bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北部九州を旅行する(3日目)ー吉野ケ里歴史公園を訪れる

三日目は吉野ケ里遺跡だ。日本史を勉強し始めてから、弥生時代の最大集落であるこの遺跡を訪ねてみたいと思っていた。また、卑弥呼邪馬台国だったと信じている人もいるので、確認してみたいとも考えていた。

由布院温泉から吉野ケ里遺跡までは列車だ。由布院駅9時7分発の特急ゆふ2号で鳥栖駅に向かい、そのあと長崎本線に乗り換えて吉野ヶ里公園駅で下車すればよい。北部九州を横断して、乗り換え時間も含めて約2時間半の列車の旅だ。
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吉野ヶ里公園駅で降り、歴史公園の方に向かうのは、私一人だ。のんびりとそしてゆっくりと見学できそうで期待が高まる。駅から公園までの直線道路は沢山のお客さんが来る時期に備えてなのだろう、舗装工事を行っていた。このため、迂回路が用意されていて、たんぼを巡りながら目的地へと向かった。
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吉野ケ里歴史公園は地図からも分かるように広い。まずは腹ごしらえということで、東口の歴史公園センターへと歩を進めた。食堂で食べている人は、殆どが公園の関係者で、見学客はやはり私一人のようだ。ちゃんぽんを食べて一息ついたところで、背中の荷物をロッカーに預けて身軽にし、公園へと向かった。

吉野ケ里遺跡は、水田稲作が始まった弥生時代の遺跡だ。ここの歴史は、弥生時代前期(紀元前3~2世紀)、中期(紀元前2~紀元1世紀)、後期(紀元1~3世紀)に分けられる。

前期には丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生し、南側一帯には環濠を掘った集落が出現し「ムラ」から「クニ」へと発展する兆しを見せた。集落の規模は2.5haだ。

中期には、南の丘陵を一周する大きな環濠が掘られ、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕壺墓地」が作られた。集落の防御が厳重になっていることから争いが激化したと考えられている。集落の規模は20haだ。

後期には、集落は北の方へと拡大し、40haを超える国内最大規模の環濠集落となる。北部には、首長が居住し祭祀の場であったと考えられる北内郭と、高位階層の人々の居住区と推定される南内郭とがある。西方にはクニの物資を集積し、市の可能性もある高床倉庫群がある。また、南部には一般の人々が居住していた集落がある。

吉野ケ里歴史公園は、弥生時代後期の集落を復元したものだ。後期(紀元1~3世紀)は、中国では後漢の時代だ。57年には光武帝が倭の奴国の使者に対して金印を授け、107年には倭国帥升(すいしょう)が後漢朝貢し、239年には卑弥呼が難升米(なしめ)らを魏に派遣しており、中国との交流が活発な時期だ。

吉野ケ里歴史公園では、1800年ぐらい前の時代を垣間見れることを楽しみに、意気揚々と入り口へと向かった。
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公園内は20分ごとにバスが巡回していた。中の様子を知るために、南端から北端へと向かっているバスに乗った。最初にたどり着いたのは古代植物館だ。

最近とみに温暖化をもたらす環境破壊が大きな問題となっているが、この問題は今に始まったことではない。実は人間が定住生活を始めるようになってから、森林破壊が始まったと言われている。古代植物館では、弥生時代の推移とともに森林がどのように変化したかの説明があった。

人が住み着く前までは、吉野ケ里丘陵は、カシ・シイなどの照葉樹林を中心に、コナラ・クリなどの落葉樹が生息していたと考えられている。

弥生時代が始まると、集落を作るために樹木が伐採され、落葉樹が急激に減少し、ススキなどでの草地が広がった。そして、弥生時代の終わりごろになると、低地では稲の花粉が増えて水田稲作が本格したことが分かり、森では原生林の伐採が行われ、その後に成長するエノキ・ムクノキが増えて二次林へと変化したことが分かっている。

古代植物館の周りでは、縄文時代から弥生時代前期の常緑樹林と、弥生時代の終わりごろの落葉樹林が混ざったススキなどが広がる草地の植栽を再生しようとしている。人間の営みが自然にどのような影響を及ぼしたかを体験できる意欲的な試みだ。

古代植物館には、弥生時代の道具類も展示されていた。その中でも驚かされたのが、甕棺墓に使われた甕の大きさだ。人間一人を入れるのだからかなりの大きさが必要なのは分かるが、それにしてもどのようにして作ったのだろうか。
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土器類も展示されていた。横浜市歴史博物館に展示されている土器と比較するとすっきりしている。
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道具類も展示されていた。鉄製品が多いのにびっくり。北部九州がこの時代の先進地域であったことを改めて認識させてくれた。
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またバスに乗って、北墳丘墓へと向かう。バスを降りたところは弥生時代の集落を特徴づける環濠の近くだ。
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北墳丘墓の全景だ。
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この墳丘墓は、弥生時代後期のものではなく、中期(紀元前2世紀~紀元1世紀)のものだ。南北40m、東西27m、盛土の高さ4.5mだ。ここからは成人用の甕棺14基が発掘され、その多くから銅剣や管玉が発見された。歴代の王または首長と考えられる人が葬られたと考えられ、弥生時代の「クニ」社会を裏付ける有用な遺跡だ。

建物の中は、甕棺が発掘されたときの状態に保たれている。
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銅剣が納められている甕棺もある。
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この後、北内郭へと向かう。途中に甕棺墓列がある。これはやはり弥生時代中期の墓だが、王ではなく一般の人の墓だ。
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北内郭は、祭祀のための主祭殿や物見櫓があり、まつりごとの場所だ。
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主祭殿は2,3階に上ることができ、神がかりの様子を示す展示などがあった。
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南内閣は高位者層の居住地だ。
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南内閣の近くには展示室があり、そこにもたくさんの甕棺と
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銅剣と、
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さらには、頭部のない遺骨が甕棺の中に入った状態で展示されていた。
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南のムラに移動すると、そこは一般の人のための集落だった。
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最後に訪れたのは、倉と市だ。ここには、高床式の倉がたくさん復元されていた。
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4時間半もたっぷりと吉野ケ里歴史公園を見学し、その大きさに圧倒されて、今日の宿泊場所の吉野ケ里温泉ホテルへと向かった。復元された史跡ではあるが実物に近いものを通して、実感として、古代でのムラからクニへの変化を理解することができ、有意義な訪問であった。