヶ崎城は15世紀の前後に築城されたそうだ。15世紀後半に最大の構えとなり、16世紀中ごろには二重の土塁とその間に空堀が設けられた。室町時代関東管領上杉氏、戦国時代の後北条氏により築城された。

中世の城の中核をなすのは、郭(くるわ、曲輪とも書く)である。そこは戦時の時に兵たちが駐屯する場所である。郭は複数あり、それぞれが土塁、石垣、堀などで囲われており、郭への出入り口は虎口と呼ばれた。

茅ヶ崎城にも、案内図にある中郭、北郭、西郭、東郭と、現在は民家になっている北東郭がった。

城主や兵たちは、平時は郭には住まず、ふもとの根小屋に住んでいた。
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戦争になると、根小屋から城主や兵たちがここに立てこもって戦った。さらには領内の百姓も避難する場所として用いたことであろう。

郭は山の頂を削平して作られた。どの郭は草が生い茂っていた。最も大きな中郭も次の写真のだったが、ベンチに座ってお昼を食べるビジネスマンの姿も見受けられた。
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土塁もあるのだが、少し土が盛り上がっているようには見えるけれども、はっきりとはわからない。
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郭への出入り口の虎口も2か所見つかっている。
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茅ヶ崎城址公園とともに、近くにある正覚寺も訪れた。このお寺は、花菖蒲やあじさいで有名だ。梅雨時のこれらの花に恵まれるころは人込みができるが、今の時期は静かなお寺だ。正覚寺天台宗の寺院で、1593年の開基とされている。豊臣秀吉が朝鮮に兵を送った文禄の役のころだ。

まずは山門。
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本堂は、文化の時に焼失、文化8年(1811年)に再建、関東大震災で半壊、1925年に改修され、現在に至っている。
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鐘楼堂も立派だ。
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横浜市の港北ニュータウンは、若い人が多く、活気に満ちた街だ。この街は、1974年に造成工事が始まり、1980年代の半ばごろに大規模集合住宅ができ始め、多くの人々とが住むようになった。それまでは横浜北部の静かな集落だったので、このころから住んでいる人は隔世の感を覚えるであろう。

ハワイ島・カウアイ島でのバケーション - ハワイ先住民の人口推移

ハワイ先住民の人口はどのように推移したのであろうか。あまり資料は多くないのだが、Dye氏とKomori氏の論文”Pre-central Population History of Hawai`I”(1992, New Zealand Journal of Archaeology)から情報を得ることができる。論文によれば、クックが到達した1778年までの人口の推移は次のようになっている。
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彼らによれば、人口の推移の傾向は3分類されると言っている。最初の傾向は400年から1150年までで、「創設フェーズ」だ。入植地が海岸近くに作られ、数百人から2万人ぐらいの人々が定住した。次の傾向は1150年から1450年までで、「成長フェーズ」だ。好環境の中、人口は10倍となり、最大で140,000-200,000人に達した。最後の傾向は1450年から1778までで、「均衡フェーズ」だ。人口は110,000~150,000人で、最大時のそれよりは若干少ない。

この傾向は、農業とのかかわりの中で彼らは説明している。ハワイの気候は、湿潤な緑の森に覆われた高地と、乾燥した開けた森の風下の低地からなる。これらの森は植物性の食物には恵まれていなかった。

「創設フェーズ」には、海岸近くに住み着いた入植者たちは、鳥や魚貝を狩猟採取したと思われる。しかし、糖質の食物が必要だったので、タロイモなどの栽培をし始めた。

栽培が進むにしたがって、既存の農地を焼き畑で再利用することや、新たに森林を切り拓くことで農地を開墾することを覚え、焼き畑農業へと移っていったと思われる。このときが「成長フェーズ」である。農地の拡大は低地からはじまり、高地へと広まっていった。

