bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

武相寅歳薬師如来霊場(8):東光寺・安全寺・野津田薬師堂を訪ねる

遂に最終日。残された三つの寺を巡るだけとなった。すっきりしない日が続いたが、今日は午後には晴れて気温が高くなるというので、その前に出かけることにした。訪問するお寺はいずれも町田市の中央東側で、電車の駅からは遠く、バス利用の不便なところである。これまで散策も兼ねて、最寄り駅から徒歩でお参りをしていた。しかし今回は、最終目的地の寺院がある薬師池公園の周りを散策することにして、お寺巡りは自家用車を利用した。参考までに徒歩でのコースは、永山駅から町田駅までとなる。およそ3時間、鎌倉街道に沿ってである。

最初に訪れたのは東光寺。町田市史によれば草創はとても古い。平安時代の斉衡・元慶(854-884)に、上総・下野などで蝦夷俘囚の反乱が起きたとき、朝廷は入唐八家で有名な円仁を東方宣撫した。円仁は東国各地に東光寺を建てたが、この寺もその中の一つとされている。そのあと江戸時代前期の寛文4年(1664)に含室傳秀が開山、さらに明治維新後に廃寺となっていたこの寺を中村秀雄和尚が復興した。

本堂には、小ぶりで金色の新しい薬師如来が、左右に日光・月光菩薩を伴って、一つの厨子の中に祀られていた。

境内の小高いところには、千手観音が安置されていた。

山門、

次は安全寺。町田市史にはこの寺の縁起は次のように記されている。開山は伊俊、室町時代の嘉吉2年(1442)寂した。また寺の過去帳には、正長・永享のころ(1430年前後)、孤岩が開山と記されている(同一人物の可能性もあるようだ)。

薬師堂には、同じ厨子の中に、くすんだ金色の薬師如来(高さ1尺5寸)、日光・月光菩薩が一緒に祀られていた。受付の人の話では、江戸時代のものらしい。この周りには同時期と思われる十二支も安置されていた。

本堂、

境内にはいくつかの石仏があった。六地蔵

最近造られるようになったのだろうか、全ての老人の最大の悩みを解決してくれる「ぼけ封じ観音」、

掃除小僧

鐘楼、

武相寅歳薬師如来霊場巡りもいよいよ最後。野津田薬師堂で受付の案内の女性に、「ここが25寺目で最後です」と告げたところとても喜んでくれ、「私もここの薬師様が一番いいと思っている。最後に選んでくれてありがとう」といわれた。そして「ぜひ結願(けちがん)をしてください」とも言われた。

野津田薬師堂は通称で、正式には福音寺薬師堂という。町田市の観光ガイドによると、明治16年(1883)に再建された。この堂の薬師如来天平年間(1270年前後)に行基により彫られたと、現存する寺の巻物には記されているそうである。古来より、眼病に御利益があるとのことであった。

この寺の釈迦如来は、町田市にある木の仏像では最も古い仏像であることが認定され、町田市の文化財に指定されている。釈迦堂の中には、屋敷のような構えの構造物があり、その内部の中央に薬師如来、右側に日光菩薩、左側に月光菩薩がそれぞれの厨子に安置されていた。薬師如来は木造で、厨子一杯に納められており、のぞき込まないと全体が見えない。今回これまでに参拝した新しい薬師如来と比較すると素朴な感じで、長いこと信仰を支えてきたのだと思うと、感慨深いものがあった。

野津田薬師堂の周辺には薬師池がある。

周囲は公園になっていて、あとひと月もすると、菖蒲がきれいに咲くことだろう。小さな谷戸を利用して棚田となっている菖蒲の畑に水を引き込んでいた。

最後に結願証をもらうために受付に寄った。住職も副住職も出かけているということで、郵送してもらうことにした。

これで、8日間かけての霊場巡り、そして25寺院のそれぞれの薬師如来の参拝を完結した。今年はさぞかしご利益に恵まれ、健康な日々を送れるだろうと期待して、帰路についた。

武相寅歳薬師如来霊場(7):福泉寺・祥雲寺を訪ねる

今日は横浜線のさらに北側の長津田駅から町田駅までの間にある二つの寺をめぐった。

最初に訪問する寺院は福泉寺。長津田駅からそれほど遠くないところにある。駅周辺には、この地域では大規模といえる大林寺がある。

そして板碑(写真右)は横浜市内では最大の高さで180cmを誇る。

国道246号線に沿って歩いていると、福泉寺の石碑が目に入ってきた。

本堂には小ぶりな金色の薬師如来、その左右には日光・月光が祀られていた。

ホームページに紹介されている縁起によれば、福泉寺は明応元年(1492)に尊祐により開山された。そして江戸時代、長津田の領主岡野房恒により、村の鎮守である王子権現の別当寺にされた。しかし檀家を持たない祈禱寺であったため、明治20年ごろには衰退した。明治時代後年になると山崎戒心が近隣信者の協力を得て小さな建物を建てて復興した。昭和45年には現在の本堂が再建されたそうである。

境内には、様々な石像が安置されていた。弘法大師立像、

ぼけ封じの楽壽観音、

掃除小僧、

また縁起にあった王子神社の鳥居、

本殿、

次の寺に向かう途中、つくし野駅近くで旧大山街道(現在国道246号線)を見つけた。

江戸時代の庶民は、この道を通って、「大山詣り」を楽しんだことだろう。

1985年の「金曜日の妻たちへⅢ恋におちて」、1990年の「ダブル・キッチン」、2016年の「僕のヤバイ妻」で、TVドラマのロケ地となったつくし野の駅前、

そうこうしているうちに目的地の祥雲寺に到着した。

祥雲寺も、この寺院のホームページで縁起を紹介している。大永6年(1526)に、寥堂秀郭を開山とし、小田原北条家の武運長久を祈願されて建立された。当時、北条家より寅の判の朱印地寄付があり、徳川時代になっても、家光をはじめとする将軍から9通の朱印地として寄付された。伽藍は享保年間の災禍や関東大震災の被害を被りながら復興。昭和51年に本堂・客殿、平成3年より寺院所有地の整備が始まり、平成14年には瑞祥閣が落慶したとなっている。

本堂には小ぶりで金色の薬師如来が祀られていた。住職のお話では、この薬師如来は昭和60年に原町田の宗保院より祥雲寺に安置されたとのことであった。

山門、

観音堂

池、

境内には様々な石仏があった。
十二支の守り本尊

小僧さんの十二支像

六地蔵

いねむり小僧、

帰路途中、町田市中央図書館の前に、モダンな彫刻が設置されていた。石仏ばかり見てきたので、とても新鮮に感じられるとともに、現実の世界に呼び戻された。


武相寅歳薬師如来霊場(6):寶袋寺・観護寺・舊城寺・弘聖寺を訪ねる

今日は昨日の続きで、横浜線十日市場駅から中山駅の間にある四つの寺を訪れた。久しぶりに晴れ、気温も20℃を越え、汗ばむ中での霊場巡りとなった。

寶袋寺のホームページによれば、この寺は慶長年間(1596-1615)に顕堂長察により開山された。建立地から、古い巾着(きんちゃく)が掘り出されたのでこの寺号がついたようだ。本尊の聖観世音菩薩は運慶作と伝えられている。門から入って右手に、寺の碑、掃除小僧の石像、そしてその背後に十六羅漢が安置されている。

本堂、

薬師如来と、脇像の日光と月光の菩薩が祀られている薬師堂、そして右側には鐘楼も、

次の観護寺へと向かう。横浜の郊外で、田園風景が広がっている。

オオデマリも見ごろ、

そして恩田川。この先で谷本川と合流し、鶴見川となる。

のどかな風景の中に、赤いのぼり旗をなびかせた観護寺があらわれた。

観護寺は、後述する印融法印(1435-1519)により開山された。本堂には、小さな厨子の扉が開けられ、薬師如来が祀られていた。左右には日光・月光の菩薩が安置されていた。

鐘楼、

印融法院(1435-1519)の墓。彼は中世の学僧で、現在の横浜市緑区三保の生まれである。高野山で研鑽を積み、無量光院の院主となった。晩年になって関東の真言宗の衰退を嘆き、長享2年(1488)頃に関東に戻った。そして三会寺や金沢光徳寺などに住して、真言宗の復興に勤めた。

邸内には愛嬌のある犬の像もあった。

次の寺へと向かう。このようなのどかな地帯を、随分と長い8両編成の横浜線が走っていく。

イチリンソウがきれいに咲いていた。

景色を楽しんでいるうちに舊(旧)城寺に就いた。山門、

ホームページで舊城寺の歴史が紹介されているが、内容がすばらしいので、概略を紹介しよう。舊城寺という名前から推察できるように、ここはかつての城跡である。伝承によると、室町時代に関東上杉氏の一人の憲清が「榎下城」という小さな山城を築いた。関東上杉氏が衰退したあと、「久保城」などと名前を変えながら、小田原北条氏のときも、小机城の出城として役割を果たした。豊臣秀吉の小田原攻めのときまで、何度も廃城を繰り返しながら使われていたそうである。江戸時代になって、久保村の長の佐藤氏の住居となる。しかし佐藤小左衛門のときに男子が生まれず、財産を全て娘に譲って、死後ここに寺を建てるように遺言したそうである。慶長年間(1596-1614)に城跡に寺院が開かれ、「舊城寺」と名付けられた。
本堂、

薬師堂。ここの薬師如来は他のそれとは異なり、黒ずんでいた。年代物と感じたので、住職に聞いたところ、室町時代の作と答えられた。

境内には大木が多い。銀杏、

そしてカヤ、

最後は、弘聖寺。昨日断念したところだ。携帯の地図を頼りに、家並に囲まれた細い道を歩いていく。途中から急な坂となり、山のてっぺんに寺があるのだろうと勝手に解釈して登っていく。頂についても寺らしきものは見えない。若い女性がやはり寺を探しているようで、頂のあたりを行ったり来たりしている。携帯が指示しているところには柵がある。柵の先をよく見ると道らしきものがあるが、通行禁止と書いてある。近道なのだろうが、行けそうもない。携帯が示している先の山の麓に寺があるだろうとあたりをつけ、ぐるりと下の道を回ることにした。山感に頼っての行程だ。しかしあてにしている霊場巡りの赤いのぼり旗が一向に見えてこない。不安になりかけたが、ここしかないという道に入ってみると寺らしきものが見えた。しかし赤いのぼり旗はない。とてもいやな気持がしたが、決心してその寺を目指した。なんとこの寺は赤いのぼり旗を立てていなかった。霊場であることを示す一本の柱だけが建っていた。
弘聖寺は、新編武蔵風土記稿によれば、寛永2年(1631)に没した笠原彌次兵衛の開基とされている。とても立派な本堂、

