bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

Ginger Shakin' Beefに挑戦

コロナウイルスにより旅行がかなわない中、カリフォルニアに住む友人たちと、Zoomで定期的におしゃべりをしている。よもやま話が主で、楽しみを作っているという面が多い。料理の話が出たときに、「それではレシピを送るからね」と言われ、第一弾として、ビーフ編が送られてきた。

何と、味噌や豆鼓醤(トウチジャン・Black Bean Source)を用いたアジアンテイスト。我々が日本人だから選んでくれたのではなさそうに思える。カリフォルニアでは、一般家庭でもこれらの食材は普通に使われるようになっているのだろう。彼らが住んでいるところは、サン・ルイス・オボスポ。サンフランシスコとロスアンゼルスの中間地点にある町で、カリフォルニア州内では最古級の街なのだが、知っている人はそれほど多くない。5万人に満たない人口なので、アジアの食材をどのようにして手に入れているのだろう。

ここで紹介する料理は味噌味の肉料理である。サーロインステーキ300gが必要と書かれていたので、早速近くのスーパーに出かけて購入しようとしたところ、150gで2000円以上。霜降りで美味しそうなのだが、今日の料理には合いそうもない。もっと安い肉を得るために足を延ばし、アメリカ産のサーロインステーキを手に入れた。

それではレシピに移ろう。二人分のこの料理の役者たちは、
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残念なことに、ハチミツが恥ずかしがったため、写真に納まっていない。彼らの体重は、
1) サーロインステーキ:255g (もらったレシピは10オンス(283g)だったので、少しでも合うようにと、一番重量の多いパックを購入)
2) 生姜:右側の1個を利用(レシピでは1.5インチ(3.8cm)のピースを推奨)
3) 味噌:大さじ1杯(レシピではテーブルスプーンとなっていた)
4) ハチミツ:大さじ2杯
5) チンゲン菜:2束(レシピでは8オンス(227g))
6) 赤ワインビネガー:大さじ2杯

推奨された重さよりも、サーロインステーキは少し小ぶり。チンゲン菜ははるかにオーバーしていた。なんと400gを越えているが、野菜は多くても健康にはいいだろうと思い、このまま使用した。

頂いたレシピは、炒めたり茹でたりしながら材料を切っているが、ここは自流を通して、下準備してから、本番に入ることにした。まずは肉から、購入した肉はこのような感じ、
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最初に見た霜降りの肉と違って、脂肪分が固まってある。大きな脂肪の部分を切り取り、肉の部分は3㎝角程度に切った。
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生姜は、つまようじの細さぐらいに切ることが推奨されていたが、できる範囲内で処理した。
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次はチンゲン菜、なかなか立派。
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食べやすさを考えて、縦方向に1回、横方向に2回切った。あとから考えると、良い姿を強調するためには、縦に1回切っただけで止めておけばよかった。
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肉に大さじ1杯の味噌を塗りつける。
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フライパンに脂身をのせ、熱めの中火で炒め、溶け始めたら生姜を加えて炒める(脂身が少なめだったので、牛脂を2個加えた)。
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カリカリになったところで止める(レシピではcrispyとなっていた)。
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油の部分はフライパンに残し、生姜を皿に移す。
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フライパンに肉を移し、4分間転がしながら焼く(レシピではtossとなっていた。料理英語なのだろうか。ボールを投げるという意味でしか知らなかった)。
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ハチミツ大さじ2杯と赤ワインビネガー大さじ1杯を加え、さらに一分間転がしながら焼いた。
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これと並行して、沸騰した湯の中にチンゲン菜を入れて、同じように1分間茹でた。
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お皿に盛っていく。まずはチンゲン菜、
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続いて肉、さらにカリカリの生姜。
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今日の食卓。ワインは大好きなニュージーランド産の白。
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アメリカ産のサーロインステーキと味噌の味がマッチし、さらにハチミツの甘さが味に彩をもたらしてくれ、美味しい食事を頂くことができた。

なおここで紹介した料理は Jamie Oliverの"5 Ingredients Quick and Easy"からだそうだ。

虎尾達哉著『藤原冬嗣』を読む

藤原冬嗣は西暦800年の前後25年を生き抜いた。794年に平安京に遷都されたので、平安時代初期に活躍した公卿となる。父は藤原内麻呂、母は百済永継(えいけい)。母は苗字から分かるように渡来系、長男真夏と次男冬嗣を儲けた。そのあと桓武天皇後宮に入り子を得た。その子は臣籍降下した良岑安世である。当時は、子供たちは母の実家で育てられたので、冬嗣と安世は一つ屋根の下で育ったことであろう。

このころの藤原家は四家に分かれており、冬嗣は北家に属する。四家は、奈良時代初期に活躍した藤原不比等の四人の子供を祖とする。父の内麻呂が貴族の仲間入りした頃は(781年に従五位下)、南家が隆盛で、継縄(つぐただ)が政権を握っていた(790年に左大臣)。内麻呂のライバルは2歳年下の南家の雄友(おとも)であった。二人の間での昇進レースは抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げたが、最後は内麻呂が征して右大臣に昇任し、南家の優勢は崩された。追い打ちをかけるように平城天皇が即位したあと、伊予親王に謀反の企てがあると報告され、雄友は親王の叔父であったことから、連座していると見なされ、流罪となった。これにより、二人の出世レースは終了した。

冬嗣のライバルは、1歳年長の式家の緒嗣(おつぐ)だった。彼は徳政相論で有名である。桓武天皇は、彼と菅野真道に対して、現在の政治の問題点について質問した。緒嗣は、「今、天下の民を苦しめているのは軍事(東北地方での対蝦夷戦争)と造作(長岡京平安京での造営工事)であります。この二つを止めれば人々は安穏に暮らせるでしょう」と主張した。これに対して真道は桓武天皇の施政を擁護する立場から、執拗に異議を唱えて緒嗣の主張を認めなかったが、軍配は緒嗣に上がった。

緒嗣の父の百川は、光仁桓武の擁立に活躍したため、百川が亡くなっているにもかかわらず、緒嗣は目をかけられ、29歳の若さで参議に昇進した。朝廷組織の最高機関は太政官で、長官は太政大臣であったが、この時代にはこの地位に就くものはなく、左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。次官は大納言・中納言および参議で、大納言の官位は正三位中納言従三位、参議は四位以上の位階を持つ廷臣の中から才能のあるものが選ばれた。参議以上は公卿と呼ばれ、いわゆる上級貴族である。

一方の冬嗣は10年近く遅れて参議になったが、昇進が遅かったわけではない。緒嗣があまりにも若くしてなりすぎたためである。嵯峨天皇の時世になると、冬嗣の出世は早まる。巨勢野足(62歳)とともに、新たに設置された蔵人頭に36歳のときに昇進する。この職は天皇の身近にあって、勅使や上奏の伝達を行い、身辺の世話を仕切る役割であり、天皇の側近グループとなる。また、太政官への登竜門ともなった。野足と冬嗣は、嵯峨天皇が皇太子であった時に、春宮坊の長官と次官であった。このことから、彼らの重用は、天皇からの信頼が厚かったことによると見られる。

蘇我天皇治世前期は、冬嗣の父が政権を握り、彼が亡くなると、同じ北家の園人が政権を握る。このころになると冬嗣は、緒嗣を追い抜く。そして園人が亡くなると、冬嗣が政権を担い、緒嗣は次席に就く。しかし冬嗣は享年52歳で亡くなり、そのあとの20年近くを緒嗣が政権を担うこととなる。緒嗣は享年70歳で亡くなるが、40年以上もの長い歳月を太政官として過ごした。二人の出世レースはどちらの勝だったのだろう。なお、冬嗣の後継と見なされていた同母兄弟の良岑安世は、冬嗣が亡くなった数年後に亡くなり、その夢は絶たれた。
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さて冬嗣が政権を担ったのは、園人が病床についた弘仁7年(816)から冬嗣が亡くなる天長3年(826)までのおよそ10年間である。しかしこの時期は、運が悪いことに、災害が頻発していた。

弘仁5年(814):疫病(天然痘)
弘仁8年(817):旱魃(不作・凶作)
弘仁9年(818):旱魃(不作・凶作)、関東地方を襲った弘仁地震(M7.5)、疫病(天然痘)
弘仁10年(819):飢饉(山城・美濃・若狭・能登・出雲)、旱魃・長雨(不作・凶作)
弘仁11年(820):豊作
弘仁12年(821):秋まで順調(公卿の昇任人事あり)、10月洪水(河内・山城・摂津)
弘仁13年(822):旱魃(不作)
弘仁14年(823):疫病(天然痘)

この時代、不作・凶作や災害・疫病の発生は天皇に徳がないためとされた(天人相関思想:有徳の天子が善政を行えば、天はこれを寿ぐサインとして祥瑞を送り、不徳の天子が悪政を行えば、これを譴責するサインとして災異を送る)。嵯峨天皇は、この責を負って譲位した。

冬嗣を始めとする公卿たちも、災害の責任の一端は自分たちの不徳にあるとして、災害対策を行った。これらの中には富者の社会的義務(ノブレス・オブリージュ)を果たすという面もあったと著者は述べている。
(1) 先貧後富の灌漑ルールの徹底:灌漑は最も貧しいものの田から始める。
(2) 富豪の貯えている稲殻を供出させ、困窮の徒に借貸する。
(3) 百姓の農業では損害が少なくないので、財源の逼迫を救うため、当分の間、臣下の封禄の4分の1を削減し、その分を国費に充てる。
(4) 在地の富豪層に救済を請け負わせ、その見返りに位階を与える。
(5) 大宰府内での公営田(くえいでん)制度の実施:口分田の1割強を回収し、国家の直営田とし徴用して耕作させ、佃功(手間賃)と食料を支給する。
(6) 国司の不正禁止:国司は災異対応に精勤することを命じ、災異に便乗しての私益の追求に走ることを禁じた。

冬嗣は、実利を重んじる積極的財政によって、政権を担った一方で、藤原一族の族長としても業績を上げた。氏族を代表する族長は古来氏上(うじのかみ)と呼ばれたが、のちに氏長者が用いられるようになる。藤原氏の場合は、氏族の同族意識はそれほど強くなかったが、平安時代以降になると北家を中心に絆が強まりはじめ、基経のあたりから氏長者が定着した。このため冬嗣は氏長者の準備段階、プレ「藤氏長者」と言えるようなものであった。しかしそれにもかかわらず一族のために大きな貢献をした。

この時代になると、藤原氏といえども困窮するものが現れ、一族を盛り立てることが課題になった。その中でとられた方策の一つが勧学院である。これは大学寮で学生として勉学する藤原一族の寄宿舎で、在院の学生には学費を支給するなどの便宜を図った。

