bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東北北部縄文の旅:御所野遺跡

最後の訪問地の御所野遺跡は、岩手県二戸郡一戸町に位置する、縄文中期(4,500~4,000年前)の遺跡である。下図のように、東ムラ、中央ムラ、西ムラと3か所の集落があり、また、中央には配石遺構(ストーンサークル)がある。500年間使われ、800軒の住居跡がある。
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縄文時代は、定住型の狩猟(漁撈)採取生活と位置付けられているが、実はその中身については、あまり理解していなかった。今回の旅を終えて整理している中で、この記事を書く直前になって、東大名誉教授の辻誠一郎さんが、JOMONFANに書かれた連載企画「北の縄文、海と火山と草木と人と」を読んで、初めて納得した。一言で言うと、「北の縄文人の人々は里山を作っていた」と辻さんは述べていて、説得力のある説明だった。

三内丸山遺跡年報20に、辻誠一郎さん他の「三内丸山遺跡の集落景観の復元と図像化」の研究論文が掲載されている。その43ページには三内丸山集落生態系の景観モデルが載っている。そこには、集落と半栽培化されたクリ林からなる里地、里地をとりまく台地ではクリ・なら類などの落葉広葉樹林からなる里山、里地をとりまく低地ではヤチダモ・ハンノキ湿地林となり、川や海へとつながって里川、里海が描かれ、三内丸山地域の景観が見事に復元されている。また里山の外側の奥山はブナ林となっている。人々は里地、里山でのクリの育成・維持・管理に努め、そして里山でのたきぎの切り出しなどをしながら林の生育に努めたのだろう。

また縄文時代後期の中居遺跡についても、八戸市埋蔵文化センター是川縄文館研究紀要5号の中の、吉川昌伸さんと吉川純子さんの論文「是川遺跡の縄文時代晩期の景観復元」の11ページに示されている。三内丸山遺跡と比較すると、かなり小規模にはなっているものの、住宅の周りの里地にクリ林が、それを取り巻く里山にクリ・トチノキ林がある。さらにその外側にゴボウ・ヒエ・ダイズ族やアサの畑が展開されている。食物の栽培がそろそろ始まったことを教えてくれる。

御所野縄文公園のホームページを改めてみると、「里山づくり」という項目がある。旅行に出かける前には気にも留めなかったが、縄文時代のキーワードは「里山」と認識したので、里山作りは、縄文時代を経験し検証するためのとても重要な活動だ、と今では理解している。

御所野遺跡に踏み入るためには、令和の時代から4000年前の縄文の時代をつなぐ懸け橋、全長86.5mの「きききのつり橋」を渡らなければならない。ここは谷が深いので、ロープを渡しただけの吊り橋だとすると、恐ろしさのあまり身がすくんでしまうだろう。しかしきききのつり橋は、右の方にカーブしながらゆっくりと古代へと誘導してくれる木製の通路で、時代をさかのぼっていく楽しさを与えてくれる。我々は暖かい木のぬくもりを感じながら、そして下には深い谷を見ながら、縄文時代へと時計を逆戻しした。
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つり橋を抜けると、晩秋真っ只中の、縄文時代の見事な紅葉が我々を出迎えてくれた。
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東ムラの集落へと入っていった。掘立柱建物の左側に小高い山と間違えてしまうような建物がある。
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近づいてみると、なんと竪穴住居だ。案内してくれた学芸員さんの話によると、竪穴住居を発掘しているときに、土の屋根だったことが判明したそうである。竪穴の床面に、柱を立て、柱と柱を梁でつないで家の構造を作り、屋根の構造となる木を縦方向と横方向に組み、土で覆って造ったとのことだった。日本の家屋もかつては土壁だったので、これと同じ原理なのだろう。夏涼しく冬暖かいということだったが、屋根にぺんぺん草などが生えてきたとき、手入れはどうするのだろうかと他人事ながら心配になった。
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掘立柱建物にも近づいてみた。
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東ムラより中央ムラへと向かった。途中の広葉樹がきれいに色づいていた。
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中央ムラの集落にたどり着いた。隣ムラはさほど離れていない。住居のつくりもさほど変化はないが、小さな小屋は粗末な作りだった。
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中央ムラには配石遺構がある。その周りには祭祀に使われたのだろうか、掘立柱建物があった。
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配列遺構は、二つの大きな環(ストーンサークル)になっていると説明があったが、判然としなかった。環を構成している石の塊がそれぞれ離れすぎているためだろう。石の塊の一つだ。
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中には一つの大きな平たい石で構成されているものもあった。
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ここでの配列遺構の考え方は進化を遂げて、次の時代になると、前の記事で説明した大湯ストーンサークルのような大規模なものへと変化していく。

さらに奥の方には西ムラが見えたが、ここで引き返した。
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紅葉が見事だった。
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御所野縄文博物館内に入って御所野遺跡から出土した土器などを見学した。この時期、東北地方での土器型式は、北部は直線的な円筒式で、南部は丸みを帯びた大木式だが、御所野遺跡では両方の形式が発掘されている。丁度二つの文化の接点だったのだろう。

まずは深鉢型土器だ。
すっとした感じの円筒式土器が3点、
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丸みを帯びて、模様も曲線が多い大木式土器が2点、
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そして大木式の浅鉢型土器。
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さらに棚にはたくさんの土器が並んでいた。円筒式と大木式が混じりあっているので、区別できるようになったか、試してみるのがよさそうだ。
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石鏃。これだけ集まると壮観で、すごみもある。
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ここからは一戸町内の別の遺跡から出土したもので、いずれも晩期に属し、「縄文の美」ともいえる亀ヶ岡式土器である。

蒔前遺跡出土の土器類である。
繊細な模様が素晴らしい鉢型土器、
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黄金色の光を放つ皿型土器、
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洗練された感じの壺型土器、
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完成された美の壺型土器、
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お気に入りの注口土器、
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いたずら心が働いたのだろう、鼻曲がり土面、
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次は山井遺跡出土の土器類である。
伝統を感じさせる模様の浅鉢型土器、
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割れていなければ、模様の美しさをもっと感じさせてくれる浅鉢型土器、
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ちょっと凝りすぎたかなと思える注口土器、
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最後を飾るのは、バスガイドさんが是非見るようにと勧めてくれた椛の木遺跡出土の「縄文ぼいん」。ピカソもびっくりだろう。
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かくして東北北部縄文の旅は終了だ。最後に御所野遺跡訪問にしたのは、素晴らしい組合せだと感じた。東北北部の縄文の特徴は、中期の大集落、後期のストーンサークル、晩期の「縄文の美」を伝える亀ヶ岡式土器だが、御所野遺跡ではこれらをまとめてみることで、得られた知識を整理することができた。

ところで東北北部は、かつては太平洋側は南部藩日本海側は津軽藩だった。この二つの藩が仲が悪かったことは有名な話だが、バスガイドさんの話では今でもわだかまりがあるとのことだった。縄文時代には、北部の円筒式土器と大木式土器がお互いに影響しあって、最後は素晴らしい亀ヶ岡式土器を生み出したように、協力しあったほうが良いものが生み出されると訪問者の私は考えるが、利害が絡む当事者たちの間では、なかなかそうはいかないようだ。現実は厳しいと憂鬱な気分になりもしたが、そうこうしているうちに、帰路につくための盛岡駅に着き、バスガイドさんにお別れを言って、車中の人となった。