小ぶりだがしっかりした薬師如来が祀られていた薬師堂。

帰りに安らぎを与えてくれた藤の花。

今日の最後の寺院探しは大変だった。携帯のマップは、交通手段を「徒歩」にすると、生活道路(歩行者用の抜け道)となっている近道を教えてくれる。大きな通りでないため、どこら辺を歩いているかの方向感覚が失われ、不安を感じながらの行程となる。今回は人が入れないような山道へと誘われ、往生した。くねくねとした生活道路ではなく、大きな道に誘ってくれないかと、携帯に不満をたらたらといいながら歩き回り、本当に疲れた。

武相寅歳薬師如来霊場(5):林光寺・東観寺・寶塔院・萬藏寺を訪ねる

今日は、最高気温が20℃に達しないので、寺院巡りに向いているが、どんよりしているのが気になる。案の定、途中から雨が降り出し、5寺巡ろうと思っていたが、他のアクシデントも重なって、最後にと予定していた寺は、次の機会となった。訪れるところは、横浜線鴨居駅周辺と中山駅までとした。

最初に訪れたのは、林光寺。寺院の入り口には、奇妙なことに、二つの寺の名前が記されている。

砦のような楼門が現れた。

山門の手前には池、

そして石仏、

山門をくぐってすぐのところに薬師堂があり、薬壺を持った立派な薬師如来が祀られていた。あとで調べて分かったのだが、ここは西光寺で、かつて鶴見川沿いにあったが、一度移転したあと、明治11年に、林光寺の境内に移ってきたとのことであった。このため入り口にはこの寺の名も記されていたのだと納得した。

林光寺の山門、

そして本堂。林光寺のホームページによれば、室町時代後期の宝徳元年(1449)に僧・義慶が開祖、戦国時代末の慶長年間(1596-15)に僧・誓順が再興、文政元年(1818)と明治27年(1894)の災禍で堂塔焼失、昭和49年より平成7年まで長い期間をかけて復興された。鴨居山の中腹1万坪の境内に本堂・薬師堂・楼門・客殿・庫裡などで大伽藍を構成している。今回の霊場巡りでは、これまでで一番大きな規模の寺であった。

境内には藤の花も、

墓所からみた薬師堂と鴨居の街、

次は東観寺へ行く。山門、

東観寺の創建年代は不詳だが、天平年間に行基がこの地に観音菩薩を安置して草創したと言われている。平安時代に快圓が堂宇を修造、そのあと廃寺となっていたが、戦国時代に小机城主笠原越前守信爲が開基となる。そして江戸時代の初めに法印義印(慶安5年(1652)寂)が再興したとされている。本堂、

池、

観音堂では、右側に木造の薬師如来が祀られていた。中央は聖観音像だが、公開されるのは10年後とのこと。左には勢至菩薩像が並んでいた。

次は寶塔院。創建年代は不詳、正徳年間(1711-15)に堂宇を建立した祐圓を中興とする。

観音堂。金色の薬師如来が祀られていた。

本堂、

最後は萬藏寺。創建年代は不詳。文禄元年から住職を務めた法蔵法印が中興したとされている。仁王門、

金色の光背を有する木造の薬師如来が祀られている薬師堂、

本堂、

観音菩薩

もう一つお寺を回ろうとしたが、間違って住宅街に入り込んでしまい道が分かりにくくなってきたことと、雨が降り出したことが重なり、残念ながらここで中断した。

今回参拝したお寺のほとんどは、荘厳で見ごたえがあった。この辺りは鎌倉時代から交通の要所だったので、その名残があるのだろうと推察した。

武相寅歳薬師如来霊場(4):福昌寺・薬師堂・萬福寺を訪ねる

午後は用事があるので、朝の散歩代わりに三寺を巡った(4月17日)。長津田駅を出発してこどもの国線に沿って恩田駅まで行き、折り返して田奈駅へと向かった。

福昌寺へ向かうあかね台は、八重桜が満開。

途中には藤の花も咲いていた。

新編武蔵風土記稿によれば、福昌寺を開山したのは國抽太山で、江戸時代初期の慶安4年(1651)に寂した。本堂からガラス越しに、金色の薬師如来と日光・月光菩薩を参詣した。

寺内には、水子地蔵と、

稲荷神社があった。

次は、恩田駅近くの薬師堂に向かう。
キンカンがたわわに実っている木を数か所で発見した。キンカンの時期は過ぎたと思っていたのだが、これは遅い種類なのだろうか?

恩田川駅近くにある小さな造りの薬師堂。お堂の中まで入り、薬師如来と日光・月光菩薩をお参りした。金色で、これまでに見た像の中では一番大きかった。

新編武蔵風土記稿によれば、戦国時代初めの永正3年(1506)に寂した印興が開山したそうである。かつては医王院という寺であったが、いつの頃からか住職がいなくなり、現在は近くの徳恩寺が管理している。
寺内には石仏があった。

薬師堂から道を挟んでの公園で一休み。ハナミズキがきれいに咲いていた。

子どもの夢を運ぶ電車が田奈駅をはなれた。

別の場所からのこどもの国線

次は田奈駅近くの萬福寺へと向かった。途中の田名第一公園でも八重桜がきれいに咲いていた。


新編武蔵風土記稿には、室町時代初期の応安8年(1375)に寂した快秀により開山されたとなっている。本堂。中に入ることはできず、奥の方にやっと認識できるほどの大きさの金色の薬師如来が祀られていた。

寺内には鐘楼、

弘法大師像、

堅牢地神

六地蔵の石仏、

そして、慈母観世音菩薩像。

この日は、霊場巡り半分、春の花を楽しむことが半分となってしまった。前の日の中原街道沿いの寺院と比較すると規模が小さい。恐らく主要な街道から離れていたことが影響しているのだろう。しかし近年こどもの国線周囲での開発が進み、恩田駅周りには、きれいな住宅街も広がっているので、これからは田園的な街が開けていくことを期待して散策を終えた。

武相寅歳薬師如来霊場(3):大蔵寺・無量寺・東漸寺を訪ねる

昨日(16日)は横浜線に沿って南に下り、三つの寺を参拝した。前日までの冬を思わせるような肌寒い雨の日が続いたあとの、少しだけ良い方に向かっていた午後に出かけた。現在の中原街道(県道45線)、かつて鎌倉往還を下って(江戸に向かって)の寺巡りである。
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最初に訪れたのは、中山駅近くの大蔵寺で、鎌倉期(1200年頃)に開創された。この辺りは、鶴見川と恩田川を望む景勝の地で、軍事的にも要衝の地であった。開山は不明、開基は鎌倉浪人の兵衛尉相原左近(源頼朝の家臣で、中山村の相原家一族の祖)である。400年後の大火で堂塔・伽藍を焼失、今日では土中から当時の屋根瓦破片や敷石が発見されるのみである。焼失の10年後に120m程度離れた現在の地に再興された。

大蔵寺の参道。住宅が参道を埋め尽くしていた。奥の方にわずかに寺らしき建物が見える。
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本堂(1970年に落慶)。中央に守本尊の薬師如来(木造)が飾られていた。
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境内はとても賑やか。中国天童山の典座和尚と若き日の道元(曹洞宗の開祖)の像、
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大慈悲観世音菩薩像(和田光太郎作)、
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可愛らしい掃除小僧、
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次は、朝光寺の住職さんが薦めてくれた佐江戸の地にある無量寺。開山の時期は明らかではないが、鎌倉時代中期には無量寿福寺(尼寺)という寺が存在していたことが資料から知られている。裏手の台地には佐江戸城の跡があり、北条氏小机衆の猿渡氏により築城されたと伝えられている。

寺の入り口近くは、八重の桜が満開だった。
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本堂、
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最近建てられた堂に、とてもモダンな薬師如来が祀られていた。
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最後は、ここから近い場所にある東漸寺。奈良時代天平13年(741)に、行基(東大寺の仏像建立)がこの地に草庵を結び、文殊菩薩を造顕奉安したことが開基とされている。現在の本堂は昭和40年代に建立された木造建築、この中に入りとても近いところで薬師如来を拝観した。小ぶりだが、金色に輝く像で、左右に日光・月光の菩薩も祀られており、荘厳であった。
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文殊堂には、文殊菩薩が祀られている。
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帰りは鶴見川に沿って鴨居駅に向かった。何とボートで川を下っている人がいた。
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川縁にはサクラソウもきれいに咲いていた。
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現在はららぽーと横浜になっているが、若いころに勤めていた会社の工場がここにあり、ここへ出張するときは中原街道を利用した。当時のこの街道には、のどかな田園風景が広がり、北側に小高い丘、南側に田んぼや畑があり、小さな集落が街道に沿って散在していた。出張のたびごとに、江戸時代にタイムスリップしたかのようなこの風景を楽しんでいたが、今は寺の周りに残すだけとなって寂しい気がした。当時は横浜線も単線運転で、複線化が始まったのは昭和42年(1967)、その完了は昭和63年(1988)である。今日の横浜線周辺のにぎわいは、かつてのイメージからは隔世の感があり、時の移ろいを感じさせてくれた一日であった。

武相寅歳薬師如来霊場(2):朝光寺・宗泉寺・瑞雲寺を訪ねる

ついこの間まで寒い日が続いていたのに、途端に暑い日がやってきた。一昨日に続いて昨日(4月12日)も夏を思わせるような陽気だった。四季に富んだ日本はどこに行ったのだろう。長い夏と冬、そしてわずかな春と秋になってしまったようだ。この日もまた、前の日に続けて、武相寅年薬師如来霊場巡りをした。巡礼さんの気分である。

今日巡るのは田園都市線市が尾駅から、横浜地下鉄グリーンライン川和町駅まで、途中に朝光寺、宗泉寺、瑞雲寺を経ての北から南への移動で、距離は4.9kmである。

最初は朝光寺。市が尾駅から降りてそれほど遠くない。裏手からの侵入になったが、横に駐車場があるので、ここから入る人も多いのだろう。道が綺麗に整備されている。

正面に入って本堂で薬師如来を拝ませてもらう。

お坊さんに聞いたところでは、明治32年の火事で焼けてしまい、そのあと住職の方が木造の薬師如来を造られ、それが祀られているとのことであった。
山門は、

新編武蔵風土記稿によると、開基は市が尾村の名主新五右衛門の祖先の上原勘解由左衛門で、彼は天文17年(1548)に亡くなっている。戦国時代の北条氏が関東一帯を支配している頃に建てられたようである。

次は鶴見川に沿って、宗泉寺へと向かう。この辺りは横浜と雖も農業地帯で、古くからの景色とモダンな高速道路が、アンバランスで面白い。

ところどころに梨畑もある。白い花が見事に咲いていた 。

宗泉寺は、ちょっとした小高い丘の上にある。

階段に沿ってたくさんの旗が立てられていた。

山腹には、竹林の中に山吹が咲いていた。

本堂は、

小ぶりな薬師如来さんが祀られていた。新編武蔵風土記稿によれば、開山顯堂は寛永9年(1632)に没しているので、江戸幕府が始まったころの開山だろう。


次は今日最後の瑞雲寺。宗泉寺であった老齢の女性が、行く道が分からないというので、一緒に向かった。横浜線沿いに住んでいて、1日5寺のペースで、霊場を巡っているとのこと。ただ町田の奥にある霊場は行けそうにないと言っていた。しっかりした足取りの方で、急ぎ足で次の寺へ向かった。