もう一つは施薬院の基盤強化である。施薬院聖武天皇妃の光明皇后悲田院とともに開設した病気を療養するための施設で、光明皇后が亡くなったあとその活動は減退していたが、冬嗣が自身の財源を投入することで財政基盤の確立を図った。

ここから、本を読んだあとの考察をしてみよう。本では冬嗣は摂関家の基盤を築いたとなっていたが、そのことについて少し検証してみよう。ここでは、藤原家と天皇家の間に存在する様々な関係を引き出すことができる遺伝的な性質を利用する。DNAには次のような性質がある。全ての子供は母親のミトコンドリアDNAを継承し、男の子供は父親のY染色体を受け継ぐ。それでは冬嗣の子孫と、天皇家の関係を見ることにしよう。

下図で、緑色は、藤原北家の中で、冬嗣のY染色体を受け継ぐ男性子孫でたちである。図左上の総継は藤原北家末茂流で、曾祖父を冬嗣と一緒にするので、冬嗣と同じY染色体を曾祖父から受け継いでいるが、冬嗣から受け継いだわけではないので、緑色にはしていない。可能性は低いが突然変異によってちょっとだけ異なる可能性もある。

また青色は、嵯峨のY染色体を継承している天皇(すべて男性)である。淳和の場合には、総継と同じ理由で青色にしていない。そして冬嗣につながる藤原北家から天皇家に嫁いだ女性を母親とする天皇については、青色を濃くした。また嵯峨を起点にして、即位の順番を付した。

赤色は、冬嗣あるいはその子孫から天皇家に嫁ぎ、天皇を儲けた皇后(贈皇后・中宮を含める)である(但し、右下の姸子は娘の内親王天皇を儲けた)。
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上の図から、ミトコンドリアDNAが藤原氏を介して天皇家へ受け渡されているように見えないだろうか。

少し様子を変えてみよう。下図に示すように、A家の娘さんがB家へ嫁ぎ、その娘さんがC家へ嫁ぎ、さらに同じような状況が続いたとしよう。

A家に嫁いだ女性のミトコンドリアDNAが、B家に贈られ、さらにC家に、そしてD家へと伝わっていく。まるで、ミトコンドリアDNAが、家から家へと贈与されているように見える。マルセス・モースが『贈与論』で説明していたことが、ここでも見ることができる。

男系継承では、それぞれの家で男性由来のY染色体が継承され、女性由来のミトコンドリアDNAが家々をめぐる。いとこの間での結婚を推奨するような内婚制の家族システムでは、ミトコンドリアDNAは、その家系から出ていく機会が失われる。そうではない外婚制の家族システムでは、ミトコンドリアDNAは渡り歩く。
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平安時代においては、天皇家に生まれた内親王は、皇族と結婚するか、伊勢神宮賀茂神社の斎王になるしかなかったので、天皇家に入ったミトコンドリアDNAは門外不出となる。面白い発見に見えるのだが、賛成していただけるだろうか。

またもし女系家族だとすると、これまでの説明とは反対の状況が生じることとなるが、詳しくはご自身でどうぞ。

杉山正明著『疾駆する草原の征服者』を読む

今度の日曜日から大相撲三月場所が開催される。コロナ禍の中、家に閉じこもりがちなので、楽しみにしている人も多いことだろう。この間発表された番付から幕内力士の出身地を調べてみると、42人中10人が外国出身の力士だ。率にして24%。グローバリゼーションが進んでいるとみていいだろう。中でもモンゴル出身の力士の活躍は目覚ましく、二人の現役横綱もこの国の出身だ。

ところで歴史の中でのモンゴルへの印象はどうだろう。多くの人は鎌倉時代の蒙古襲来(文永の役弘安の役)を思い出すだろう。恐ろしいいでたちの兵士たちが、大規模な艦隊を擁して、九州北部に襲い掛かってきたことを思い浮かべるだろう。

ところが先日読んだ杉山正明著『疾駆する草原の征服者』は、このようなイメージとは異なる創造的な人々を活写してくれる。2005年に講談社から発売された「中国の歴史シリーズ」が昨年より文庫本化され、順を追いながら出版されている。2月の配本がこの本であった。前にも説明したが、このシリーズは中国と台湾で翻訳出版されたという滅多に見られない現象を起こしたシリーズで、どの分冊もユニークで面白い。『疾駆する草原の征服者』もその例外ではない。

中国は、万里の長城の内側いわゆる中華と呼ばれる農耕地域、その西側・北側の遊牧地域、東北側奥の狩猟・採集地域に大別できる。中国の歴史は中華について語られることが多いが、この本はその外側の遊牧民たちが築いた歴史を、唐滅亡のきっかけとなった安禄山の乱をスタートにして、契丹突厥女真族、そして大モンゴルまでの600年について、語ったものである。テンポの良いリズミカルな本で気持ちよく読み進んでいたが、大モンゴルの説明に入った途端に、調子が崩され、前のページを読み返す機会が多くなった。

冒頭の大相撲の力士につながってくるというわけではないが、モンゴル帝国が成し遂げたグローバリゼーションについて書かれているのだが、何ともすっきりと頭に入ってこない。そこで、作者の意図とは異なるところがあるかもしれないが、数学的な手法を組み入れながら、第6章「ユーラシアの超帝国モンゴルの下で」をまとめてみた。

モンゴル帝国の歴史を簡単に纏める。12世紀にモンゴル高原では遊牧民が争いを繰り返していたが、13世紀初頭モンゴル部のテムジン(のちのチンギス・カン)が諸民族を統一、千人隊集団(千戸制)と呼ばれる軍事・行政制度を取り入れて、キタイの人々が築いてきた政治・行政制度を発展させ、初代のモンゴル帝国皇帝チンギス・カンとなった。彼は、華北の金(女真族)へ進入、西アジアのホラズム・シャー国、中央アジア西夏(タングート族)を滅ぼして、ユーラシア大陸の平原に広大な帝国を築いた。2代目のオゴデイは金を滅ぼし、カラコルムを首都とした。さらにはロシアを征服し、ヨーロッパへも進撃したが、オゴデイの死によってヨーロッパ征服は叶わなかった。5代目のクビライは南宋を滅ぼし、朝鮮の高麗を属国とし、日本や東南アジアの支配を目指すが失敗に終わった。首都を大都(現在の北京)と上都とに造営して二都とし、大帝国が完成し、東西交流が活性化された。


チンギス・カンの時代には、その版図はユーラシア大陸の平原地帯全体に及び、モンゴルの習慣に従って王族やその部将(ノヤン)たちに分封された。分封されたもの(領地と言いたいだが正確には領民)はウルスと呼ばれた。現在のモンゴル語ではウルスは国を意味するが、本来の意味は人々の集まりである。近代国家においては、境界を定めることが重要な政治課題の一つであるが、羊や馬を伴って遊牧する遊牧民にとっては一緒に移動する人々の集まりが最大の関心事であった。このため遊牧民たちは、領地を大切にする農耕民とは国という概念を異にしていた。モンゴル帝国の時代にあっては、ウルスは支配する領域というよりも、一緒に行動する政治集団という意味合いが強かった。モンゴル帝国には多くのウルスが存在したが、これらウルスは緩やかに結びついた連合国家(イエケ・モンゴル・ウルス)をなし、連合国家の長は大カアンと呼ばれた。

移動して生活する遊牧民にとって重要なものは、持ち運びのできる金銀財宝などの貴重品である。これらは他の部族から武力を用いて略奪したことだろうが、そのときに欠かせないのは軍事力である。チンギス・カンは前にも述べたように、組織力と機動力に優れた千人隊を編成した。麾下の全遊牧民を95の千人隊集団に再編成し、有力部族の族長を千人隊長とした。彼の子たち(長子ジョチ,次子チャガタイ、三子オゴデイ)にはそれぞれ4団の千人隊集団を与え、西部のアルタイ山方面に配置した。彼の弟たち(次弟ジョチ・カサル、アルチダイ(第三弟カウチンの遺児)、末弟テムゲ・オッチギン)にはそれぞれ1,3,8団(これには母の分も含まれる)の千人隊集団を与え、東部の興安嶺方面に割り当てた。モンゴルでは、伝統的に右翼・左翼・中央と鳥が羽を広げたような形に軍隊を布陣するが、千人隊集団の割り当てはこれに倣ったものである。

チンギス・カンの滅後、諍いはあったものの、大きな混乱を引き起こさずに皇帝は選出されてきた。しかしクビライが皇帝を名乗ったときに抵抗があり、弟アリクブケそしてそのあとにオゴデイ家のカイドゥとの戦いは、クビライが亡くなるまで40年間にわたり続いた。このような内部抗争を抱えながらもモンゴル帝国は、東アジアの大元ウルス(元朝)、中央アジアチャガタイ・ウルス(チンギス・カンの次子チャガタイを祖とする)、キプチャク草原のジョチ・ウルス西アジアのフレグ・ウルス(クビライの弟)の4大政権に分かれ、大元ウルスの皇帝であるクビライを盟主(大カアン)とする緩やかな連合国家に再編された。

クビライの大元ウルスの版図はモンゴル高原と中華であった。モンゴルに併合される前の中華は、宋と呼ばれる王朝が支配していた。しかし満洲から南下してきた女真族によって華北は奪われ、江南だけを支配するようになった。女真族華北に建てられた国は金と呼ばれ、江南に逃げてきた宋は南宋と呼ばれた。金は第2代皇帝オゴデイによって滅ぼされ、宋は第5代皇帝フビライによって滅ぼされた。これによりフビライは中華の地を獲得するが、遊牧民が農耕民をどのように統治するかが課題となった。

エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』によれば、遊牧民モンゴル高原では一時的父方同居もしくは近接居住を伴う核家族であり、農耕民の華北・江南では父方居住共同体家族である。これら二つの地域は、家族システムが大きく異なるので、統治が容易でないことはすぐに気がつく。

この難事業をクビライは統治システムの中に独創的なアイデアを導入することで解決した。それを見ていくことにしよう。統治目標は、モンゴル高原の草原世界と中華(華北・江南)の農耕世界とを、政治的・経済的・軍事的に纏めることである。

これを論理的な構造で表そうとすると、接着空間(adjunction space)を用いるのがよさそうである。接着空間は数学的な概念だが、数学的な用語を用いないで説明すると、二つの空間が与えられたとき、同じと考えられるものを一つにまとめ、そのほかはそのままに残して新たな一つの空間を作ることとなる。数学的な記述では、二つの(位相)空間\(A,B\)において、二つの空間を張り合わせる接合関数(adjunction map)を\(f\)としたとき、\(A \sqcup_f B\)と記される。

