bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北部九州を旅行する(1日目)ー久住高原をドライブする

北部九州は縄文時代から奈良時代にかけての歴史の宝庫だ。吉野ケ里遺跡が発見されたころは卑弥呼がいた邪馬台国ではと騒がれたこともあった。日本史を勉強し始めてから、一度は訪れて、現場を確認してみようと思っていた。幸いにも大分の知人から誘いを受けたので、温泉も一つの楽しみにして、北部九州の遺跡を見学することとした。

旅行は3泊4日、1月9日(水曜日)からだ。旅行の準備をしているときに、大きな荷物を持ちながら、混雑することで有名な田園都市線の朝の電車に乗るのは嫌だなと思って、インターネットを検索したところ、南町田駅から羽田空港に向かうバスを発見した。下り方向のため危険なラッシュは避けることができるので、初めての経路だが、これを用いて旅行を始めることにした。

さて出発だ。幸いなことに東京は快晴、大分も悪くはなさそうだ。羽田空港からは富士山がきれいに見えた(見つけにくいが、写真の左の方)。
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いよいよ大分に近づいた。瀬戸内海は曇っていたが、陸に近づくにしたがって、雲が少なくなり、穏やかになってきた。大分空港のある国東半島には明るい冬の光がさしていた。下の写真で、中央の右側にある茶色い部分が空港だ。飛行機は通り過ぎるようにして別府の方に向かい、その後、Uターンして空港へと降りる。
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空港には夫妻が出迎えてくれ、早速、久住高原一周へのドライブへと出発した。Googleマップによれば、ドライブの時間は4時間となっているが、途中で昼食や見学をしたため、6時間の所要時間だった。
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大分空港から湯布院ICを過ぎて九重ICまでは高速道路だ。車の数も少なく、ほぼ快適に進んだ(大分道に入るところで反対方向の福岡へ入ってしまった。地元の人でもは違えるようだ)。大分の地名は、由布院と湯布院、久住と九重のように何とも紛らわしい。ICを出た後、車2台がやっとすれ違える程度の狭い県道40号線に沿って、紅葉百選に選ばれている九酔渓へと向かった。紅葉の時期は身動きできないほどに込み合うのだろうが、冬場のこの時期は閑散としていた。お店も閉店で、渓谷の景色も寂しい。
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この後、近くにある九重夢大吊橋へと向かった。長さ390m・高さ173mで、歩道専用としては日本一の高さを誇る吊橋だそうだ。総工費200億円をかけ、過疎化と少子化で衰退しつつある九重町の再生を目指して建築され、平成18年に完成。この11月には累積入場者数で1100万人を達成したそうだ。九重町の夢をかなえるために頑張っている吊橋だ。
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橋の入り口には、まだ松飾りが残っていた。また、橋からは、日本の滝百選に選ばれた九酔渓の振動の滝を見ることができた。
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県道40号線をさらに南に向かい、くじゅう連山の南に出たところで国道442号線にぶつかったところで、竹田市の方へと西に向かった。車窓からは阿蘇山が一望でき、景色を楽しむことができた。真ん中左側が根子岳、右側が阿蘇山阿蘇山の右側からは噴煙も見えた。
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竹田市の町に入るためには、どこから入るにしても、必ずトンネルをくぐる必要があるそうだ。山で囲われた盆地なのだろう。ちなみに、同行してくれた奥さんの母方は岡藩(竹田藩)の家老の血筋だそうだ。そこで、奥さんに所縁のある国指定史跡である岡城を見学した。

竹田市滝廉太郎が少年時代を過ごした地で、そのときに遊んだ岡城は荒れ果てていて、その印象をベースに哀調を帯びた「荒城の月」(1900年明治34年)を作曲したとされている。なお、作詞は仙台出身の土井晩翠。こちらは仙台市青葉城をベースに作詞されたとされている。

入り口でもらった案内には岡城の歴史が記載されていた。それによれば、1185年大野郡緒方荘の部将緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられているそうだ。

南北朝時代からは志賀氏が居城としていたが、大友義統(よしむね)が豊臣秀吉の逆鱗に触れ1593年に領地を没収されると、志賀氏も城を去ることになった。

1594年播磨国三木城から織田信長豊臣秀吉に仕えた中川秀成が入封し、急いで城郭の形を整えた。1559年の検地では約7万石。1600年の関ケ原の戦いでは東軍に属し、徳川家康より領地を安堵された。このあと明治になるまで、中川秀成の子孫が城主となった。城の建物は1874年(明治7年)大分県による入札・払い下げで全てが取り壊された。滝廉太郎が遊んだころには荒れ果てていたのだろう。

駐車場から城を望んで写真を撮る。
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大手門近くには、城跡を示す石がたっていた。
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中に進んで三の丸の近くまで行った。城は急峻な崖の上に立っていた。現在は整備されていて、荒れ果てた城というイメージはなかった。
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滝廉太郎銅像も近くに建てられていた。
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この後は、大分市に戻り、ふぐ良別館でフグ料理をご馳走になった。ふぐの胆を食べることができる唯一のお店だそうだ。胆をふぐ刺しのたれにして食べたが、薬味とマッチして、とても美味しい料理で、この日一日の旅の疲れを忘れさせてくれた。

ホテルは法華クラブ大分を利用した。シングルで予約したのだが、なぜかダブルの部屋を用意してくれ、一人で広々と利用することができ、幸先の良い旅行の始まりとなった。