瑞雲寺は、川和町駅の近くにある。駅が近いせいだろうか、このお寺は参拝客が多い。見慣れた赤いのぼり旗で、きれいに並んでいてその奥に山門がある。

そして本堂、中に薬師如来が祀られていた。朝光寺のそれに似ていた。


庭園には綺麗なしだれ桜が、


鐘楼と聖観音像も。

新編武蔵風土記稿によれば、開山梅林霊竹は円覚寺第7世の住職で、応安7年(1374)に没しているので、室町幕府が始まったころの開山のようだ。

ところで、最初に巡った朝光寺は、横浜の古代に関心がある人にとっては貴重な場所だ。弥生時代の環濠集落の遺跡、後期弥生土器の標識遺跡ともなっている朝光寺原式土器、古墳時代の朝光寺原古墳群、奈良時代官衙に関連する遺跡が、朝光寺の東側から見つかった。そのころは1960年代の高度成長期の真っただ中で開発が急がれたために、貴重な遺跡は東名高速道路や住宅に変わってしまった。

横浜市歴史博物館には、遺跡発掘により発見された遺物が展示されている。そのうちのいくつかを紹介する。いずれも古墳時代のもので、甲(かぶと)と冑(よろい)、

馬具、

武器類、

鍬の先。

また朝光寺原遺跡の近くの長者原遺跡からは官衙跡が見つかり、横浜市歴史博物館には復元模型がある。中央奥が官衙の正殿、左側の列をなしている建物群は、租の稲などを貯蔵するための正倉である。

朝光寺の近くには、貴重な遺跡があったにもかかわらず、開発が急がれたせいで保存されなかったのは残念なことである。特に、都筑郡官衙遺跡は、奈良時代の地方官庁を知るうえで貴重な遺跡であったので、禍根を残したと思う。

武相寅歳薬師如来霊場(1):福壽院・常楽寺・観音寺を訪ねる

寅歳薬師霊場という風習は、この時期、全国どこでも行われるのだろうか。グーグルでググってみると、武相二十五、都筑橘樹十二、武南十二、相模二十一、稲毛七、足立十二、中武蔵七十二、伊予十二、四国四十九、京都十二などと次から次へと現れる。いろいろな地域で行われているようだが、その起源や規模は分からない。なぜ寅歳にという疑問も生じてくるが、これへの適切な回答も得られない。地域に根付いた習慣だろう程度のことしかわからなかった。

取り敢えずいくつかの寺を訪れて、その習慣を体験してみることとした。選択したのは、武相寅歳薬師如来霊場武蔵国相模国とにまたがる地域の25寺が参加している。いくつの寺を回れるかわからないが、初日(4月11日)は田園都市線の西側終点近くにある福壽院、常楽寺、観音寺を巡った。コースは、田園都市線つくし野駅からつきみ野駅までの間を歩く道筋で、距離にして6.2Kmである。

最初に訪れたのは福壽院。「旧小机領子歳観音第24番霊場」と「武相寅歳薬師如来第22番霊場」という石碑がある。ウシ歳の薬師如来とは別に、ネズミ歳にも旧小机領の33寺とともに、観音を開扉して、近隣の人たちの参拝を仰いでいる。そして薬師とともに観音も重要な信仰の対象であることが分かる。

福壽院に上る階段付近、

石段を登りきると、

写真では本堂は閉じているが、お寺の方が開けて下さり、木造の薬師如来を拝ませていただいた。町田市史によると、開基は山下市右衛門で寛文11年(1689)に寺領主高木伊勢守守久より検地の際に除地を得て、小寺を創立したとなっているので、江戸時代中期に建てられたのだろう。昭和33年に台風で倒壊し、そのあと再建されたそうである。

ここを後にして次の寺へと向かう。途中、むじな坂を歩いた。今でもムジナが住んでいるのだろうか。

2番目の常楽寺に到着。お寺とは思えない建物。正面奥に薬師如来が鎮座している。左側のテントが少しだけ見えるところに町内会からの応援の人々が控えている。古くからの地縁社会がこの辺りではまだ続いているのだろう。参拝客も近所の方が多いようで、応援の人々と親しそうに話をしていた(後で分かったことですが、このお寺は町内会が維持管理していて、薬師如来が祀られていたのも、町内会館とのことでした)。

ここの薬師如来は黄金、福壽院よりも少しだけ大きい。開山・起立などは不明。この辺りの江戸時代の村名は町屋(現在は町谷)で、古代東海道駅路の店屋(まちや)があったところと推定されている。常楽寺の本堂、先ほど見た福壽院の本堂とよく似ているのにびっくり。

次の場所に向かって、武蔵国相模国とを分ける境川沿いに歩く。前述の寺は武蔵国に属し、これから訪ねる観音寺は相模国にある。境川の川べりには、菜の花とそれに隠れるように紫大根の花が咲き誇っていた。

また反対側の庭にはシャクナゲがきれいに咲いていた。

携帯のマップ案内に従っていたら、観音寺の裏手に導かれた。正門に回るのも億劫なので、そのまま進んだ。

この寺は、「武相卯年観世音札所第1番霊場」で「武相寅歳薬師如来第21番霊場」でもある。寺のホームページに観世音札所のホームページがあり、八王子・日野・多摩・町田・相模・横浜・大和にある48寺がウサギ歳の春に、秘仏の観音を開扉しているとのことであった。寺内には平成元年に落成した観世音菩薩が立てられていた。

正門から本堂に向かう参道に沿って、寅年薬師如来霊場を知らせる旗がなびいていた。またそばには供養塔も立てられていた。

この反対側には、立派な石碑に縁起が彫られ、そこには中興開山の頼満和尚が慶長13年(1608)に入寂したこと、昔は金亀坊と呼ばれたらしいが開山・開基は不明であること、市重要文化財厨子が天文13年(1544)につくられたこと、本尊の11面観世音菩薩が造られたとき(宝暦年間(1753~63))の経緯などが記されていた。

寺内には太子堂も、

そして順序が逆になったが、最後は山門、

このあと八王子街道つきみ野駅へと向かう。寺を出てすぐのところに道標があり、この場所は元弘3年(1333)に新田義貞が進撃した鎌倉街道であると記されていた。現在は、八王子街道大山街道が交差するところに位置していて、鎌倉時代には鎌倉街道上道として、江戸時代には大山へ向かう矢倉沢往還として、この辺りは栄えていたのであろう。

道標のそれぞれの面に行先の案内がある。この右横の面に新田義貞のことが書いてある。写真を撮ったが、人が鮮明に映り込んでいるので残念ながら使えないので、想像してもらうしかない。

この日は、4月にもかかわらず岩手県では30℃を越えた。東京や横浜でも25℃を超え、地球温暖化が着実に進んでいることを肌で感じさせてくれた。地域で霊場を定めて、春先になるとこれらの霊場を巡り始めたのは、旅行が盛んになった江戸時代のことだろう。この時代は小氷河期とも呼ばれ、今とは違って寒かったため、暖かさが戻ってくる春先は、人々にとって今よりもずっと特別な意味があったようだ。桜が満開を迎えるこの時期を待ち焦がれ、何日間かかけて霊場巡りを楽しんだと思われる。

満開の桜を観にあちらこちらへ

コロナウイルスのために、ここ2年間は外出を控えていた人は多かったことだろう。その反動で、今年は特にきれいに感じられるのだろう。桜の花を愛でるために、多くの人が繰り出しているようである。私もその一人である。日々の散歩の中で、膨らみ始めたつぼみに期待を寄せ、2分咲きや3分咲きになったころには春の訪れを感じ、7分咲きの頃には家族や友達に報告してウキウキし、満開になったころには躍り上がって喜びそうになり、散りだした頃の花吹雪には、さすがにそれを追う若さはなかったけれども、桜の花の移ろいを楽しんだ。

町田市から横浜市へと流れ込む恩田川沿いの桜。2㎞にわたって400本の桜が植えられ、町田市の観光スポットとなっている。しかし残念なことに、老木となったために大きな枝が切られ、かつての醍醐味は失われたが、恩田川に落ち込むような淡いピンク色の流れは依然として美しい(3月30日)。
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遠出して佐倉を訪れた(4月3日)。本来の目的は国立歴史民俗博物館の展示「中世武士団」を見学すること、ついでに佐倉城址公園の桜を鑑賞することであった。冬のような肌寒い日で、小雨も降っていた。しかし幸いなことに歴博の展示はさすがに立派で、千葉氏、益田氏、三浦和田氏を中心に、鎌倉時代から室町時代の武士団について、古文書を中心にとても丁寧な説明があり、得ることが多かった。熱心に展示を見過ぎたこともあり、広大な公園の全ての桜を鑑賞するという体力は残されていなかった。そこで本命だろうと思われる城址公園の本丸跡の桜だけを鑑賞した。桜祭りの主催者は張り切っているのだが、寒さも手伝って人はまばら。桜の木は歴博の分まで入れると1000本を超えるそうで、本丸跡には、色々な種類の桜が植えこまれている。このため同時に咲くことはないようだ。日にちをかけて、それぞれの美しさを鑑賞するのがよさそうである。
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東京の桜も散り始めた昨日(10日)は、静岡県小山町にある富士霊園を訪れた。花が好きだった両親が、おそらく桜がきれいなころに見学に行ったのであろう。花に囲まれた場所であの世の生活をしたいということで墓地を購入し、現在はこの土の中に眠っている。遠いところなので年々墓参が億劫になっていたのだが、孫が春休みを利用して自動車免許を取り、練習をしたいということなので、彼の運転で3年ぶりに訪れた。

この霊園は富士山のふもとにあるので、開花が東京より1~2週間遅れる。満開になるころを見定めて練習日を決めておいたところ、とても運のよいことに大正解となった。
霊園内の桜中央通りの中ほどから振り返っての桜並木、
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桜中央通りを抜けたあとの桜並木、
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さらに階段を登り慰霊堂よりの桜中央通りの桜、
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若葉マークの付いた車窓よりの桜並木。運転手の緊張感が伝わってくる。彼は桜どころではなかったと話していた。
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自宅近くの桜並木もかつては素晴らしいソメイヨシノの並木道で、遠くからも訪れる人々が多かった。しかし近年老木となり、倒木の危険もあったので、数年前からジンダイアケボノの若木が植えられた。今年はやっと見るに堪える程度に成長し、我々を喜ばせてくれた。あと数年も経てば、桜の花のトンネルを作ってくれるだろうと、楽しみにしている。
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早島大祐ほか『首都京都と室町幕府』を読む