チンギス・カンが支配した世界は広大だが草原世界にとどまる。しかしクビライの時代になると、農耕世界が加わる。彼の統治目標を数学的に表すと、草原世界と農耕世界をそれぞれ\(A,B\)としたとき、これらを張り合わせた新たな世界\(A \sqcup_f B\)を実現することである。
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それではクビライの実績を見ていくことにしよう。

最初は首都である。

モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイのときにモンゴルの本拠地であるカラコルムに首都が造営された。江南を含む中華全体が支配領域に含まれるようになった第5代クビライのときに、首都は大元ウルスの中心へと移された。しかも一つの都ではなく二つの都が設けられた。草原世界と農耕世界は万里の長城によって分けられる。その外側の草原世界の都として上都が、内側の農耕世界の都として大都が造営され、上都は夏の都として、大都は冬の都として使われた。夏と冬の居住地の間を移動している遊牧民の習慣をそのまま踏襲したと考えられる。

この様子を接着空間で表すと下図のようになる。草原世界と農耕世界が首都を介して接着される。
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上都と大都の間は350Kmほど離れていて、二都の間に3本の主要路と1本の補助路が造られ、その間には、官営工場都市、宮殿都市、軍事基地、屯営集落などが設けられ、二都を結ぶ長楕円形の移動圏は、首都圏として機能した。 そこで接合関数\(f\)は首都圏を一体と見なすように定義すれば、クビライの構想に合致することになる。
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クビライは大元ウイルスを3人の子たちに分封して統治した。第二子チンキムには燕王にしたあと皇太子にして腹裏(首都圏を含む中心部)を、第四子ノムガムには北平王にして「国家根本の地」であるモンゴル高原を、第三子マンガラにはフビライの私領であった京兆(けいちょう)・六盤山地区を割当てた。マンガラが支配した地域は、中華の西部の陝西・甘粛・四川・ティベットで、上都・大都と同じように、開成(六盤山)を夏の都、京兆を冬の都とし、その間を小型の首都圏として、腹裏と同じような機能を持たせた。その他にも王族に分与された地域で同じような状況を発見できる。このため首都圏は、草原社会と農耕社会を接合する機能として生かされたということが分かる。
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それでは次に統治システムへ進むことにしよう。
モンゴルの統治システムは側近政治で、重要な意思決定はクリルタイと呼ばれる集会でなされた。この集会には、王族や部将たちが集まり、カアン(君主)の選挙、外国に対する征服戦争の開始と終結、法令の制定などの重要事項が協議された。また軍事・行政の実務的システムは千人隊集団により行われた。

他方、中華の統治システムは、中央集権体制の官僚機構で、官僚たちは科挙制度により採用され、登用は能力主義である。中華を支配する歴代王朝によって長いこと培われたきた成熟した統治システムであった。この異なる統治システムをいかに統合するかがクビライに課せられた課題であった。
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彼が導入した統治システムは、見かけは中華、中身はモンゴルのハイブリッドであった。中央の統治システムは、中華のそれに倣って三省六部の構成である。三省は、行政を担う中書省、軍事を担う枢密院、監察を行う御史台からなり、また中書省の下には、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部が設けられた。

しかしそれぞれの役所に配属される役人は、中華の科挙制度によるものではなく、草原世界(モンゴル)の伝統に従った。すなわち中央の官僚システムの首班には、部族軍や私兵を持つ有力な族長やケシク長と呼ばれるクビライの親衛隊長が就いた。また、中央の行政事務を統括する高級官僚は、実務・指令能力が重視され、民族に関わらず、有力家系出身者やクビライの個人ブレインあるいはケシク(親衛隊)から選ばれた。このため、モンゴルだけでなく、ウイグル、キタイ、タングト、ムスリム漢人など、それぞれの民族が有する能力が生かされた。しかも組織の決定は、官僚組織の枠組みを超えて、モンゴルの伝統に従って有力者の集まりで決定されることが多く、官僚の任命も官僚組織の階段を登っていくのではなく、クビライや有力者の推薦によって恣意的に行われがちであった。
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また地方を統治する機関として、各地を11ないし12の地域に大区分し、そこに行中書省という出先の機関が設けられた(上都や大都を含む主要な地域は、腹裏と呼ばれ、中書省の直轄とされた)。見かけ上の組織は農耕世界(中華)の郡県制であったが、その運用は草原社会(モンゴル)での千人隊集団の制度を利用した。

華北や江南など宋が統治していた農耕社会の地域である。これらの地域をモンゴルが支配するようになると、一族分封の原理に基づいて、一族で均等になるように領域が分配された。その結果、大元ウルスの領域は、クビライが所領する直轄地と、帝室諸王・貴族・土着諸侯が有する投下領とが混在した。そこには、農耕社会と草原社会との接合だけでなく、大元ウルスによる中央政府と、投下領主による地方政府との接合も課題になった。

それは次のように解決された。それぞれの行政地域では、中央政府と地方政府(投下領)とから、そこでの長がそれぞれから任命された。例えば、路には路総監府が設けられたが、中央政府からは総監が、地方政府からはダルガチが送られ、州では中央政府から知州が、地方政府からダルガチが来た。府と県についても同じである。中央政府からの役人は、中央政府に関わる行政、例えば国税(塩専売制・商税)の徴収を行った。地方政府は、征服された土地でもその前からの人材が登用されることが多かったので、従来のしきたりに従った地方税の徴収を行った。このため地方税は地域によって異なった。
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これを接着関数で表すと次のようになる。ファスナーだと考えればよい。ファスナーを閉めること、すなわち中華的官僚組織のポジションにモンゴル的側近制度の人材を割当てることで、統治システムが形成されると考えることができる。
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最後に交易に関する部分を簡単に纏めておこう。モンゴル帝国が隆盛を極めた大きな要因は、ユーラシア大陸、アフリカに渡る広範囲な世界で交易をおこなったことである。帝国各地を運輸・通信で結ぶ駅伝制(ジャムチ)による陸の道、江南の物資を首都大都へ運ぶための大運河、そして、中近東・ヨーロッパ・アフリカまでをもつなぐ海の道でつないだ。

これらはこれまでと同じように接合関数によって表すことができる。ムスリム商業勢力は、陸の道と海の道を利用して交易の拡大を図り、モンゴルの拡大を図る資金源・情報源となるとともに、クビライ政権では財政管理・経済振興を図るムスリム経済官僚として活躍した。
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軍事国家を経済国家・財政国家に飛躍させた交易は、モンゴル帝国の偉大なイノベーションと言えるものであろう。モンゴルの伝統的な力ずくでの略奪を平和的・合法的な交易に代え、世界の貴重品を大都に集めるという概念の発見は、モンゴル、漢人ウイグル族ムスリムなど、多様な民族・宗教の人々が、現在の基準に照らしても、差別なく自由に活躍できる世界を作り出し、中世におけるグローバリゼーションの姿を示してくれた。一方で、広範囲にわたる活発な人々の異動は、史上有名な14世紀の黒死病というパンデミックを引き起こし、世界の人口の1/4がなくなるという悲劇をもたらした。今日の新型コロナウイルスパンデミックを考えるとき、歴史は繰り返されると思わざるを得ない。

榎本渉著『僧侶と海商たちの東シナ海』を読む

面白そうな本はないかとアマゾンのブログをくくっていたら、日本史の範疇に収まりそうもないタイトルを見つけた。前回紹介した本郷恵子さんの本と同じシリーズ「選書日本中世史」の一冊として10年ほど前に刊行された。評判が良かったのだろう、昨秋、文庫版化された。無料サンプルが面白かったので、電子版をダウンロードして一気に読んでしまった。

この本のタイトルは『僧侶と海商たちの東シナ海』で、著者は榎本渉さん、国際日本文化センターに所属されている。本が対象にしている地域はもちろん東シナ海。古代の大陸への交通は、九州の北の玄界灘から壱岐対馬を経由して、朝鮮半島南部へと、陸を視認できる海路が利用されていた。しかし中世に入ると、航海技術が向上したことで、九州から済州島(耽羅)を経由して明州(寧波)に至る、陸に沿わない東シナ海の航路が利用されるようになった。この航路は、何日も陸を見ないという怖さはあるものの、座礁の危険が少なく大型船にとっては有利である。

遣唐使船も初期の頃は朝鮮半島経由であったが、8世紀にはいると東シナ海航路となった。
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この本が取り上げている時期は、東シナ海に海商が出現した9世紀から、明が民間貿易を全面的に禁止し、海商を強引に抑圧した14世紀までである(ただし文庫本化された新版には、エピローグで遣明使以降の説明がある)。海商は、時代を追うごとに、新羅海商、唐海商、宋海商、元海商、明海商となる。その起源である新羅海商を除いて、その時代の中国王朝名を冠して呼ばれる。

新羅海商については、次のように説明されている。8世紀後半以来、新羅では貴族・民衆の反乱が相次ぎ、飢饉・疫病が頻発していた。そして814年4月には新羅西部で洪水が起こり、翌年には飢饉の中、盗賊の蜂起も生じた。このようなことが続いて起きたため、新羅人たちは新羅の外に活路を見出そうとした。814年以降、日本でも新羅人の来着が相次ぎ、遠江駿河で700人が反乱を起こしたという記録があるので、数千人の規模で日本に流れ込んでいた。

他方、地続きである唐には、もっと多くの人が流入したであろう。さらには奴隷にされた例まである。奴隷たちは、新羅からの要請もあって解放されるが、多くがそのまま沿海部に居留したようである。円仁の日記からも、830年代には唐の各地に新羅人の集落が形成されていたことが分かる。例えば、山東半島先端の赤山浦、楚州・泗州漣水県の新羅人集落である。これらの集落は唐と新羅の交通の拠点であった。このため地の利を生かし、才ある人は海の商人、すなわち海商になった。海商たちは、東シナ海の沿岸部で、交易活動を行うだけでなく、人の移動も助けた。その中には僧侶も含まれていた。

830年ごろには新羅海商が東シナ海での交流を担うようになっていたが、リーダー的役割を担っていた張保皐新羅の内紛で暗殺されると、新羅と海商の間の関係はぎくしゃくし、842年には新羅人の日本国内への入国は禁止された。このため、新羅人たちは、唐海商と称してそのあと交易活動を続けた。

当時の僧侶たちは海商の助けを得て日中間を渡ったが、この僧侶たちを通して9~14世紀の東シナ海交流の歴史を見ようというのが、この本の狙いである。この時期の前後を含めると、著者は、
遣唐使(7~9世紀)、
②唐末~北宋期の入唐・入宋僧(9~12世紀)、
南宋~元代の入栄・入元僧(12~14世紀)、
④遣明使(14~16世紀)、
に四区分している。

