bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

藤沢の遊行寺にて

藤沢の遊行寺で、特別展「時宗二祖上人七百年御遠忌記念 真教と時宗」が開催されていたので、26日(土曜日)に見学した。

遊行寺は、箱根駅伝で難所の一つとして知られている場所なので、耳にはなじみのある名前だが、それだけで、訪れたことはなかった。

藤沢という地名の由来だが、諸説あるようだ。今回の特別展の説明をしてくれた遊行寺宝物館館長の説明によれば、淵沢がなまって藤沢になったそうだ。淵沢は、水の淵を表すそうで、その場所は遊行寺境内の奥深くにある宇賀神神社の裏手とのことだった。これがその場所だ。
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藤沢は、江戸時代には東海道53次の宿場町として栄えた。天保14年(1843)の調べでは、人口4089人、家数919軒、旅籠数45軒で、神奈川県内では、城下町の小田原宿、湊町の神奈川宿に次いで人口が多かった。藤沢宿の歴史・文化を伝えてくれる施設が、ふじさわ宿交流館だ(写真で左手奥が遊行寺)。
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近くには遊行寺橋がある。この橋は旧東海道境川を渡るところにかけられており、江戸時代には大名行列が通ったところでもある。
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江戸時代からさらに時代を遡り、遊行寺が造られたころの鎌倉時代は、貴族の時代から武士の時代へと、政治・経済・社会の構造が大きく変化したときである。そして仏教もその変化から免れることはできなかった。

奈良時代は、東大寺国分僧寺・尼寺に代表されるように、朝廷による鎮護国家と学問を中心とした仏教、平安時代は、病気・災害などでの加持祈祷から分かるように、現世利益を中心とした貴族のための仏教であった。これに対して、鎌倉時代は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えている人々で気が付くように、武士階級・一般庶民を対象に救いを説く仏教へと変わった。

遊行寺という名は通称で、正式な名前は清浄光寺という。本堂には、北朝後光厳天皇の直額がある。最後の「寺」という字は、「寸」の部分が左に45度傾いている。後光厳天皇は、南朝方が3人の上皇と皇太子を吉野に連行した後に、三種の神器もないなかで践祚したため、正当性に疑問がもたれて、基盤の弱い天皇であったが、文字をいじるような遊び心があったのであろう。
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なお、遊行寺には南朝後醍醐天皇御像もおさめられているので、南朝とも北朝ともうまく付き合ったのだろう。

遊行寺は、踊念仏で知られる時宗のお寺だ。時宗は、一遍上人によって鎌倉時代末期に開祖された、浄土教の一派である。浄土教は、念仏によって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生し、成仏できると説いている。浄土教は、平安時代にも受け入れられているが、飛躍的に発展したのは鎌倉時代に入ってからである。

平安時代末期から鎌倉時代の初めには、比叡山天台宗の教学を学んだ法然上人が、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた。鎌倉時代中期になると、一遍上人が、時衆を率いて、遊行を続け、民衆を踊念仏と賦算(南無阿弥陀仏、決定往生六十万人と記した念仏札を配ること)とで、極楽浄土へと導いた。

一遍上人には、自身の教えを、一つの宗派にする意図はなく、仲間たちを「時衆」と呼んだ。今回の特別展も時宗ではなく時衆が使われているのはこのためだ。ちなみに、時宗は江戸時代以降に使われるようになった。

一遍上人は遊行に明け暮れたので、寺院を建立することはなかった。しかし一遍上人が亡くなってからも、彼を慕う人々が多く、教えを継続して欲しいという要望が強かったために、他阿真教上人が、教団を実質的に築いた。真教は、41歳のとき、一遍上人が九州を遊行しているときに出会い、教えに感銘を受けて、最初の弟子となり、「他阿弥陀仏(他阿)」という名を授かった。出会いのあと、12年間遊行を共にしている。

真教は、1304年に遊行を止め、相模原当麻無量光寺で念仏道場を開いた。信教の跡を受けた3世智得が亡くなると、真教の弟子の呑海(どんかい)が当麻に入ろうとするが、執権北条高時の支持を得た智得の弟子の内阿がすでに相続していたため果たせなかった。そこで、呑海は、鎌倉郡俣野領内の藤沢にあった廃寺の極楽寺を、清浄光院として再興した。

呑海は、俣野の領主であった俣野氏の一族である俣野五郎景平の弟とされている。また、清浄光院の開基は俣野五郎景平である。ちなみに俣野五郎景平は、相模国俣野荘の地頭だ。

それではそろそろ遊行寺(清浄光寺)の散策へと移ろう。まずは本堂だ。木造銅葺の堂々とした建物だ。関東大震災(1923年)では、この地域は強い直下型の揺れを受けたため、建物がそのまま上に突き上げられ、柱がほぞから外れて、崩れたそうだ。そのため、柱が折れずに残ったそうで、それらを用いて昭和10年(1935)に上棟、12年に落成した。
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御本尊は阿弥陀如来坐像(像高141cm)だ。
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鐘楼には1356年に造られたとされる総高168cmの梵鐘がある。戦国時代には遊行寺は戦場となり、梵鐘は北条氏によって小田原城に持ち去られ、寺は廃寺同様となった。1607年再建されたが、梵鐘が戻ったのは1626年だ。
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徳川5代将軍の綱吉のとき、生類憐みの令(16941年)が出され、「金魚・銀魚を有する者は、その数を正確に報告し、差し出すように」というおふれが出た。そのとき集められた金魚・銀魚が放出されたのが、放出池である。
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宇賀神社の宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされている得川有親の守り本尊とされている。有親は遊行12代尊観上人の弟子となり、その子の泰親(独阿弥)は、遊行寺に宇賀神社を奉納し、また松平家の養子になった。泰親の長男竹若丸が松平を、次男竹松が徳川信光を称したと伝えられている。
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次は、浄瑠璃小栗判官・照手姫ゆかりの長生院。1422年常陸小栗の城主判官満重が、足利持氏との戦いに敗れて落城し、その子の判官助重が、一行とともに三河に逃げ延びるとき、藤沢で横山太郎に毒殺されそうになった。このとき妓女の照手が助重を逃がし、一行は遊行上人に助けられた。そのあと助重は家を再興し、照手を妻にした。助重の死後、照手は髪を下ろして長生尼となり、助重と一行の墓を守った。
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境内の東門近くには、敵御方供養塔がある。1416年に上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対して起こした反乱(禅秀の乱)で、氏憲は敗れ、双方に多くの死者が出た。両方の使者を供養するために建てられたのがこの碑で、博愛精神をもっとも古くから表すものとして国宝になっている。
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以上の話を宝物館館長の方から伺った後、宝物館で特別展の話を伺った。
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会場では、入り口近くに真教上人の像があった。この像は生前に造られたそうで、寿像だ。真教が82歳の時だそうで、右目の瞼が垂れ下がっているのが印象的だった。この像を真正面から見ると、背後に「南無阿弥陀仏」と記載された真教の六字名号が掛けられていた。時宗では六字名号が本尊となるので、名号の前で教えを説くこととなる。

このほかに一遍聖絵と遊行上人縁起絵が展示されていた。一遍聖絵は国宝で、ここ清浄光寺(遊行寺)が所蔵している。全部で12巻で、会場では興味をそそられそうな部分が展示されていた。遊行上人縁起絵は、いくつかの系統のものがあり、同じ場面が並べて置かれていたので、比較することができ楽しむことができた。

特別展「時宗二祖上人七百年御遠忌記念 真教と時宗」は、第一会場を遊行寺とし、第二会場を神奈川県立歴史博物館としているので、神奈川県立歴史博物館も見学し、理解を深めたいと思っている。

多胡碑・綿貫観音山古墳

秋晴れの中での運動会という、子供の頃の印象が強く残っているせいだろうか、秋は行楽の季節、天候に恵まれた時期と考えていた。しかし、今年のように複数回も大きな台風に襲われると、本当にそうなのかと疑ってみたくなる。逆に、恵まれた日が少なかったので、秋晴れの日が思い出の中に強く残っていて、錯覚しているのではと思ったりもする。

この秋はずっと雨の日が続いたので、真っ青に澄み渡った空が、とくに待ち望まれた。神様の恵みだろうか、群馬県に遺跡を訪ねるこの日(23日水曜日)は、雲一つない秋晴れとなった。

この日の行程だ。横浜の港北ニュータウンを8時に出発し、東名、圏央道、関越道を利用して、多胡碑、群馬県立博物館、綿貫観音山古墳を巡る、往復で350Kmのバス旅行だ。
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最初の訪問場所の多胡碑は、山上碑、金井沢碑とともにユネスコ「世界の記憶」に二年前に登録された。今年登録された百舌鳥・古市古墳群世界遺産だが、こちらはそれとは異なる「世界の記録」だ。藤原道長の『御堂関白記』も同じ仲間だ。

多胡碑へと向かう道は鏑川の沿線にある。道路と川に挟まれた吉井運動公園は、台風19号の大雨により浸水し、大量の砂に覆われていた。多胡碑と多胡碑記念館は小高いところにあったため、水害からは免れたとのことだった。ここののボランティアの方の案内で、多胡碑を見学した。劣化を防ぐために、多胡碑は小さな小屋の中に納められていて、特別な日にしか直に見ることができない。この日もガラス越しでの見学だった。
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目を凝らすと書かれている文字を読みとることができる。そこには、
弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
とある。内容は、弁官局からの命によって、上野国の片岡・緑野・甘良の3郡から300戸を分け、多胡と呼ばれる新しい郡を作り、羊に支配させるというものだ。命が宣せられたのは和銅4年(711)3月9日で、左中弁・正五位多治比真人、知太政官事・二品穂積親王、右大臣・正二位藤原不比等によるとなっている。

和銅4年は、女帝の元明天皇の時世である。元明天智天皇の娘で、諱は阿閇皇女、母は蘇我倉山田石川の郎女の娘・姪娘(めいのいらつめ)である。天武天皇持統天皇の子の草壁皇子の正妃となり、文武天皇と女帝の元正天皇の母でもある。

碑文に名前が載っている多治比真人は、誰であったのかは特定されていないが、建郡に当たって、地元に多大な貢献をしたのだろう。身分の高い二人に先んじて名前が記されていることが、これを伝えている。穂積親王天武天皇の皇子。知太政官事は律令制では定められていない令外官の一つで、太政官を統括する最高位の官職である。藤原不比等鎌足の子で、大宝律令(701年)、養老律令(757年)の編纂において中心的な役割を果たした公卿で、このころは権勢を誇っていた。

この時代は、律令制度の枠組みが整い、平城京に遷都(710年)し、仏教による鎮護国家(東大寺国分僧寺・尼寺の建立など)に向けて、奈良朝は次の時代をめざしていた。時を同じくして群馬のこの地も、渡来系の先進技術を導入し、活気に溢れていたのだろう。多胡郡の建郡もその表れだ。

高崎市のホームページには次のことが書かれている。律令制度が始まる以前のヤマト王権の時代、多胡郡の地域は、緑野屯倉・佐野屯倉だった。屯倉には、先進的な渡来系技術が導入されていて、この地域は、窯業、布生産、石材・木材の産出などの手工業が盛んだった。このような状況の中で、当時の政権(奈良朝)が、生産拠点の取りまとめと、郡の区割見直しを目的に、建郡したとなっている。

さらに次の記事もある。建郡に際しては、「羊」(名字ではなく名前)と呼ばれる渡来人が、大きな役割を果たし、初代の郡領(ホームページは郡長官)となった。碑を建てたのは、この「羊」とも考えられると書かれている。なお「羊」については、今日の学説では人名と解釈されているが、その他にも方角を示すとするものなどいくつかの説があり、羊太夫と呼ばれる伝説にもなっている。

上野三碑と言われるように、高崎市の南部には、多胡碑の他に、山上碑、金井沢碑が存在する。これらの碑は時間の関係から実物を見学することができなかったが、多胡碑記念館の中でレプリカを前にして、学芸員の方から話を伺った。

山上碑、金井沢碑とも、上野の豪族であった三家(みやけ)氏に関係するそうだ。山上碑はお坊さんになった息子が母を供養するために建てた碑で、そこには母を中心に、先祖が記載されている。息子の名前は長利、放光寺の僧である。母の名は黒売刀自(くろめとじ)、ヤマト王権の直轄地である佐野三家(ミヤケ・屯倉と同じ)を管理していた健守命(たけもりみこと)の孫娘である。黒売刀自の夫は、大児臣(おおごのおみ)。彼は斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫であり、斯多々弥足尼の父親は新川臣(にいかわのおみ)である。

この碑の冒頭には、辛巳歳集月(しんしとしじゅうがつ)に記したと書かれているので、681年ということになる。

碑文は、全て漢字で書かれているが、中国語での語順ではなく、日本語での語順にそって漢字を並べたものである。三つの碑ともこのようになっている。この碑から、群馬の地でも、漢字が受容され、仏教が伝わってきていることが分かる。また碑が母への供養になっていることから母系家族ではとも想像させられる。

