bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜三渓園を訪ねる

少し肌寒く感じられる昨日(23日月曜日)、横浜市にある三渓園を訪ねた。肌寒いと言っても、実は、平年並みの気温だ。土曜、日曜と夏日だったので、相対的にそのように感じただけだ。気候変動がカオス的であるとすると、三つの状態がある。安定的、振動的、ランダム的だ。縄文時代以来、1万3千年以上にもわたって気候は穏やかな状態にある。地球の歴史を顧みると、このように長く続くのは珍しく、別の状態にいつ入ってもおかしくない状況にある。この異常さが、このことを示唆していないことを願っている。

三渓園を訪れたのは、実に50年ぶり。帰りのバスが混んでいて、終点まで立っていたことぐらいしか覚えていないので、初めてと言ってもよいくらいだ。

三渓園は原富太郎によって造られた。彼を含めて、高島嘉右衛門浅野総一郎などが明治期の横浜の発展に大きく貢献したとされている。原富太郎は慶応4年(1868年)に美濃国厚見郡佐波村(現在の岐阜市)に生まれている。青木久衛の長男で、明治25年(1892年)に横浜の豪商の原善三郎の孫娘の屋寿(やす)と結婚して、原家に入り、絹貿易により富を築いた。また、彼の号は三渓である。このため、原三渓とも呼ばれる。

三渓園の小史は以下のとおりである。富太郎の養祖父の原善三郎が明治初年(1968年)に土地を購入し、20年代に山上に別荘を建てた。善三郎が死去した35年ごろから、富太郎が三渓園の造園に着手し、この地を本宅とした。そして、明治39年(1906年)より、現在の外苑と呼ばれる地域を無料で開放した。彼は、当時の新進気鋭の画家たちの支援をし、前田青邨横山大観、下村観山などの作品が園内で生まれている。富太郎は昭和14年(1939年)に死去している。

三渓園は、関東大震災第二次世界大戦での横浜空襲により被害を受け、昭和28年(1953)年には横浜市に譲渡・寄贈され、復旧工事が施され、現在に至っている。

三渓園本牧にある。高速道路を利用してのアクセスは良いのだが、電車で利用する場合は不便だ。横浜や桜木町から本牧車庫前行のバス(8,148系統)に乗り、三渓園入口で下車する。その後、歩いて5分ぐらいで三渓園の入り口に到着する。

現在の三渓園の地図は次のようになっている。
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三渓園の南側は高速道路が走っている。ボランティアの方が50年前は海に面していたと教えてくれたので調べてみた。昭和39年(1974年)の地図では次のようになっている。
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この地図には高速道路はない。地図を重ねてみると、現在の地図には高速道路に沿うように北側に長細い池があり、そこが50年前には海岸線であったことが分かる。のちに、左側にある埋立地が延長され、海岸線が外になり、新たな土地に工場が造られ、そして、高速道路が開通されたようだ。埋め立てられる前の三渓園は、崖の上に立地し、眺望は今以上に素晴らしかったことだろう。

入場券を買って門の中に入ると、ボランティアの方が出迎えてくれる。お願いして、園内を紹介してもらうこととした。最初に連れて行ってくれたのが鶴翔閣だ。明治35年(1902年)に建立され、住いとして使われた。広さは290坪だそうだ。
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さらに進むと御門がある。
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外側のひさしが長くなるように、アンバランスに造られているのが特徴だ。

門を抜けて少し進むと立派な庭園が見えてくる。その奥に佇んでいるのが数寄屋風書院の臨春閣だ。紀州徳川家初代の徳川順宣によって慶安2年(1649年)に夏の別荘として紀ノ川沿いに建てられた。なお、順宣は家康の十男である。
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臨春閣の2階に上る階段が面白い。釣鐘上の入り口の中に階段がある。この階段は一直線に2階に上るのではなく、途中に踊り場があって、回りながら上がっていくのだそうだ。
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さらに進むと、とても古そうな堂にいたる。これは旧天瑞寺寿塔覆堂だ。天正19年(1591年)に、豊臣秀吉が母の長寿祈願のために京都大徳寺に造った寿塔(生前墓)を納めるために建立した建物だ。
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また、近くには聴秋閣がある。これは三代将軍家光が上洛に際して二条城内に造ったものを春日局に下賜され、江戸稲葉候邸に移築されたものだそうだ。大正11年三渓園に移された。
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ここより少し高いところに、天寿院がある。これは鎌倉・建長寺近くにあった地蔵堂の建物を移したものである。
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ここまでは、内苑と呼ばれる。この後、外苑へと向かう。小高い丘に登ると、旧燈明寺の三重塔がある。室町時代の康生3年(1457年)の建立だ。移築したのは大正3年である。
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鎌倉の旧東慶寺仏殿もある。江戸時代の寛永11年(1634年)の建立である。
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また、白川郷の合掌造りの建物もあった。ここでは、この地域の家族形態についてボランティアの方から伺うことができた。大家族で生活を営んでおり、長男は嫁入婚だが、次男・三男は妻問婚だったそうだ。主人夫婦は1階を寝室にしていて、その他の家族は中2階に寝ていたそうだ。外部との接触を遮断したときの生き残るための知恵なのだろうが、古代の習慣に似ていることにも驚かされた。

ボランティアの方が、原富太郎が考案した料理を教えてくれた。汁のないそばだ。通常のそばだと、食べているときに汁が飛んで衣服を汚す可能性があるので、そのようなことが起こらないようにとおもてなしを第一に考えてのことだそうだ。

三渓園を訪問した記念にと食べてみることにした。三渓そばという名前だが、実際は、そばではなくうどんだ。タケノコ、ハム、薄焼き卵などがトッピングされている。昆布茶が一緒についてくるが、間違ってこれをかけてはいけない。珍しい料理で、思い出としてはよかったと思った。
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今回は、複数のボランティアの人のお世話になった。最初の方は、1時間かけて園内を案内してくれた。合掌造りの建物では、複数人の方からとっておきの話を伺うことができた。また、新しいボランティアの方が入ったのであろう。研修されている方からも、新鮮な話を聞くことができた。ボランティアのすばらしさを体験する一日でもあった。