bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

身近な存在としての量子力学(3):進化論

4.進化論

人間の進化の歴史をたどることは、歴史学と生物学を融合した新しい学問の領域への挑戦であり、興味が掻き立てられる。DNAの構造が簡単に分析できるようになったため、年代を追ってどのようにDNAが変化してきたのかが把握できるようになってきた。グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーペンディング著の『一万年の進化爆発』は人間のDNAの進化について最近の研究を説明した本だ。旧石器時代のヒトの革命や、一万年前の農業革命、ヨーロッパのアシュケナージユダヤ人の現代における発展のなかで、環境の変化に応じてDNAがどのように対応してきたかが丁寧に分かりやすく書かれている。
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ペーポは「ヒトの革命」について次のように説明している。現生人類(新人類)は、約5万年前にアフリカを出て、南極を除くすべての大陸に拡散していく。その中で、ネアンデルタール人旧人類)から現生人類へ(わずかかもしれないが)遺伝子の流動があった。これにより、適応を助ける対立遺伝子が突然流入し、ヒトの革命の基盤となる能力の発達を助けることになった。

また、ペーポは農業革命については次のように述べている。狩猟採集から農業へと生活が大きく変わる中で対処しなければならない新たな問題が発生する。

問題の一つは食事である。狩猟採集のころは肉と少量の植物に依存していたが、農業への移行に伴って、食物は植物と家畜が中心になる。このため、新たな食べ物への適応が重要となるがこれを解決したのが突然変異である。例えば、牛乳が飲めるようになったことについて次のように説明している。狩猟採取時代には母乳以外の乳糖を口にすることはなかったので、他の動物と同じように乳離れ以降は、乳糖の消化酵素を生産はしなかったと考えられる。しかし、牛を家畜として飼いだしてから、牛乳を飲めることが優位であったため、突然変異にってこの酵素を作り出すDNAが発生し、子孫に広まっていったと考えられている。

また、感染症への対応も農業社会になって大きな問題となったが、突然変異によってそれを防御できるようなDNAを獲得してきたと考えられている。

アシュケナージユダヤ人(ドイツのユダヤ人)は1200年ほど前にライン川沿いの地域に住み始め、独特のコミュニティを有してきた。彼らについて、ペーポは次のように説明している。彼らのIQは112から115と高い(他のヨーロッパ人は平均が100である。他の地域に住むユダヤ人も同程度である)。現在、アシュケナージユダヤ人は世界中に住んでいるが、その人口は世界全体で1100万人ほどである。アメリカでは、彼らの人口は3%である。しかし、アメリカでは、ノーベル賞受賞者の27%、チューリング賞の25%は彼らである。彼等が高いIQを示すことについて、ベーポは次のように説明している。アシュケナージユダヤ人は金貸し業で生計を立てざるを得ない社会的状況におかれた。この職業は高いIQを要求する。あるとき、突然変異が起こり、高いIQを有するDNAが生じた。このDNAが彼らの生業に適していたので、あっという間に彼らの後の世代に広がった。

この本の最初の方で、現代人のDNAの中にネアンデルタール人のDNAが混ざりこんでいる可能性が高いと記載されているが、この説は最近になって立証された。それは、スヴァンテ・ペーポ著『ネアンデルタール人は私たちと交配した』に詳しく記述されている。ネアンデルタール人の骨から彼らのDNAをどのように抽出したかについての話が詳しく書かれている。
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ペーポが取り組んだのは4万年前から3万年前の骨からのDNAの抽出である。抽出していく過程は推理小説を追っているようでわくわくさせられる。それ以上に感動したのが、彼の科学者としての真摯な研究姿勢である。最先端の研究は先陣を争う戦いで、世の中の気を引くために怪しい論文が出がちである。ネアンデルタール人のDNAを探求する研究も例外ではなく、いかがわしい論文が出回る。しかし、ペーポたちは、そのような論文に惑わされることなく、一つ一つ真実を確認していき、最後には立派な成果を上げることとなる。

進化の中で、突然変異はこれまで見てきたように重要な役割を担っているが、どのようにして生じるのであろうか。DNA(デオキシリボ核酸)は、染色体に含まれる生体物質で、遺伝情報を有する。1953年にワトソンとクリックはDNAが二重らせん構造を有していることを発見した。
Wikipediaの図を加工して、DNAの二重らせん構造を示したのが下図である。
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DNAのそれぞれの鎖には、リン原子、酸素原子、デオキシリボースからできた分子状の紐(図で草色の部分)がある。この紐からヌクレチドと呼ばれる化学構造が出ている(緑、ピンク、紫、青の部分)。ヌクレチドには、4種類の核酸塩基があり、これらは、アデニン(A),グアニン(G), シトシン(C),チミン(T)である。これらが、紐の上に並び、一列の遺伝文字を作る。