それぞれの区分の間には、時代を分ける次のような変化が生じている。
➀と②の間:9世紀前半での新羅海商・唐海商の出現で、海上を日常的に行き来する便が得られるようになった。
②と③の間:12世紀後半、僧侶の移動に関する規制が大幅に緩和され、彼らの出国を管理・統制しようとする考え方自体がなくなった。
③と④の間:1370年代に明が民間貿易を全面的に禁止したことで、商船を通じた僧侶の日中韓往来という9世紀以来の基本的な交流のかたちは終わりを告げた。


この本では、この区分にそって僧侶の渡航例が挙げられている。最初の例は、区分➀から②へと変わるときである。838年の遣唐使船に、円仁は請益僧(同じ船で帰国)として、円載は留学僧(次の遣唐使船で帰国)として、乗船した。遣唐使船が派遣される間隔は20~30年。このため留学僧の場合には人生の一番活躍できる時代を唐で暮らすことになるので、相当の覚悟が必要であった。現実の歴史はもっと悲愴で、次に遣唐使船が検討されたのは894年、実に60年後のことで、しかもこの計画は中止となってしまった。まともに考えると、円載には帰る船は用意されていなかったことになる。

円仁は、請益僧として天台山に巡礼することを目指したが、唐から旅行許可が下りなかった。仕方なく帰国の途についたように見えるが、帰路の途中で不法滞在を決行する。山東半島の赤山浦で新羅海商の助力を得て、唐滞在に成功する。五台山・長安の求法巡礼を経て、847年にやはり新羅海商(帰国船の乗員は唐人江長・新羅人金子白・欽良暉・金珍)の助けを借りて、帰国した。

円載も、唐海商李延孝の助けにより、877年に帰国しようとするが、途中で難破して没してしまう。著者は、円仁・円債の留学の目的はハクをつけることとしている。
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次は区分②の例で、乗船する船が遣唐使船から、新羅海商あるいは唐海商の商船へと変わった時期である。国内外での許可を得ることは変わらず、利用する船が商船となったために、出国・入国できる日時への制限が大幅に緩和された。

下図は、円珍が許可を得たときのプロセスを示すものである。次のようになっている。
円珍藤原良房・良相の兄弟に求法巡礼したい旨を伝えた。
②これを受けて右大臣良房は、文徳天皇にその旨を伝えた。
天皇より内供奉光定に詔勅が下された。
④光定が円珍に伝えた。
⑤唐での許可を受けやすくするために、良房の助力で、伝統大法師位を得たことを証明する僧位記と内供奉持念禅師に任命されたことを示す治部省牒を得た。
⑥従者ともども出国許可を示す公験を得た。
⑦唐の先々で行く先々の通過を許可する公験を得た。さらには留学に必要な費用も十分に給付された。
この本を読むまでは、古代の渡航手続きがどのようになっているのかを考えなかったが、このプロセスを知り、精緻であることに驚きまた感心した。
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下図は、円珍と同様に、勅許を受けて唐・五代十国のときに渡った僧侶を示す。唐では、845年に会昌の仏教弾圧、875~84年の黄巣の乱、907年の唐の滅亡などもあり、9世紀後半ごろから魅力が薄くなったのだろう、渡航する僧侶は少なくなる。
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北宋になり、奝然・寂照がだいぶ間隔をあけて派遣される。さらに相当な間隔をあけて、成尋が入栄する。しかも60歳という高齢である。朝廷に願いを出したもののなかなか許可が下りず、待ちきれなくなって密航する。しかし宋側では、成尋提出の文書によって入国が認められ、行く先々で次の目的地までの移動許可が下り、滞在費までも支給され、苦労はしなかったようである。最初から帰国するつもりはなかったのか、宋で没している。

12世紀後半の非常に短い一時期、すなわち平清盛日栄貿易を振興したときは、重源・栄西・覚阿などが入栄している。平家からの承認を受け、さらに南宋も平家から依頼されての受入れであったと考えられる。

ここからは③の区分での渡航の例である。

平家が滅亡し、鎌倉時代に入ると入栄僧の数は激増する。これまでは太師号や紫衣を持つ高僧で、典籍の獲得・難儀の解決・修法の獲得にあったが、この時代になると、禅宗諸派・新義律宗などの宋風仏教寺院に弟子入りし、他の僧とともに集団生活を過ごし、印可(師がその道に熟達した弟子に与える許可)を得ることが目的となった。

宋の寺院生活を体験した僧侶たちは、日本に宋風文化をもたらし、鎌倉仏教の興隆、禅の隆盛、さらには喫茶の習慣までも日本にもたらした。

元での交流については、東洲至道・龍山徳見の例が挙げられているので、これについては本の方で確認して欲しい。
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このあと、中国は明王朝へと変わり、遣明使での交流の時代へと移る。これ以降についてはエピローグに記述されているが、読者の方で楽しんでください。

この当時の僧侶たちにとって留学は、不慮の事故に見舞われる危険性も高く、帰国できない可能性もはらんでいたので、相当な決意を必要としたことと思われる。この本からは、中世初期ではハクをつけることであり、中世後期では免状(印可)をもらうことになったと説明されている。エリートたちの留学から一般の僧たちへの留学へと層の広がりを見せた中世のグローバリゼーションを知ることができ、得るところが多い本であった。

本郷恵子著『将軍権力の発見』を読む

室町時代はあまり人気のない時代のようだ。前後の鎌倉・戦国には傑出した人物が多いのでその陰に隠れてしまうのだろう。室町時代は足利氏が将軍家で、NHK大河ドラマ麒麟がくる』でも、15代将軍の義昭はかわいそうなくらいに弱々しい。最後の将軍だから仕方がないのだろうか。この時代は、南北朝の動乱に始まり、尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱関東公方室町幕府に反抗した永享の乱、将軍義教が謀殺された嘉吉の変、畿内とその周辺での一揆、関東一円の争いとなった享徳の乱、東軍と西軍とに分かれて戦った応仁の乱まで、三代将軍義満の時期を除けばほとんど絶え間なく戦乱が続き、次の秩序を求めて社会がぐらぐらと揺さぶられ続けた。

室町時代初めの南北朝期には、太政官符・官宣旨などの古い書式の文書がたくさん発見されている。これらは律令制に基づくもので、天皇の裁可あるいは太政官会議での決定を受けて、太政官から発令される公式な文書で、律令制が活きていた奈良・平安時代に、朝廷・公家政権で用いられた。しかし武士政権の鎌倉時代に移行すると、太政官符・官宣旨は廃れ、将軍あるいは幕府が発行する下文・下知状・御教書などの武家様文書が使われた。武家政権にもかかわらず、室町幕府初期に太政官符・官宣旨が多用されたことについては、これまでも疑問に思われたこともあったが、これを説明する決定打を欠いているので、改めてなぞ解きをしようというのが、この本である。

これまで、中世の国家体制を説明するために、いくつかの学説が立てられた。古いところでは、黒田俊雄さんの「権門体制論」。公家権門・宗教権門・武家権門の三者がそれぞれ相互補完的関係を持ち、一種の分業に近い形で権力を行使したというものだ。

さらに佐藤進一さんは「東国国家論」で、武家による東国国家と公家による王朝国家が、相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いたという説を示した。この説は、そのあと五味文彦さんにより「二つの王権論」へと成長した。さらに佐藤進一さんは、室町幕府初期の足利尊氏・直義兄弟による二頭政治を、主従制的支配論(軍事)と統治権的支配論(政治)とに分離した学説を示した。

アナール学派を代表するフェルナン・ブローデルは、歴史を「長波(地形・機構など)」「中波(経済・国家・社会・文明など)」「短波(出来事・政治・人間)」の三重構造として把握することを提案した。彼の論に従えば、中世という時代は、武士の時代をもたらした気候や地勢が長波で、国家や経済に関わる「権門体制論」や「二つの王権論」は中波で、政治と人間に関わる「主従制的支配論と統治権的支配論」は短波である。そして室町幕府立上げ直後の統治体制を論じたこの本は「短波」といえる。

この本では、三代将軍義満の管領として権力の中心にあった細川頼之のころに確立した統治体制について次のように述べている。すなわち、「(細川頼之の)構想のキーワードは「外交」である。幕府をいただく畿内中央ブロックは、他の地域と外交関係を維持しつつ、絶えず自らの優位性を示し、他地域を圧倒していかねばならない。その優位性を与えてくれたのが朝廷である。公家政権と、公家政権が維持・継承してきた統治理念を自由にできることこそが、室町幕府を傑出した存在たらしめたと言えよう」とまとめている。

上記の「外交」は次のように説明できると思う。足利氏は源氏一門の中では家格の高い一族であったが、他を超越するというほどのものではなかった。このため、足利氏の命令:指示に抵抗しようとする勢力は少なからずあったであろう。抵抗勢力を抑えるには武力という選択肢があるが、常に戦うというのは体力を失わせるので、文化によって平和裏に進めたほうが権力は持続的となりやすい。都合のよいことに、権力はそがれているものの、伝統的な権威を有する朝廷・公家が近くに存在した。室町幕府は、朝廷・公家の統治的な文化を乗っ取り、自由に利用することで、抵抗勢力に対して文句のつけようのない優位性を示し、政権を保持しようと企図した。

朝廷・公家が有する文化は、律令制のもとで培われてきた文書による統治である。奈良時代より、綸旨や太政官符などにより、中央の朝廷より地方の国衙に命令・指示を伝達してきたという長い歴史を有し、文書による統治は、広く受け入れられ伝統的な権威を有していた。鎌倉時代になってからは、将軍や幕府が御教書などにより御家人に命令を直接伝えるという形態をとったため、朝廷の文章は廃れてしまっていたが、これを復活させて、文化によって他の勢力を圧倒する、すなわち外交によってというのが、細川頼之の狙いであった。また、命令を伝えるのが、部下である御家人ではなく、半ば独立した守護大名禅宗寺院へと、性格が変わったことも作用した。

このため、室町幕府から守護大名禅宗寺院に命令や指示を伝えるときは、奈良・平安時代の形式に倣って、朝廷・公家から、守護大名禅宗寺院が属している国衙に仰々しいほどに公的で権威ある方法で命令・指示を伝え、そのあとで、室町幕府から守護大名禅宗寺院へ実行力のある手段で命令・指示を伝えるという「外交」を用いた。