さらに、開墾が進みすぎ新たに開墾できる森林が減少し、このため人口増加が抑制された。これが「均衡フェーズ」である。

Dye氏とKomori氏はこのような農業の推移を、炭の量の変化によって説明している。既存の土地の焼き畑のよって生じる炭と、森林を焼くことで生まれる炭とでは、後者の方が圧倒的に多いであろうから、時代ごとの炭の量を調べることで開墾された森林の規模が分かると彼らは考えた。炭素14年代法で調べた結果は次のようになっていた。
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この図から、「成長フェーズ」が始まる150年前から炭の量は急激に増え始め、そのピークは「成長のフェーズ」の終了時にピークに達する。そして、「均衡フェーズ」では最大時の半分程度までに落ち込んでしまう。これは、「成長フェーズ」に入る前に先立って、森林の開拓がはじまり、「成長フェーズ」の終わりごろには最大に達するが、その後は、新たに開墾する場所がなくなったと解釈している。

さらに、宗教との関係についても説明されている。ハワイ先住民の宗教は多神教で、11世紀ごろに南ポリネシアからもたらされたと言われている。その中に神官パアオ(Pa`ao)がおり、彼の子孫は1893年までハワイ島を支配した。この宗教は、ヘイアウ(Heiau)と呼ばれる聖域を有していた。この聖域の建設・改修に投じられた労働量の変化によっても人口の推移を説明できると彼らは説明している。これについては文献を参照して欲しい。

彼らの研究が1992年である。今日ではDNAを調べることで、人の移動に関する情報をより詳しく得ることができるようになっている。それほど遅くない時期にハワイの先住民についても、詳しいデータが得られるようになると思う。もしかすると、狩猟採集民が最初にハワイに定住し、焼き畑農業に長けた農耕民がその後に到着し、この二つの集団が交雑してハワイの先住民を形成したということになるかもしれない。また、パアオは後から来た農耕民の一人だったかもしれないなどと想像すると、歴史は本当に面白いなあと思う。

最後に英語版のWikipediaにヘイアウのイラストが載っていたので掲載しておこう。
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ハワイ島・カウアイ島でのバケーション - ハワイの歴史・先史時代

今月の下旬は、留学時にホストファミリーをしてくれたご夫婦とハワイでバケーションを迎えることにしている。ハワイの歴史についてはほとんど知らないので、少し予習をしておき、彼らとの話題にしたいと思っている。とりあえず、先史時代から始めることとしよう。

最初に頭に浮かぶのは、ハワイの先住民たちが、いつごろ、どこから、やってきたのだろうかという疑問だ。最近は、古代人のDNAの研究が盛んで、考古学からは分からなかった重要な知見が知られるようになっていている。

現生人類は20万年前頃にアフリカで誕生し、およそ7万年前にアフリカ大陸を出た少数の人々が、ユーラシア大陸に拡散していく。最近の研究によれば、ヨーロッパでネアンデルタール人と、アジアでデニソワ人と交配したことが判明し、従来の考え方が覆えされている。ユーラシア大陸の端にある日本には、4~3.5万年前に到着したと考えられている。

人類が誕生して1.5万年ぐらい前までは、氷河期であり、人々はマンモスやトナカイなどの大型の獣を追いながらの狩猟採集生活をしていた。しかし、1万年前ごろになると地球は温暖化し始め、大型哺乳類は絶滅し、環境が一変する。日本では、イノシシ、鹿などの小型動物、木の実、魚・貝などを狩猟採取する縄文時代が始まるが、4大文明の地域では農業が始まる。新石器時代と呼ばれる時代から、銅、青銅、鉄を用いる新しい時代へと入っていく。

古代人のDNAを解析した最近の研究では、このような時代に人々がどのように移動したかがかなりのレベルで明確になった。研究をリードしているのは、ハーバード大学のデイビッド・ライク(David Reich)教授のグループである。