次の写真はレプリカである。
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金井沢碑は、山上碑の45年後の726年に建てられた碑で、三家一族の祖先の供養をするために集まった人々の名前が記されている。彼らは、上野国(こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)下賛郷(しもさぬのさと)高田里(たかだのこざと)に居住していた。これは、国・郡・郷・里による行政制度を、実証する貴重な資料だ。

7世父母と現在の父母の供養に集まった人々は、夫の三家子?、妻で家刀自の地位にある他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、娘の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、ひづめ刀自(ひづめは馬偏に爪と書かれている)、若ひづめ刀自の6人と、仏の教えで結ばれた三家毛人(えみし)、知万呂、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の3人だ。

この部分から、娘の夫が含まれていないことに気がつく。夫は子供の名前から察して物部君だろう。妻の家の行事には参加しないというのが、当時の習慣だったように見て取れる。さらに推測を重ねると、娘家族が、娘の両親のところに住んでいるようにも見える。これが正しければ、母系居住だ。この時代の家族システムについては、史料がほとんどなく、判然としないので、上野三碑は当時の家族構成を知る上でも貴重な資料だ。

また、同じ里に住んでいて、家族でない人々が、仏の縁で結ばれたということで、供養に参加している。このことは、仏教がこの地にさらに強く広まっていることを示すものだろう。地縁ではなく、知縁(思想・信条・関心を共有する共同体)の始まりとも見える。

次の写真はレプリカである。
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上野三碑から、律令制度、漢字文化、仏教が広まったことを確認したあと、この時代より前の時代の遺物を見るために、同じ高崎市内の群馬県立歴史博物館へと向かった。

歴史博物館では、企画展示『ハート型土偶大集合!!―縄文のかたち・美、そして岡本太郎―』が開催されていた。

この企画展では、横浜市稲荷山出土の筒型土偶、千葉県佐倉市江原台遺跡出土の山型土偶、同じく佐倉市宮内井戸作遺跡出土のみみずく土偶群馬県桐生市千網谷戸遺跡出土のみみずく土偶北秋田市藤株遺跡出土の遮光器土偶青森県田子町伝・野面平遺跡出土の屈折像土偶を始めとして270点もの土偶が展示されていて、目を楽しませてくれた。

しかし、何と言ってもこの展示での目玉は、群馬県出土のハート型土偶だ。トーハクから65年ぶりの故郷への帰還だ。この土偶は、戦時中に長野原線郷原駅の建設工事を行っているときに発見され、1951年になって公式に発表された。ハート形の顔が特徴で、この形の土偶は関東地方や東北地方南部に多く見受けられ、万博での『太陽の塔』で有名な岡本太郎の創作活動に大きな影響を与えたとされている。

また、常設展示室では、入り口から入ってすぐのコーナーは東国古墳文化展示室になっている。ここには綿貫観音山古墳から出土した埴輪や副葬品が展示されている。学芸員の方から30分ほど話を伺った。

綿貫観音山古墳は、墳丘長97mの前方後円墳で、6世紀後半以降の造営とされる。盗掘を免れたため、副葬品が多数出土し、当時の状況を教えてくれる貴重な古墳だ。展示室に入ると、古墳の模型があり、墳丘には、円筒埴輪、形象埴輪(人物、馬、家)が配置されていて、当時の古墳の様子を伝えてくれる。

中に入ると、人形埴輪が置かれている。あぐらをかいた男子の埴輪の前に、正座する女子の埴輪があり、その横手には三人童女の埴輪がある。学芸員の方の説明によると、足まで備わっている埴輪は珍しいそうだ。その奥には、振分け髪の男子と甲冑で武装した兵士の埴輪があり、馬具を装着した馬の埴輪が続いている。家形埴輪もある。

さらに奥に入ると、盗掘されなかった石室から出土した副葬品がある。たくさんの馬具が置かれていてとても見事だ。さらに進むと、獣帯鏡が展示されている。これは百済武寧王の墓から出土したものと同型だそうだ。そして銅製の水瓶。中国の北斉の墓からも同様のものが出土している。これらは、綿貫観音山古墳に埋葬された豪族が、直接あるいは間接に朝鮮半島や中国と交流があったことを伝えてくれる。

この後、綿貫観音山古墳を見学に行った。全景は、
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石室は、
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埋葬者は、石棺ではなく、布を引いてその上に寝かされたそうである。さらに鉄製の釣り具が見つかっていることから、石室をカーテンで覆っていたのではないかともいわれている。

綿貫観音山古墳の頂を観察している頃には、短くなった秋の陽が、今回の旅行の終わりを告げていた。もう少し時間をかけて、じっくりと見学したかったが、横浜からだとこれが限度のようだ。この日は、即位の礼が行われた次の日ということもあって、交通規制がしかれ、都心に近づくにしたがって、渋滞が激しくなったが、7時半ごろには出発地点に戻ることができた。群馬には、このほかにも素晴らしい古墳があるので、泊りがけで、ゆっくりと見学できる機会を作りたいと思っている。

圏論をデータベースに応用する(1)

5 随伴とデータベース

これまで、圏論の理論的な面を重視しながら、重要な定理である随伴まで学んできた。これだけ学んだのだから素晴らしい応用に出会えるはずだ、と考えるのは当然のことだ。ここでは、情報技術の中でも特に重要なデータベースとの関連について、説明しよう。

5.1 Lensの説明

Haskellには、データベースのために、Lensと呼ばれるパッケージが用意されている。それでは、これをインストールしよう。Windows 10であればコマンドプロンプトを、linuxであれば端末(terminal)をひらいて、次のようにすればよい(Haskellがインストールされていることが前提になっているので、まだの場合にはHaskellを利用できるようにしてからだ)。

cabal install lens

それでは使ってみよう。データベースは、あることに関する情報を、テーブル(表)という形式で表したものだ。例えば、あるクラスの生徒の期末試験の成績を一覧表で示したものは、立派なデータベースだ。成績の一覧表には、縦方向に生徒名が記されているであろう。横方向には、生徒名、学籍番号、各科目での得点、合計点などが書き込まれているであろう。各生徒に対する情報、すなわち横一行の情報はレコードと呼ばれる。そして、レコードに刻まれた一つ一つの情報、生徒名、学籍番号、それぞれの科目の得点、合計点は、フィールドと呼ばれる。

ここでは車に関するデータベースを考え、レコードには、メーカーと形式が書き込まれていることとし、型式は車種名と製造年から成り立っているとしよう。

最初に、\(Lens\)のモジュールをロードし、\(car\)と名付けたレコードを用意しよう。このレコードでは、メーカーはホンダ、車種はアコードで2012年製であったとする。

{-# LANGUAGE TemplateHaskell #-}
import Control.Lens
car = ("Honda", ("Accord", 2012))

とすればよい。

\(Lens\)は虫眼鏡を意図して付けられた言葉だと思うが、\(car\)のフィールドを覗くために、\(view\)という関数が用意されている。例えばメーカー名は知りたいとしよう。これは最初のフィールドなので、

view _1 car

とすればよい。

また、形式は2番目のフィールドなので

view _2 car

とすればよい。

さらに、車種名を知りたいときは、2番目のフィールドの最初のデータなので、

view _1 $ view _2 car

とすればよい。

Haskellには、\(view\)に似ているが、\(getter\)と呼ばれる別の関数が用意されていて、\( ( \verb|^|.) \)で表される(これは中置関数にするとカッコが外れて\( \verb|^.| \)となる)。\(n\)番目のフィールドを取り出す時は、\( \verb|^| .n\)とする。さらに得られたフィールドの\(m\)番目のデータを取り出すためときは\( \verb|^| .n.m\)となる。

先ほどの\(view\)での操作と同じことを\( ( \verb|^|.) \)で行うと次のようになる。

car^._1
car^._2
car^._2._1

この記述はオブジェクト指向言語での記述と一緒なので、この言語に慣れている場合には、分かりやすいだろう( \(getter\)の関数の定義でピリオドを用いて、あたかも関数の合成のように見せかけているのは、ずるがしこいとも思えるが)。

フィールドを書き換えて新しいレコードを得るためには、\(set\)を用いる。この関数は3個のパラメータを有する。最初のパラメータはフィールドの場所、2番目のパラメータは書き換える内容、3番目のパラメータはレコードだ。ホンダをトヨタに書き換えたレコードを得るためには、

car1 = set _1 "Toyota" car

とすればよい。新しいレコードを\(car1\)に設定し直していることに注意して欲しい。もちろん古いレコード\(car\)はそのままだ。さらに、車種をアクアに変更するには、

car2 = set (_2._1) "Aqua" car1

\(set\)に対しては、\(setter\)と呼ばれる別の関数が用意されており、これは\( ( \verb|~|. )\)である(これも中置関数にすると\( \verb|~|.\)となる)。使い方は同じで、次のようになる。

car1 =  (.~) _1 "Toyota" car
car2 = (.~) (_2._1) "Aqua" car1

中置関数にすると、

car1 =  _1.~ "Toyota" $ car
car2 = (_2._1) .~ "Aqua" $ car1

\( ( \_2.\_1) .\verb|~| "Aqua" \)の部分が関数なので、\( \&\)を用いて、関数と変数の順序を入れ替えると、

car2 = car1 & (_2._1) .~ “Aqua” 

通常はこのように記述するのがふつうである。これもオブジェクト指向と同じ記述になり、読みやすい。

同じことの繰り返しになるが、実行例を示しておこう。

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図1:Lensの簡単な実行例
それではレコードと複合的な構造になっていたフィールドを本格的に定義してみよう。これには、\(data\)を用いて、\(Car\)と\(Spec\)を定義すればよいだろう。そしてLensで利用できるようにするためには、\(makeLenses\)という関数を施せばよい。このようにすると先ほどと同じように利用することが可能になる。

{-# LANGUAGE TemplateHaskell #-}

import Control.Lens

data Car = Car {_maker :: String , _spec :: Spec} deriving Show
data Spec = Spec {_name :: String, _year :: Int} deriving Show 

makeLenses ''Car
makeLenses ''Spec

今までの説明では、フィールドは何番目にあるかで示していたが、ここでは、フィールドはキーで呼ばれる。キーはフィールドに割り振られた名前の\(maker\),\(spec\),\(name\),\(year\)だ。実行例に示すように、合成関数でキーを連ねることで、ターゲットとするデータにアクセスできる。これは重要な点である。すなわちオブジェクト指向のときと全く同じ操作でたどり着くことができる。なぜ可能なのかについては後半で説明する。

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図2:フィールドをデータ型で定義し、これをLensで利用する

パッケージのLensにはいくつかの例が用意されているので、興味がある場合には利用するとよい。例えば、\(Turtle\)は、亀が指示により位置、色、進行方向を変える単純な遊びだ(追加パッケージとしてStreams,glossを必要とする)。また\(Pong\)は球をパドルで撃ち合う単純なゲームだ(追加パッケージとしてdefault-data-classを必要とする)。これらから、データベースとアニメーションの関係がどのようになっているかを知ることができ、面白いことと思う。

5.2 F-余代数でデータベースを定義する

\(getter\)と\(setter\)の型シグネチャを求めてみよう。

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図3:\(getter\)と\(setter\)の型シグナチャ

\(getter\)の\( ( \verb|^|.) \)では、\(s\)はレコードで、最初の\(a\)はデータを取り出すフィールドで、最後の\(a\)は取り出したデータだ。\(Getting \ a \ s \ a\)は指定されたフィールドからデータを取り出すための関手(あるいは関数)だ。

\(setter\)の\( (. \verb|~|) \)では、\(s\)は入力のレコード、\(t\)は出力のレコード、\(a\)はフィールドで、\(b\)はそのフィールドに書き込む入力値だ。\(ASetter \ s \ t \ a \ b \)は指定されたフィールドを修正した新たなレコードを得るための関手(あるいは関数)だ。

Haskellの関数を簡略化し、ここではアクセスするフィールドの場所が関数の名前の中に含まれる\(getter\)と\(setter\)を、用意することにしよう。そうすると、先ほどの型シグネチャの中の\(Getting \ a \ s \ a\)と\(ASetter \ s \ t \ a \ b \)とが省かれることになるので、次のようになる。

get :: s -> a
set :: s -> b -> t

例を挙げることにしよう。今、2つの要素からなる簡単なレコードがあったとしよう。第1、第2番目のフィールドにアクセスする\(getter\)と\(setter\)は、例えば、次のように実現できる。

get_1 :: (a,b) -> a
get_1 (x,y) = x
set_1 :: (a,b) -> c -> (c,b)
set_1 (x,y) z = (z,y)
get_2 :: (a,b) -> b
get_2 (x,y) = y
set_2 :: (a,b) -> c -> (a,c)
set_2 (x,y) z = (x,z)

