弥生時代の遺跡を2か所ほど立て続けに訪問したので、それに続く、古墳時代の遺跡を訪ねることにした。
この時代の象徴的な墓は前方後円墳である。前方後円墳と言えば、近畿地方と思いがちだがそうではない。全国に広がっていて、関東地方にもたくさん存在する(前方後円墳が一番多い県はなんと千葉県で約720基存在する)。埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群は、全国有数の規模を誇り、10基余りの前方後円墳が集中している。近畿地方には、全長が200mを超えるものが存在する(最大のものは大仙陵古墳で486m)ので、それらには匹敵しないが、ここには100mを超えるものが3基存在する。
10月2日も天気に恵まれたので、電車が空きはじめたころに家を出た。横浜方面から埼玉県へ向けての移動は、新宿湘南ラインができてから、とても便利になった。この日も、渋谷駅まで出た後、そこからは最寄り駅まで一本で行けた。但し、最寄り駅と言っても、古墳群まではかなりある。行田駅から「観光拠点循環コース」を利用すれば古墳群まで運んでくれるのだが、一日7便しか出ていない。どれも都合のよい便ではなかったので、一つ前の吹上駅で降りて路線バスを利用した。
吹上駅からの路線バスでは、佐野経由を利用するとよい(行先表示変化中にシャッターを押したため、表示が明瞭でない)。
残念ながら、路線バスは古墳群には行かない。このため、最も近い停留所「産業道路」で降り、そこから15-20分歩かないといけない。産業道路の一つ前の停留所は「佐野団地」。ここまでは、バスは駅からまっすぐに進んでくる。そして、産業道路の停留所の手前で左折する。バスを降りた後、去って行くバスとは反対方向にひたすらまっすぐ歩いていくと、埼玉古墳群に至る。ここは大きな公園になっている。
全ての古墳を見学するコースは1時間半ほどかかると説明にあった。遠路をはるばるやって来たので、全てを見学することにした。見学した順番ではなく、古墳ができた順に従って説明しよう。
前方後円墳は近畿地方では3世紀ごろに始まり6世紀になると規模が小さくなるが、埼玉古墳群はこれとは反対に6世紀に盛んになる。
埼玉古墳群の中で最古の古墳は、稲荷山古墳である。時期は5世紀後半である。全長120mの前方後円墳だ。
古墳の頂まで登れるようになっているので、上を目指す。
この古墳からは、後で紹介するが、文字が刻まれそこに金が埋められた鉄剣が出土している。下の写真のように埋葬されていたそうだ。
二子山古墳は6世紀前半に築造された。全長138mの前方後円墳で、埼玉古墳群の中では最も大きい。古墳の一部が損傷しているということで、修復工事が行われていた。
丸墓山古墳も6世紀前半に築造された。ここの古墳群の中では唯一の円墳で直径105m、日本最大規模の円墳である。1590年の小田原征伐の時に石田三成が忍城攻略のために陣を張った場所としても有名である。また、古墳に沿って半円形に石田堤が掘られている。写真の中で、手前に茶色に帯びたすすきがあるが、そのあたりである。
瓦塚古墳も6世紀前半の前方後円墳である。資料館のそばにあり、全長は73mである。
奥の山古墳は6世紀中ごろ、全長70mの前方後円墳である。
愛宕山古墳は6世紀中ごろに築造され、全長63mで最も小さい前方後円墳である。
鉄砲山古墳は6世紀後半の前方後円墳で、全長は109mである。二子山、稲荷山古墳に次いで大きい。
将軍山古墳は6世紀末、全長90mの前方後円墳である。古墳には埴輪が配置され、往時の姿を彷彿とさせている。
また、「将軍山古墳展示館」があり、古墳の内部に入れるようになっている。石室の側壁には房州石が使われ、千葉県の富津市あたりから運ばれてきたものとみなされている。
内部には埴輪も展示されている。
さらに埋葬の様子も分かるようになっている。
中の山古墳も6世紀末の前方玖円墳で、全長は79mである。
最後に紹介するのがさきたま遺跡の資料館だ。ここには、国宝がいくつも紹介されている。その中でも、一番貴重なのは稲荷山古墳から出土した、金錯銘鉄剣だ。
鉄剣の表と裏には金の文字で、鉄剣の由来が書いてある。それによれば、辛亥の年(471年)に、この刀はワカタケル大王(雄略天皇)からヲタケに贈られた。ヲタケの祖先は代々、杖刀人首(じょうとうじんしゅ、親衛隊長)を務めていた。そして、ヲタケはワカタケル大王に仕え、天下を治める補佐をしていたと記されている。これより、ヤマト王権の力が、東国関東にまで及び、この地方の豪族と同盟関係あるいは主従関係にあったことが分かる貴重な資料である。
展示室は、蛍光灯の光が邪魔をして、撮影するには不向きな環境であったが、国宝の大刀、鉄剣、鉄鏃、帯金具、辻金具、鉸具(かこ)、画文帯環状乳神獣鏡、銀環、勾玉などの国宝が整然と展示されていた。
また、埴輪も展示されていた。
小春日和に恵まれたこの日、広場では、幼稚園児や小学生たちが、遠足なのだろう、広々とした芝生の上を楽しそうに走り回っていた。弥生時代の子供たちもこのように戯れていたのだろうかと思いを巡らしながら、電車が混まないうちに少し早めに帰宅への途に就いた。