2016年には、ヨーロッパとインドでの人々の移動が解明された。それによれば、農業が始まる前は、これらの地域では狩猟採集民の人たちが生活をしていた。しかし、9000年前以降になると、アナトリア(小アジアと呼ばれる地域でトルコの大部分)とイランから、穀物を育成するという新しい技術を持った農耕民がそれぞれヨーロッパとインドへ移住を開始する。9000~4000年前にかけて、先住民であった狩猟採集民の人たちと交雑し、新たなグループを形成する。

ステップに起源 (現在のウクライナで、ヤムナヤと呼ばれる)を持ち、インド・ヨーロッパ語を話す遊牧民が、ヨーロッパ(主に北ヨーロッパ)とインド(主に北)に移動し、先住の人たちと交雑し、新しい集団を形成する。彼らは、家畜化された馬と車という移動能力に優れた道具を有していた(なお、現在のインド・ヨーロッパ語には、この時代の車に関する語彙が共通に含まれていることからヤムナヤを起源とすると考えられている)。ヨーロッパでの集団は縄目文土器文化を花咲かせ、インドでの集団は祖型北インド人となる。

その後、ステップ集団と農耕民のDNAを有するこれらの集団は、すでに定住していた農耕民(主に南ヨーロッパ南インド)の集団との間で交雑するが、その度合いは北から南へと薄まっていく。

これまでが、ヨーロッパとインドでの先史時代の人々の移動について分かったことだが、東アジアについては十分な古代人のDNAが集まっていないため、不明な部分が多いとライク教授は述べている。

しかし、次のようなことが分かっている。5万年から1万年前にかけて、狩猟採集民が、パプア人、オーストラリア人、東アジア人として移住し、さらにはアメリカに渡った。この初期の拡散で、黄河揚子江の流域で、非常に異なる集団が生まれ、それぞれが9000年前ごろまでに独自の農業を発展させた。5000年前までにあらゆる方向に拡散し、その中で、チベット語を話す集団が黄河から、オーストロネシア語、タイ=カダイ語の集団が揚子江から拡散した。オーストロネシア語を話す人々の一部は台湾に到着した。

台湾に到着した農耕民は、4000年前ごろにフィリピンに、そしてニューギニアやその東の小さな島々に到着した。3300年前以降に、ニューギニアラピタと呼ばれる様式の土器を作る人々が表れ、太平洋に広がり始める。このあと数百年かけて西ポリネシアの島々に広がり、しばらくの休止期間のあと、1200年前までには、ニュージーランドやハワイに到着した。

英語版のWikipediaには、図のような説明がある(図では、紀元が基準である)。
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1778年にイギリス人のキャプテン・クックがハワイに来航して、ヨーロッパ人との接触が始まる。この後の歴史は次回説明しよう。

家族システムの変遷(II) ケーススタディー:律令制成立期における天皇家

高校時代に日本史を選択しなかったので、知識不足を感じて勉強を始めた。このため、最近はやりの「学び直し」には当てはまらない。「退職してから始めた日本史」というべきものだ。昨年に続いて、日本史を趣味としている研究会で、これまでの成果を発表した。昨年からの継続で「家族システムの変遷」である。前年は縄文時代を取り上げたが、今年は律令期の天皇家を選んだ。家族システムは、大別すると、核家族、直系家族、共同体家族の三つである。白村江での戦いに敗れた倭国は、唐から律令制度を導入し、中央集権国家を目指す。しかし、当時の倭国の家族システムは核家族であった。これに対して唐は共同体家族に移っていた。家族システムは組織を構成する最小の単位であり、その上に出来上がる社会の組織は、家族システムからの考え方に大きく影響されると思う。このため、共同体家族の考え方を有する唐の律令制度を、核家族倭国に導入するためには大きな障害があり、それを解消するために様々な工夫がなされた。特に律令制度の導入を率先した天皇家は、大きな影響を受けたはずである。これについて論じたのが、今回の論文である。