Lensにでは、\(setter\)と\(getter\)の合成関数が満たさなければならない条件を定めている。3個の条件があり、これをLensの3法則と呼ぶことにしよう。我々が定めた\( (set \_1,get \_1) \)の組に対して3法則を定めると以下のようになる( \( (set \_2,get \_2) \)の組に対しても同じ)。詳しくはパッケージLens参照。

set_1 s (get_1 s) = s
get_1 (set_1 s a) = a
set_1 (set_1 s a) b = set_1 s b

\(setter\)と\(getter\)の型シグネチャをまとめると、\(s \rightarrow (a, b \rightarrow t) \)になる。

ここまではHaskellでの記述であったが、圏論での記述に代えてみよう。ここでは話を簡単にするために、\(a\)と\(b\)は同じデータ型であるとし\(a\)で表すことにする。同様に、\(s\)と\(t\)も同じだとし、\(s\)で表すことにする。従って、\(s \rightarrow (a, b \rightarrow t) \)の代わりに\(s \rightarrow (a, a \rightarrow s) \)で考えることとする。

Haskellでの型変数\(s,a\)は、圏論での対象\(S,A\)として記述できる。これより、Haskellでの\(s \rightarrow (a, a \rightarrow s) \)は、圏論では\( \forall S \rightarrow (A, A \rightarrow S) \)となる。そして、\(S,A\)は圏\( \mathcal{C}\)の対象としよう。ここで射の合成が保存されるならば、自己関手\(F\)が存在する。


いま自己関手\(F\)が存在するものとしよう。関手\(F\)は、\(S\)を\(A \cup (S \times A) \)に写していると考えることができる(下図)。

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図4:データベースのレコード\(S\)に対する操作\(getter,setter\)を自己関手\(F\)を用いて、F-余代数へ写す

これから\(α:S \rightarrow A \cup S \times A=F (S) \)となり、F-余代数\( (S,α)\)が得られる。

それではこのF-余代数をHaskellで実現することを考えよう。

まず代数的データ型を定義しよう。

data Store a s = Store a (a -> s)

それではいま定義した代数型データ型\(Store \ a \ s\)を、ファンクタにしよう。\(s\)が\(Store \ a \ s\)となるので、ファンクタは\(Store \ a\)となる。またファンクとするためには射の合成が保存されるように\(fmap\)を定義する必要がある。これは以下のようになる。

instance Functor (Store a) where
  fmap g (Store a f) = Store a (g . f)

図で表すと以下のようになる。

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図5:データベースでの操作を表すための関手をHaskellでは\(Store\)で表すことにする

しかしこの図だけからは何とも分かりにくい。そこで、汎用性を失わないようにしながら、議論が平易に進められるようにするために、データベースは、二つのフィールド\(a,b\)からなる単純なものとし、これを\(s=(a,b)\)としよう(ここでは先ほど設けた制限を緩めて\(a\)と\(b\)の対象(データ型)は異なってもいいものとする)。そしてこれへの操作も最初のフィールドにアクセスする関数\(get \_1,set \_1\)だけとしよう。

このようにすると、上の図は次のように表すことができる。

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図6:データベースの操作との対応をより具体的に表現する

この図で、操作を施そうとしているレコードは\( (a,b)\)である。ここでは最初のフィールドに対して操作が施される。\(get \_1\)であれば、\(a\)が読みだされる。また、任意の\(x \in A\)が\(set \_1\)によって書き込まれると、新しい内容は\( (x,b)\)となる。図では任意の\(x\)なので、新しい状態を\( ( \_,b) \)とした。

データベースでのこのような操作(図の左側)を、関手(ここではファンクタ\(Store\ a\))で写したのが図の右側である。\(Store \ a \ ( λx \rightarrow (x,b))\)のうち\(a\)は\(get \_1\)の操作を\( ( λx \rightarrow (x,b))\)では\(set \_1\)の操作を表している。これを青色の小文字\( get \_1,set \_1 \)を明示した。カリー化を利用して、\(get \_1 : S \rightarrow A, get \_1 : S \rightarrow A \rightarrow S \)であることに注意して欲しい。

今までの説明は、\(set \_1\)を一回だけ施したものであったが、何回も繰り返した場合はどうなるだろうか。図で示すように\( (x,b)\)を\(Store \ x ( λy \rightarrow (y,b)) \)で置き換えればよい。同じように\( (y,b) \)を置き換えれば、\(set \_1\)を繰り返したときにファンクタ\(Store \ a\)に写された側を得ることができる。ここでもまた青色の小文字\( get \_1,set \_1 \)で明示し、写像された空間での操作が実際どのように表現されるかを明らかにした。

ここから分かることは、データベースへの繰り返しの操作は、これらに対する関数の合成として表されるということであり、オブジェクト指向的に表されるということである。このことについては、このあとより数学的に厳密に説明する。

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図7:データベースを複数回アクセスしたときの対応関係

代数的データ型で表されたファンクタはF-代数で表すことができた。もし、\(F(A) \rightarrow A\)であるならば、F-代数で表すことができる。しかしここでは\(A \rightarrow F(A) \)となっていて、矢印が反対向きだ。でもひるむことはない。双対関係にあるF-余代数を用いればよい。それは次のようになる。

type Coalgebra f a = a -> f a

coalge ::  Coalgebra (Store a) (a,b)
coalge (a,b) = Store (get_1 (a,b)) (set_1 (a,b)) 

5.3 コモナドでデータベースを定義する

それでは\(Store \ a\)を\(Comonad\)のインスタンスにしてみよう。コモナドは\(extract: W (A) \rightarrow A\)と\(duplicate:W (A) \rightarrow W (W (A)) \)を用意しなければならない。そこで、次のようにしよう。

class (Functor w) => Comonad w where
  extract :: w s -> s
  duplicate :: w s -> w (w s)

instance Comonad (Store a) where
  extract (Store a f) = f a
  duplicate (Store a f) = Store a ( \q -> Store q f)

少し使ってみよう。

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図8:自己関手\(Store\)をコモナドにして利用する

上図では次のことを行っている。現在のレコードの内容を\( (a,b)\)とする。このレコードへのアクセス( \(setter, getter\)による )を、ファンクタ\(Store \ a \)で写した空間で\(Store \ a \ ( λx \rightarrow (x,b))\)と表すことができる。これに\(extract\)を施すと、元の状態の\( (a,b)\)を得る。

\( (a,b)\)に対する2度の繰り返しのアクセスを、\(Store \ a \)に写像した空間では、\(duplicate \ Store \ a \ ( λx \rightarrow (x,b))\)となる。もちろんこれに\(extract\)を2回施すと、元の状態の\( (a,b)\)を得る。

ここまでの議論から、ファンクタ\(Store \ a\)から作られた余代数\(coalg\)は、コモナドの特殊な例であることが分かる。そして、下図の可換図式が成り立つとき、\(coalg\)はコモナド余代数(comonad coalgebra)と呼ばれる。

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図9:コモナド余代数となるための条件

可換図式をHaskellで表すと次のようになる。

extract.coalg = id 
fmap  (coalg) . coalg = duplicate . coalg

それではこの可換図式を用いて、\(Lens\)の3法則

set_1 s (get_1 s) = s
get_1 (set_1 s a) = a
set_1 (set_1 s a) b = set_1 s b

が成り立っていることを示そう。

最初の式より、

(extract.coalg)  s = s

を得る。
左辺を展開すると、

(extract . coalg)  s) 
= extract (Store (get_1  s) (set_1  s)) 
= set_1  s  (get_1  s)

となる。これが右辺と等しくなるので、

set_1  s  (get_1  s) = s

これで、3法則の最初が満たされていることが分かった。

2番目の式より

(fmap  (\s’ -> coalg  s’) . coalg)  s = (duplicate . coalg)  s

左辺を展開すると、

(fmap  (\s’ -> coalg  s’) . coalg)  s 
= fmap  (\s’ -> Store  (get_1  s’)  (set_1  s’))  Store  (get_1  s)  (set_1  s) 
= Store (get_1  s) ( (\s’ -> Store  (get_1  s’)  (set_1  s’)) . (set_1  s))

右辺を展開すると、

duplicate . coalg  s 
= Store  (get_1  s)  (\y -> Store  y  (set_1  s))

これより

((\s’ -> Store  (get_1  s’)  (set_1  s’)) . (set_1  s))

\y -> Store  y  (set_1  s)

が等しくなる。

そこで、\(y\)は任意の値に対して有効であるので、\(a1\)という値が入力されたとしよう。右辺の式は

((\s' -> Store (get_1 s’)  (set_1 s’)) . (set_1 s)) a1
= (\s' -> Store (get_1 s’)  (set_1 s’))  (set_1 s a)
= Store (get_1 (set_1 s a1)) (set_1 (set_1 s a1))

となり、左辺は

(\y -> Store  y  (set_1  s)) a1
= Store a1 (set_1 s)

となる。これより、それぞれの\(Store\)の項目同士が等しいことから

get_1 (set_1 s a1) = a1
set_1 (set_1 s a1) = set_1 s

が得られる。

これにより、\( (get \_1,set \_1)\)に対して、\(Lens\)の3法則が成り立っていることが示すことができた。ここでは\( (get \_1,set \_1)\)に限定して行ったが、汎用な\(getter,setter\)に対しても成り立つ。これについては次の記事で説明する。

ピーナッツかぼちゃの冷製ポタージュスープ

かぼちゃのポタージュスープの時期がやってきた。この料理がおいしいと感じるようになったのは、オーストラリアにいたころだと思う。戦時中、田舎に疎開していた母は、かぼちゃばかり食べていたせいもあって、かぼちゃは嫌いと言っていた。その影響をうけた子供の頃は、かぼちゃは何もない時に食べる野菜と思っていて、煮つけなどを食べても、おいしいと思うことはなかった。

その頃はごみ収集車もなかったので、家庭ごみは庭に捨てていた。春になると、前の年の種が残っていたのだろう。にゅきにょきとかぼちゃの芽が出て、あれよあれよというまに、庭中に茎が張り巡らされた。大輪の黄色い花を咲かせ、やがて立派なかぼちゃになったが、皮が堅いこともあって、そのまま庭に放置されてごろごろと転がっていた。これほど我が家では期待されていなかった。

オーストラリアのかぼちゃは、日本のそれと比べると甘みが少ない。むしろないといった方が良いくらいだ。オーストラリアの乾燥した風土ともあったのだろう。滞在中にいつの間にか、淡白なかぼちゃのスープを好んで食べるようになった。帰国して、日本でかぼちゃのスープを食したときは、甘すぎると感じた。そのこともあって、それ以降はすすんでかぼちゃのスープを注文することはなかったが、数年前に野菜売り場でピーナッツかぼちゃを見つけて、ポタージュスープを作ってからは、好みを変えた。

このかぼちゃは、見慣れた丸い姿ではなく、瓢箪のように下の方が膨らんでいる。バターのように滑らかで、ナッツのように甘いことからバターナッツかぼちゃとも呼ばれるが、店頭ではピーナッツかぼちゃとして売り出されている方が多いようだ。南アメリカ原産で、アメリカではポピュラーだそうだ。

ピーナッツかぼちゃは、日本の在来のかぼちゃと同じように甘みが強い。いや、もっと強いと思った方が良いだろう。初めてピーナッツかぼちゃをみたとき、そのかわいらしい形に惹かれて思わず購入し、店頭に紹介されたレシピに従って、スープを作ったところ、甘いにもかかわらずとても美味しいと感じた。この頃には、淡白なオーストラリアのかぼちゃスープの味を忘れてしまい、湿潤な気候にあった濃厚な味に嗜好が徐々に変わっていたことも一因だろうが、素直においしいと感じた。

これがきっかけとなり、ピーナッツかぼちゃを探しては、スープを作っている。今年も探し求めていたら、近くの農協の直売でたくさん売られているのを見つけた。今回はそれを用いての記事だが、実は一回失敗した後の、二回目の作品だ。スープにする時は、かぼちゃの実をペースト状にする必要があるが、一回目はフードプロセッサで試みた。残念ながら、粒々の状態になってしまい、食べたときの触感がいまいちだった。そこで今回はミキサーで砕いた。こちらからは見事に綺麗なペースト状のかぼちゃを得ることができた。

それではレシピを紹介しよう。野菜は主役のピーナッツかぼちゃと脇役の玉ねぎ、各一個だ。その他に、マギーブイヨン3個、水500cc、牛乳300cc、生クリーム、パセリだ。
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まず皮むき器でかぼちゃの表面の皮をむく。在来のかぼちゃと違って、皮は柔らかいので、簡単だが、手まで一緒にむかないように注意しよう。
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次に包丁で半分に切る。お店で見かける丸いかぼちゃだと、半分に切るときに手が滑って怪我をすることがあるが、ピーナッツかぼちゃは柔らかく、包丁が入りやすいので、怪我の心配は少ない。下部のふくらみがあったところに、種がある。
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スプーンで種を取り除く。前回、かぼちゃの皮を十分に取り除かなかったので、皮の繊維質が含まれてしまったことを思い出し、皮むき器でさらに丁寧に表面をむいて、黄色い部分が一様に現れるようにした。この段階で、かぼちゃは650gの重さだった。水や牛乳の量をこの重さで調整する。通常は、500gに対して、水400cc、牛乳200ccがよいと思う。今回は、水500cc、牛乳300ccにした。濃厚なスープを作りたいときはこれを減らすとよい。
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かぼちゃを一口大に切る。
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玉ねぎは薄切りに切る。
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水500ccでかぼちゃが柔らかくなるまで中火で煮る。
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粗熱を取った後、ミキサーでペースト状にする。
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牛乳300cc、マギーブイヨン3個を加えて中火で煮立てる。
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冷蔵庫で冷やして、夕飯に備える。
カップに移し、生クリームでアート作品を完成させた。
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パセリも加えて、食卓に供した。
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とても美味しかった。普段は水の量を少なくして濃厚なポタージュスープを作っているが、今回のはレストランで食するような濃さで、これもまた良かった。このスープは2日前につくったが、今日その残りを朝食に出したところ、もっと良い味になっていて、自賛だが、素晴らしかった。近いうちにまた農協に行ってピーナッツかぼちゃを仕入れてこようと思っている。

