bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

多胡碑・綿貫観音山古墳

秋晴れの中での運動会という、子供の頃の印象が強く残っているせいだろうか、秋は行楽の季節、天候に恵まれた時期と考えていた。しかし、今年のように複数回も大きな台風に襲われると、本当にそうなのかと疑ってみたくなる。逆に、恵まれた日が少なかったので、秋晴れの日が思い出の中に強く残っていて、錯覚しているのではと思ったりもする。

この秋はずっと雨の日が続いたので、真っ青に澄み渡った空が、とくに待ち望まれた。神様の恵みだろうか、群馬県に遺跡を訪ねるこの日(23日水曜日)は、雲一つない秋晴れとなった。

この日の行程だ。横浜の港北ニュータウンを8時に出発し、東名、圏央道、関越道を利用して、多胡碑、群馬県立博物館、綿貫観音山古墳を巡る、往復で350Kmのバス旅行だ。
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最初の訪問場所の多胡碑は、山上碑、金井沢碑とともにユネスコ「世界の記憶」に二年前に登録された。今年登録された百舌鳥・古市古墳群世界遺産だが、こちらはそれとは異なる「世界の記録」だ。藤原道長の『御堂関白記』も同じ仲間だ。

多胡碑へと向かう道は鏑川の沿線にある。道路と川に挟まれた吉井運動公園は、台風19号の大雨により浸水し、大量の砂に覆われていた。多胡碑と多胡碑記念館は小高いところにあったため、水害からは免れたとのことだった。ここののボランティアの方の案内で、多胡碑を見学した。劣化を防ぐために、多胡碑は小さな小屋の中に納められていて、特別な日にしか直に見ることができない。この日もガラス越しでの見学だった。
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目を凝らすと書かれている文字を読みとることができる。そこには、
弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
とある。内容は、弁官局からの命によって、上野国の片岡・緑野・甘良の3郡から300戸を分け、多胡と呼ばれる新しい郡を作り、羊に支配させるというものだ。命が宣せられたのは和銅4年(711)3月9日で、左中弁・正五位多治比真人、知太政官事・二品穂積親王、右大臣・正二位藤原不比等によるとなっている。

和銅4年は、女帝の元明天皇の時世である。元明天智天皇の娘で、諱は阿閇皇女、母は蘇我倉山田石川の郎女の娘・姪娘(めいのいらつめ)である。天武天皇持統天皇の子の草壁皇子の正妃となり、文武天皇と女帝の元正天皇の母でもある。

碑文に名前が載っている多治比真人は、誰であったのかは特定されていないが、建郡に当たって、地元に多大な貢献をしたのだろう。身分の高い二人に先んじて名前が記されていることが、これを伝えている。穂積親王天武天皇の皇子。知太政官事は律令制では定められていない令外官の一つで、太政官を統括する最高位の官職である。藤原不比等鎌足の子で、大宝律令(701年)、養老律令(757年)の編纂において中心的な役割を果たした公卿で、このころは権勢を誇っていた。

この時代は、律令制度の枠組みが整い、平城京に遷都(710年)し、仏教による鎮護国家(東大寺国分僧寺・尼寺の建立など)に向けて、奈良朝は次の時代をめざしていた。時を同じくして群馬のこの地も、渡来系の先進技術を導入し、活気に溢れていたのだろう。多胡郡の建郡もその表れだ。

高崎市のホームページには次のことが書かれている。律令制度が始まる以前のヤマト王権の時代、多胡郡の地域は、緑野屯倉・佐野屯倉だった。屯倉には、先進的な渡来系技術が導入されていて、この地域は、窯業、布生産、石材・木材の産出などの手工業が盛んだった。このような状況の中で、当時の政権(奈良朝)が、生産拠点の取りまとめと、郡の区割見直しを目的に、建郡したとなっている。

さらに次の記事もある。建郡に際しては、「羊」(名字ではなく名前)と呼ばれる渡来人が、大きな役割を果たし、初代の郡領(ホームページは郡長官)となった。碑を建てたのは、この「羊」とも考えられると書かれている。なお「羊」については、今日の学説では人名と解釈されているが、その他にも方角を示すとするものなどいくつかの説があり、羊太夫と呼ばれる伝説にもなっている。

上野三碑と言われるように、高崎市の南部には、多胡碑の他に、山上碑、金井沢碑が存在する。これらの碑は時間の関係から実物を見学することができなかったが、多胡碑記念館の中でレプリカを前にして、学芸員の方から話を伺った。

山上碑、金井沢碑とも、上野の豪族であった三家(みやけ)氏に関係するそうだ。山上碑はお坊さんになった息子が母を供養するために建てた碑で、そこには母を中心に、先祖が記載されている。息子の名前は長利、放光寺の僧である。母の名は黒売刀自(くろめとじ)、ヤマト王権の直轄地である佐野三家(ミヤケ・屯倉と同じ)を管理していた健守命(たけもりみこと)の孫娘である。黒売刀自の夫は、大児臣(おおごのおみ)。彼は斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫であり、斯多々弥足尼の父親は新川臣(にいかわのおみ)である。

