bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ハワイ旅行 カヤックでアドベンチャー(六日目)

ハワイ旅行六日目はカヤック・アドベンチャーだ。EdとGayeから提案があったとき、転覆も起きるような激流を下っていくアドベンチャーと想像して一瞬躊躇した。服装はと聞くと水着(bathing suit)という。でも腰には浮き輪をつけるから大丈夫だともいう。彼らは80歳以上の老人だ。彼らが大丈夫なら、一回り年が若い我々にとってはなんてことはないだろうと賛成した。

どのような場所に連れていかれるのか、不安と期待が混じる中、午前7時半にカヤック・ツアーを運営している会社へと向かう。会社の名前はフルーミン・コハラ(Flumin’ Kohala)だ。
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会社の事務所で登録手続きをした後、ここからカヤックの乗り場まで、会社のマイクロバスで向かう。30分かかったが、この時間を利用してツアーの説明をしてくれた。「川下りだろう」と思っていたが、そうではなかった。サトウキビ農場へ水を引くための人工的に作られた水路だ。しかし入植した日本人が工事をしたと聞いて親近感がわいてきた。ガイドの説明とその後に入手した情報によれば、この水路には次のような歴史をもつ。

ハワイでは、「ワイ(wai)」という要素を含む単語に頻繁に出会う。ハワイ語でワイは「新鮮な水」を意味する。最初にハワイにたどり着いた人々にとって、新鮮な水はとても大切だったのだろう。この後に続いて訪れた人にとっても、新鮮な水がとても大切だったのは疑う余地もない。そのことを伝えてくれるのがこの水路だ。英語ではditchだ。

ワイ島北部には3か所の人工水路が造られた。以下の説明図は、Star Bulletinの記事からの転載で、1がコハラ水路(Kohala ditch)、2が上ハマクラ水路(Upper Hamakua Ditch)、3が下ハマクラ水路(Lower Hamakua Ditch)だ。
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今回訪れたのはコハラ水路である。この水路は、18カ月にわたる厳しい工事の末に、1907年に完成した。全長26マイル(42Km)、その内、16マイルがトンネルで、6マイルが開いた空間だ。トンネルの数は57、最長のトンネルはおよそ半マイルである。残りの4マイルが渓谷の上に橋のように作られた人工の水路だ。このような人工の水路を英語ではflumeという。今回のツアー会社の名前はfluminだ。酷似した単語を用いているが、こちらの方はラテン語だ。fluminは、flumenの複数形で、「流れ」という意味だ。

建設作業者の中に600人の日本人労働者がいた。一日の給料は1ドル。彼らは岩石から方形のブロックを切り出す作業を主に行った。これらのブロックはトンネルの壁として使われ、その値段は1ブロック当たり5セントだった。彼らの手作業での工賃は、空気あるいは電気ドリルを使うよりも安かったそうだ。日本人労働者は、他のどの国から来た労働者よりも、ブロックづくりが上手だったとも言われている。渓谷の中での水路の工事は難工事であり、17人の死亡者が出た。

それでは、なぜ水路を作ったのだろうか。

ヨーロッパ人が訪れるよりも前に遡って説明を始めよう。

このころのコハラ地域では、先住民たちは、タロイモ、サツマイモ、バナナなどを栽培していた。1779年にクック船長が訪れたあと、新しい人々が入ってくる。彼らは、コメ、ジャガイモ、パイナップルなどを持ち込むが、とりわけ影響が強かったのはサトウキビだ。この背の高い植物が調味料として使われるようになると、たちまちのうちにタロイモを凌駕してしまう。そして、コハラ地区で商用として栽培されるようになるや否や、土地と水と人力を必要とするサトウキビは、それまでのハワイを永遠に変えてしまった。

サトウキビでの成功は、増産への欲望を広げ、さらなる土地、さらなる人力、さらなる水が求められた。ときどき生じる干ばつは、そのつど安定的な水の供給への要望を高めた。1880年にハヴィ(Hawi)のプランテーションの長であったハイド(Jone Hide)は、湿潤な森の峡谷からハヴィの村へ、トンネルや石を連ねた水路で、水を引くことを思いついた。しかし協力者がなかなか得られなかったことと、建築コストが高すぎることで、彼はこのアイデアをいったん諦めた。

1901年に、土木技術者のタトル(Arthur Tattle)が、コハラの渓谷の水資源利用の有用性について調査をし、その結果、高価で困難ではあるが、達成可能であるという結論をだした。これに力を得て、ハイドは技術者などの協力のもと、建設に取り組んだ。いろいろな国の人が参加したが、その中で日本人労働者の技能、忍耐強さ、肉体的努力は傑出していたそうだ。

水路は、1907年に完成し、サトウキビ農園の灌漑用として利用された。しかし新興国の参入などもあってサトウキビの栽培は衰退し、1970年代にはサトウキビ農園の運営は終了した。その後は、農業、水力発電、養殖業で利用され、観光でも利用されている。

説明が長くなったが、マイクロバスもカヤックの乗り場に着いたので、話を旅行の方に戻そう。とはいっても、このときはカメラを持参しなかった。濡れるといけないので、持ってこない方がよいとアドバイスされたためだ。従って、写真がないので、トリップ・アドヴァイザーの写真を借りよう。

最初は出発地。
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峡谷の上に渡された水路2枚。。
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トンネルから出たところ。
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もしかして激流を下るアドベンチャーと秘かに期待と不安を抱いて臨んだカヤックであったが、静かな流れの中、開発当時の苦労した人々の姿が思い浮かび、有意義なツアーであった。

3時間のツアーを終えて、お昼はハヴィでとることにした。旅行の本にはバンブーレストランがお薦めと書いてあったが、カヤックツアーのガイドが地元の人から見ると、コハラ・ビレッジ・ハブがよいというのでそこにした。このお店は、コハラ・フルーミンとは道を挟んだお隣さんだった。
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皆で分けようということで、次のものを頼んだ。カラマリとハンバーグ
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帆立のポキライス
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タコス
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夕飯はコンドミニアムで満月を楽しみながらバーベキューにした。