初秋の北海道:十勝・美瑛・富良野・小樽・札幌

先月の29日から3日間北海道を旅行した。同じ時期に、カリフォルニアの友人の知人夫婦が、北海道旅行をしているのだが、彼らは9日間。そのあとは広島に飛んで東京に向かってくるそうだ。1カ月にも及ぶ日本滞在をしたあと、ハワイでさらに休暇を過ごすとのこと。アメリカ人の旅行と比べると、日本人の旅行は短すぎ、旅行と言えるのかとさえ思うときがある。

今回もバス旅行。車を借りてドライブするのもよいのだが、観光地を散策したあとの運転は、疲れるし、居眠り運転をしかねないので、最近はのんびりと車窓からの景色を楽しむことに決め込んでいる。

羽田空港への航空手段は、かつては時間的な正確さもあって電車を利用していたが、空港バスの路線が増えて便利になり、必ず座れるという安堵感もあって、最近はもっぱらバスだ。29日は日曜日ということもあり、いつもは70分かかるのだが、わずか30分で到着した。空港でのんびりとコーヒーを楽しむことができた。

道路の交通量は少なかったにもかかわらず、空はとても混んでいたようで、飛行機の到着が遅れたため、30分遅れの出発となり、空港では思いがけず長い時間滞在する羽目になった。

無事に千歳に到着したが、前日の天気予報で北海道は晴れと聞いていたのに、小雨が降っていた。前回の北海道縄文の旅もずっと雨だったので、またかと意気消沈しながら、空港に降り立った。

この日は千歳から層雲峡へと向かったが、途中でNHKの朝ドラ「なつぞら」の舞台となった十勝を訪問。なんと300Kmの行程で、5時間近くのドライブ。飛行機が遅れたので、12時からのスタートとなったが、初日からせわしない旅となった。
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北海道も高速道路が伸びて、千歳から十勝までは高速道路。このようなインフラがないころに国道を使ってこの地域をドライブした経験があるが、そのときは日勝峠越えやくねくねと曲がった坂道などドライブを楽しむこともできたし、針葉樹林や落葉樹林に囲まれた自然を愛でることもでき、今でも楽しかった思い出が残っている。高速道路は速く運ぶという効率を優先しているため、移動中の楽しみは激減されてしまった。

道東自動車道に入ったころ、山々の木々が色づき始めていた。
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トマム。遠くに見える4つの高い建物は星野リゾート
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十勝平野が前方に開けてきた。
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最初の見学場所は、十勝牧場の白樺並木道だ。「なつぞら」でもロケに使われたとのこと。
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次は公共牧場の中では日本一広いと言われているナイタイ高原牧場だ。写真で見ると何ということはないのだが、ひたすら広い。
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この後は陽も落ちてしまった中を層雲峡のホテルへと向かった。

2日目は早朝に起きて、黒岳ロープウェイを利用して、黒岳5合目付近を見学した。高松台と呼ばれる展望台からの風景。紅葉がきれいだ。
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ロープウェイの中から。大雪山を構成する峰々が雲の間から顔をのぞかせた。
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朝食を取った後、この日も長い旅が始まった。全行程350Km、5時間半の車中だ。
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最初に訪れたのは銀河・流星の滝。この二つの滝は並んでいることから夫婦滝とも呼ばれている。

始めに現れたのは120mの銀河の滝。
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続いて90mの流星の滝。
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石狩川にそそぐ清流。
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滝の説明。
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バスの車窓からは柱状節理が右に左にと展開。柱状節理は、マグマが冷えて固まるときに、体積が縮まることにより、ハチの巣に似たひび割れが形成されてできた岩石の柱だ。ここの岩石は溶結凝灰岩だ。
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そして美瑛・富良野へと向かった。まずは青い池。この池は人工池で、1988年に噴火した十勝岳の堆積物による泥流被害を防ぐために、美瑛川に造られた堰堤の一つだ。近くの湧水が水酸化アルミニウムなどの白色系の微粒子を含んでおり、美瑛川の水と混ざることで、分散化され、コロイド状態になる。そして太陽光でコロイドが散乱されて、青い色の池となるという仕掛けだ。

高橋真澄さんが1998年に写真集『blueriver』を出版、2014年テレビ朝日『奇跡の地球物語』」で紹介され、青い池は有名になった。
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次の訪問地は四季彩の丘。カラフルな花のジュータンを引き詰めた広大な丘だ。前田真三さんの幻想的な写真集『丘の四季』で、美瑛と富良野はファンタジーな世界として、多くの人に認識されるようになった。どこも美しいのだが、その中でも最も彩のある光を放っているのは、四季彩の丘だろう。皆に愛されるラベンダーの時期ではなかったが、秋の花がなだらかな丘をきれいに覆っていた。
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このトラクターに引っ張られたトロッコに乗って見学した。
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次もお花畑のファーム富田だ。
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温室で咲くラベンダー。畑一面に咲いていたならば、どんなに綺麗なことだろうと思いを巡らした。
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ゼラニウムも温室で同居していた。
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そして今日の宿泊場所の登別温泉へと向かった。今回のツアーの参加者は、決められた集合時間よりも常に何分も前に集まるので、時間に余裕ができたということで、明日の見学場所である登別温泉の地獄谷を繰り上げて見学することになった。

幻想的な世界から阿修羅の世界へと踏み込んだ。
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3日目は小樽、札幌の散策。そして千歳からの帰路。全行程は230Km、三日間の中で一番短い。
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例によって小樽の運河。
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ナナカマドの実がきれいだ。
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小樽から銭函まで電車に乗った。
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海岸線ぎりぎりを列車は通り抜けていった。
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銭函駅だ。ご利益があるといいのだが、地名にちなんだ箱も置かれていた。
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札幌では時計台(旧札幌農学校演武場)を見学。
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時計台の中は資料館になっていて、札幌農学校の説明資料が備えられていた。札幌時計台ができたころのジオラマ
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“Boys be ambitious.”で有名なクラーク博士の像
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時計台内部の演武場。
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そしてテレビ塔
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これで今回の旅は終了した。一日の移動距離が長いということもあって、それぞれの場所での見学時間が少なかったのは残念だったが、北海道に到着した頃の小雨も、バスに乗っている頃には止み、そのあとは秋晴れの中、北海道の秋を満喫できた。
あと2週間ぐらい遅い時期に来ると、もっと紅葉はきれいだと思うが、良い時期に当たるかどうかは運しだいだ。晩秋には、東北縄文の旅をしようと思っているが、是非天候に恵まれて欲しいと願っている。

横浜ブランド:浜なし

殆どの方になじみがないと思われるのが、今日のデザートで食べた「浜なし」。

横浜市の特産なのだが市場に出回っていない。時々立ち寄るJA横浜でたまたま見つけた。

なしと言えば、かつては「二十世紀」、最近は「豊水」が有名だが、浜なしは品種名ではない。
横浜市で生産されたなしのブランド名だ。「幸水」でも「豊水」でも横浜で生産されたものであれば浜なしになりえる。

但し、ブランドは保持する必要があるので、生産者は横浜農協果樹部から認定を受けて、生産・販売をしている。
今回購入した「浜なし」にも、生産者名、電話・FAX番号、収穫日などが記入された紙が添付されていた。

完熟させて直売しているので、なるべく早く食べたほうがよい。
今日食べたのがこれ、
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糖度が高く、とてもみずみずしい。農協の野菜や果物は格安なのだが、「浜なし」は例外で、買うときに一瞬躊躇した。
ものは試しと購入したのだが、美味しいものがいただけてとてもラッキーだった。
再度、購入しようと思っている。

中世城郭跡:八王子市滝山城

北海道に縄文遺跡を見学に行ったときに、八王子から参加したという人から、滝山城の近くに住んでいて、よく訪れるという話を聴いた。

この城は築造された時期については諸説あるようだ。滝山城が戦場となったのは永禄12年(1569)だ。このとき武田信玄は2万の兵を率いて、甲府を出発し、北条氏政小田原城へと攻め上った。その途中で、氏政の弟氏照が守る滝山城において、武田と北条の間で攻防があり、北条側は2千と少ない兵でよく凌いだ。

天文23年(1554)に、北条氏康武田信玄今川義元の3者で、いわゆる甲相駿三国同盟が結ばれたが、上杉謙信との川中島の合戦が収束すると、武田信玄は、信濃から相模・駿河へと目を転じ、永禄11年には今川との同盟を破棄して駿河に攻め込み、次の年には同じように氏康との関係も断ち切って、関東に攻め込んだ。その時に攻められたのが滝山城だ。氏照はこの城が脆弱であることを知り、八王子城を築造することになった。

八王子城と同じように立派な駐車場があるものと思って出かけた。滝山街道の滝山城祉下というバス停の近くに、滝山城跡入口という大きな看板があったので、そこを曲がったところ、駐車場はありませんと注意書きがあった。後で分かったのだが、角にある滝山観光駐車場を利用してくださいとも書かれていた。残念ながら、見落としてしまったので、近くのお店でおにぎりを買い、少しの時間だけ置かしてもらって駆け足で見学した。

滝山城に入っていく道はいくつかあったが、バス停の滝山城祉下から入った。すぐに大きな看板があった。
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かつてはこの入り口は大手口と呼ばれていたそうだ。公園の中に入ると孟宗竹で鬱蒼としていた。
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さらに天野坂から桝形虎口(出入口)へと向かった。この辺りは攻め上る敵が脅威にさらされるところだ。
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そして小宮曲輪だ。道沿いにこのような道しるべが立てられているので、どこにいるのかがすぐにわかる。この名は、西多摩地域出身の小宮氏に因んだのではと言われている。曲輪には、土塁で囲われたいくつかの屋敷があったと思われている。
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さらに進むとコの字型土橋の案内があった。三の丸を通り抜けたあたりだ。
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千畳敷、広い公園になっている。
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二の丸、草が茂っていてわかりにくいがくぼ地になっている。恐らく空堀だ。
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中の丸だ。
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中の丸からは、眺望が開け、多摩川昭島市の市街地などを見ることができた。
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本丸への道は閉鎖されていた。このため紹介の中でよく出てくる木橋を見ることはできなかった。

八王子城と比較すると、平坦で散策しやすかったが、その分、山城としての機能は低かったのだろう。武田氏に攻められた後、八王子城を築造し、移転したというのもうなずけた。
この日は、気温は少し高かったが、全国的な秋晴れで、短い時間だったが楽しむことができた。

家族システムの変遷(III) ケーススタディー:律令制成立期における大伴氏

今年もまた古代の家族システムについて考えてみました。今回は大伴氏の家族システムだ。

大伴氏は神話にも登場するような有名な古代の氏族だ。壬申の乱(天智天皇崩御したあと、皇位継承者となった天智天皇の子大友皇子を、天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)が倒した内乱)で功績をあげた大伴氏は、そのあと朝廷の中心にあって活躍した。しかし孫の時代ごろになると新興の勢力が出始め、古い世代となり始めた功臣たちの子孫が邪魔な存在となった。第一の功労者であった高市皇子の孫である長屋王は、皇位を継承できるような高い身分であったため、長屋王の変(727)により、吉備内親王とその子供たちとともに自殺に追い込まれた。

敏達天皇の末裔である橘諸兄(葛城王)は、大友皇子から要請された九州からの軍兵の徴発を拒否した栗隈王の孫で、藤原四兄弟天然痘の流行で病死したあと、政権の頂点に立った。しかし新しい勢力側からの圧力を受け、謀反の疑いの嫌疑をかけられて職を辞する(756)。橘諸兄の子奈良麻呂は、新しい勢力を除こうとするが、計画が発覚し、長屋王の子供たち、大伴氏の多くの人たちが、死罪・流刑になった。

そのあとも、藤原仲麻呂暗殺計画、藤原仲麻呂の乱氷上川継の謀反、家持の死後には藤原種継暗殺事件と続き、万葉集の編者である大伴家持はこの事件の首謀者と見なされ、埋葬さえ許されなかった。平安京に移った後の大伴氏は伴氏に改名、応天門事件などによってさらに没落の一途をたどった。