それでは「外交」についての具体的な例をこの本から二つほど紹介しよう。最初の例は、室町幕府禅宗寺院の直接統制を目指すが、その政策の一環として、主要な禅宗寺院の京都の臨川寺に対して、諸役免除を与えたときのプロセスである。室町幕府から禅宗寺院に対して御教書を与える前に、朝廷から国司に対して下図に示すように太政官符を発している(⑥と⑩は古文書が存在する)。
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➀これは仮定となるが、室町幕府から朝廷に対して、臨川寺に対して諸役を免じることにしようという執奏(武家から公家への政治的申し入れ)がなされた。そして室町幕府は、臨川寺に対して、奉状と呼ばれる正式の書式で、朝廷に願いを出して欲しいと伝えた。
臨川寺は、朝廷側の受付窓口に奉状を提出した。役所内の手続きを経て、上卿(この件の指揮を執る公卿)の中院通冬の手元に届いた。
③中院通冬は崇光天皇の意向を伺った。
天皇は申し出を認めると内侍に伝えた。
⑤内侍は天皇の勅を蔵人の坊城俊冬に伝えた。
⑥坊城俊冬は、奏状を添えて勅裁伝達文書と呼ばれる書式で、認められた旨を中院通冬に伝えた(貞和5年(1349)4月15日)。
⑦中院通冬は弁官局の左中弁平親明に太政官符を発出するようにとの宣を出した。
⑧平親明は左大史小槻匡遠に対して太政官符の作成を命じた。
⑨小槻匡遠は書類を作成し、少納言局から太政官の公印を捺印してもらった。
⑩小槻匡遠は、太政官符を、山城国司に送付した。さらに同じ内容の太政官符を関連する国司にも送付した(貞和5年(1349)4月28日)。
⑪小槻匡遠は、臨川寺にも同様の太政官符を送付した。

何とも複雑な経路を経て、仰々しい公文書が発行されたことが分かったが、手間と時間をかけている割には、物理的な効力はそれほどない。免除を履行するとされている国司は、この時代には形骸化し、任命された国には赴任せず、京に居住し、職名を与えられただけの存在である。このため、この文書に基づいて、国司臨川寺の利益を守るための行為をすることはあり得ない。この時代の現実に即して考えれば、実行力を伴う守護に送付されるべきであるが、旧例に倣って国司が宛先となっている。

ただ臨川寺側にはご多大な利益はある。由緒正しき、格式のある文書をひけらかすことによって、多くの人を納得させる「外交的」な効果はあったと思われる。

しかしこの太政官符を利用して9年後に、
⑫将軍から臨川寺に対して、物理的に効力があることを認める御教書(1356年)が送られている(延文元年(1356)10月12日)。
これは、2年後には将軍となる義詮から、臨川寺に対して、太政官符を根拠に諸役が免除されていることを認めたものである。これに違反した場合には、室町幕府による物理的行使を辞さないことを伺わせるものである。

このような面倒くさい手続きを経ずに、室町幕府から臨川寺あるいは守護に対して、御教書を出せばよさそうなものでが、誕生して間がない室町幕府には、世間に認めてもらえるような権威はまだ備っわていなかった。朝廷の場合であれば、天皇あるいは院から綸旨・院旨で(実行力を伴うかどうかは別として、見かけだけかもしれないが)全国に行き渡るような命令を下せた。そこで、この方法を乗っ取ることで、室町幕府の権威付けをする方法を発見したのではないかというのが、この本の著者の見立てである(著者は、全国に行き渡ることを当然のこととして与えられている朝廷・公家権力を演繹的、勢力を獲得しながら徐々に及ぶ範囲を広げてきた武家権力を帰納的と言っている)。

次の例は、室町幕府と鎌倉府との命令・指示がより外交的に行われていることを示したものである。臨川寺のときと同じように禅宗寺院の直接統制を目指す一環として、鎌倉の円覚寺に諸役免除を与えたときのプロセスである。臨川寺は尊氏から義詮へと移行する時期で、太政官符が外交的な手段として用いられ始めたころである。

これに対して、円覚寺は三代将軍義満の頃で、管領細川頼之である。古文書として残っているのは、太政官から円覚寺に向けての官宣旨である(永和3年(1377)12月11日)。太政官符の場合にはその公印を捺印するが、官宣旨では省かれるため、格付けの点では少し劣る。この官宣旨では尾張国内の円覚寺領に対して、諸役免除するように命令している。このため、同じ官宣旨が、尾張国司にも発せられたものと考えられる。

さらに尾張だけではなく、円覚寺領がある他の国司にも同様な官宣旨が送られ、その中には出羽国も含まれていたであろう。直後に、実務を担っている管領細川頼之から、出羽国守護斯波兼頼に対して奉書が発せられている(永和3年(1377)12月24日)。律令制のもとでは、天皇あるいは院から綸旨・院宣で当事者に命令を伝達するところを、室町幕府がこの部分を乗っ取り、幕府の伝達ルートとして利用したと説明されている。
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そして、太政官符・官宣旨が出された背景には、「その背後には、朝廷のもっとも権威ある文書の発布を自由に操作し、全国に号令することのできる政権として、自らを演出する意図が働いていたのである」と著者は説明している。

細川頼之が失脚し、そのあと足利義満は将軍権力を確立し、皇位簒奪をしようとしたのではという説もあるほどに朝廷・公家権力を自由に利用するが、ここに至るプロセスを具体的にそして論理的に説明してくれ、とても素晴らしい書籍であった。なお、この本は文庫本化され、昨年の暮れから出版されている。そこではご主人の本郷和人さんが解説を書かれているので、読まれると面白いと思う。

ストーン・サークル―田端環状積石遺構を訪ねる

近辺にはない材料を購入するために、普段はほとんどいくことのない町田市北部にショッピングに出かけた。探していたものも容易にみつかり、それを車に詰め込んでいるときに、近辺に遺跡があることを思い出した。グーグルマップで検索すると、京王線多摩堤駅の北側すぐ近くに、田端環状積石遺構が出てきた。
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遺構の南側には、境川が西から東の方に流れており、この地域がかつての武蔵国相模国との国境であったことが分かる。明治時代の地形を調べると、下図左側が明治39年測図のもの、またX印が遺構の位置である。右側は現在のもので、京王線谷戸に沿って敷設され、丘になるところでトンネルに入ることが分かる。また境川の南側、すなわち旧相模国の方は水田が豊かに広がっている。遺構付近は丘陵の麓に近い水はけのよさそうな場所である。このことから、縄文時代のこの地の住人たちは、後背の多摩丘陵でどんぐりやクリの採集・シカやイノシシなどの小型動物の狩猟をし、前面の境川で魚の採取をしただろうと推察できる。
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それでは遺構へと進もう。入り口には立派な看板がある。
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奥の方に入っていくと説明があり、縄文時代後期中頃から晩期中頃にかけて、およそ3900年~2800年前ごろに、連続的に構築された遺構であるとなっている。
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さらに長軸約9メートル、短軸約7メートルの楕円形に沿って、大小の礫が帯状に積み上げられ、長軸方向は富士山を望み、冬至には丹沢の蛭ヶ岳山頂に陽が沈むと記されている。ここに展示されている積石(サークルストーン)はレプリカで、実物はこの下に埋め戻されている。
東側から写真を撮ると、
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南側からは、
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最後に北側からは、
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積石の周囲には、集石墓7基、土壙墓25基、組石6基があったそうである。
また別の説明には、遺跡全体の図があり、ここは田端・田端東遺跡と名付けられていて、遺構はその一部をなし、北東の隅に位置しているとあった。
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田端・田端東遺跡は、縄文時代中期から晩期にかけて、約5000年から2800年前の集落・墓地・祭祀場から構成されていることが記されていた。中期には居住域として利用され、竪穴住居跡7件、配石2基が発見、後期には、集団墓地が形成され、50基以上の墓壙が分布するとされている。環状積石遺構は、周辺に居住する集団が死と再生に関連する祭祀を行った場所と想定されているとの説明もあった。現在はこの場所も埋め戻され、広い広場となっている。
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見学を終えて帰ろうとしているときに、入口の方から初老の夫婦が足早に現れた。見るからに遺跡巡りをしているのだという身なりで、小さなリュックを背負い、カメラを手に携えていた。余りにも心構えが違うので、言葉を交わす勇気も出ず、隠れるようにしてすれ違った。車に戻って振返ってみると、その夫婦は、暖かい日差しの中、ベンチに座り、おにぎりだろうか楽しそうに食べ始めた。重苦しいコロナウイルス禍の中、小旅行を楽しんでいる夫婦を見て、一時の安らぎを頂いた。

坂井孝一著『源氏将軍断絶』を読む

昨年は、コロナウイルスの影響で、楽しみにしていた旅行もかなわず、「本を友にして」の生活となってしまった。ウイルスの方は、残念ながら、似たようなあるいはもっと悪い状況が続きそうで、本とはさらに仲良しになりそうだ。しかし出会った時の思い出は、時間がたつにつれて薄れてしまう。たくさんの良き友に出会っていながら、思い出せなくなってしまうことは何とも悲しい。今年も沢山の友と出会うことだろうから、それぞれの印象を書きとめておくために、このブログに新たなコーナーを設けることとした。

最初に紹介する友は、坂井孝一著『源氏将軍断絶』である。坂井さんの名前を知ったのは、新宿の朝日カルチャセンターで鎌倉時代の歴史について、本郷和人先生から学んでいる頃であった。本郷先生が『承久の乱』を上梓されたころ、ちょうど時を同じくして坂井さんも『承久の乱』を出版されるという偶然が生じた。その時に、本郷先生が二つの本を比較されたので、記憶の中に著者の名前が残っていた。

公立図書館からの新着資料案内の中に坂井さんの本を見つけ、どの様な歴史家なのだろうと興味をもち、本を取り寄せ、読んでみた。

著名が示すように、頼朝・頼家・実朝の源氏三代の将軍についての記述である。この時代の史料には、代表的な歴史書として、①『吾妻鏡』(初代から6代将軍宗尊親王までの幕府の事績記録)、②『愚管抄』(天台宗の僧である慈円が記した。父は摂政関白の藤原忠通、兄3人近衛基実松殿基房九条兼実も摂政関白、兄兼房は太政大臣。高貴中の高貴) 、がある。

貴族の日記としては、③『玉葉』(九条兼実の日記 、彼は頼朝の推挙で公卿・摂政となり、逆に頼朝は彼のとりはからいで征夷大将軍となった)、④『明月記』(公家・歌人藤原定家の日記)、⑤『猪隈関白記』(関白近衛家実の日記、 彼は近衛基実の孫)、がある。これらは史実を割合と正確に伝えていると見なされている。

その他に参考となる資料に、⑥『新古今和歌集』(後鳥羽上皇が親撰したとされる勅撰和歌集)、⑦『沙石集』(無住道暁が編纂した仏教説話集)、⑧『増鏡』(後鳥羽天皇誕生から後醍醐天皇の討幕までを描いた歴史物語)、⑨『尊卑分脈』(宮廷社会の系図)、⑩『公卿補任』(歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録)、⑪『百錬抄』(公家の日記などの書記録を抜粋・編集)、⑪『武家年代記』(鎌倉から室町まで年表形式の年代記)、がある。