一般に、歴史の本は出来事を辿りながら説明している場合が多い。室町時代であれば、観応の擾乱(1350-52)、享徳の乱(1455-83)、応仁の乱(1467-77)など、幕府を二分しての戦いを中心に描こうとするだろう。しかし出来事だけを追っていると、大きな流れを見逃してしまうことになりかねない。最近、室町時代への関心が高まり、従来にない研究成果が表れている。その一端を示してくれたのが、早島大祐さん他の『首都京都と室町幕府』である。この本は、財政に着目しながら15世紀室町時代を説き起こしている。

古代から近世までの財政の移り変わりについては、高橋正憲著『経済成長の日本史』に詳しく書かれている。その中から中世を抜き出すと次のようになる。

推移
農業生産量 人口 1人当たり農業生産量
(1000石) (100万人) (石/人)
730
6,329
6.10
1.04
950
7,990
5.00
1.60
1150
9,035
5.90
1.53
1280
8,298
5.95
1.39
1450
14,016
10.05
1.39
1600
25,879
17.00
1.52
成長率
期間 農業生産量 人口 1人当たり農業生産量
730-950
0.11
-0.09
0.20
950-1150
0.06
0.08
-0.02
1150-1280
-0.07
0.01
-0.07
1280-1450
0.31
0.31
0.00
1450-1600
0.41
0.35
0.06

高橋さんは、山田邦明さんの『戦国の活力』を引用し、「それ(戦国期)までの日本社会は、京都や鎌倉などの都市部の荘園領主が列島各地の所領を支配し、そこから年貢などを集めるという散財的なネットワークの上に成立していたのが、戦国期になるとそうした支配体制は崩壊し、列島の各地の戦国大名が領国内の土地と人を支配するようになった」と中世の時代を特徴づけている。上の表を見ると、室町時代(1336-1573)には人口が増加し、その後半(戦国期)には農業の生産量も上昇していることが分かる。乱が続いた室町時代には、人口も生産力も落ちたのではないかと想像しがちだが、統計データはこれとは反対である。

気候の温暖化は今日では地球規模の大きな課題であるが、中世も気候変動に見舞われていた。この時期は、地質学では小氷期と呼ばれる時期にあたり、14世紀後半から19世紀半ばまで寒冷な期間の中にあった(地球のどこかに1年中氷床があるときを氷河期と言い、その中でも寒い時期を氷期、そうでない時期を間氷期という。11,700年前から現在まで間氷期である)。下図はIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)が2022年に発表した気候変動に関する報告書からの図である。これから、14世紀半ごろから寒冷化が始まり、さらにクワエ火山の噴火(1452-53)で急激な寒冷に見舞われ、その影響が薄れたあとも寒冷な時期が続いたことが分かる。この噴火の影響を受けて、日本では長禄・寛政(1459-61)の飢饉が生じた(享徳の乱応仁の乱もこの時期)。


氷期の時代に、ヨーロッパでは中世から近代へと時代が大きく変わるが、日本でも中世から、近世・近代へと時代は移っていく。寒冷化を克服するために、人々は、政治・経済・社会・文化・技術の面で様々な工夫をしたのであろう。

それではこの本のさわりの部分だけ紹介しよう。15世紀室町時代の財政論で始まる。これによれば、他を圧する都市「京都」に大きく依存した財政構造が変化し、それが政治・経済・社会・宗教に影響及ぼしたというのがこの本でのテーマ主題である。財政の変化は次のように説明されている。

室町幕府開創期には、足利家所有の荘園(家産)と、守護たちへの課税である守護役(主従制原理による家臣からの上納金)とが、収入の核をなしていた。このころの出費は、軍事と寺社の運営と再建であった。天龍寺、熊野速玉社、相国寺の造営は、幕府や守護からの負担で賄ったが、寺社の再建については、所領を安堵することで自助努力に任せた。

3代将軍の義満の頃になると、明徳4年(1393)に土倉酒屋役が設けられた。しかし延暦寺が足利家に恭順を示すためのもので、額としてはそれほど大きくはなかった。それよりも日明貿易による収益が莫大な額に上った。義満が晩年の頃は一種のバブルのような状況をきたしていた。

4代将軍の義持の時代になると、土倉酒屋役と守護役からの収入が主となり、都市依存型の財政となる。日明貿易は廃止されたが、6代将軍の義教のときに再開した。しかし往時の勢いはなかった。もし義持のときに継続していたとしても、それほどの収入は期待できなかっただろうと著者は見ている。また義政の正室である日野栄子が投資・浪費をしたことが注目されるが、これについては後で説明する。

この時点で、領主階級は都市生活者である。さらに本来は領地と密接な関係がある守護、守護代、荘園荘官(土倉)たちも、現地支配・経営を別の人間たちに任せ、都市生活者の性格を強めた。これによって次の三つの現象が生じた。

➀現場担当者の裁量権が拡大した。これは後々の下剋上につながる。②守護による荘園の侵略化が正当化された。守護役は、守護からその領地さらには荘園住人へと転化され、15世紀には日常化した。このため代官に依存していた荘園は、守護からの圧力に抗しきれず、有事の兵粮米名目で納めていたものが、平時でも行われるようになった。その結果、守護は荘園を領国化した。③所領経営と農業生産とが乖離した。所領経営がマネーゲーム化し、女性が新たにゲームに参入した。この時代になると、女性の荘園所有に変化がみられ、慣行として相続しないようになった。しかし土倉酒屋役から上がる将軍家の私的財産を、日野栄子のような特権的な女性が運用して利益を挙げるようになった。

嘉吉元年(1441)には徳政令があり(将軍は義教)、土倉(金融業)は経営悪化した。それにもかかわらず家産の運用で腕を上げた女房達は経営手腕をばねに、日野富子(8代将軍義政の正室)にみられるように、資産運用を続け、彼女たちの奢侈は維持された。

15世紀初頭には徳政一揆が頻発し、先に述べたように金融業を直撃した。政所執事伊勢貞親(将軍は義政)は、家政運用で得た知恵を活用して、幕府財政を再建した。このとき、➀免税特権廃止:天皇家の駕輿丁にも課税、最終的には全商人にも、②地口銭:間口に応じた住民税、③段銭:田地にも税を課した。これは商業都市に対する課税強化であった。さらには所有する美術品コレクションを売却して、財政をやりくりする。桜井さんはこれを贈与依存型財政と名付けている。

応仁の乱によって守護在京制は崩壊する。そして16世紀になると京都の市場規模が縮小し、都市から地方へとシフトし、土地への課税に戻る。以上が15世紀の室町時代の財政である。これをもとに守護在京制度、禅宗寺院との関係・宗教儀礼皇位・皇統、北山・室町文化を新たな切り口で説明してくれる。特に酒の話は面白いので読んでください。

鎌倉時代から江戸時代へと移っていくはざまにあった室町時代は、京都という他を圧する都市からの収入に依存しようとしたが、それを維持することはできなかった。都市依存型の収入で財政を賄えるようになるのは、開国後の近代まで待つことになる。それでは室町幕府ではなぜ達成できなかったのかという疑問が湧いてくるが、これについてはいずれまたの機会に触れたいと思う。

カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』を読む

本の副題が「美しくも過激な量子論」となっているので、量子力学について一般向けに分かりやすく説明した本だろうと勝手に思い込んで読み始めたら、期待は見事に裏切られた。アインシュタインファインマンも理解できないと言った「不思議なことが起きる量子力学の世界」を、斬新な思考方法でどの様にして考察したらよいのかを語った本であった。「思索の方法」、あるいは「哲学」といったほうが適切な内容で、著者の考え方を理解するまでに(まだ不完全とは思うが)、随分と時間を費やした。

本の主題は「世界は関係でできている」となっている。内容もこの通りで、量子力学の世界、そして物理学の世界、さらには情報の世界を「関係(コト)」で考えてみようというものである。これまでの我々の思考方法は、モノ(対象物)が中心であった。ニュートン力学でのリンゴの落下、アインシュタイン相対性理論での時空間をゆがませる質量、そして量子力学シュレディンガー方程式での電子や光子などの状態に見られるように、モノを中心として考えてきた。

モノを中心にした考え方は、ニュートン力学相対性理論では破綻をきたさなかったが、量子力学ではこの考え方に立つと不思議な現象がいくつも生じる。アインシュタインが、「時間は一定でない」と想定して相対性理論を生み出したように、量子力学でも視点を変えることが必要だと訴える(時間は一定でない:感じることはできないが地面に近いほど時計はゆっくり進む)。

著者のカルロ・ロヴェッリは、相対性理論量子力学を統一するために、ループ量子重量理論を主導するイタリアの理論物理学者であり、彼の理論のベースとなっているのは「関係」である。ところでモノとは何だろう。先ほど出てきたリンゴを考えてみよう。高いところから落とすと、それは粉々に壊れてしまうかもしれない。落ちる前の一つの塊としてのリンゴと、粉々になったリンゴは、同じリンゴと言えるのだろうか。リンゴは状況によっていろいろに見える。何をもってリンゴと言えるのだろう。

いきなり仏教の話を持ち出して戸惑うかもしれないが、カルロ・ロヴェッリも同じように使っているので許してもらう。彼曰く、モノは全て「空」、すなわち「色即是空」である。そう、リンゴは一つのものにも見えるし、見方を変えれば別にも見えるし、定められないようにも思うことさえある。マクロの世界では、モノで考えても問題が生じないが、非常にミクロな世界をモノで考えると、「色即是空」となり、いきつくところモノは空となると、カルロ・ロヴェッリは認めている。そこでモノで考えることはやめようとなる。そしてモノとモノが相互に作用したときだけの「関係(コト)」で考えようというのが、著者の主張である。

モノを中心として考えたときは、観測者はモノを外から観察している。それに対して、モノとモノのコトで見るときは、観察者もその中に入る。すなわち、モノと観察者の間でも作用が生じ、コトが発生すると見る。ともに実在論ではあるが、観察者が外側にいるのか内側にいるのかの違いがあり、後者はとくに自然主義と呼ばれている。

それでは本に沿って説明しよう。

この本の原書はイタリア語で書かれているが、英語訳のタイトルは”Helgoland: Making Sense of the Quantum Revolution”である。ヘルゴラント島(聖なる島)は、量子力学の聖地である。弱冠23歳のハイゼンベルクがアレルギーの症状(花粉症?)を和らげるために訪れていたときに、この地で新たな理論を打ち出した。この当時、ボーアの原子模型から電子は決められた軌道を巡り、電子は光を放出・吸収することで軌道を飛躍するということが分かっていた。しかしそれを説明する理論は見出されていなかった。ボーアは、研究を推進するために、コペンハーゲンの彼の研究室にハイゼンベルクを招いた。ハイゼンベルクは様々なことを試みたが上手くいかず、療養に(息抜きに?)ヘルゴラント島を訪れた。

ハイゼンベルクは、これまでの物理学の考え方にとらわれることなく、「観測可能」なものだけを取り出してみようと考えた。そして飛び出す軌道を行とし、飛び込む軌道を列とした数の表(行列)を作成し、各要素に電子の位置(座標)や運動量の値を書き込んだ。この表を用いて、ボーアの規則を裏付ける結果を得ようとした。