新しい勢力は、藤原氏を中心とする勢力だ。大化の改新で、中大兄皇子に協力した藤原鎌足壬申の乱ではすでに没していたが、同族は大友皇子側に立ったので一掃された。藤原鎌足の子とされる不比等はその時13歳で処罰の対象から免れ、そのあと実力で這い上がり、右大臣にまで上り詰め、娘の宮子を文武天皇に嫁がせるほどの権勢を得た。彼の四人の子は政権の中枢に躍り出るが、先に述べた天然痘にかかり薨去した。いったん新しい勢力の力は衰えるが、藤原四兄弟の子供たちの中から藤原仲麻呂が頭角を現し、天皇家の後継問題が厳しさを迎えるころには、政権の中枢となるに及び、古い勢力の大友氏は強い圧力を受けた。

このような時代の大きなうねりの中で、大友氏は没落してゆき、その家族システムも大きな影響を受けた。律令制が導入されるまでの日本は、母方居住あるいは双処居住であった。律令制を導入し、平城京に都を遷したとき、貴族たちは都に宅地を班給された。これは男性たちの官位に基づいてのあてがいであり、同時に導入された蔭位制とともに、父方居住へと導くものであった。

婚姻での母系居住と、職務での父型居住の摩擦の中で、没落してゆく大伴氏が家族システムの中でどのような戦略をとったかを、大伴家持を中心にまとめたのが、以下の論文である。

北海道・縄文の旅(4日目)

北海道縄文の旅も4日目、そして最終日だ。さすがに4日間も一緒にいると、見ず知らずの人々の集まりであったツアー仲間たちの間でも会話の量が増えてきた。バスの中でも、遺跡で説明を受けているときでも、賑やかになり、軽口の一つもたたくような状況になった。今回のツアーに参加したのは夫婦2組、女性一人旅9人、男性一人旅5人だった。一人だけ30代で、残りは60歳を越えていた。やはり、縄文時代が大好きという人が多く、訪れた遺跡を紹介しあったりして、次の計画を立てるにあたっての情報を得ていた。席を和ませてくれたのは、やはり大阪のおばちゃん(おばあちゃん?)。最近、東京に引っ越してきたそうで、途切れることなく、色々な話を、流暢な大阪弁で語ってくれた。男の人と女の人、そして、東京に人と大阪の人とのコミュニケーション力の差を改めて認識する旅でもあった。

この日の予定は、箱館周辺の縄文遺跡と北方民族資料館の見学で、全行程は100km足らず。
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1.函館市縄文交流文化センター

最初に訪問したのは、中空土偶で有名な函館市縄文交流文化センターだ。センターの学芸員の方が見学路に沿って説明してくれた。最初は縄文時代の概略で、写真のパネルで説明してくれた。中央の青と赤の帯状の線は縄文時代の気温を表し、赤は暖かったことを、青は寒かったことを示している。学芸員の方にビジュアルで分かりやすい展示ですねと感想を述べたところ、多くの人からそのように言われ、喜んでいますとのことだった。
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その次の部屋には、縄文時代の土器や石器が所狭しと飾ってあった。説明を一生懸命に聞いたために、次の二つの写真しか取れなかった。一つは装飾品、もう一つは舟形土製品だ。
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さらに次の部屋には、亡くなった子供の足形を取ったのであろうか、足形付き土板があった。
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最後は、今回のツアーのハイライトである中空土偶だ。これは北海道唯一の国宝だ。昭和50年(1975)に、旧南茅部町の主婦がジャガイモ畑で農作業をしているときに、人形の焼き物を発見し、地元役場に相談した。その町の教育委員会が調査をし、出土した場所が縄文時代後期の墳墓群である可能性が高いことが判明した。現在、この地は著保内野遺跡(ちょぼないのいせき)と名付けられている。

昨年のトーハクでの縄文の展示で、国宝に指定されている他の土偶と一緒に飾られた。しかしその時は写真を撮影することがかなわなかったので、今回はいろいろな角度から撮影した。
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このセンターは世界文化遺産登録を目指している垣の島遺跡に隣接している。生憎と雨にかすんでいるが、センターから遺跡を望む場所での写真だ。
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2.大船遺跡埋蔵文化財展示館

次は大船遺跡埋蔵文化財展示館だ。垣の島遺跡、著保内野遺跡と同様に、平成16年(2004)までは南茅部という町に属していたが、合併により函館市となった。大船遺跡は、大船川左岸の標高45mを超える段丘上に造られた、縄文時代の前期後半(5,200年前)から中期(4,000)ごろまで、1,000年以上続いた大規模な集落の跡だ。100棟を超える竪穴建物跡、盛土遺構、100基以上の土坑墓群などが確認され、深さが2mを超える竪穴建物に特徴がある。たくさんの土器とともに、クジラやオットセイの骨とクリやクルミなどが出土している。

土砂降りの雨の中を、ツアー仲間と運の悪さを嘆きながら、ずぶぬれになりながら見て回った。
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深い穴の竪穴住居の復元だ。
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展示館の方はちょっと寂しく、パネルによる展示が主であった。それとは別に、発掘の様子を示したジオラマがあった。
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3.函館市北方民族資料館

函館駅近くの朝市で昼食をとったあと、函館市北方民族資料館に向かった。今回の旅の目的は縄文時代の遺跡を見ることであったが、実はこの資料館が一番面白かった。訪れる前はおまけぐらいに考えていたのだが、百聞は一見に如かずで、やはり見学してみるものだと思った。

特にツアーを主催してくれた案内人が、ここの資料館をとても気に入っているようで、とても懇切丁寧に説明してくれた。そのため写真を撮る時間がほとんどなかったが、限られた時間の中でのものが以下だ。

幕末から明治初期のアイヌ絵師の第一人者の平沢屏山が描いた「アイヌ風俗12カ月屏風」(復元)から、
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アイヌの人々の衣装だ。地域で幾何学的なパターンが異なる。
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アイヌの祭礼具であるイクパスイ:周りに存在する全ての神々に感謝と祈願をこめて、これにお酒をつけてふりかける。
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セイウチの牙に刻まれた狩猟風景。とてもきれいだ。
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アイヌの子供たちが遊んでいる様子を示した絵も。子供たちの様子が分かってとても良い。
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制裁棒であるストウ:喧嘩の決着をお互いの背中を殴り合うことでつけた。何とも痛そう。
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アイヌの人々を描いた掛け軸
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もう少し見学をしたかったが、列車に乗り遅れないようにと新函館北斗へと向かった。鼻の長い新幹線で東京へと向かった。
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今回の旅行で、北海道の縄文時代のことがよく理解できたので、同じ文化圏であった東北地方の縄文遺跡をなるべき早い時期に訪れようと決意して、車中の人となった。

北海道・縄文の旅(3日目)

北海道縄文の旅も3日目。札幌から函館へと向かう。縄文時代には津軽海洋文化圏の一翼を担った地域で、2年後の世界文化遺産登録を目指して張り切っている。初日のキウス周堤墓群、これから訪ねる北黄金貝塚、明日の大船遺跡と垣ノ島遺跡、それと今回は訪問しないが入江・高砂貝塚が、北海道側のメンバーだ。

津軽海洋文化圏は、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」に代表される現代人の固定観念とは、対立する考え方だ。本州と北海道の間に横たわる荒々しい津軽海峡は、両者を断絶するものと考えがちだが、縄文時代の人々は、そうではなく、人をつなぐ生活の場と考えていたようだ。この縄文の人たちの心を少しでも理解するために、津軽海洋文化圏の北海道側をとりあえず見ておこうというのが今回の旅の目的だ。

この日の行程は、札幌を朝7時半に立ち、途中で北黄金貝塚情報センター、史跡ピリカ遺跡、五稜郭・函館奉行所を経て、7時にホテルに到着だ。移動距離は350km、車の中で過ごすことが長い一日だ。
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この日は、二つの低気圧が渡島半島を挟み、天気予報は雨だった。バスに乗っている間は雨が降ることは殆どなかったが、遺跡を見学しているときはなぜか土砂降りの雨に見舞われた。案内をしてくれた方が、この地域は、海に挟まれているため、天気の変化が激しくなりがちだとのことだった。さらに遺跡となるような場所は、水が得やすいところが選ばれる傾向にあるので、どうしても湿潤なところになるとも教えてくれた。

1.北黄金貝塚情報センター

ここは情報センターと遺跡とが一緒になっている。まずは遺跡の見学から始まった。今回の説明は情報センターのボランティアさんがしてくれた。彼は、土砂降りの雨の中を傘もささずに、我々が待っている貝塚(もちろん復元されたもの)に向かって、草が刈りこまれた道を進んできた。
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彼の説明によれば、北黄金貝塚は、縄文時代前期(約6,000~5,000年前)に人々が定住した、台地上の貝塚と低地の水場遺構を中心とした集落遺跡だそうだ。指定面積は9ha弱で、貝塚、住居跡、墓、鹿用落とし穴、盛土遺構、水場の祭祀場が発見された。

貝塚は2か所あり、説明を聞いた場所の貝塚(下の写真で白い部分)からは、縄文人の墓と、14体の人骨が発見された。
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もう一つの貝塚(下の写真で奥の方に小さく見える白い場所)は一番古いもので、貝の種類から今よりも温暖だったことが分かっているとのことだった。
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貝塚から少し低いところに復元された集落がある。
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さらに下ると水場があり、ここは祭祀場の跡だ。使わなくなった道具を割って、供養したとのことだった。
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情報センターには遺物が飾られてあった。磨石と石皿が中央部にたくさん飾られていた。磨石は掴みやすいように頭部が丸みを帯びているのが特徴だった。先の水場で見たのは、これらの石を割ったものだ。
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館内には次のようなものも展示されていた。貝塚の断面、
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発見された人骨(復元)。
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骨で作られた装飾品も飾られていた。クジラの骨でできた刀、
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ヘアーピン、
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ネックレスだ。
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土偶もあった。
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昼食は長万部駅近くのお寿司屋さん。この駅は、函館本線室蘭本線の分岐点だ。かつてはにぎわっていたと記憶をしていたが、すっかりさびれていた。この近辺には、我々が利用したお寿司屋さん以外には、団体で利用できるようなところがなく、ここがなくなると大変だと添乗員の方が話してくれた。
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2.史跡ピリカ遺跡

お昼後の見学場所は旧石器時代のピリカ遺跡だ。ここも遺跡跡と文化館が一緒になっていた。写真は遺跡跡だが、土砂降りの雨で、入っていく気にはなれず、遠目に見るだけだ。
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ピリカはアイヌ語で「美しい」を意味する。最近では「ゆめぴりか」というお米が有名なので、馴染みやすい。

この遺跡は、20,000~10,000年前のもの。ピリカベツ川左岸のなだらかな20haの丘陵地帯で、20万点もの石器が発見されている。
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発掘時の復元だ。
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館内には旧石器時代の道具が展示されていた。
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北海道・東北でのナイフ形石器を出土した遺跡、
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大陸を含めてのくさび型細石刃核を出土した遺跡だ。
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3.五稜郭箱館奉行所

3日目の最後の見学場所は箱館奉行所だ。幕末の安政元年(1854)の日米和親条約により下田とともに箱館も開港され、箱館山麓箱館奉行所が設置された。しかし港湾に近く防備上不利であることから、内陸部の亀田に移設することになった。

新しい奉行所の外堀には、ヨーロッパの城郭都市を参考に、西洋式の星型五角形の形状の土塁が築かれた。その形から五稜郭と呼ばれている。五稜郭のような星形要塞は、火砲に対応するために、15世紀半ばにイタリアで発生したとされている。17世紀後半には、フランスのルイ14世の技術顧問であった建築家ヴォーバンによって、論理的に究極の形にまで発展させられた。しかし射程距離の長い大砲が導入されるようになると、星形要塞は衰退しはじめた。五稜郭が造られたのは、19世紀もすでに半ばになっていたので、ヨーロッパではすでに時代遅れとなっている技術を用いて建築されたということになる。

五稜郭は、安政4年(1857)より7年の歳月をかけて完成し、蝦夷地の統治と開拓、箱館港での外国との交渉など、幕府北方政策の拠点として使われた。文久3年(1863)の大政奉還により、明治政府の役所として引き渡されたが、明治元年(1968)榎本武揚土方歳三らに占拠され、戊辰戦争最後の箱館戦争の舞台となった。明治4年(1871)に開拓使により奉行所を含むほとんどの建物は解体された。そののちは公園として利用されていたが、平成22年(2010)に箱館奉行所は再現された。

奉行所を正面から見たところ、
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内部にある大広間、
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大広間の床の間、
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五稜郭の入り口、
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五稜郭を上から見る。
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この日のホテルは温泉付き。ここまでの疲れを取り、この旅行の最後の日に備えた。

北海道・縄文の旅(2日目)