源氏三代については、吾妻鏡をベースに説明されることが多い。しかし吾妻鏡は北条政権自身が記述したものなので、北条氏にとって不都合なことは、潤色されたであろうというのが、坂井さんの見立てである。例えば、二代将軍の頼家については、蹴鞠に没頭して政務を顧みなかった暗君と印象付けられているが、本当なのだろうかというのが出発点のようである。

坂井さんは、②以下の資料を用いながら、潤色されていると思われる部分を、吾妻鏡から一つ一つはいでいき、本当の姿と思われるものをあぶりだしていく。推理小説を読んでいるような楽しみさえ感じさせてくれる本だ。

頼家については、暗君とされている記事の一つ一つに反論を加える。特に蹴鞠に対しては、我々現代人が思うような娯楽としての遊びではなく、この時代にあっては貴重な政治ツールで、重要な芸能・教養であったとして、間違った認識を指摘してくれている。

圧巻は北条義時(二代執権、政子の弟)が実朝に諌言したときの話である。吾妻鏡では、実朝が官位を挙げて昇進していくことに釘を刺して、「何もしてないのに頼朝様よりも偉くなってしまうので、大将への昇任は遠慮された方が良いのではないか」と義時が諫言した、とされている。

しかし坂井さんは、いたずらに実朝の出世欲を作り出し、貶めようとしたのではないかとみている。そして義時は諌言したのではなく、自身の昇進を申請して欲しいと実朝に願ったのでないかと読み解く。しかしこれは北条家にとってはみっともないことなので、吾妻鏡を記述した後世で、捻じ曲げたと主張している。この部分は議論の分かれるところだが、一つの読み方を教えてくれて面白い。

潤色に関わる話題では、金文京著『三国志の世界』も面白かった。三国志では、曹操は悪役として登場するが、潤色の部分をあぶりだして、曹操が名君で卓越した文学者であったことを教えてくれる。この本は、2005年に講談社から出版された「中国の歴史」のシリーズの中の一冊である。このシリーズは、驚いたことに、本場の中国と台湾でそれぞれ翻訳され、爆発的な売れ行きを見せたそうである。このこともあってか、昨年から文庫本として姿を変え、順次刊行されている。毎月、次の巻が発行されるのを楽しみにしながら、読み続けている。

最後に日本の家族制度の移り変わりについて興味を持っているので、記録のためにその部分を拾っておこう。
1)武士の家では前当主の後家の力が強い
・その要請を受けた清盛の亡父平忠盛の後妻池禪尼が(頼朝の)助命に動いた(p20左l3)。
・(頼家が当主のとき)なぜ時政は元旦の椀飯(おうはん)、遠江守任官を果たせたのか。そこには時政の娘、頼朝の後家政子の力があったと考える(p121右l3)。
2)いとこ婚
後鳥羽天皇と坊門局は坊門信隆・藤原休子の孫。後鳥羽の母は藤原殖子、坊門局の父は坊門信清で、この二人は信隆・休子の子である。後鳥羽・坊門局の子頼仁親王は実朝の次の将軍候補であった。坊門局の妹の信子は実朝の妻。この時代には珍しく実朝の妻は信子のみ(その理由も坂井さんは解いている)、子はなし。実朝が殺害されなければ、頼仁親王か雅成親王が4代将軍に就いた。もし頼仁が将軍となれば、坊門家を介して将軍家の血がつながった。

2022年のNHK大河ドラマ北条義時、坂井さんが時代考証を担当される。推理小説を読むような、ワクワク感に富んだドラマになることを期待している。

コスパのよいクリスマスイブ用こんがりローストチキン

コロナウイルス感染防止のために、今年は孫たちが参加しないクリスマスイブとなった。例年であれば、ターキーを焼いて賑やかに楽しむのだが、今年は寂しく夫婦二人だけとなった。ターキーではとても手に余るので、今年はチキンを焼くことにした。近くの激安店で、674円の丸鶏を仕入れ、いつもの要領でローストした。但し解凍する必要がないので、焼く前の煩わしい処理は省略でき助かった。

冷蔵庫からいろいろな野菜を取り出し、オーブンレンジ用の角皿に敷く。今回は、ニンジン、ジャガイモ、たまねぎ、セロリ、キャベツ、パセリを使った。
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チキンに、塩と胡椒をたっぷりふりかけ、手で揉みこむようにして、肉に擦り込む。
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チキンを角皿に移し、バターを肉の上に置き、さらに内臓があった部分にも入れる。
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オーブンを250℃で予熱したあと10分間焼く。さらに180℃に下げて1時間ほど焼く(竹串をさし、透明な肉汁が染み出てくればOK)。途中何回か角皿に出てきた野菜汁を肉の上にかけ、こんがりと焼けるようにする。途中の作業が報われ、とてもきれいにできあがった。
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角皿から野菜汁を取り出し、ウイスキー小さじ一杯、マギーブイヨン1個を加えて煮立て、ソースを作る。
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スープ、サラダ、パン、さらにワインと一緒に食膳に添えた。
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今回は、30年近くにわたって続いてきたターキーではなく、格安のチキンを利用しての静かなクリスマスイブとなったが、とてもコストパーフォーマンスのよい料理に巡り合えた。歓迎できないコロナウイルス禍での思わぬ収穫となった。

海老名の古刹「龍峰寺」を訪ねる

11月中旬の雲一つない見事に晴れ上がった日に、海老名市の古刹「龍峰寺」を訪れた。この10月から新たなボランティアが加わり、その先で知り合いとなった仲間たちと一緒である。コロナ禍の昨今では、当たり前と見なされ、奇妙とは感じなくなった悲しい現象なのだが、実はこの人たちの「顔」を知らない。マスクをつけた姿しか見たことがないためで、それを外したときの容貌は想像上のものでしかない。屏風の向こうから声だけが聞こえてくる平安王朝の女房たちと付き合っているようで、本当の「お顔」はどうなっているのだろうと好奇心を湧き立たせてくれる。しかしこれが新しいライフスタイルだとすると、清少納言のように「いとおかし」と興じているわけにはいかない。

訪問先の龍峰寺には、年に2度しか「お顔」を拝顔することが許されない秘仏千手観音菩薩立像がある。この像は相模川沿いのお寺の秘仏とともに、神奈川県立歴史博物館で今月の29日まで、特別展示されている。企画は何年も前からなされたものなので、コロナ禍に合わせたものではないだろうが、ちょうどいい巡り合わせとなって、不自由な生活を強いられている人々に、癒しの場を提供しているようだ。

これらの秘仏は御開帳のときしか見ることができないし、その限られたときでも暗い堂の中に納まっている像を遠目にぼんやりとしか見ることができない。しかし今回の展示では、弱い光のスポットライトに照らされた暖かい空間の中で、手の届きそうなところから、正面はもちろんのこと背面までもくまなく見ることができる。幸せなことに、何回か鑑賞する機会を得て十分に堪能することができた。さらに踏み込んで、この像の本籍地を訪ねてみようということになった。

像の説明から始めたいと思うが、撮影は許されていないので、目に焼き付けた姿を思い出しながらにしよう。像は等身大よりは少し大きく192cmある。作られたころは金色に輝いていただろうが、時代を経て、渋みを帯びた茶色へと変わっていて、時代の流れを感じさせてくれる。頭部には10面の仏(3面は欠損しているとのこと)と阿弥陀如来の化仏が取り付けられていて、仏さまであふれている。何と言っても千手観音なので、手がたくさんある。とはいっても千本あるわけではなく42本である。2組は胸の前にあり、一つは合掌し、他の一つは印を結んでいる。その他の手は脇手と呼ばれ、左右それぞれ3列に並び、前列と後列に6手、中列に7手有している。中列の1組は頭上で手のひらを上に向けて組み、化仏(けぶつ)を乗せている。それ以外の手は楯やどくろなどを持っている。合掌している手を除いた40本の手のそれぞれが25の世界を救うので、25x40=1000で千手と言われているそうである。

龍峰寺の千手観音菩薩立像は京都清水寺の本尊千手観音像にならったものとされ、このため清水式千手観音像とも呼ばれ、重要文化財に指定されている。この像は、鎌倉時代に制作された仏像にみられる玉眼を有し、本体は奈良時代後期から平安時代初期に用いられたカヤの一本造である。このため制作年については、本体を古代のつくりに模したという鎌倉時代説と、頭部を後から付け加えたという奈良・平安時代説とに、意見が分かれている。

千手観音菩薩立像は龍峰寺の所有で、所在地は海老名市である。この市はかつて相模国高座郡に属し、奈良時代にはこの地に相模国国分僧寺国分尼寺が建立された。古代の多くの国では、国府国分寺は近いところに設置されたが、相模国では、国府は20km南と離れた大住郡(平塚市)に設置された。

古事記からは、相模国西部は師長国造、東部(愛甲・大住・高座)は相模国造、三浦半島は鎌倉別(わけ)が支配していたことが知られている。また続日本後記からは、9世紀中ごろの大住郡と高座郡の大領は、相模国造の末裔とみられる壬生直(みぶのあたい)氏であったことが分かる。これらから大住郡と高座郡には律令制が開始されたころには同族が住み、その連携によって片方の場所には国府が、他方には国分寺が建立されたのではないかという説もある。

なお高座は今では「こうざ」と読まれるが、万葉仮名では「太加久良」と書かれるので、古代は「たかくら」と呼ばれていた。また高座と記されるようになったのは、713年の風土記撰進の命によって「群・郷名に好字をつける」となってからで、それまでは「高倉」であった。

龍峰寺は、室町時代初期の1341年に、現在の地ではなく、それより南1㎞(現在の海老名中学校のあたり)の場所に、鎌倉の建長寺の末寺として創建された。昭和初期に清水寺があった現在の地に移転し、観音堂などを始めとして、このとき廃寺となった清水寺の遺構を受け継いだ。

一方、清水寺は、古代に創建され国分尼寺となったこともあるとされる湧河寺(ゆうがじ、あるいは漢河寺ともいう)の古刹で、源頼朝により再建されたと縁起には記され、観音堂は水堂と呼ばれて人々に親しまれていたそうである。また先に説明した千手観音菩薩立像はこの寺に伝わるものであった。

