bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

海老名の古刹「龍峰寺」を訪ねる

11月中旬の雲一つない見事に晴れ上がった日に、海老名市の古刹「龍峰寺」を訪れた。この10月から新たなボランティアが加わり、その先で知り合いとなった仲間たちと一緒である。コロナ禍の昨今では、当たり前と見なされ、奇妙とは感じなくなった悲しい現象なのだが、実はこの人たちの「顔」を知らない。マスクをつけた姿しか見たことがないためで、それを外したときの容貌は想像上のものでしかない。屏風の向こうから声だけが聞こえてくる平安王朝の女房たちと付き合っているようで、本当の「お顔」はどうなっているのだろうと好奇心を湧き立たせてくれる。しかしこれが新しいライフスタイルだとすると、清少納言のように「いとおかし」と興じているわけにはいかない。

訪問先の龍峰寺には、年に2度しか「お顔」を拝顔することが許されない秘仏千手観音菩薩立像がある。この像は相模川沿いのお寺の秘仏とともに、神奈川県立歴史博物館で今月の29日まで、特別展示されている。企画は何年も前からなされたものなので、コロナ禍に合わせたものではないだろうが、ちょうどいい巡り合わせとなって、不自由な生活を強いられている人々に、癒しの場を提供しているようだ。

これらの秘仏は御開帳のときしか見ることができないし、その限られたときでも暗い堂の中に納まっている像を遠目にぼんやりとしか見ることができない。しかし今回の展示では、弱い光のスポットライトに照らされた暖かい空間の中で、手の届きそうなところから、正面はもちろんのこと背面までもくまなく見ることができる。幸せなことに、何回か鑑賞する機会を得て十分に堪能することができた。さらに踏み込んで、この像の本籍地を訪ねてみようということになった。

像の説明から始めたいと思うが、撮影は許されていないので、目に焼き付けた姿を思い出しながらにしよう。像は等身大よりは少し大きく192cmある。作られたころは金色に輝いていただろうが、時代を経て、渋みを帯びた茶色へと変わっていて、時代の流れを感じさせてくれる。頭部には10面の仏(3面は欠損しているとのこと)と阿弥陀如来の化仏が取り付けられていて、仏さまであふれている。何と言っても千手観音なので、手がたくさんある。とはいっても千本あるわけではなく42本である。2組は胸の前にあり、一つは合掌し、他の一つは印を結んでいる。その他の手は脇手と呼ばれ、左右それぞれ3列に並び、前列と後列に6手、中列に7手有している。中列の1組は頭上で手のひらを上に向けて組み、化仏(けぶつ)を乗せている。それ以外の手は楯やどくろなどを持っている。合掌している手を除いた40本の手のそれぞれが25の世界を救うので、25x40=1000で千手と言われているそうである。

龍峰寺の千手観音菩薩立像は京都清水寺の本尊千手観音像にならったものとされ、このため清水式千手観音像とも呼ばれ、重要文化財に指定されている。この像は、鎌倉時代に制作された仏像にみられる玉眼を有し、本体は奈良時代後期から平安時代初期に用いられたカヤの一本造である。このため制作年については、本体を古代のつくりに模したという鎌倉時代説と、頭部を後から付け加えたという奈良・平安時代説とに、意見が分かれている。

千手観音菩薩立像は龍峰寺の所有で、所在地は海老名市である。この市はかつて相模国高座郡に属し、奈良時代にはこの地に相模国国分僧寺国分尼寺が建立された。古代の多くの国では、国府国分寺は近いところに設置されたが、相模国では、国府は20km南と離れた大住郡(平塚市)に設置された。

古事記からは、相模国西部は師長国造、東部(愛甲・大住・高座)は相模国造、三浦半島は鎌倉別(わけ)が支配していたことが知られている。また続日本後記からは、9世紀中ごろの大住郡と高座郡の大領は、相模国造の末裔とみられる壬生直(みぶのあたい)氏であったことが分かる。これらから大住郡と高座郡には律令制が開始されたころには同族が住み、その連携によって片方の場所には国府が、他方には国分寺が建立されたのではないかという説もある。

なお高座は今では「こうざ」と読まれるが、万葉仮名では「太加久良」と書かれるので、古代は「たかくら」と呼ばれていた。また高座と記されるようになったのは、713年の風土記撰進の命によって「群・郷名に好字をつける」となってからで、それまでは「高倉」であった。

龍峰寺は、室町時代初期の1341年に、現在の地ではなく、それより南1㎞(現在の海老名中学校のあたり)の場所に、鎌倉の建長寺の末寺として創建された。昭和初期に清水寺があった現在の地に移転し、観音堂などを始めとして、このとき廃寺となった清水寺の遺構を受け継いだ。

一方、清水寺は、古代に創建され国分尼寺となったこともあるとされる湧河寺(ゆうがじ、あるいは漢河寺ともいう)の古刹で、源頼朝により再建されたと縁起には記され、観音堂は水堂と呼ばれて人々に親しまれていたそうである。また先に説明した千手観音菩薩立像はこの寺に伝わるものであった。

それでは龍峰寺を訪ねてみよう。山門(清水寺が1699年にこの地に移転した際に建立され、1751年に再建された)、
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鐘楼、
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観音堂(かつては清水寺の本堂だった)、
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本堂、
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千手観音菩薩立像を納める倉庫、
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参詣中に偶然に出会った住職さんが、観音堂の鍵を開けてくださり、普段は見ることができない内部の見学が許された。内部には91体もの観音様が並ぶ木造百観音像や、江戸時代や明治時代の絵馬があり、思わぬ見分にも恵まれ、「人々の出会いはいとおかし」と感じた。そしていにしえの世界から現実の世界にもどり、昼食をとるために近くのショッピングセンターへと向かった。