2日目はパワースポット巡り。積丹半島の付け根にある余市・小樽近くのフゴッペ洞窟、西崎山環状列石、忍路環状列石、手宮洞窟保存館、小樽貴賓館、小樽運河を見学する全行程120Kmの旅だ。1日で移動するのにちょうどよい距離だろう。
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8月の初めごろ、カリフォルニアの友人から、彼の知人夫妻が日本を旅行するので、相談にのって欲しいという依頼があった。そのご夫婦の方から、今回の旅行を始めるちょうど1週間前に、簡単な日程が送られてきた。北海道からスタートして、そのあと広島に飛び、東京に戻ってくる予定で、1カ月にも及ぶ長い旅行だ。さらにそのあと、ハワイに寄って何日間かを過ごし、やっとカリフォルニアに戻るというものだ。アメリカ人は体力に恵まれていることは知っていたけれども、これほどとは思わなかった。

私も北海道に旅行する予定であることを伝え、彼らの要望に合うように、日本歴史の時代区分に従って、それぞれがどのような時代だったかを簡単に説明し、見るべき場所・建物・遺跡などを教えてあげた。想像した通りこれは好評だった。またレンタカーを使って移動するいうことだったので、日本は右ハンドルで、交通標識も英語表示にはなっていないので、十分気をつけるようにということと、1日の移動距離は100~150マイルぐらいに抑えた方が良いというアドバイスを差し上げた。この点はあまり理解されなかったようで、英国やニュージーランドで、右ハンドルで運転したから大丈夫と言う返事を頂いた。ちなみに彼らはともに72歳。このところ話題になっている老人ドライバーに仲間入りする年齢だ。やはり心配ですね。

話はそれたが、今日の行程はアドバイスした距離よりは短いので、移動中は安心してドライバーさんに身を任せた。

1.フゴッペ洞窟

最初の目的地は今市町にあるフゴッペ洞窟。高速道路を利用して、札幌から1時間弱の距離だ。かつてNHKの朝ドラ「マッサン」が好評を博したが、マッサンがウィスキーの醸造を始めたのが余市だ。放映されていたころは、醸造を訪れる観光客で引きも切らないほどの賑わいだったが、今でも続いているのだろうか。

フゴッペ洞窟を発見したのは、当時中学生だった大塚誠之助さん。昭和25年に海水浴に来た彼は、ここで土器片を発見した。札幌南高校で郷土研究会に属していた兄に相談したところ、思わぬ展開になって、翌年より北大助教授の名取さんを中心とした調査団が活動し、刻画が発見された。刻画は続縄文時代後期に描かれた北海道独特の文化だ。

洞窟は暗くて見にくいので、原寸大模型になって刻画とともに別室で展示されていた。
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刻画がはっきりと表れるように一部分を拡大してみよう。人だろうか鳥だろうか、生き物が描かれているように見える。
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本物の洞窟は別室の奥にあり、薄暗い中で、刻画を見ることができる。但し撮影は禁止。
洞窟からは江別郷土資料館で見たのと同じ江別式土器(後期北海道式薄手縄文土器)も出土している。この土器は続縄文時代の土器だ。
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刻画を描くために使われたであろう角斧(左下)、占いのための鹿骨の卜骨(右)などもあった。これらも続縄文時代だ。
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擦文時代の太刀も展示されていた。
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2.西崎山環状列石

西崎山環状列石は今市町にあり、その構造や発見された土器から、縄文時代後期(約3,500年前)の墓域と推定されている。この丘陵には4つの列石群が発見されている。今回見学したのはそのうちの一つの列石群だ。ここには、現在7つの環状列石が残っており、それぞれは直径約1mの環状になるように自然石を配置している。かつてはもっと存在したようだ。
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墓域から眺める景色は素晴らしい。日本海を望むことができる。千島海流対馬海流がぶつかり合い、豊かな漁場が展開されている場所だ。
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3.忍路環状列石

忍路環状列石は小樽市にあり、やはり縄文時代後期の墓域だ。万延元年(1861)に発見され、1880年代に札幌農学校の田内捨六によって発掘調査され、明治19年(1886)には渡瀬荘三郎によって、大西洋岸で発見されたストーン・サークルに因んで、「環状石離」と命名された。そのあと配列の一部が持ち出されたり、大正11年(1922)の皇太子行啓に備えて修復されたりしたため、原形をとどめていない。写真からも分かるように環状の中の石が極めて少ない。遺跡の保存の仕方の移り変わりを教えてくれる遺跡でもある。
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4.手宮洞窟保存館

手宮洞窟は、慶応2年(1866)小田原からニシンの番屋建設に来ていた石工の長兵衛によって発見された。明治11(1878)年榎本武揚によって彫刻が学界に紹介された。さらにミルンによってはじめて学術的な観察と報告がなされ、開拓使の渡瀬荘三郎などによってつぎつぎと調査がなされた。

そのあと前面の岩が削られたり、鉄道が敷設されたりしたため、当初の姿を徐々に失ったが、明治の中頃から雨除けの廂が設けられたりして保存され、大正10年(1921)には国指定史跡となり、そのあとも整備が続けられ、現在に至っている。ここも文化財の保存の仕方の歴史を知ることができる施設だ。

なお刻画は、1600年前頃の続縄文時代中期~後期に描かれている。
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風化が進んでいて、目を凝らさないと刻画を見つけるのが困難だ。下の写真のような刻画が描かれていたそうだ。
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4.小樽貴賓館

今日の昼食は旧青山別邸だ。ニシン御殿小樽貴賓館とも呼ばれている。

旧青山別邸は、ニシン業で巨万の富を築いた青山家の3代目政恵によって建てられた別荘だ。初代の青山留吉は、天保7年(1836)に山形県遊佐町の貧しい漁家に生まれ、幼少の頃は父の漁業や母の行商を手伝っていた。18歳のとき養子に出されたが、旧習に馴染めず、家に戻ったあと、24歳の時に北海道の漁場に渡った。

最初は雇漁夫として働いたが、1年後に小規模ながら祝津(小樽)に漁場を開いた。そして明治期に積丹半島に漁場を増やし、道内有数の漁業家になった。故郷遊佐で、土地を入手し、本宅を建築し、大地主となった。明治41年(1908年)留吉が73歳の時に、養子の政吉に家業を譲った。

留吉の故郷である旧庄内藩(山形県)には、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに」と言われるほど、北前船で財を成した本間家があった。本間家は並外れた豪商で、酒田を本拠としていた。

留吉と政吉とによって巨万の富を得た青山家を継いだ3代目の政恵(政吉の娘)は、17歳の時に酒田の本間邸に魅せられそしてこれに負けないような邸を自ら持ちたいと思い、大正6年(1917)より6年の歳月をかけて旧青山別邸を小樽の祝津に建てた。

旧青山別邸で昼食したあと、ここを見学した。とても贅沢な造りだという一言に尽きるが、残念ながら、写真の撮影は大広間だけだ。別邸の入り口、
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大広間、
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大広間の天井だ。
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5.小樽運河

小樽は自由時間だったので、歴史的建造物を訪れた。今日の小樽市は観光地として有名だが、かつては北海道の中心的な存在で、港湾都市として栄え、日銀通りに沿って、日本銀行をはじめとする主要な銀行が支店を出し、北のウォール街と呼ばれるほど活況を呈していた。その名残を伝えてくれるのが古い建物だ。

次の2つは小樽市指定有形文化財になっている建物だ。

日本銀行旧小樽支店 建設年次は明治45年(1912):明治26年(1893)に日本銀行の派出所が初めて開設。そのあと出張所を経て支店に昇格。 平成14年(2002)に廃止。レンガ作りの壁にモルタルを塗り、屋根は銅葺き。辰野金吾・長野宇平次・岡田信一郎の設計。東京駅に代表される「辰野式」とは異なり、岡田の意匠によるところが多いとされている。
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三井銀行小樽支店 建設年次は昭和2年(1927):三井銀行は明治13年(1880)に小樽出張店を開設。平成14年(2002)年に閉鎖。現在の建物は6代目。工部大学校一期生である曽禰達蔵設立の曽禰中條建設設計事務所が設計。ルネサンス様式の建造物。小樽で初めての鉄骨鉄筋コンクリート
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ここからは小樽市指定歴史的建造物になっている建物だ。

旧金子元三郎商店 建設年次は明治20年(1887):明治・大正期に海陸物産、肥料販売、海運業。建物の両端にうだつ(防火壁)。2階正面の窓は漆喰塗りの開き窓。
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正面の建物ではなく、右側の建物が旧第百十三国立銀行小樽支店  建設年次は明治28年(1895) :小樽支店として使用。業務拡大に伴い北寄りに移転。そのあと木材貿易商事務所や製茶会社建物として使用。寄棟の瓦屋根にトンガリ飾りの和洋折衷。明治の面影をよく伝える。
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旧岩永時計店 建設年次は明治30年代(1897):平成3年に改修され、創建時の姿に。屋根の装飾、軒の繰り型など細部にも凝ったデザイン。瓦葺屋根を飾る一対の鯱は商店では珍しい装飾。
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旧名取高三郎商店 建設年次は明治39年(1906):山梨出身の銅鉄金物商。明治37年の大火後に建設。西側と南側に開いた形でうだつ。外壁は札幌軟石、上部壁体を鉄柱で支持。明治後期の代表的商業建設。
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旧百十三銀行小樽支店 建設年次は明治41年(1908):支店の設置は明治26年。当初の建物は南寄りにあったが、業務の拡大に応じてここに建設。寄棟、瓦屋根、角地に玄関で、ギリシャ建築を思わせる。
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右から3番目の茶色の古めかしい建物が旧北海雑穀株式会社 建設年次は明治42年(1909)以前:木骨石造構造、瓦葺の切妻屋根、開口部に鉄扉。正面両脇に袖壁。2階に竿縁天井や床の間があり、和室の面影。彫刻模様付きのカーテンボックスや上げ下げの窓。和洋折衷。
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三菱銀行小樽支店 建設年次は大正11年(1922):当初は外壁に煉瓦色のタイルだったが、昭和12年に現在の色調に。1階はギリシャ・ローマ建築様式。
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北海道拓殖銀行小樽支店 建設年次は大正12年(1923):小樽経済絶頂期に建設。銀行ホールは2階まで吹き抜け。6本の古典的円柱。
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旧第一銀行 小樽支店 建設年次は大正13年(1924):当初は道路側の2面に3階通しの大円柱があった。
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三井物産小樽支店 建設年次は昭和12年(1937):玄関・1階の壁の黒御影石と、2階以上の白色タイルとでコントラスト。玄関ホールの内装は琉球産大理石。
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この後は札幌に向かい、明日に備えて早めに床に就いた。

北海道・縄文の旅(1日目)

歴史の勉強を始めてすぐに、北海道の歴史は、本州、特に畿内を中心としたそれとはずいぶん異なる、ということを知った。知っただけでなく興味を持つようにもなった。そのきっかけを与えてくれたのは、ある会合で、北海道の小中学校で副読本として利用されている『アイヌ民族:歴史と現在』を頂いたことだ。副読本を読むことで、アイヌの人々が身近に感じられるようになり、さらに瀬川拓郎さんの『アイヌの世界』で、独自の文化が形成されたことを知った。そこで北海道の歴史に一度触れてみたいと思っていたところ、ある旅行会社が北海道の縄文時代の遺跡を中心にしたツアーを企画しているというのを知り、今回それに参加した。

国内ツアーの多くは、2泊3日だが、このツアーは3泊4日だ。添乗員さんは当然のこと、案内人付きという、どちらかというと、オタク系のツアーだ。参加者は、このような人ばかりと想像して、二の足を踏まないでもなかった。しかし歴史の勉強を始めてから4年目となり、かなりの知識をため込んだので、話題についていけるだろうと思って意を決した。

初日の見学場所は千歳から札幌に沿っての縄文遺跡で、キウス周堤墓群、恵庭市郷土資料館、江別市郷土資料館、江別古墳群の4か所で、全行程70km超だ。
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1.キウス周堤墓群

古い教科書を見ると、縄文時代は平等な社会だったと書かれている。しかしあるシンポジウムで国立歴史民族博物館教授の山田康弘さんから次のような話を伺った。かつては山田さん自身もそのように考えていたそうだが、他の縄文時代遺跡とは比較にならないような大規模な構造物の周堤墓に出会い、階層社会が始まったと考えるようになったと話してくれた。それがこれから行くキウス周堤墓群だ。

入り口にはパンフレットが置かれていたが、日本語のパンフレットはツアー参加者全員分には足りなかったので、英語のパンフレットをもらった。このパンフレットによれば、造られたのは3,200年前の縄文時代後期後葉、8基の周堤墓が発見されている。その中で、大きいのは1,2,4号周堤墓で、その外周の直径はいずれも75m、内周のそれは39m、32m、45mだ。外周と内周の間には堤がある。内周の内部は掘られていて、その深さは2m、5.4m、2.6m、掘った土を積んで堤にしたのだろう。

このうち1、2号周堤墓を見た。2,4号周堤墓は道路によって切削されているので、完全な姿で見ることができるのは1号周堤墓だ。この周堤墓の中心付近では5基の墓穴が発見された。