解決の糸口を得たハイゼンベルクはヘルゴランド島を発ち、ゲッチンゲン大学に戻って友人のパウリと研究室を主宰しているマックス・ボルン教授に結果を送った。ボルンは、この論文を学会誌に投稿してくれた。さらにその内容をはっきりさせるために、ハイゼンベルクはボルンとそして研究室の学生だったヨルダンと研究をつづけた。

その結果、これまでの古典物理学と変わりはなく、これまでの変数が行列で置き換えられているだけであると分かった。すなわち、電子の位置が一つの変数\(x\)ではなく、行列\(X\)によって取りうるすべての位置が示されていた。なお行列は新しい概念で、その扱いは3人には余るほどに難しかったので、その計算を切れ者で尊大なパウリに頼った。ボルン、ハイゼンベルク、パウリはのちにノーベル物理学賞を受賞するが、ナチス・ドイツへの忠誠心があまりにも露骨だったヨルダンは逃がした。

ハイゼンベルクの行列から位置\(X\)と運動量\(P\)の間に\(XP-PX=iħ\)が成り立つことが分かるが、この説明は後にして、量子力学のもう一人の偉大な貢献者に登場してもらおう。

その人はシュレディンガーである。彼もまたその成果を研究室で得てはいない。それは秘密の恋人とスイスのアルプスで甘い休暇を楽しんでいるときだった。そのとき彼はド・ブロイの論文を携えてアルプスに逗留した。ド・ブロイは電子のような粒子は小さな波と見なすことができると示唆していた。そこでシュレディンガー素粒子の軌道も波と見なして、原子の中にある電子が満たすべき方程式を探求し突き止めた。

ハイゼンベルクの理論と比べたとき、波という見方はとても単純で受け入れられやすかった。シュレディンガーの方程式は波動関数と呼ばれ\(Ψ\)で表される。そしてのちに波動関数ハイゼンベルクの理論と数学的に事実上同じであることが示され、どちらも電子が存在している確率を表していることが明らかになった(正確を期すれば、\(Ψ^2\)が確率である)。

波という見立てで導入された波動関数\(Ψ\)は、連続という性質を有している。これに対してハイゼンベルクの理論では、電子の軌道がとびとびになっていて、その軌道は粒(本ではばらけた包みと記載されている)のようにいくつかの決まったエネルギーを持つようにしか見えなかった。これに対してシュレディンガーは「電子は蚤のように跳躍するのか」と皮肉ったが、軍配は次に示す事実によりハイゼンベルクに上がった。すなわち、オットー・シュテルンが考案しヴェルター・ゲルラッハとともに行った実験で、原子の角運動量が連続的ではなく、離散的な値だけをとることが示された。

ここまでに出てきた原子、電子、素粒子、そして光子などのようにとても小さな物質は、量子と呼ばれる。量子に対するハイゼンベルクの着想は、観測、確率、粒状性といえる。すなわち粒状の量子は、観測したときに、与えられた確率で見つけ出されるとなる。

粒状性という言葉が出てきたので、前に提示した\(XP-PX=iħ\)という式を少しだけ検討してみよう。\(X\)は位置、\(P\)は運動量である。運動量は質量と速度の積なので、この式は位置と速度の積と考えてもよい。古典力学では、積は計算の順序に依らないので、\(XP-PX\)は0になる。しかしハイゼンベルクの式はそうはならない。位置を測った後で速度を測ったものと、速度を測った後で位置を測ったものでは異なると言っている。この疑問には、もう少し後で答えることにしよう。

それでは物理現象を物という視点から見たときに、とても奇妙な現象が起きることを示そう。量子力学には「重ね合わせ」という現象が知られている。先に粒子は粒状のものと見たが、それにもかかわらず二つの波が重なった時に生じる干渉を、量子の世界で見ることができる。この本では、アントン・ツァイリンガーの実験が紹介されている。実際に、著者は彼の実験室でこの実験を見たそうである。実験に使われていた光学装置は、レーザー装置やレンズ、分光するためのプラズマ、光子の検知器などからなっていて、次のような現象を見せてくれた。

わずかな数の光子からなる弱いレーザー光線が二つに分かれ、各々の経路をたどる。それらを「左」と「右」と呼ぶことにする。「左」と「右」の経路は、再び一緒になって合流する。このあとさらに二つに分かれて、二つの検知器に到達する。これらを「上」と「下」と呼ぶこととする。➀「左」と「右」の経路のいずれかをふさぐと、「上」と「下」の両方の検知器で光子は半分ずつ発見される。しかし、②経路をふさがないと、下の検知器でしか光子は発見されない。光子が波ならともかく、粒状であるとすると、何とも理解しがたい現象である。

見方を変えれば、上記の不可思議な現象はそうでなくなると著者は指摘し、二点を挙げている。一番目は、光子というモノを中心に考えたことに問題があるという。この実験では、光子と観察者というモノ同士の関係で捉えることができるので、視点をモノから「関係」に変える。二番目は、古典力学に加えられたハイゼンベルクの式を活用する。

そこで再び\(XP-PX=iħ\)に登場してもらおう。この式から\(ΔXΔP≥ħ/2\)が導き出される。この式は、位置\(X\)の値を正確にしようとすればするほど、速度(運動量) \(P\)の値はどんどん不明確になると言っている。これは一般にハイゼンベルク不確定性原理と呼ばれている。

「関係」という視線に立ち、さらに不確定性原理を用いると先の実験は次のように説明できる。➀の実験では、一番目の経路(左か右)を決めているので、二番目の経路(上か下)は不確定になる。従って、両方の検知器で光子を発見できる。②の実験では、一番目の経路を不確定にしているので、二番目の経路を決めることができる。実験装置ではそうなるように検知器が置かれていたので、下の検知器のみで検出された。

そして量子力学の中で不思議な現象と見なされているシュレディンガーの猫も同じように説明できると著者は言っている。シュレディンガーの猫では、箱の中に閉じ込められた猫の状態を、外部の観察者が観察する。箱には睡眠薬の投入口があり、投入口が開いているとき猫は眠った状態に、閉じているとき起きている状態にある。ここでは、睡眠薬をツァイリンガーの実験での光子と同様に量子と見なしている。

箱の外にいる観察者は、猫が起きている状態と眠っている状態の二つの状態を「重ね合わせ」として観察する。そして箱の中を覗くと、どちらかの状態しか観察できない。これがシュレディンガーの猫と呼ばれる現象だが、ここでは観察者からの視点でとらえているため、不可思議な現象となる。

しかし著者の立場では、猫と睡眠薬投入口、観察者と箱の関係で論じることになる。➀猫と睡眠薬投入口の関係(コト)では、睡眠薬が投入されているときは、猫は眠っているが、そうでないときは起きている(ツァイリンガーの実験での➀)。②観察者と箱の関係(コト)では、猫は眠っているか起きているかの重ね合わせの状態にある(ツァイリンガーの実験での②)。このため、➀の事実と②の事実は異なるが、量子力学の世界では、あるモノにとっては現実だが、他のモノにとっては現実ではない。すなわち相対的であると著者は述べている。

世界が相対的というのは、絶対的な神は存在しないと言っていることに等しいので、一神教を信じる人々にとっては受け入れにくいだろう。しかし諸行無常の世界と考えている人にとっては、当たり前のように思える。

関係という立場に立って、ハイゼンベルクの式を解釈してみよう。それぞれのモノには、位置や速度や運動量や、馴染みのあるところでは温度というような物理量がある。\(XP-PX=iħ\)の式からは、物理量は連続的ではなく、離散的であることが分かる。一つの物理量の選択肢が多ければ多いほど(一つの物理量がたくさんの値をとれればとれるほど)、それはより乱雑な状態といえる(例えば太陽の温度は地球と比べるととても乱雑である)。これは情報という言葉で置き換えることができ、乱雑であるモノは情報量が多いとも言える。

情報という言葉を用いると、\(XP-PX\)の式が0でないことから、すなわち離散的であることから、⑴ある対象物(モノ)に関連する情報の最大量は有限である。⑵いかなる対象物(モノ)に対しても、常に新たに関連する情報を得ることができる。⑵は、関連する情報は、対象物の将来の振舞いを予測するうえで価値のある情報で、これが手に入ると古い情報の一部は関連がなくなるといっている。

情報には面白い性質があり、二つのモノが相互に作用しあうとき、その情報量は減少する。例えば、今二つの硬貨があったとしよう。二つの硬貨が独立(相互作用していない)とすると、取りうる状態は4である。情報量を4と考えてよい。ところが、二つの硬貨の片方の表と他方の裏を張り合わせたとすると、取りうる状態は2となる。

量子力学の世界には、シュレディンガーの猫の他にも不思議な世界がある。量子もつれ(エンタングルメント)である。量子の世界では、それぞれの粒子の状態が重なり合うだけでなく、複数の粒子がセットで状態の重なりを作ることがあり、量子テレポーテーションなどとして知られている。比喩を用いて説明すると、誕生してすぐに離れ離れになった双子が、相手のことを知らないのにもかかわらず、服装が同じだったり、趣味が一緒だったりと、同じように振る舞うことが知られている。量子力学の世界では、対になっていた原子が遠く離された時でも、片方の状態を見ると、他方の状態が分かるという状況を量子もつれと言う。

著者はこれについても相互作用で説明している。本では蝶を引き合いに出しているが、双子を例にとれば、双子Aを観察している観察者Aでの系Aと、双子Bを観察している観察者Bでの系Bと、観察者AとBが話し合っている系Cとが存在し、これらは相対化して考えなければならない。もし観察者Dがいて、双子AとBを同時に観察しているのであれば、二人の行動は同じであると判断できる。しかしそうでなく別々の人が観察しているときは、同時に観察しているとは言えないので、同じであるという議論は成り立たないと著者は言っている。観察者同士で話し合うと、相手の意見に引きづられることはよくあるとも説明している。

ここまで、モノから関係(コト)への視点の変更について量子力学を中心に説明してきたが、この本では、「ボグダーノフとレーニン」に見られるように、政治・哲学・宗教などの多方面でのモノからコトへの視点の変更について説明していてる。考え方の違いが及ぼす影響を幅ひろい分野にわたって紹介してくれ、楽しい本である。

一神教そして絶対的な真理を中心に据えた西洋の考え方と、多神教そして諸行無常を大事にする東洋の考え方が、物理学の世界でも競い合っていることを知り、多様な見方の重要性を理解させてくれる。哲学者のマルクス・ガブリエルも東洋的な考え方を組み込んでいることと合わせると、東洋と西洋の考え方を知ることにより、様々な面でこれまでになかったような理解が進むのではと期待が持てる。

