bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

藤沢の遊行寺にて

藤沢の遊行寺で、特別展「時宗二祖上人七百年御遠忌記念 真教と時宗」が開催されていたので、26日(土曜日)に見学した。

遊行寺は、箱根駅伝で難所の一つとして知られている場所なので、耳にはなじみのある名前だが、それだけで、訪れたことはなかった。

藤沢という地名の由来だが、諸説あるようだ。今回の特別展の説明をしてくれた遊行寺宝物館館長の説明によれば、淵沢がなまって藤沢になったそうだ。淵沢は、水の淵を表すそうで、その場所は遊行寺境内の奥深くにある宇賀神神社の裏手とのことだった。これがその場所だ。
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藤沢は、江戸時代には東海道53次の宿場町として栄えた。天保14年(1843)の調べでは、人口4089人、家数919軒、旅籠数45軒で、神奈川県内では、城下町の小田原宿、湊町の神奈川宿に次いで人口が多かった。藤沢宿の歴史・文化を伝えてくれる施設が、ふじさわ宿交流館だ(写真で左手奥が遊行寺)。
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近くには遊行寺橋がある。この橋は旧東海道境川を渡るところにかけられており、江戸時代には大名行列が通ったところでもある。
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江戸時代からさらに時代を遡り、遊行寺が造られたころの鎌倉時代は、貴族の時代から武士の時代へと、政治・経済・社会の構造が大きく変化したときである。そして仏教もその変化から免れることはできなかった。

奈良時代は、東大寺国分僧寺・尼寺に代表されるように、朝廷による鎮護国家と学問を中心とした仏教、平安時代は、病気・災害などでの加持祈祷から分かるように、現世利益を中心とした貴族のための仏教であった。これに対して、鎌倉時代は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えている人々で気が付くように、武士階級・一般庶民を対象に救いを説く仏教へと変わった。

遊行寺という名は通称で、正式な名前は清浄光寺という。本堂には、北朝後光厳天皇の直額がある。最後の「寺」という字は、「寸」の部分が左に45度傾いている。後光厳天皇は、南朝方が3人の上皇と皇太子を吉野に連行した後に、三種の神器もないなかで践祚したため、正当性に疑問がもたれて、基盤の弱い天皇であったが、文字をいじるような遊び心があったのであろう。
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なお、遊行寺には南朝後醍醐天皇御像もおさめられているので、南朝とも北朝ともうまく付き合ったのだろう。

遊行寺は、踊念仏で知られる時宗のお寺だ。時宗は、一遍上人によって鎌倉時代末期に開祖された、浄土教の一派である。浄土教は、念仏によって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生し、成仏できると説いている。浄土教は、平安時代にも受け入れられているが、飛躍的に発展したのは鎌倉時代に入ってからである。

平安時代末期から鎌倉時代の初めには、比叡山天台宗の教学を学んだ法然上人が、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた。鎌倉時代中期になると、一遍上人が、時衆を率いて、遊行を続け、民衆を踊念仏と賦算(南無阿弥陀仏、決定往生六十万人と記した念仏札を配ること)とで、極楽浄土へと導いた。

一遍上人には、自身の教えを、一つの宗派にする意図はなく、仲間たちを「時衆」と呼んだ。今回の特別展も時宗ではなく時衆が使われているのはこのためだ。ちなみに、時宗は江戸時代以降に使われるようになった。

一遍上人は遊行に明け暮れたので、寺院を建立することはなかった。しかし一遍上人が亡くなってからも、彼を慕う人々が多く、教えを継続して欲しいという要望が強かったために、他阿真教上人が、教団を実質的に築いた。真教は、41歳のとき、一遍上人が九州を遊行しているときに出会い、教えに感銘を受けて、最初の弟子となり、「他阿弥陀仏(他阿)」という名を授かった。出会いのあと、12年間遊行を共にしている。