1号周堤墓
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2号周堤墓。道路が横切っていて、古代の墓の中を現代のトラックが走り抜ける。この周堤墓からは楕円形の墓穴が1基みつかり、8個の石によって囲まれているそうだ。
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山田さんが大規模だと言っていたので、その言葉を過度に受けてしまい、実際に周堤墓を見たときは正直がっかりした。期待していたよりはずっと小さかった。1号周堤墓の写真は、堤の上から中心部に向かって撮影した。堤が周りを囲んでいるのが見え、中心部がくぼんでいるのが分かる。樹木が生えているため、墓は林の一部になっている。自然の中に溶け込んでいるので、それほど大きく感じられない。それにもまして、自然の中に溶け込んでいる周堤墓群を良くも発見したものだと、発見者に感謝を申し上げたい。

山田康弘さんの『縄文時代の歴史』には、千歳市教育委員会が行った2号周溝墓の土砂移動量の計算が紹介されている。それによれば2,780~3,380平米だ。1人の成人男子が1日8平米運んだとして、432日かかるそうだ。これに穴を掘る作業も加えれば、大変な土木工事になる。このように具体的に数値が示されると、この遺跡の偉大さを実感できる。

土坑墓は周堤墓の中心だけでなく、堤の上、周堤墓の外にも造られた。また中心の墓は多くの装身具・副葬品を伴っていた。このため何処に埋められるかの区分がなされていたのではないか、即ち社会的階層があった、というのが山田康弘さんの意見だ。

2.恵庭市郷土資料館

次に向かったのは恵庭市郷土資料館だ。カリンバ遺跡から発掘された出土品を展示している博物館だ。カリンバ遺跡は、恵庭駅の北方800mのところにある。
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1999年の道路工事に伴う発掘調査によって発見され、近くにはカリンバ川(カリンバは「桜の木の皮」というアイヌ語)が流れ、川沿いの低地面と、2~3mほど高い丘陵面を利用して人々が生活した、縄文時代から近世アイヌ文化期にかけての遺跡だ。縄文時代後期末から晩期はじめ(3,000年前)の土坑墓が36基見つかり、内4基は直径が1.6~2.5mの合葬墓で、残りの32基が単葬墓だ。

低地面は生活の場であったようで、貯蔵穴・建物跡・炉跡が残されていた。また段丘面からは縄文時代から近世に至る各時代の竪穴住居跡・土坑墓・建物跡・炉跡など、多数の遺構が残されていた。

これらの遺構は、発掘調査が終了したあと、埋め戻され、カリンバ自然公園となっている。

4基の合葬墓の内の3基からは、埋葬された人が身に付けていた漆塗りの櫛・腕輪・腰飾り帯などたくさんの漆塗り装身具が見つかった。副葬品は合わせて397点で、先に述べた漆塗り装身具の他に、玉、土器、サメ歯で、これらは重要文化財に指定されている。

次の写真は118号土坑墓を復元したものだ。この土坑墓から漆製品やサメの歯などが発見された。
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土坑墓に埋葬された人たちの様子を示したのが、下の写真だ。この土坑墓には4人が屈折された状態で埋められていたと考えられている。説明してくださった学芸員の方によれば、4人はいずれも女性で、残されている副葬品などの具合から一緒に埋められたようで、祭祀を司る女性が亡くなったとき、殉葬されたのではないかと教えてくれた。もしこれが正しいとすれば、単葬墓からは副葬品が発見されないことを配慮すると、この時代には社会的な格差が存在したと考えてよいだろう。キウス周堤墓群から200年ほどたっているので、さらに目に見える形で表れたのだろう。
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カリンバ遺跡からの出土品も展示されていた。漆製品は劣化を防ぐために、年に一度だけ公開され、残りの期間はその複製品だ。


118号土坑墓からだ。
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同じく118号土坑墓の出土品(複製品)だ。
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同じ土坑墓からの土器だ。
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118号土坑墓(左下)と他の土坑墓から発掘された首飾りだ。
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3.江別市郷土資料館

次の訪問場所は、江別市郷土資料館だ。女性職員の方が説明をしてくれた。

江別市は、石狩川(地図の上部)と原生林(地図の下部、現在は野幌森林公園になっている)とに挟まれた平野部に展開した街だ。明治11年(1878)に屯田兵が入地し、開拓が本格的にスタートした。
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屯田兵制度は失業士族の救済と、ロシアに対する国防の要地としての北海道内陸部の開拓という課題を解決するために設定された制度で、最初の屯田兵は明治8年(1875)に札幌の琴似に、次の年に札幌の山鼻に入っている。明治10年西南戦争があったために中断され、次の年には江別に入地した。入地した場所は、この後に敷設された函館本線の西側で、岩手県から10戸56名を迎えた。地図で右端が最初に入地した人々の場所だ。12戸なのは分家により2戸増えたため。
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当初は碁盤の目のように区画されたが、明治15年に鉄道が開通し、それ以降は鉄道に並行になるように区画されたため、平行四辺形になった。

屯田兵には耕宅地として4,000坪(1町=3000坪=約1ha)が与えられ、3年後に成功しているならばさらに10,000坪が加えられた。また、移住後の3年間は扶助米と塩菜料が与えられた。米の量は1人当たり1日7合(当時の人は5合食べたので、2合余るが、これは必要品の購入や将来の蓄えに使われただろう)。屯田兵としての軍事訓練が午前中に行われ、耕宅地の開拓は午後からであった。原始林や熊笹で覆われた土地の開墾は、妻子に大きな負担を強いたことだろう。

江別には屯田兵に先立って入植してきた人々が存在する。明治8年(1875)にロシアとの千島樺太交換条約によって、千島列島を日本に、樺太全域をロシア領にすることが決まった。このため樺太に住むアイヌ人は、樺太に居住する場合にはロシア国籍に、日本国籍を選択する場合には日本へ移住することとなった。日本へ移住することになったアイヌの人々841人は、農業に従事させようとする開拓使(政府)の思惑もあって、宗谷を経て、対雁(ついしかり、江別)に移住させられた。開拓使は彼らに戸地を与え、学校や製鋼所を作って定住を試みたが、漁業を生業としていた彼らは営農に馴染むことができず、遺民漁場場が設けられた来札(石狩)などに移り住むようになった。そして追い打ちをかけるように、コレラ天然痘などの疫病にかかり多くの人が命を落すという悲劇にも見舞われた。明治19年ごろには生存者の大半は来札に移り住んでいた。その後、日露戦争の勝利によって南樺太が日本領になると、彼ら336人は故郷樺太に戻っていった。

しかし江別の歴史はこれらの人々が開始したわけではなく、太古の昔に始まった。縄文時代草創期(13,000~10,000前)の土器が大麻1遺跡から、早期(9,000~7,000前) の土器が大麻15・坊主山・吉井の沢1遺跡などで、また竪穴住居跡が大麻6遺跡などで発見されている。

北海道の時代区分は、稲作文化が伝わらなかったことから、縄文時代のあとは、続縄文時代(紀元前3世紀~紀元後7世紀)、擦文時代(7~13世紀)となっている。江別市の主要な遺跡は、江別太遺跡、坊主山遺跡、高砂遺跡、旧豊平河畔遺跡、元江別遺跡、大麻遺跡、萩ヶ岡遺跡 、江別古遺跡などである。

これらの遺跡から出土した土器は、2階の展示室に、時代を追いながら、所狭しと飾られていた。

縄文時代早期から前期(6,000~5,000前)
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縄文時代中期(5,000~4,000前)
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縄文時代中期
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縄文時代後期(4,000~3,000前)
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縄文時代晩期(3,000~2,300前)
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縄文時代
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縄文時代
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擦文時代
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このようにたくさんの土器が展示されている中で、注目したいのは続縄文時代の江別式土器と呼ばれているものだ。アイヌ文様の原形ではと思わせるような文様が描かれていた。
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木製品が残されているのも特徴だ。木製ナイフ(続縄文時代)だ。
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琥珀白玉(続縄文時代)
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時代は遡るが土偶(縄文時代晩期)もある。果たして何を表しているのだろう。熊という人も多い。
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4.江別古墳群

初日の最後の見学場所は江別古墳群だ。最も北に位置する古墳として知られている。江別市郷土資料館にジオラマが飾られていた。
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雨の中、藪をかき分け古墳群についたが、草が生い茂っていて、ただの野原にしか見えない。古墳の一つと言われたのが、イタドリの群生に占拠されているこの写真の場所。激しい雨でびしょ濡れになったが、その甲斐もなかった。
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靴の中もぐしょぐしょになり、寒さも感じる中、札幌市内のホテルへと向かった。到着したときはほっとした気分になった。

メジナの丸ごとホイル焼き

行きつけのアピタの魚売り場は、切り身魚が主流だが、ときどき丸ごとの魚を売っている。この日(10日)もタイでもないだろうかと物色していると、魚屋さんではあまり見かけないメジナが一匹だけ陳列されていた。料理法は、刺身に始まって煮魚まで、バラエティーに富んでいるが、あまり手間暇をかけたくなかったので、ホイル焼きにした。ここのお店は調理をしてくれるので、内臓とうろこを取り除いてもらった。

料理の材料はいたって少なく、主役のメジナと味付け用のオリーブオイルとハーブ塩だ。
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上の面に包丁で切れ目を入れた。
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さらにハーブ塩を両方の面にまぶした。
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オーブン皿にホイルを拡げ、その上にオリーブオイルをのせた。
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その上にメジナをのせる。
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上からもオリーブオイルをかけた。下とあわせて大さじ一杯程度。
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頭と尻尾に飾り塩。
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ホイルで包む。
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オーブンを230度にして25分間焼く。焼きあがったら、そのまま10分間分蒸らして、余熱で深部を焼く。
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この日はサラダも一緒に造り、手元にあったオーストラリア産の白ワインと、パリッとした触感のフランスパンとともに、真夏最中の夕飯で、さっぱり味の白身魚を楽しむことができた。

Maker Faireで「からくり計算器」を見学

長かった梅雨がやっと明けた東京は、これまた異常ともいえる暑い日がずっと続いている。Maker Faire に行きませんかと誘われたのは、曇り空がずっと続いた鬱陶しい梅雨のときだった。暑いころの出かけになると思ったが、これほどの暑さの中とは、不覚にも、予想していなかった。

朝の9時まえにもかかわらず、暑い夏の日差しの中、木陰を選びながら家から最寄り駅に向かったものの、熱した歩道から反射してくる容赦のない熱気を嫌というほど浴びた。限界が頂点に達していたので、人の暑さを感じるような電車に乗るのは耐えられないと思ったが、幸いなことに、日曜日の電車はそれほど混んでいなかった。催し物の会場である国際展示場駅まで、2回乗り換えをしたものの、ずっと座っていくことができ、涼をとることができた。

途中で利用した東急電鉄大井町線では「キューシート」と呼ばれる珍しい車両に乗り込んだ。この電車は座席の方向が変えられるようになっている。前向きに座れるクロスシートと横長のロングシートだ。私鉄各線では快適な通勤に力を入れているが、これもその取り組みの一つだ。平日夜にはこの電車はクロスシートで全席指定となる。それ以外の時間帯はロングシートだが、通常の電車と比べると、格段に座り心地がよい。

都内の電車は、ドアとドアの間に設けられた座席は7人掛けが普通だが、若い人たちの体格がよくなったこともあり、最近は窮屈に感じることが多い。しかしキューシートは、2人掛けの座席が3個横に並ぶため、座席一つ分広い。3組のアベックが丁度良いプライバシーを保ちながら座っているような感覚になれる。

このようなこともあって、電車に乗っている時間は楽しむことができたが、会場の最寄り駅の国際展示場駅を出ると、空は雲一つなく、太陽がぎらぎらと輝いていた。目的地の東京ビッグサイトまでは徒歩7分なのだが、灼熱の中の行軍だ。唯一の救いは、屋根のついた歩道だ。干上がってしまうことは避けられそうだ。屋根の両端からシャワーが流れていればとても快適になれると希望したのだが、果たされない夢だった。

もう歩きたくないと思い始めたころ、東京ビッグサイトにたどり着いた。
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入り口には、Maker Faireの大きな看板もあった。主催者はIT関連出版社のオライリー・ジャパンだ。日本最大の工作物の展示会、それも自作だ。このフェアーへの出店は、個人あるいは企業からの申込制で、主催者の選考によって決定されたそうだ。物品を販売しない個人出展者の場合は、出展料金はかからない。展示スペースはそれほど広くなく、多くの出展は2m四方。大きい場合でも4m四方だ。さしずめ学園祭の延長というところだ。
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開始時間を少し過ぎたころに会場に到着したが、会場の入り口付近は、夏休みということもあって、子供連れの入場者でにぎわっていた。我々は出品者用の札を頂いていたので、それを示し、同行者(今回誘ってくれた方)の甥御さんの展示場所へと進んだ。

そこはなかなか盛況で、二重、三重に人が集まっていた。人の間から展示の様子を見ると、少し大きめの机の上で『からくり計算器』のデモが行われていた。歯車やクランクを組み合わせて、2進数の基本演算を行ってくれる。素材は木だ。どのような利用法があるのだろうと考えていると、テレパシーで通じたのだろうか、見学者の一人の方が「おきもの」に良いですねと言った。これを用いて計算する機会は少ないだろうから、異質のおきものと考えたのだろう。