それでは龍峰寺を訪ねてみよう。山門(清水寺が1699年にこの地に移転した際に建立され、1751年に再建された)、
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鐘楼、
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観音堂(かつては清水寺の本堂だった)、
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本堂、
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千手観音菩薩立像を納める倉庫、
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参詣中に偶然に出会った住職さんが、観音堂の鍵を開けてくださり、普段は見ることができない内部の見学が許された。内部には91体もの観音様が並ぶ木造百観音像や、江戸時代や明治時代の絵馬があり、思わぬ見分にも恵まれ、「人々の出会いはいとおかし」と感じた。そしていにしえの世界から現実の世界にもどり、昼食をとるために近くのショッピングセンターへと向かった。

コロナ禍のなか、大山阿夫利神社を参詣する

秋の天気は移ろいやすく、暖かい日差しを楽しめる日はそうそうあるものではない。時間をかけて計画した旅行が、思いもかけない悪天候のために、まったく報われなかったという経験は誰にもあるだろう。逆にお天気様任せにして気ままに行動したら、期待以上にうまくいったということもある。プランを立ててのエンジニアリング思考よりも、そのときの状況で好きな行動をとる狩猟採集民的なブリコラージュ(Bricolage)思考の方が、秋の行楽には向いているともいえる。

健康のためとはいえ、毎日毎日家の周りを歩くことには、修行僧を毎回演じているようでいささか飽きてきた。追い打ちをかけるように、東京でも「Go To キャンペーン」が始まり、周りの人々がそわそわした気分になってきた。中には本当に旅行する人も出てきて、お土産ですとお茶菓子をくれる。平静を装っているものの羨ましく思い、私にもチャンスがないかと探したりする。散歩をしているときにも、遠くに見える丹沢の山に行きたいという衝動に駆られることもある。そのようなある朝、目が覚めると部屋がやけに明るいので、確かめるために窓のカーテンを開けたら、雲一つない真っ青な空が目に飛び込んできた。瞬間的に、大山にこれから行こうと決めていた。

大山は落語「大山詣り」で噺されるほどに、江戸時代の庶民にとってあこがれの地であった。この時代の人々は、町・村あるいは職種を単位にして、大山信仰のための「講」と呼ばれる団体を結成し、行事の時期を定めて計画的に貯金をし、大山詣りを楽しんでいた。

江戸から大山への街道はいくつかあり、その一つは矢倉沢往還大山街道とも呼ばれ、現在の国道246号線に沿った街道である。落語の「大山詣り」は、行きは分からないが帰りは神奈川宿で宿泊しているので、大山を出たあと、田村の渡しで相模川を渡り、東海道に入って、藤沢で恐らく宿泊し、そして神奈川宿どんちゃん騒ぎをし、江戸に戻ってきた。地図で示すと次のようになる。片道が約80キロ、数泊の旅である。日常生活から解放された楽しい旅になるはずだったのだが、びっくりするような大事件が起きてしまう。これは落語を聴いて楽しんで欲しい。
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民謡「お江戸日本橋」は東海道五十三次の宿場名が読み込まれていて、冒頭は

お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり
行列そろえて あれわいさのさ
コチャ高輪 夜明けて 提灯消す

となっている。この当時の旅は、日の出前に立ち、日の入前に宿に着くのが基本。歌にも「七ツ立ち」となっている。江戸時代の時刻は、季節に関わらず、日の出と日の入の時が六ツだった。七ツはその一ツ前の時刻なので、夜明け前である(ちなみに12時は九ツ)。このため提灯に火をともして日本橋を出立し、高輪に着いたころにようやく明るくなる。このころは1日40Km程度歩くので、江戸を出て最初の宿泊地は、保土ヶ谷あるいはその前後の神奈川・戸塚が多かったことだろう。

このころの旅と比べると、現在の旅はとても楽になった。特に昨年には新東名が一部開通し、伊勢原大山ICから車だと10分でたどり着く。ICの近くには扇谷上杉家糟屋館跡があり、新東名の工事に伴って発掘調査がおこなわれた。この館は、1486年に太田道灌が主君の上杉定正から招かれて訪れたところ、陰謀によって、風呂で襲われ殺害された場所として知られている。

今回目指したのは、大山阿夫利神社。電車・バスを利用した場合は、小田急伊勢原駅から大山ケーブル行のバスに乗り、終点で降りる。ここからケーブル乗り場までは徒歩である。
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大山名物の独楽や豆腐の店を両側に眺めながら362段の階段をあがると、ケーブルの駅に着く。多くの人がレジャーを求めていたのであろう。駅は賑わいを見せていた。
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ケーブルは開口部が大きく眺めがよい。途中駅の大山寺で下りの車両と行き交った。
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終点でケーブルを降りて神社へ向かう。参道には、講で訪れた信仰者たちの名前が石に刻まれていた。
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神社前の狛犬、信仰者によって奉献された。
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大山阿夫利神社の中心である拝殿。
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境内に飾られていた大山獅子、同じように奉献された。
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幕末明治期の国学者神道家・医者で、ここ大山阿夫利神社の祠宮(ほこらみや)を務めた権田直助の像。
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戦時中の学童疎開を伝える川崎市の像。昭和19年から終戦まで川崎市からの学童3000人が大山の宿坊に疎開したことを記憶するために建てられた。
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大山への山頂への入り口で、頂には上社がある。行き90分、帰り60分の本格的な登山道である。我々は下社だけで満足、上社は挑戦せず。
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脇から見た拝殿。
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祈祷を受ける人の待合室がある客殿。
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境内より、伊勢原市から相模湾を眺めた。写真を撮っているときは気がつかなかったが、紅葉が始まっていることが分かる。
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日本遺産に選ばれたことを記念して作られた像。
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10月の最後の日に、秋晴れのなか、大山を楽しんだ。あとで知ったことだが、大山寺の紅葉は素晴らしいということなので、その頃にもう一度来ることにして、帰路に着いた。

Webミーティングと自動翻訳

コロナウイルスとの共存という言葉は好きではないが、世界中にこれだけ蔓延してしまうとその根絶はほとんど絶望的である。感染することのリスクをある程度覚悟しながら、社会生活を前に進めざるを得ないのだろう。博物館でのボランティアガイドも以前とは形を変えてであるが、今月から本格的に始まった。

友達や知人との付き合い方も変化し、いまではWebミーティングで仲間達とおしゃべりを楽しんでいる。とくに便利だと思うのは遠方に住んでいる友人や知人との交流である。先月も、カリフォルニアに住んでいる二組の夫婦と我々夫婦との間で機会を持ち、庭に咲いている花を見せ合ったりして、これまでとはスタイルの異なるコミュニケーションを楽しんだ。

もう一つの大きな変化は、たくさんの人が聴講できるオンライン・カンファレンスだろう。これまでは会場に行かなければ聞けなかった貴重な講演を、家から参加できるようになったことの意義は大きい。今日は、日経主催のカンファレンスで、東大の松尾豊教授の講演「人工知能の進展と産業・社会の変化」を拝聴した。この中で、2018年以降の自然言語の分野での進歩が著しいことについての説明があり、自動翻訳のDeepLと文章作成ツールGPT3が優れモノだと教えて頂いた。

そこで早速DeepLを使ってみた。前回のブログの冒頭の部分、
「9月最後の日、曼殊沙華(彼岸花)を鑑賞するために、横浜市の港北ニュータウン近くの新羽にある西方寺を訪ねた。この寺は800年前に鎌倉に創建され、500年前に現在の地に移築されたそうである(鎌倉極楽寺の境内古絵図の右下隅に西方寺と記されている)。最寄り駅は横浜市営地下鉄ブルーラインの新羽駅。そこから歩いて5分程のところにある。」
を翻訳した。

英語に、次のように翻訳された。
On the last day of September, I visited Saiho-ji Temple in Niwa, near the Kohoku New Town in Yokohama City to admire the Manjusaka (spider lilies). This temple was founded 800 years ago in Kamakura and moved to the present location 500 years ago (the name "Saiho-ji Temple" is written in the lower right corner of the old picture of Gokuraku-ji Temple in Kamakura). The nearest station is Shinwa Station on the Yokohama Municipal Subway Blue Line, and it's about a five-minute walk from there.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

また中国語には次の結果を得た。
9月的最后一天,我去了横滨市港北新城附近的日和西宝寺,欣赏了万寿花。 该寺院于800年前在镰仓创建,500年前迁至现址(镰仓五乐寺老照片右下角写有 "西保寺 "的名字)。 最近的车站是横滨市地铁蓝线的新和站,从那里步行约5分钟。

英語の方は、完璧に近く、少しの手直しをすれば済むだろう。中国語の方は、日本語から英語、そして英語から中国語への翻訳ということなので、お寺などの固有名詞が同じ音の漢字に置き換わってしまうという欠点はあるものの、内容は十分に伝わる文章になっている。

この他にも、ニュース記事などいくつかを試してみたが、大きな問題はなく、ここまで翻訳できるようになったのかと感心させられた。それほど遠くない将来に、音声認識と結び付けることで、言葉が異なる人達の間でのWebミーティングが楽しめるようになるのではと期待している。

曼殊沙華を満喫するために西方寺へ

9月最後の日、曼殊沙華(彼岸花)を鑑賞するために、横浜市の港北ニュータウン近くの新羽にある西方寺を訪ねた。この寺は800年前に鎌倉に創建され、500年前に現在の地に移築されたそうである(鎌倉極楽寺の境内古絵図の右下隅に西方寺と記されている)。最寄り駅は横浜市営地下鉄ブルーラインの新羽駅。そこから歩いて5分程のところにある。
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家の近くの曼殊沙華はすでに盛りを過ぎていたので、萎れた花を見ることになるのではないかと心配しての訪問であったが、例年よりは咲くのが遅かったということでちょうど見ごろであり、多くの見学者にも驚かされた。

参道につながる寺の入り口には、港北七福神の第一番札所であることを示す石碑があった。
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入り口を入った参道の両脇には、彩が異なる曼殊沙華が植えられていた。まず入り口の近くは、導入部ということなのだろう、よく見かける赤色の花で、とても華やかに感じられた。
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少し参道を歩いて振返ってみると、赤い帯が両側を飾っていた。
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さらに進むと階段を上る。ここからは寺院としての落ち着きを感じてもらおうとしているのだろうか、鮮やかさを落とした色の曼殊沙華が植えこまれていた。右側は黄色、
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左側は白色である。
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振り返って、色の移り変わりを見た。人がいなくなるのをと思ったのだが、そのようなチャンスは訪れなかった。
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階段を登りきると山門で、補陀洛山西方寺と記した提灯がぶらさっがていた。
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山門をくぐると300年の歴史を誇る本堂。小休止中の人たちにはコロナへの恐れを反映して、マスク姿が目立つ。
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さらに小高いところに上がると鐘楼があった。
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裏山には、秋が始まったばかりの暑いとさえ感じられる陽を浴びて、萩の花が美しく咲き誇っていた。
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澄み渡った秋空の下、お彼岸に合わせて必ず咲いてくれる曼殊沙華、万葉集の秋の季語にもなっている萩の花、鎌倉時代からの長い時を経てきた西方寺で、またまたマイクロツーリズムを楽しむことができた。