ここまでエントロピーについて触れなかった。熱力学の第二法則では、「エントロピーは増大する」ととても重要なことを言っている。カルロ・ロヴェッリは『時間は存在しない』という本も書いている。古典力学アインシュタイン相対性理論量子力学では、時間は不可逆ではない。時間を逆回しにしても問題は起きない。ところが、ボールを落下させたとすると、弾む高さはだんだんと低くなり、最後には地面にくっついてしまう。このとき、時間を逆向きにすると、世の中では起こりえないことが生じるので、人は異様な現象だと思う。これはボールが地面に衝突するときに熱を発し、ボールのエントロピーが高くなるためである。エントロピーという物理的な変数は方向を与える。すなわち、エントロピーが増大する方向にしか世の中は変化しない。著者は、エントロピーが増大する世界との相互作用を通じて、我々は時間を感じているのだろうと説明している。エントロピーが増大しない世界に住んでいたら、物事はどのようになるのだろうか。宇宙の起源・消滅ともからんで大きな問題である。

情報科学の世界でもモノで見るのかコトで見るのかは大きな争点である。オブジェクト指向がもてはやされた時期があり、その成果はJavaというプログラミング言語に結実した。一方でバグの元となる副作用から逃れたいということで、関数型言語が現れてHaskellというプログラミング言語が生み出された。前者はモノ、後者はコトに視点を置いている。どちらを推奨するかは人それぞれだが、数学の圏論をベースとしているために論理的な瑕疵が生じにくいHaskellの方が、私は好きだ。奇しくもカルロ・ロヴェッリに与していたようで、親しみをもちながらこの本を読むことができた。

カルロ・ロヴェッリはたくさんの本を書いているが、さらに進んでもう少し物理的な内容を詳しく知りたい方には、彼の『すごい物理学講義』がお薦めである。

高たんぱく・低糖質のチョコレート・プロテイン・ケーキを作る

キルティングが大好きなカリフォルニアの友人が、マグカップ用の敷物を作り、送ってくれた。
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小片の生地のつなぎ合わせで生じる幾何学模様が、座布団に座っていた子供の頃の世界や、陽光に照らされた教会のステンドグラスや、パッチワークのような美瑛の畑など、過去の楽しい思い出を紡ぎだしてくれ、はしゃいだ気分にさせてくれる。"I am a MUG RUG."というメッセージも添えられていて、敷物は生き物のようでさえある。

友人の名前は、メッセージの下にあるようにGaye。この単語はGayが語源で、eをつけて女性の名前として使われる。Gayという単語は、今でこそジェンダーの中で使われることが多いが、元々は「陽気な」とか「快活な」などの明るい意味で使われていた。彼女もその名に恥じることなく、スマイルマークのように、笑顔を絶やすことがない。もう50年に近い付き合いで、ときどき一緒に旅行を楽しんでいるが、コロナの影響でここ数年、途絶えているのは残念なことである。

敷物の他に、レシピも一つ添えられていた。名前は"Chocolate Protein Microwave Mug Cup Cake"。プロテインケーキは、栄養食品にあまり興味のない我々にとっては、馴染みのないケーキである。プロテインケーキで検索をしてみると、日本のサイトからは大した情報は得られないが、英語のサイトには最高の栄養食品という宣伝が躍っている。高たんぱく・低糖質が売りである。アメリカでは、過ぎるぐらいの甘さと食べきれるとは思えないほどの大きさのケーキが好まれている。このため、糖分の取り過ぎないことが彼らにとって大きな課題だろう。ケーキに使われる小麦粉と砂糖は糖質量が高く避けたいところだ。小麦粉をアーモンドで、砂糖を羅漢果甘味料(monk fruit sweetener)で置き換えて、高たんぱく・低糖質の理想的で美味しいケーキを、しかも手軽にというのがこのレシピである。玉子は、もちろん糖質は低いので、このレシピには含まれている。

食材は、一人分で
・アーモンドプードル        小匙一杯
・ココアパウダー          小匙二杯
ラカントS ( Monk Fruit Sweetener)  小匙二杯
・ベイキングパウダー        小匙1/4杯
・ビネガー             小匙1/2杯
・玉子               一個
・チョコレートチップ        小匙一杯
・塩                一つまみ

これらをマグカップに入れて、よくかき混ぜる。電子レンジ(1000W)で、1分半ほど温める。中心に爪楊枝を差し込み、何もついてこないようであれば、出来上がり。なお、吹きあがってくるので、こぼれる恐れがある。心配なら、お皿の上にマグカップを置いて温めるとよい。

今回は、容器にマグカップと小さめのどんぶりを使った。右側はどんぶりの中で作ったものを皿に移した。
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このままで食べたが、スポンジケーキのような柔らかさだが、味は単調で物足りなかった。アイスクリームなどでトッピングすれば、美味しくなるだろう。ちなみにアイスクリームも糖質は心配するほどには高くないようである。

辻本雅史著『江戸の学びと思想家たち』を読む

幕末から明治にかけての変革はすさまじいスピードで進行した。西洋の政治・経済・技術を取り入れてのものだが、全く異質の世界を、なぜかくも早く吸収できたのだろう。その真相を知りたくて、江戸時代の思想史をいろいろと読みあさっている中で、この本に出合った。読む前は荻生徂徠をはじめとする思想家の紹介かと思っていたのだが、それだけではなくて、メディアと関連付けての教育論であった。

この本のキーワードは「知の身体化」。馴染みのない言葉だ。現代人の我々にも身についているだろうか。身近なところでは「九九」、その延長での「そろばん」から「暗算」だろう。暗算では、頭の中でそろばんと思しきものが勝手に動いて計算してくれる。そこには四則演算という知が、形のないそろばんとして身体の中に埋め込まれている。

江戸時代には、『大学』や『論語』からなる四書五経が身体の一部となっている人たちが少なからず存在した。これをなしえた教育法は素読である。これは意味を考えることなく、本の文字を声に出して読み上げ、最後には暗唱してしまうことだ。現代人の我々は、お坊さんを通して「知の身体化」を確認できる。お坊さんは、若いころから何回もお経を素読したおかげで、どの様な場面でもお経が自然と口から出てくる。お経が身体の一部となっている。

お坊さんたちは意味を理解して唱えているだろうが、そうでない例を孫に発見した。兄の方が九九を暗唱しているときに、そばで聞いていていた弟が、それをオウム返ししているうちに先に覚えてしまった。小学校に入学する前だったので、掛算の意味を理解しないままに、九九を身体化した。小学校に入って、どの様な気持ちで九九に臨んだのだろう。

江戸時代の子供たちが学んだのは、漢文で書かれた儒学の冊子であった。子供は、6~7歳の頃から素読を始めた。小学校・中学校を通して漢字を学んだ時の苦労を考えると、就学前の子供に漢字を読ませたことだけでもすごいが、読み下し文による漢文となると想像を絶する。

どのくらいの期間をかけて暗唱したのだろうか。このことについては、本の中で、貝原益軒が言ったことを引き合いに出している。四書は総計で52,800字からなる。1日100語100回復唱すれば528日かかる。ざっと1年半で四書が身体化される。これが済めば、漢文はすらすら読めるようになるそうなので、とても効率的である。ちなみに英語を学ぶときに、不自由なく使いこなせるようになるには、8000時間かかると言われた。毎日8時間かけても1000日かかる。こちらの方が大変である。

江戸時代の子供たちが学んだのは儒学だが、松平定信の「寛政異学の禁(1790年)」にみられるように、南宋朱熹創始者とする朱子学が重きをなした。島田虔二さんはこれを、➀存在論(理気論)、②倫理学(性即理)、③方法論(居敬・窮理)、④古典注釈学(『四書集注』などの四書注釈)、⑤具体的な政策論の五つに区分している。この区分に沿って、この本での説明➀~③を引用する(一部変更)と次のようになる。

存在論:天の秩序(大自然の理法)を「理」もしくは「天理」の語で考える。そして天は、地とセットになって生命ある万物を生み出し、秩序正しく「流行」し動く。「理」は天の持つ法則性や秩序性を想定した概念で、正しく行くための道筋の意を込めて「道」ともいう。万物(この世の生物)は、生命力を帯びたある種の物質的な「気」によって生み出されて存在する。「気」には必ず「理」がついている。だから万物のいずれにも「理」がそのうちに宿る。ただ個別に宿る「理」は、一つ一つ多様である(それぞれの立場によって違いが生じる)。しかし全体としてみれば、自然界はバラバラではなく、秩序正しく整然と調和して存在している。これが「理一分殊」論である(天地万物を貫く法則は一つであるが、それを形成する一つ一つの「殊」(立場)は「分」である)。

倫理学:天の秩序は一般的なことについて述べたもので、これは人についても同じことが言える。人に内在する「理」は特に「性」(人の本性)といわれる。それが性善説のテーゼで、「性」は仁義礼智などの「徳」に具体化されるが、その徳は生まれながら全ての人に内在している。これが性善説の根拠である。自らの「性」を知り、それをもとに「徳」を養い、さらに「徳」を形象化した「礼」に従って生きていくことが求められる。

③方法論:核心的概念である「理」を認識する行為が、朱子学における「学問」にほかならない。その方法は二つあり、「格物窮理(かくぶつきゅうり)」と「持敬静坐(じけいせいざ)」(居敬(きょけい)ともいう)である。格物窮理は帰納的方法で、万物に内在する個別の「理」を一つ一つ解明していく方法である。その積み重ねの過程で、ある瞬間に全体の「理」に「豁全(かつぜん)として貫通する」。持敬静坐は主観的方法で、仏教の禅定の読み替えとも言えるもので、内面的な思索によって直接真理をつかみ取ろうとする。

著者は「知の作られ方」には、「伝える知」と「伝えるメディア」が不可分と考えている。江戸時代では、「伝える知」は儒学で、「伝えるメディア」は「教育社会」としている。教育社会とは、知や文化を次の世代に計画的に伝える組織を組み込んだ社会である。現在は、学校教育を通しての教育社会である。今日とは異なる江戸時代にこの役割を果たしたのは、日常のなかの手習塾(読み書きから始めて文書作成上の約束事である書礼までを学ぶ。上方では寺子屋と呼ばれた)、様々な学習塾(儒学、医学、算学、国学蘭学兵学など)、各地の多様な郷学、武士の学ぶ藩校、幕府学問所などである。これらの組織には、現在の学校のように、教科書を用いての定められた教科法はなく、それぞれの組織の指導者の独創性・独自性で成り立っていた。

この時代の儒学の学びは、➀「素読」から②「講義」③「会業」④「独看」へと進んだ。➀の素読は前に述べたように、声を出して読み、音として自然に口から出てくるようになるまで鍛錬することである。これにより四書五経は、これからの学習のための骨組みとなる。この本の言葉では「身体化される」。ここまでの学び方は、「型」にはまったものだが、ここからは学習者による独自性が段階的に要求される。②の講義は、現在の形態とは異なり、身体化した経書の「義」(意味)を、師匠が一定の注釈に基づいて解釈を授けた。師匠が一人一人の学生に差し向かいでおこなう「講授」と、大勢の学生を前にした「講釈」とがあった。③の会業は、同じレベルの学生たちがグループで行う共同学習で、会読と輪講があった。いずれも、輪番で当番が発表し質疑・討論を行う。会読では、テキストに史書(中国の歴史)・子(諸子百家)・集(詩文集)の類を用いた。また輪講では、経書を用い、朱子学の場合には四書集注も用い、異端と正統との弁別をしながら正しい解釈を、質疑・討論を通して探求した。④の独看は自習で、不審の部分を明らかにして質問・討論に進んだ。