真教は、1304年に遊行を止め、相模原当麻無量光寺で念仏道場を開いた。信教の跡を受けた3世智得が亡くなると、真教の弟子の呑海(どんかい)が当麻に入ろうとするが、執権北条高時の支持を得た智得の弟子の内阿がすでに相続していたため果たせなかった。そこで、呑海は、鎌倉郡俣野領内の藤沢にあった廃寺の極楽寺を、清浄光院として再興した。

呑海は、俣野の領主であった俣野氏の一族である俣野五郎景平の弟とされている。また、清浄光院の開基は俣野五郎景平である。ちなみに俣野五郎景平は、相模国俣野荘の地頭だ。

それではそろそろ遊行寺(清浄光寺)の散策へと移ろう。まずは本堂だ。木造銅葺の堂々とした建物だ。関東大震災(1923年)では、この地域は強い直下型の揺れを受けたため、建物がそのまま上に突き上げられ、柱がほぞから外れて、崩れたそうだ。そのため、柱が折れずに残ったそうで、それらを用いて昭和10年(1935)に上棟、12年に落成した。
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御本尊は阿弥陀如来坐像(像高141cm)だ。
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鐘楼には1356年に造られたとされる総高168cmの梵鐘がある。戦国時代には遊行寺は戦場となり、梵鐘は北条氏によって小田原城に持ち去られ、寺は廃寺同様となった。1607年再建されたが、梵鐘が戻ったのは1626年だ。
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徳川5代将軍の綱吉のとき、生類憐みの令(16941年)が出され、「金魚・銀魚を有する者は、その数を正確に報告し、差し出すように」というおふれが出た。そのとき集められた金魚・銀魚が放出されたのが、放出池である。
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宇賀神社の宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされている得川有親の守り本尊とされている。有親は遊行12代尊観上人の弟子となり、その子の泰親(独阿弥)は、遊行寺に宇賀神社を奉納し、また松平家の養子になった。泰親の長男竹若丸が松平を、次男竹松が徳川信光を称したと伝えられている。
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次は、浄瑠璃小栗判官・照手姫ゆかりの長生院。1422年常陸小栗の城主判官満重が、足利持氏との戦いに敗れて落城し、その子の判官助重が、一行とともに三河に逃げ延びるとき、藤沢で横山太郎に毒殺されそうになった。このとき妓女の照手が助重を逃がし、一行は遊行上人に助けられた。そのあと助重は家を再興し、照手を妻にした。助重の死後、照手は髪を下ろして長生尼となり、助重と一行の墓を守った。
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境内の東門近くには、敵御方供養塔がある。1416年に上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対して起こした反乱(禅秀の乱)で、氏憲は敗れ、双方に多くの死者が出た。両方の使者を供養するために建てられたのがこの碑で、博愛精神をもっとも古くから表すものとして国宝になっている。
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以上の話を宝物館館長の方から伺った後、宝物館で特別展の話を伺った。
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会場では、入り口近くに真教上人の像があった。この像は生前に造られたそうで、寿像だ。真教が82歳の時だそうで、右目の瞼が垂れ下がっているのが印象的だった。この像を真正面から見ると、背後に「南無阿弥陀仏」と記載された真教の六字名号が掛けられていた。時宗では六字名号が本尊となるので、名号の前で教えを説くこととなる。

このほかに一遍聖絵と遊行上人縁起絵が展示されていた。一遍聖絵は国宝で、ここ清浄光寺(遊行寺)が所蔵している。全部で12巻で、会場では興味をそそられそうな部分が展示されていた。遊行上人縁起絵は、いくつかの系統のものがあり、同じ場面が並べて置かれていたので、比較することができ楽しむことができた。

特別展「時宗二祖上人七百年御遠忌記念 真教と時宗」は、第一会場を遊行寺とし、第二会場を神奈川県立歴史博物館としているので、神奈川県立歴史博物館も見学し、理解を深めたいと思っている。