この碑の冒頭には、辛巳歳集月(しんしとしじゅうがつ)に記したと書かれているので、681年ということになる。

碑文は、全て漢字で書かれているが、中国語での語順ではなく、日本語での語順にそって漢字を並べたものである。三つの碑ともこのようになっている。この碑から、群馬の地でも、漢字が受容され、仏教が伝わってきていることが分かる。また碑が母への供養になっていることから母系家族ではとも想像させられる。

次の写真はレプリカである。
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金井沢碑は、山上碑の45年後の726年に建てられた碑で、三家一族の祖先の供養をするために集まった人々の名前が記されている。彼らは、上野国(こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)下賛郷(しもさぬのさと)高田里(たかだのこざと)に居住していた。これは、国・郡・郷・里による行政制度を、実証する貴重な資料だ。

7世父母と現在の父母の供養に集まった人々は、夫の三家子?、妻で家刀自の地位にある他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、娘の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、ひづめ刀自(ひづめは馬偏に爪と書かれている)、若ひづめ刀自の6人と、仏の教えで結ばれた三家毛人(えみし)、知万呂、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の3人だ。

この部分から、娘の夫が含まれていないことに気がつく。夫は子供の名前から察して物部君だろう。妻の家の行事には参加しないというのが、当時の習慣だったように見て取れる。さらに推測を重ねると、娘家族が、娘の両親のところに住んでいるようにも見える。これが正しければ、母系居住だ。この時代の家族システムについては、史料がほとんどなく、判然としないので、上野三碑は当時の家族構成を知る上でも貴重な資料だ。

また、同じ里に住んでいて、家族でない人々が、仏の縁で結ばれたということで、供養に参加している。このことは、仏教がこの地にさらに強く広まっていることを示すものだろう。地縁ではなく、知縁(思想・信条・関心を共有する共同体)の始まりとも見える。

次の写真はレプリカである。
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上野三碑から、律令制度、漢字文化、仏教が広まったことを確認したあと、この時代より前の時代の遺物を見るために、同じ高崎市内の群馬県立歴史博物館へと向かった。

歴史博物館では、企画展示『ハート型土偶大集合!!―縄文のかたち・美、そして岡本太郎―』が開催されていた。

この企画展では、横浜市稲荷山出土の筒型土偶、千葉県佐倉市江原台遺跡出土の山型土偶、同じく佐倉市宮内井戸作遺跡出土のみみずく土偶群馬県桐生市千網谷戸遺跡出土のみみずく土偶北秋田市藤株遺跡出土の遮光器土偶青森県田子町伝・野面平遺跡出土の屈折像土偶を始めとして270点もの土偶が展示されていて、目を楽しませてくれた。

しかし、何と言ってもこの展示での目玉は、群馬県出土のハート型土偶だ。トーハクから65年ぶりの故郷への帰還だ。この土偶は、戦時中に長野原線郷原駅の建設工事を行っているときに発見され、1951年になって公式に発表された。ハート形の顔が特徴で、この形の土偶は関東地方や東北地方南部に多く見受けられ、万博での『太陽の塔』で有名な岡本太郎の創作活動に大きな影響を与えたとされている。

また、常設展示室では、入り口から入ってすぐのコーナーは東国古墳文化展示室になっている。ここには綿貫観音山古墳から出土した埴輪や副葬品が展示されている。学芸員の方から30分ほど話を伺った。

綿貫観音山古墳は、墳丘長97mの前方後円墳で、6世紀後半以降の造営とされる。盗掘を免れたため、副葬品が多数出土し、当時の状況を教えてくれる貴重な古墳だ。展示室に入ると、古墳の模型があり、墳丘には、円筒埴輪、形象埴輪(人物、馬、家)が配置されていて、当時の古墳の様子を伝えてくれる。

中に入ると、人形埴輪が置かれている。あぐらをかいた男子の埴輪の前に、正座する女子の埴輪があり、その横手には三人童女の埴輪がある。学芸員の方の説明によると、足まで備わっている埴輪は珍しいそうだ。その奥には、振分け髪の男子と甲冑で武装した兵士の埴輪があり、馬具を装着した馬の埴輪が続いている。家形埴輪もある。

さらに奥に入ると、盗掘されなかった石室から出土した副葬品がある。たくさんの馬具が置かれていてとても見事だ。さらに進むと、獣帯鏡が展示されている。これは百済武寧王の墓から出土したものと同型だそうだ。そして銅製の水瓶。中国の北斉の墓からも同様のものが出土している。これらは、綿貫観音山古墳に埋葬された豪族が、直接あるいは間接に朝鮮半島や中国と交流があったことを伝えてくれる。

この後、綿貫観音山古墳を見学に行った。全景は、
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石室は、
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埋葬者は、石棺ではなく、布を引いてその上に寝かされたそうである。さらに鉄製の釣り具が見つかっていることから、石室をカーテンで覆っていたのではないかともいわれている。

綿貫観音山古墳の頂を観察している頃には、短くなった秋の陽が、今回の旅行の終わりを告げていた。もう少し時間をかけて、じっくりと見学したかったが、横浜からだとこれが限度のようだ。この日は、即位の礼が行われた次の日ということもあって、交通規制がしかれ、都心に近づくにしたがって、渋滞が激しくなったが、7時半ごろには出発地点に戻ることができた。群馬には、このほかにも素晴らしい古墳があるので、泊りがけで、ゆっくりと見学できる機会を作りたいと思っている。