手習塾で教えられた書流は「御家流」でほぼ統一されていた。そして御家流は、幕府・諸藩から民衆まで広まり、書式ばかりでなく書体の定式化も定まり、文字文化が成立した。これは商業出版の出現とも深くかかわっていた。17世紀初頭には京都に出版を業とする書肆(しょし)が現れ、さらに半世紀後と遅れて、大坂、江戸でも賑わいを見せるようになった。これによって、公家や知識人の間で細々と伝写されてきた本が、出版されるようになり、テキストとなって人々の前に現れ、メディア革命を迎えた。これが江戸時代の学びに大きな影響を及ぼしたと言える。

テキストの出版というメディア革命によって江戸時代の学びのスタイルは前の時代をは大きく変わったが、今日も同じような状況に置かれていると思う。コロナウイルスによって社会活動が制限される中で、通信技術の発達によって、オンライン授業・テレワークが可能になるとともに、膨大な量の知識・情報を携帯端末・コンピュータを通して収集できるようになってきている。またAI技術の発展に伴って、これまでには考えられなかったような人工的な<高等な知>を得られるようになってきた。将棋や囲碁では、AIの方がプロに優っている。翻訳でもDeepLを用いると、冒頭の文は、次のように訳してくれる。

冒頭の文章:「幕末から明治にかけての変革はすさまじいスピードで進行した。西洋の政治・経済・技術を取り入れてのものだが、全く異質の世界を、なぜかくも早く吸収できたのだろう。」
DeepLの訳:"From the end of the Tokugawa shogunate to the Meiji era (1868-1912), change proceeded at a tremendous pace. This was due to the introduction of Western politics, economics, and technology, but how was it possible to absorb such a completely different world so quickly? "

明治以来の教室で一律に教えるという学校教育は、黒船来航のときのように、今日のテクノロジーの進歩によって大きな変革を迫られている。個性に合わせての教育を可能にした新しいメディアを最大限に利用する時期が来ていると言える。江戸時代の教育方法も参考にしながら、デジタル社会での教育の在り方について叡智を集めて頂きたい。

最後に、素読という「型」から入る江戸の学び方が、多様な思考を生み出し、異質な西洋の知の習得を容易したことについての明解な説明は本を参照して欲しい。付録として、江戸時代の思想家がどのように学び、どの様な知を生み出したかを表にまとめたので、本を読むときの参考にしてください。



名前

山崎闇斎(1618-1682)

伊藤仁斎(1627-1705)

荻生徂徠(1666-1728)

分野

朱子学

朱子学古義学・人倫日用

朱子学古文辞学、「先王の道に学ぶ」→五経

学問感(道の解釈)

朱子学での道は、天地自然と人の心を一つの原理で貫く「理」である

人の関係性における「人倫日用の道」である

道とは「先王の道」。すなわち古代中国に実在した王たちが、世を平安にするためにつくった具体的な制作物「礼楽刑政」である。道は社会に秩序を与える文化や諸制度の総称

家庭環境

京都・父は鍼医の浪人

京都・父は裕福な商家

江戸:綱吉侍医→南総

幼少期の環境

禅仏教寺で侍童・僧

王朝文化につながる裕福な京都上層で育つ

7-8歳の頃は父が口述するその日の出来事を漢文で筆記、11-12歳の時は漢文の読み書きに不自由しなくなる

勉学手法

体認自得:朱子の思考を己の身に身体化

父について幼い時から素読(朱子学のテキスト家蔵)

『訳文筌蹄(せんてい)』(漢文を正しく読み、書くための辞典)で、「華音」で読んで、日本語の口語に置き換える(訳す)

方法論

居敬:ゆるぎない「心」の確立とその方法。考え方の似ている仏教排撃

スタートは居敬:学問によって順に己を道徳的に成長させていけば身に着けた徳によって世の中を治めることができる。
転向:同志会(サロン)を中心に、『論語』と『孟子』の内部に深く入り込み、繰り返し読み続け、体験的に理解する

初学者は訓読。自在に読めるようになったら、看読(書を看る→スキャナーのように文字を読み取る)。最後には、目で原典に直接向かうだけで、そのテキストを正確に理解できる

教授対象

藩幕領主・武士層(会津藩保科正之の賓師)

京都町衆

(31歳で柳沢吉保に禄仕。綱吉・吉宗の政策ブレーン)

教授方法

講釈話法(特定の論点に集中して語る)

対面的な学問交流、自著テキストの利用、出版無し

会読や輪講といった共同的な学習法

教育体制

闇斎塾:門人6000人

古義堂(論語空間(孔子とその門弟たちが構成した対話空間)に、自分たちの知的共同の場面を重ねる):門人3000人

蘐園塾(けんえんじゅく)。著作を積極的に出版

備考

 

朱子学禅宗系の「白骨観法」(あらゆる生命間隔が脱落し白骨に見えてくる)→これらは儒学的価値の対極→古義学(『論語』と『孟子』を「実理」に即して読み直す)

朱子学が、人が生きる道徳規範が基本の問いであったのに対し、徂徠は個を超えた社会全体から「道」を構想



名前

貝原益軒(1630-1714)

石田梅岩(1685-1744)

本居宣長(1730-1801)

平田篤胤(1776-1843)

分野

朱子学

朱子学+神儒仏老荘

朱子学国学(漢文の学問圏からの脱出)

朱子学国学

学問感(道の解釈)

民生日用:生活上の日用性→術(cf.人倫日用:人間同士の関係性→礼)

開悟体験(人の道→孝悌忠信)

儒学は屠龍の技と認識(←聖人の道(治国安民の道))。人情の価値(和歌詠歌)を追求

宣長もののあわれではなく、霊魂の行方(人は死後どうなるのか→神道の体系化と宗教化)

家庭環境

父は福岡藩祐筆役。五男

亀岡、父は中農。次男(相続すべき田畑無し)

松坂、父は木綿問屋(伊勢商人)

父は秋田佐竹藩大番組頭、四男

幼少期の環境

父が不遇のとき城内から出て、福岡市内や山間部の田舎で生活→庶民生活の正確な理解と関心。長崎,京坂,江戸へ遊学→多くの人と知のネットワーク(意見を異にした伊藤仁斎・東涯父子は含まれず)

11歳で京都に出て丁稚奉公したが、15歳で一時帰郷、23歳のときふたたび上京し、商家に奉公。幼年時代より理屈好きで求道的な性格をもち、人の人たる道を探求したいと願い、業務に励みながら独学で神儒仏の諸思想を研究

江戸で商人修行→挫折、商家に婿養子→離縁、商人には向いていなかった

詳細は不明だが恐らく薄幸であった

勉学手法

独力で必要な教養を習得。素読は14歳から(遅いスタート)

独学自習(訓句点つきの和刻本程度)→耳学問(学びのメディアは、「文字」以上に「声」)

23歳のとき医学修業のため上京。堀景山に儒学を学び,契沖に国学を学び,徂徠学に共鳴。

脱藩して江戸に出、備中松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子となり、独学によって国学者

方法論

格物窮理(人倫世界だけでなく自然世界も含めて学問をとらえた)

 

和歌詠歌を媒介に、王朝文化に連なる我が国の「古学」すなわち国学を再構成→『古事記』に注目

在来的秩序の解体(内憂外患←西洋諸国の圧力への危機、大飢饉・一揆)。記紀神話の神々と民衆の信仰とをつなぐ論理を提供(地方の名望家層には、みずからが天皇の政治世界につながる回路を開いた→尊王論者へ)

教授対象

(漢文)朱子学の初学者→(和文)読書する民衆

文字や書物では届かない民衆

松阪や京都などの和歌を嗜む都市町人という教養人

地方の庶民・地方名望家層。地方の神社の神官(白川家・吉田家)。

教授方法

出版による和文実用書

声の復権(講釈)、読者、静坐工夫、会輔、講釈→梅岩の対話(dia-logue)から、手島堵庵による心学道話(mass-logue,不特定多数に向けた通話形態)へ

声の復権(文字よりも声)→音声言語主義(メディアとしての和歌)→歌会(会衆の共感)

講釈。遠隔の門人たちは、同志的な仲間との読書会や学習会→テキストを作成して出版

教育体制

経学(儒学)・地誌・紀行・本草・啓蒙的教訓・字書・辞典類・礼奉書など膨大な著述(家や村の人々のための教訓、農耕・生産などのための平易な実用書)

石門心学の組織化(後継者は手島堵庵)

古学:文字で書かれた古文献をもとに形成され、文字(和文)を通じて表現され、著作として発信→知識人で「書斎の人」

口語体の講釈聞書本。門人数は500を超え、気吹舎は幕末には4000名に

備考

知識人の評価は低いが、読者一般には支持

声を重視したが、著書も2つ

 

 

谷口雄太著『〈武家の王〉足利氏』を読む

先週の日曜日、鈴木由美さんの「中先代の乱」の講演があり、聞きに出かけた。この乱は、鎌倉幕府最後の将軍北条高時の遺児の時行が、その再興を目指して起こした乱である。鈴木さんは、このときの時行は10歳以下である、と述べられた。このような幼い子に政権奪回の意思と能力があるのだろうかと疑問に思い、その答が得られることを乱の詳細な説明を聞きながら期待したのだが、かなえられなかった。数日たってもこのことが尾を引いていたが、鎌倉と室町と時代は異なるが、折よくヒントを与えてくれたのがこの本である。谷口さんは、戦国時代に足利政権がよたよたしながらもなかなか倒れないのを、政治学社会学からの知見を織り交ぜて説明してくれた。

2年前の大河ドラマ麒麟がくる」で、弱々しい姿で市場を彷徨しながら、町の貧しい人に施しをしていたお坊さんを覚えているだろうか。彼こそが室町幕府最後の15代将軍・足利義昭である。滝藤賢一さんが演じたが、義昭のおかれた錯綜した境遇が見事に表現されていた。足利義昭は、本来の姿である優しくて親切なお坊さんと、武士の棟梁として強く見せようと虚勢を張っている将軍、という大きく異なる二面性を有している。滝藤さんのぎょろっとした大きな目が、望まない境遇に置かれていることの歯がゆさと、それに反して権力を行使したいという獰猛さが、入り混じった精神の分裂状態を表出し、強く印象付けられる演技であった。

