北海道に縄文遺跡を見学に行ったときに、八王子から参加したという人から、滝山城の近くに住んでいて、よく訪れるという話を聴いた。
この城は築造された時期については諸説あるようだ。滝山城が戦場となったのは永禄12年(1569)だ。このとき武田信玄は2万の兵を率いて、甲府を出発し、北条氏政の小田原城へと攻め上った。その途中で、氏政の弟氏照が守る滝山城において、武田と北条の間で攻防があり、北条側は2千と少ない兵でよく凌いだ。
天文23年(1554)に、北条氏康、武田信玄、今川義元の3者で、いわゆる甲相駿三国同盟が結ばれたが、上杉謙信との川中島の合戦が収束すると、武田信玄は、信濃から相模・駿河へと目を転じ、永禄11年には今川との同盟を破棄して駿河に攻め込み、次の年には同じように氏康との関係も断ち切って、関東に攻め込んだ。その時に攻められたのが滝山城だ。氏照はこの城が脆弱であることを知り、八王子城を築造することになった。
八王子城と同じように立派な駐車場があるものと思って出かけた。滝山街道の滝山城祉下というバス停の近くに、滝山城跡入口という大きな看板があったので、そこを曲がったところ、駐車場はありませんと注意書きがあった。後で分かったのだが、角にある滝山観光駐車場を利用してくださいとも書かれていた。残念ながら、見落としてしまったので、近くのお店でおにぎりを買い、少しの時間だけ置かしてもらって駆け足で見学した。
滝山城に入っていく道はいくつかあったが、バス停の滝山城祉下から入った。すぐに大きな看板があった。
かつてはこの入り口は大手口と呼ばれていたそうだ。公園の中に入ると孟宗竹で鬱蒼としていた。
さらに天野坂から桝形虎口(出入口)へと向かった。この辺りは攻め上る敵が脅威にさらされるところだ。
そして小宮曲輪だ。道沿いにこのような道しるべが立てられているので、どこにいるのかがすぐにわかる。この名は、西多摩地域出身の小宮氏に因んだのではと言われている。曲輪には、土塁で囲われたいくつかの屋敷があったと思われている。
さらに進むとコの字型土橋の案内があった。三の丸を通り抜けたあたりだ。
千畳敷、広い公園になっている。
二の丸、草が茂っていてわかりにくいがくぼ地になっている。恐らく空堀だ。
中の丸だ。
中の丸からは、眺望が開け、多摩川、昭島市の市街地などを見ることができた。
本丸への道は閉鎖されていた。このため紹介の中でよく出てくる木橋を見ることはできなかった。
八王子城と比較すると、平坦で散策しやすかったが、その分、山城としての機能は低かったのだろう。武田氏に攻められた後、八王子城を築造し、移転したというのもうなずけた。
この日は、気温は少し高かったが、全国的な秋晴れで、短い時間だったが楽しむことができた。