一遍上人ゆかりの無量光寺を訪ねる

今年初めての秋晴れの日(28日)に、相模野に一遍上人ゆかりの無量光寺を訪ねた。一遍上人は、諸国を巡り歩き、行く先々で「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配布して、人々に念仏を唱えることを勧めた時宗の開祖として知られている。人生のほとんどを遊行して過ごしたが、いっとき無量光寺のある当麻山(たいまさん)に草庵を結んで修行に励んだとされている。

無量光寺の基礎を本当につくったのは、遊行上人2世の真教上人とされている。一遍上人とともに遊行していた真教上人は、一遍上人亡きあと教義を引き継いで遊行を続けていたが、寄る年波と病弱には勝てず、遊行は智徳上人にゆだねて、この地に一宇(建物)を建立し(1303年)、そのあと16年間にわたってこの寺で宗徒の教化に努めた。

踊り念仏としても知られている時宗だが、その最も古い寺は無量光寺である。最寄り駅はJR相模線の原当麻(はらたいま)駅、圏央道の相模原愛川ICからすぐのところにある。
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秋晴れの真っ青な空の下で、たわわに実った稲穂が相模野の秋を知らせてくれていた。鎌倉時代にもそれほど変わらない風景の中で、人々は生活に勤しみ、お寺を訪れては踊り念仏に興じたことであろう。
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当麻山の麓には境内に入るための外門(総門)があり、その向こうに参道が続いていた。
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参道をしばらく歩くと山門に行きつく。腕木門の親柱の背面に袖をつけ、屋根をかけた高麗門と呼ばれる建築形式の簡素な門で、二脚門とも呼ばれている。
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門をくぐるともう境内である。静かなたたずまいの中に、十三重石塔があった。
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一遍上人が開山したことを示す石碑もある。
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一遍上人の句碑、
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さらにもう一つ。
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そして一遍上人像。
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芭蕉の句碑「世にさかる花にも 念佛まうしけり」もあった。
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手水鉢。境内は亀の形をした丘にあることから亀形峯(きぎょうほう)と呼ばれていらので、これに因んで「亀形水」と彫られたのであろう。
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仮本堂。明治26年の大火で二脚門を除いて焼失し、本格的に本堂を建て替えるには至っていないようである。
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庫裡(寺院の台所)。
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鐘楼。
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一代前に使われたのだろうか、梵鐘が置かれてあった。
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こじんまりとした池。季節の花の曼殊沙華が数本だけ咲いていた。
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久しぶりに快晴になったので、マイクロツーリズムをと思い立ち出かけた。相模原市の郊外の古刹を、他に参詣者もなく一人で独占することができ、一遍上人や真教上人の活動に思いをはせながら楽しい一日を過ごした。そしてコロナストレスの解消にもなり、有意義であった。

相模国一之宮の寒川神社を訪ねる

10月1日から東京都出発・到着の旅行も、GoToキャンペーンの仲間入りとなるようだ。本当に大丈夫なのかと疑われる中、昨日の朝のニュースで、推進派の人たちは社会的距離(social distance)を保てば大丈夫と主張していた。このニュースのあと、イギリスに関連した報道の中で、ロンドンの街の風景が流された。街路沿いに赤い色の旗がなびき、そこには”Keep a social distance.”と書かれていた。それを見た私は、二人のときはその間は一つ、三人以上の場合にはめいめいとの間は複数になるので、”social distance”は可算名詞だねとぼそっとつぶやいた。それを聞いていた妻は、納得できないらしく、社会的距離は抽象名詞じゃないのと返してきた。社会的距離を散らばっている状態と認識しているようだ。

ことばは人によって意味が異なることがある。それぞれの人のバックグラウンド、もう少し大げさに言うと文化が異なると、解釈が異なってしまう。エヴェレットは、その著書『言語の起源』で、言葉は正確ではなく、不正確な部分はその文化(物理学の専門用語を使ってダークマターとも彼は説明している)が補うと述べている。個を重要視する英語文化では”social distance”は可算名詞として、集団を大事にする日本語の文化では「社会的距離」は抽象名詞として扱っていると見なすと、文化の違いがこのような些細なところにも表れていることが分かり、清少納言ではないが「おなおかし」ということになる。

テレビでひっきりなしに流されるGoToキャンペーンに刺激を受けたわけではないのだが、久しぶりにマイクロツーリズムをと思い、相模国の一之宮を訪ねることにした。相模国は、横浜・川崎を除いた神奈川県の地域で、境川武蔵国との内陸部の境界になっている。国府の所在は不明、国分寺国分尼寺は海老名市に、一之宮は寒川神社と呼ばれ、寒川町にある。これらは、相模川に沿って造られたようで、南北に9kmほど離れている。
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相模や武蔵などの令制国には、一之宮、二之宮、三之宮などと呼ばれる神社が存在する。これらは、律令時代、国司が任官したときに、神拝する順番を示したものと言われている。相模国の一之宮は、鶴岡八幡宮も共に加えられていた時期もあるようだが、先に述べたように寒川神社である。ちなみに武蔵国には一之宮が二社あり、一つは多摩市の小野神社、もう一つはさいたま市氷川神社である。

寒川神社の最寄り駅は、茅ヶ崎と橋本を結ぶ相模線の宮山駅である。電車の旅を楽しみたいところだが、相模線に至るまでの田園都市線小田急線は混雑していることが予想されたので、それは避けたいと考えて、自家用車で参拝した。それでも雰囲気が知りたくて、散歩がてら寄ってみた。宮山駅は、単線のコンパクトな造りの駅であった。

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30年前までは気動車が使われていて、首都近郊のとてもローカルな線というイメージが強かったが、今は電車。
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それでは寒川神社に参拝することにしよう。境内の入り口には三の鳥居があり、ちょうど例祭のための提灯を立てかけるところで、鳥居をくぐれなかった。
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鳥居の右隣りは神池
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この神社では、毎年8月15日に世界の平和を祈念して相模薪能が実演されるそうだが、演目の一つの石橋(しゃっきょう)像があった。何とも怖い顔をしており、睨みつけられているようで恐ろしかった。
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境内の参道。コロナウイルスの影響だろうか、参拝者は殆ど見受けられない。
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参拝者が身を清めるために手水を使うための手水舎
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神社を守る狛犬
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狛犬は一対なので、その片割れと社務所
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立派な神門、神社に設けられた門である。
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振り返って神門を再度見る。
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寒川神社の御本殿。ここは、方位の吉凶を判断してくれる八方除の祓いをしてくれるところでもある。右側の人が集まっているところに、渾天儀(こんてんぎ)のレプリカがあるが、残念なことに写真を撮り損ねた。
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御本殿に近づいてみる。
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お客さんを接待するための客殿。絵馬やお守りなどが売られていた。
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近くには、末宮の宮山神社がある。
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宮山部落の人々が、第二次世界大戦終了20年後に、平和を願って建立した平和の塔もある。
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寒川神社には、初孫が誕生したときに訪れたことがあるが、そのときは多くの人でにぎわっていて、神社の趣を楽しむことができなかった。今回の訪問は、夏の日差しが一時的に戻った風の強い日で、参拝者も限られていて、伝統的な神社をじっくりと参拝することができ、良いマイクロツーリズムであった。

おまかせボタン付きオーブンレンジで、野菜つき肉料理を楽しむ

コロナウイルスから逃れるために中断となっていた活動が、本格的にとはいかないまでも、いよいよ来月から開始されることとなり、少しずつ準備を始めている。巣ごもり中の大きな変化は、妻と競うように「お家パン」作りを始めたこと、それが高じて本格的になったことだろう。毎朝、食前にはその日の作品が登場した。簡単なところでは、お手軽パン、ベーコンやチョコチップを利用したねじねじパン、ベーコンとチーズ入りのドデカパン、高度な技術を必要とするところでは、フランスパンやクロワッサンである。
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何回か失敗を繰り返すうちに、家庭用のオーブンレンジでは限界があることを知り、これ以上は道具の関係で無理なのかとあきらめていたところ、段違いに熱容量が高いオーブンレンジが東芝から売り出されたことを知った。

今まで使っていたオーブンレンジは10年前のもので250℃まで加熱できる。東芝の新製品はなんと350℃まで加熱可能である。これならば、プロにも負けないフランスパンが作れるのではと思い、思い切って購入した。期待した通り、もっちりふわふわの中身と固い表皮の、味のいいフランスパンが焼きあがった。しかしまだ大きな課題が残っていて、フランスパン独特の表面の切れ目(クープ)が綺麗に出来上がらない。もう少し修行して、素晴らしい切れ目が得られるようになったら紹介することにして、今日のブログでは、賢くなったオーブンレンジを話題にしよう。

オーブンレンジでは、添付のレシピに合わせて食材を用意することを強いられるので、不便と感じることが多い。冷蔵庫にあるものを適当に取り合わせて、料理できればよいのにとときどき思っていた。このような要望を今回のオーブンレンジは叶えてくれる。その名も「石窯おまかせ焼き」。角皿に食材をのせて、おまかせボタンを押しさえすれば、数十分後には出来上がりである。

早速試してみた。冷蔵庫から、ありあわせの豚のスペアリブ、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、パプリカをとりだし、野菜類は一口大に切った。そして、醤油(大匙3)、酒(大匙2)、砂糖(大匙2)、ニンニク(一片)で味付け汁を作り、スペアリブを1時間ほどこれにつけた。そのあと、スペアリブを角皿の中央に配置し、それを囲うように野菜をのせた。玉ねぎは焦げるのを防ぐために、アルミホイルで包んだ。仕上げに、スペアリブをつけた味付け汁を野菜にまぶした。
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オーブンレンジの下段に角皿をいれ、「おまかせ」ボタンを押して待つ。
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30分たったころに焼き上がり、食べごろになっていた。
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もう一つ素晴らしいと思った機能は、インターネットを介してスマホからオーブンレンジに、調理の方法と時間を指示できることである。これまでのオーブンレンジでは、添付冊子のレシピに限定され、新しいレシピを付け加える楽しみがなかった。しかしこのオーブンレンジは、インターネットでスマホとオーブンレンジがつながり、スマホからの外部操作が可能である。このため、新たに開発されたレシピをスマホに読み込むだけで、利用できるようになるので、新しいレシピをどんどん付け加えられるという利点がある。

これらの機能を活かして、これからも美味しい料理にトライしようと思っている。