中先代の北条時行や足利最後の将軍の義昭のように、その任にあらずと思える人がなぜ担ぎ出されるのであろうか。戦国時代は不思議な時代だと思える。これに解答を与えてくれるのが、この谷口雄太さんの『〈武家の王〉足利氏』である。谷口さんは、国家成立の要件を、力・利益・価値の三要素としている。その根拠として、政治学社会学の分野から次の例を持ち出している。最初に、国際政治学者として名を馳せた高坂正尭さんの『国際政治』のなかから「各国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である」を引用している。さらに続けて、長谷川公一ほかの『社会学』から、「なぜわれわれはバラバラにならず、一定のまとまりを維持してきたかという問いに対して、権力による秩序・利害の一致による秩序・共有価値による秩序が答えである」を引き合いに出している。

ある例を引き合いに出しながら他でも同じことが成り立つという論法で説明がなされていることは気になるが、この本では、戦国時代を説明するときに国際関係を例としている。絶対的な力を有する国が存在しなくなった現在の国際関係では、利益と価値によって秩序が保たれていることを根拠として、足利氏を必要としたのは、利益と価値であるとする。そして、山田康弘さんが『戦国時代の足利将軍』の中で、共通利益の観点から足利将軍が維持されたという見方をとっているのに対して、谷口さんは共通価値の点からそのことを論じている。

山田さんは、足利将軍にたいする共通利益は、「戦国時代に至っても多くの大名たちは、将軍と良好な関係を維持していくことは、さまざまな利益を得るうえで利用価値があると考えており、また実際に将軍との良好な関係は、大名たちがさまざまな利益を得るうえで有効であった」としている。これに対して谷口さんは、当時の共通価値を「足利が武家の最高貴種であり、大名たちにとっては唯一無二の存在(頂点=武家の王)であるという当時の思想(常識)のこと」としている。共通利益が経済的な側面を、共通価値が社会的・文化的な側面を強調していると言える(力はもちろん、武力・暴力である)。共通利益はウィンウィンの関係が崩れてしまえば崩壊するが、共通価値は社会の構造が変化しない限り続くので持続性が強いといえる。谷口さんはこの点を強調したいのだと思う。

足利氏が絶対的な貴種であるというイデオロギーは、武力(暴力)というハードと儀式というソフトを通して、上からの努力と下からの支持によって確立したと論じた後で、谷口さんのオリジナルだろうと思われるが、足利的秩序の中で足利一門という考え方を示す。

従来から室町幕府には、細かく定められた身分的秩序があることが知られていた。
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これまでの研究では将軍職を継承できる御一家を特別な存在としてみてきたが、谷口さんは、御一家には二つの用法があり、従来からの吉良・渋川・石橋の三家を指すものと、この当時認められていた足利氏の一門諸氏を指すものとがあるとした。谷口さんの造語だが、前者を御三家、後者を(足利)一門と名付けている。そして、足利一門が、絶対的な貴種と見なされるように、ハードとソフトの両面から、イデオロギーとして組み込んだとしている。

足利一門に属するものは、足利室町時代故実書などを参照して、源義国を祖とする(+吉見氏)一族と見なした。すなわち、御一家の吉良・渋川・石橋と、さらに畠山・桃井・今川・斯波・石塔・一色・上野・小俣・加子・新田・山名・里見・仁木・細川・大舘・大島・大井田・竹林・牛沢・鳥山・堀口・一井・得河・世良田・江田・荒川・田中・戸賀崎・岩松・吉見・明石である。
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足利一門が貴種として絶対化されている状況は、儀式や敬称などから見ることができるとしている。例えば、儀式においては上席を占め、宛名においては「殿」がつけられるなど、そのつど共通価値であることを認識させるとともに認識させられることで、強化されたとしている。

それでは、足利一門絶対化という共通価値を世の中に作り出した室町幕府はなぜ崩壊したのだろう。谷口さんは、これも足利氏自身からだと説明する。戦国時代になると、武力に優れたもの、政略や戦略に勝るものなどが求められるようになり、一門という枠を超えて、このような人材が重用されるようになった。このため、足利一門以外の人々の間で、能力さえあれば出世できるという考えが広まるようになり、足利幕府の崩壊につながったと説明している。詳しくは本を参照して欲しい。

この本は、紙幅の関係だろうか、論理の進め方に納得がいかない箇所がいくつか認められたが、政治学社会学という異分野の研究を取り上げて、戦国期の足利政権の基盤がどこにあるのかを示しており、新しい視点を得ることができて有益であった。今後もこのように異分野との交流によって新しい見方が出てくることを期待している。

ジューシーな肉を求めてターキーを焼く

新型コロナウイルスは、大人数で集まる機会をみんなから奪ってしまった。以前はこの時期になると、普段は会えない家族・親戚、友人・知人たちとクリスマス会・忘年会・新年会といっては、集まったものであった。しかし急拡大したウイルスの蔓延によって、一年前は全く開催することができなかった。この冬は、幸いなことに感染者が極めて限られていたので、その間にということで人数を制限していくつかの会が設けられた。そして我が家でも、子供たちの家族を招いてのクリスマス会は、それぞれの家庭ごととした。

クリスマス会では、ターキーを焼くことが恒例になっている。30年前に横浜に引越ししたとき、隣家にもイギリス生活が長かった人が同時に引越ししてきたので、その奥さんからイギリスの伝統的なターキーの焼き方を学んだ。それ以来、ずっと伝統的な焼き方を踏襲してきた。

しかし昨年は子供や孫たちとも会えなかったので、ターキーを焼くことは中断せざるをえなかったが、今年は再開することとなった。それを話したところ、アメリカ人の友人・知人から、新しい焼き方があると示唆された。健康志向のAさんからは、腹の中に詰め物をしない方がよいと忠告された。ターキーが生煮えになる恐れがあるとのことだった。味を求めるBさんからは、ぱさぱさになりがちな胸肉を、ジューシーに焼く方法を教えてもらった。

今回はターキーを2回焼く機会が得られたので、アメリカ流を取り入れて、もっとおいしくなる調理法を開拓することにした。Bさんからの方法は、➀胸肉を下にして焼く、②プラスティックラップで肉をしっかりと包みさらにアルミホイルで包む、である。➀は、重力によって肉汁が下に落ちていくのを利用して、胸肉に吸収されるのを狙っている。②は、水分が抜けるのを避けるもので、蒸焼きに近い。②については、プラスティックラップが高温に耐えられるのかが心配になった。ワシントンポストの記事によれば、家庭用のプラスティックラップは、業務用と異なり、耐熱性に問題があるので避けたほうがよいとあったので、この方法は残念ながら断念した。

Aさんが教えてくれた詰め物(stuffing)をしないという方法と、Bさんが教えてくれた胸肉を下にして焼く(upside-down turkey)という方法とを利用して、新しい調理法を編み出した。この方法の特徴は、➀味を良くするために、マリネをしっかりする、②ジューシーな胸肉を得るために、前半は胸を下にして、後半は逆さにして、始めから終わりまで低温でじっくりと焼く、である。

かつてオーストラリアのアデレードに滞在していたときに、19世紀前半にドイツ人がはじめて入植し、現在では歴史的な町となっているハーンドルフ(Hahndorf)を訪ねたことがある。古い町並みの通りに、古い造りの瀟洒なお店が並び、開拓時代に戻ったかのような幻想を抱かせてくれた。小さなお店の中に入って、店員の人と軽い会話をしたり、珍しいお土産物を見たりと、楽しいことの多い街だった。始めてみた光景は、お店の外で子ブタを丸ごと焼いていることであった。鉄棒に刺した豚をゆっくりとまわしながら、下からの弱い火で何時間もかけて焼いているのが、今でも目に焼き付いている。今考えると、これがお肉を美味しく焼く秘訣だったのだろう。

それでは今回のレシピを簡単にまとめておこう。

1.マリネ
➀ターキーの重量の20%量のブライン液(5%の塩水)を作る。今回はターキーの重さが3.38㎏だったので、ブライン液は水676cに対して塩34gであった。
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②1~2%の砂糖水を加え、さらに胡椒、ニンニク、スライスした香味野菜(玉ねぎ、セロリ、にんじん、パセリ)を加えた。
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③ビニール袋にターキーとブライン液を入れ、空気が入らないように口を縛り、冷蔵庫で1日マリネした。
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変更点:これまではブライン液は、水・塩・砂糖で作っていたが、今回は風味を持たせるために、香味野菜を加えた。

2.ロースト
➀焼く前の2時間前に、ターキーを冷蔵庫より取り出す。
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②ターキーの水分をふき取る。
③香味野菜(玉ねぎ、セロリ、にんじん、パセリ)とハーブ(タイム、ローズマリー)を深皿に並べ、さらにターキーの腹にも詰める。
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④ターキーにバターを塗る(マリネしてあるので、塩、胡椒はつけない)。
⑤胸肉を下にしてターキーを深皿に置く。深皿の空いているところにジャガイモ、アルミホイルで包んだ砂肝・首を置く。
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⑥深皿を電子オーブンに入れ、130℃・1時間半に設定して、焼きはじめる。
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⑦ターキーを反対にし、ポップアップタイマーが飛び出すまで焼く(1時間半が目途)。
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⑧電子オーブンより取り出し、アルミホイルをかけて1時間ほど蒸す。
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事件:130℃だと、ターキー1kgあたり1時間が目途となる。今回はおよそ3㎏だったので、トータルの焼き時間は3時間が目途となった。ターキーには通常ポップアップタイマーがついているのだが、今回はなぜかついていなかった。仕方がないので、前半の焼き上げの最中に近くのお店に行って、ローストなどに使える温度計を購入した。そして合計で3時間焼いたところで胸肉の奥まで刺して計ったら85℃であった。75℃が適温、詰め物をした時は85℃が良いとされている。少し焼き過ぎのような気もしたが、食べて確認するしかなかった。
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変更点:これまではクリや砂肝・首などを詰めていた。しかし最近は詰め物は避ける傾向にあるという話を聴いて、今回は風味を出すために香味野菜を詰めた。さらに胸を下にして焼いた方がよいという忠告もあったので、前半は胸を下にし、後半は胸の部分をこんがり焼くためにひっくり返した。また、低温で焼くために最初から最後まで130度にし、温度の変化を避けるために電子オーブンのドアーを開けて肉汁をかけることはしなかった。

3.グレービーソース
従来の方法を踏襲して、深皿に溜まっている肉汁を鍋に移し、さらに適量のウイスキーとマギーブイヨン1個を加えて沸騰させ、塩と胡椒で味を調えた。

4.食卓へ
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折角訪問してくれたお客さんには、いつも一番おいしい部位を分け与えているので、ここ数年、我々夫婦は胸肉以外は食べたことがない。この部分は、その日の出来・不出来がもっとも反映されるところである。包丁を入れたときに、肉が滑らかに切れたので、水分に富んでいるという感触を得た。そしてその期待を違えることなく、胸肉は、グレービーソースをつけなくても美味しく、風味も感じられ、肉もジューシーで柔らかかった。さらにグレービーソースを加えると、これまでになく香ばしく、とても美味しく頂けた。かなりの時間をかけての研究努力が報われ、また家族にも喜んでもらえ、とても良かった。