でも、おきものでは寂しすぎるように思う。手に取って動かし、からくりを解いてみるのが面白いと思う。さらに進んで、作れるということが分かったので、自作のハードルが低くなったはずだ。真似することなく、自身で作ってみるのもよい。抽象的なものを実体として見せることは、面白いことだ。どちらが馴染まれるかを競ってはどうだろうか。

私は「動くからくり」が好きだ。ヨーロッパの昔ながらの広場では、からくりを有する時計台を見かけることが多く、その仕掛けが判明する時報を楽しみにしたものだ。日本では、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、田中久重さんが「弓曳童子」や「文字書き人形」を作成した。また彼の「万能時計」は平成16年に東芝セイコーの技術者によって復元されたが、そのとき群を抜いた発想力であったことが改めて確認された。

からくりは人に見せる楽しみもあるが、作る方が格段に面白いと思う。マイコンを用いれば、今日ではこの手のものは、ロボットとして、簡単に作ってしまうことができる。ただ歯車とクランクの組合せだけで実現しようとすると、その複雑さは尋常ではない。しかしその難しさゆえに、苦労を重ねて、実現したときの喜びは並大抵でなく、ものづくりの醍醐味を味わうことができる。

これらの優れたからくりは、たくさんの試行錯誤を重ねた末の結果だろう。逆に、どれだけ試行回数を重ねられるかが、良い製品を生むための決め手となる。同行者によれば、製造は随分と簡単になっているようだ。設計データを電子化して、ファブリケーション(製造)してくれるメーカーに送りさえすれば、3Dプリンタや自動カッターを用いてメーカーの方で、完成度の高い部品を作成してくれるそうだ。そのあとはそれらを組み立てるだけで済む。ファブリケーションが簡単になったことで、設計により多くの時間を割くことができるようになり、良い製品ができるようになったともいえる。

展示を見て、出店者の多くの人々が自作を楽しんでいることに、改めて気づかされた。もちろん自身の工作物が世の中に出ていくことを望んでいるだろうが、それ以上に、作ることを楽しんでいるだろうと感じさせてくれた。このような人々の環境を良くしてあげるためには、もっと身近なところでファブリケーションを助けてくれる施設が必要だろう。希望するものを短い時間で簡単にファブリケーションしてくれる工房が、近いところにあれば、今まで以上に試行を重ねることができ、その結果としてもっと優れた工作物を生み出せるようになる。そしてそれらの中から優れた製品が生まれる機会も高まるだろうと思いながら会場を後にした。

南信州の飯田市に人形美術館を観に行く

豊川に用事があったので、ちょっと足を延ばして南信州の飯田を訪ねた。豊川から飯田までは、秘境駅で知られている飯田線を利用した。豊川駅の出発は午後6時半。豊川駅には売店もないということなので、豊川稲荷にお参りがてら、近くのお土産屋で、今夜の夕食にするための稲荷ずしを入手した。
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今回の旅行に先立って、新幹線はスマートEXを利用して座席を確保したが、飯田線はどうせ混みはしないだろうとたかをくくったいた。しかし他方では、もしかすると三連休の初日なので、座席がいっぱいになっているかもしれないという不安を抱きながら、豊川駅の切符売り場で、「飯田まで、特急券も込みで」と注文した。優しそうな駅員の人が、「指定席にしますか」と尋ねてきたので、「はい」と答えると、しばらく機械を操った後で、「ガラガラのようなので、自由席にして、もし混んでいるようでしたら、指定席に移られたらどうでしょう」と示唆してくれたので、言われるとおりに切符を購入した。二人分で、特急券も含めて、8,200円だった。

ホームで待っていると、特急ワイドビュー伊那路は定刻に入ってきた。乗り込むと列車は教えられた通りガラガラで、指定席券を買わなくてよかったと得した気分になった。観光列車なのだろうが、観光客には都合が良いとは思えない夕刻の列車だ。乗車したときは明るかった空も、古戦場で有名な長篠を過ぎるころには、周囲は闇に包まれ、景色を楽しむことはできなかった。少数の乗客も、一人二人と降りていき、平岡駅で最後の乗客が降りてしまうと、3両編成の列車には、我々夫婦だけが残された。真っ暗闇の原始的な自然の中に、列車の室内だけが明るい人工的な空間に、置き去りにされたというような心細さが襲ってきた。平岡駅の周囲の駅は秘境駅で知られており、行楽シーズンにはこれらの駅の訪問を目的にした秘境号が走っている。このような人気の全く感じられないところで、激しく雨が降っている夜中に、取り残されるような事態になったらと想像したりしていたら滅入ってきたが、銀河鉄道に乗っていると思うことにして気を紛らわせた。
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そうこうするうちに、飯田市の市内に入ったのだろう。車窓に少しづつ街のあかりが灯るようになり、ほっとした。列車は定刻9時に飯田駅に滑り込んだ。外は激しい雨だった。今夜の宿は駅からそれほど離れていないホテルニューシルクだが、ずぶぬれになりそうなので、タクシーに乗り込んだ。近い距離だということを知らずに乗り込んだ客だと、運転手さんは思ったのだろう。とても恐縮して、「雨が激しいですね。すぐそこなので、すぐにつきますから、道一本越えたところですから」としきりに弁明しているのが、おかしかった。走っている時間よりも信号機での待ち時間の方が長かっただろう。タクシーは、数分後、ホテルの玄関前に滑り込んだ。

フロントで素泊まりでの料金12,560円を支払い、部屋へと向かった。ビジネスホテルなのであまり期待はしていなかったのだが、ドアを開けてみると期待を超えて大きく、ベッドのそれぞれの横にはサイドテーブルがついており、灯かりが相手の迷惑にならないように配慮されていたので一安心した。同じ階の大浴場でこの日の疲れをとって、明日に備えた。

次の日、朝食をとろうと駅前に向かった。飯田駅は平成4年に現在の駅舎になったとのこと、赤い屋根が特徴だ。信州特産のリンゴの色だそうだ。
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駅舎のステンドグラスも綺麗だ。人形劇の一場面のようで、手前はそれを鑑賞している観客だ。
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改札口でお迎えしてくれたのが、ナミキちゃん。ここ飯田も御多分に漏れず町興しに力を入れているのだろう。
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ナミキちゃんから、実際の改札口の方に目を転じると、ホームへの通り口なのにそれをふさぐように看板が置かれていた。一瞬嫌な予感が走り、掲示の「お知らせ」を読んでみた。なんとそこには、早朝に東栄駅(中部天竜駅本長篠駅の間)で通信ケーブルが破損し、豊川方面は不通になっており、復旧には相当の時間を要すると記されていた。飯田までやってきた今回の目的の一つは、飯田線からの車窓を楽しむことであった。そのため昼過ぎの特急列車に乗車することを予定し、豊橋から東京までの新幹線ひかり号の切符は既に購入済みだった。戦略を誤ると今日は帰れないかもしれないという嫌な予測さえ浮かんできた。朝食をとれそうなお店もなかったので、コンビニでおにぎりを購入し、ホテルに戻って今日の予定を考えることにした。

駅前はこのような感じだった。朝が早かったので、まだシャッターはどこもしまっていた。飯田市は10万人には少し届かない(ただし外国人を含めると超える)が、長野県では長野市松本市上田市に次いで人口が多く、南信州の中心的な市だ。もう少し活気があってもよさそうだが、どこの街も駅前は寂しくなっているようだ。
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朝食を済ませたあと、再び飯田駅を訪れた。状況は変わっていない。開通するような気もしたが、リスクをとることはやめて、改札の窓口にいき、「今日の新幹線利用は難しそうなので、払い戻しをしてもらえませんか」と依頼。駅員の人はとても恐縮して「列車が不通でご迷惑をおかけして申し訳ありません。払い戻しの方は承りました」と言って、手数料なしで払い戻しをしてくれた。そのあと駅前の案内所に行って、午後2時の新宿行高速バスを予約した。

飯田線からの車窓を楽しむ機会をなくしてしまったが、帰るための方策は立ったので、市内の観光に出かけた。飯田駅から中心部の市役所までの地域は「丘の上」と呼ばれている。下図は飯田市の市街地だ。中央左上に飯田駅がある。中央の少し下はこれから訪れる「川本喜八郎人形美術館」だ。その右下が市の官庁街で、図書館や美術館などがある。市街地は、天竜川の二つの支流、地図の右上の「野底川」と下の「松川」に挟まれた合流扇状地だ。
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段丘と川に恵まれた飯田市は、太古から人々が居住し、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が点在している(520基にも及ぶ古墳があったそうで、現在残っている18基の前方後円墳と4基の帆立貝形古墳のまとまりは「飯田古墳群」と呼ばれている)。また奈良・平安時代には、伊那郡を治めるための伊那郡衙が設けられた(郡衙は下図の右上の恒川(ごんが)官衙遺跡のところにあった)。今回は残念ながら車での移動ではなかったため、訪れることはできなかった。
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飯田市は昭和22年(1947年)に大火があり、街の中心地は殆ど焼き尽くされた。その後の復興事業で、市中心街には二本の直交する緑地帯つきの防火帯道路が設けられ、南北に走る道路には地元の中学生によってリンゴの木が植えられた。「リンゴ並木」と名付けられ、復興のシンボルとして知られるようになった。
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リンゴ並木の近くに、川本喜八郎人形美術館がある。
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川本喜八郎は、1982~84年にNHKからテレビ放送された人形劇「三国志」で人形美術を担当した人形作家だ。美術館のエントランスには、三国志に登場する諸葛亮(孔明)の木目込み人形が置かれていた。
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ギャラリーには、「三国志」、1993~95年にNHKから放送された「人形歴史スペクタクル 平家物語」、遺作となった人形アニメーション死者の書」で使われた人形が並べられていた。人形の着物は、全て帯を使って製作されたとのこと。その中で、曹操の着物は赤色だが、赤に染めた帯はまれだったため、入手にはとても苦労したとのことだった。全ての人形がとてもリアルに造られていることにビックリさせられた。また美術館の方から、人形の動かし方を教えて頂いた。人形を貸してくれたので試みたが、なかなか思うようにはいかなかった。

死者の書は、民俗学者で国文学者の折口信夫が著したものだ。あらすじは次のようになっている。藤原南家の郎女(姫)は、大和と河内の境のそして女人禁制の二上山に入り込み、そこで非業の死を遂げた大津皇子(天智天皇の皇子)の亡霊にまみえる。郎女はおもかげと重なる彼の姿を曼荼羅(まんだら)に織り上げ、さまよう魂を鎮め、浄土へと一緒に誘うという物語だ。郎女は、当時権力を極めた藤原仲麻呂の姪である。藤原仲麻呂大伴家持とで郎女が二上山に行ってしまったことを話している場面もある。また大津皇子が一目ぼれした耳面刀自(みみものとじ)が出てくるが、郎女は刀自の化身でもある。この作品は、古代人の心情をうまく描き出していると言われているので、機会があれば観たいと思っている。

ベトナムからの中高校生の団体見学もあってにぎわっていた人形美術館を後にして、日本画菱田春草の作品を鑑賞するために、飯田市美術博物館へと向かった。途中昭和4年(1929年)に新築落成した追手町小学校を通り過ぎた。時代を感じさせる校舎だが、鉄筋コンクリート3階建てでがっちりしている。長野県内では、使用中の校舎としては、松本深志高校に次いで古いそうだ。
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赤門もあった。飯田城桜丸御門だが、通称でこのように呼ばれている。
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そして目的地の飯田市美術博物館だ。
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しかし残念なことにリニューアル中だった。窓口の方が申し訳なさそうに見学できないことを伝えてくれた後で、柳田國男館を勧めてくれた。東京都世田谷区成城にあった書屋を飯田市に移築したものだ。柳田國男は、飯田市在住の柳田家に養子に入った。兵庫県の生まれで、父は儒者の松岡操、母はたけ。生家はとても狭く、「私の家は日本一小さい家だった」と言っていたそうだ。
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少し歩き疲れたので、駅までは電気小型バス「プッチー」に乗って戻った。
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近くの中華料理屋で昼食をすまし、お土産などを買って、やはりガラ空きの高速バスに乗って帰途についた。
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時間があれば、日本のチロルと呼ばれる「下栗の里」にも行ってみたかったが、公共の交通機関を利用してここを訪れるのはとても難しい。土日は早朝と夕方にそれぞれ1本走っているだけだ。タクシーでは随分と高い料金になるだろう。ところで、8年後にはリニア新幹線が飯田に停車することになっている。歓迎の看板を見かけることが普通だと思うのだが、それらしきものを見かけなかった。不思議な現象だ。もしかしたら街はそれほど期待していないのではとも感じた。

今年の梅雨は例年になく長いが、市内見学をしているときは、雨も降られず暑さも感じられず、快適に歩き回ることができた。街も綺麗で、良い旅行であった。