対となっている紐にも4種類の核酸塩基が並ぶが、任意のものが並ぶわけではない。それぞれからのヌクレチドは相互につながり対をなす。対となれるのは、アデニン(A)とチミン(T)そしてグアニン(G)とシトシン(C)である。このため、鎖は相互に補完関係になっていて、一方の鎖から他方の鎖を再現できる。

細胞が分裂するとき、DNAのそれぞれの鎖は引きはがされ、二つの分離した鎖となる。それぞれの鎖では、ヌクレチドが読み取られ、対となる鎖が再生され、新しいDNAが作られる。この結果、一つのDNAから二つのDNAが得られたこととなる。この再生作業は、忠実で、ほとんど間違いなく行われる(間違いが起こると、即ち、突然変異が起こると、癌などが発生する。しかし、このような確率は極めて少ない)。

アデニン(A)とチミン(T)およびその対の化学構造を示すと次のようになっている。なお、対の部分で、草色の矢印の部分はDNAの紐の部分である。
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グアニン(G)とシトシン(C)およびその対は次のようになっている。
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これらの対は、水素結合と呼ばれるもので、結びついている。水素結合は二つの分子が水素原子核(陽子)を共有する。上記の図で、赤い破線の部分が陽子を共有している個所である(水素結合については、追加のところで詳しく説明する)。

水素結合は、二つの分子で水素の原子核を共有することで構成されている。原子核は、通常は、元の分子の側にある。しかし、何らかの事情で、相手側の分子に近い方に原子核が移動したとする。その時の、アデニンとチミンの対での分子構造の変化を示したのが下図である。
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水素原子核が移動したことで、互変異性体というものが生じる。もし、このとき、細胞分裂が生じたらどうであろうか。移動している水素原子核は、元々の分子の方ではなく、相手側の分子の方に残されることになる。細胞分裂が始まると、対になっている鎖が二つに引きはがされる。この時、移動している水素原子核は、元々の分子の方ではなく、相手側の分子の方に残されることになる。この後、それぞれの鎖を利用して、新たに、二つのDNAが作られる。水素原子が移動した後のアデニンは、イミン型のアデニンと呼ばれる。イミン型のアデニンから作り出される対の核酸塩基は、チミンではなく、下図に示すようにシトシンである。
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また、水素原子核が移動した後のチミンは、エノール型と呼ばれるが、そこからは、アデニンではなくグアニンが作り出される。
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従って、もし水素原子核が移動したとし、さらに、その時に細胞の分裂が生じたとすると、これまでとは異なるDNAが作られることになる。理論的には、突然変異をこのプロセスで説明できそうである。しかし、この説明には大きな問題がある。それは、水素原子核が移動するためには(放射線を当てるなどの)大きなエネルギーを必要とすることである。(確率的には小さいのだが日常の中で生じることを説明するためには)水素原子が相手側の分子の方に移動するためには、もう少し小さなエネルギーで実現されることを示す必要がある。これには、量子力学の世界の中で考えることが必要である。

量子力学には、量子トンネル効果がある。たとえ話で説明する。今、スキーをしているとする。直前に大木が迫ってきたとする。古典的な力学で考えると衝突するしかない。しかし、量子力学の世界では、透明人間のように大木をすり抜けることができる。量子の世界では、原子や電子は粒子としての性質と波としての性質を併せ持っている。大木のような障害物に当たりそうなときは、波としての性質が表れ、すり抜けることができる。音が壁を越えて伝わってくるのと同じ原理ですり抜けてくる。

水素原子が移動して突然変異を起こすことは2011年に証明されたが、量子トンネル効果が機能していることの証明はまだである。


追加:水素結合

酸素(O)や窒素(N)などの電子をひきつけやすい原子と共有結合した水素原子は、電子が引っ張られるため弱い正電荷を帯びる。これにより、隣接している原子の負電荷との間に共有結合の10分の1程度の弱い結合を生じる。これを水素結合と呼ぶ。以下の図は、水分子の場合である。酸素原子の持つ6個の価電子のうち、2個の電子は共有結合に関与して水分子を構成し、残りの4個が2組の孤立電子対(負電荷)となり、隣接する水分子(より具体的には水素原子、それは正電荷に帯電している)との間で4つの水素結合を作る。
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