bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

四国・中国旅行―丸亀

大学時代の友人4人と四国地方を旅行、私だけさらに広島にいる友人たちを訪問、5泊6日の久しぶりの長旅をした。コロナが収まり始めてからは、カリフォルニアの友人たちは月単位で楽しんでいるので、彼らから見ると旅とは言えないほどの短さだが、それでも出発前からウキウキとした気分になれた。

四国出身の友人が案内、スタートは4月5日昼に坂出駅となっていた。私は指定された時刻に新横浜から新幹線に乗り込み、真っ白に化粧した富士山を車窓から眺めたり、明治時代の建築家・妻木頼黄を描いた木内昇著『剛心』を読んだりして、車中を過ごした。

老人の旅行はハプニングが起きるのが必然。今回も例外ではなく、スタートから、飛行機に乗り遅れた人、岡山駅で乗り継ぎに手間取った人がいて、坂出の出発は30分遅れ。先ずは腹ごしらえ。案内してくれた所は、宇多津町の「めりけんや かけはし店」。セルフサービスで、メニューの選択から始まる。かけうどん、ぶっかけうどん、ざるうどんなどいくつかが用意されている。さらに、小・中・大でうどんの量を指定。サイドメニューにはてんぷらが用意されているので、好みに応じて選ぶ。聞いたことのない名称が目に飛び込んできたので、「さぬきのめざめ天(季節のアスパラガス)」に挑戦した。選択がうまく当たり、讃岐の味を楽しむことができた。幸先よい出足に満足。

香川県は、空海(弘法大師)生誕の地。お店のホームページによれば、うどんの製法を唐から持ち帰ったという伝説があるそうだ。また室町時代の中期に現在のかたちになり、元禄時代の屏風絵に讃岐のうどん屋の出現が認められるとも書かれていた。数百年も続いた讃岐が誇る食文化が、これからも長く継承されることを願って店を後にした。

次に「石の城」と形容される丸亀城跡に向かった。この城は、石垣を築く技術が最高水準に達した江戸時代初期の建造、標高60mにある平山城、別名亀山城とも呼ばれている。生駒親正・一正父子が慶長2年(1597)より5年がかりで築城した。

堀の外側から見たところ。

堀に沿っての石垣。

堀端の大手二の門。寛文10年(1670)頃に京極氏のときに完成した。


切り込みハギと呼ばれ、見せるための石垣。

大手一ノ門。

三の丸へと向かう見返り坂から見た石垣は「扇の勾配」と呼ばれ、特に綺麗である。

三の丸から見た讃岐富士。円錐形が綺麗な山である。

本丸の丸亀城天守


このあとは桃の畑が広がる丸亀の郊外の「桃源郷」をドライブし、友人宅で心温まるもてなしを受けた後、この日の宿の「ことひら温泉敷島館」へ向かった。
ちなみにこの日のルート、人口は坂出市が5万、丸亀市が11万、県庁所在地の高松市が42万、翌日訪れる善通寺市が6万である。

イラストが楽しい幕末の日記を見に行く

神奈川県立歴史博物館で、こじんまりとしているが、興味を引く展示をしている。庄内藩の武士が単身赴任で江戸に出てきているときの日記である。時は幕末、世の中は攘夷・討幕と物騒であるが、イデオロギー的な話は一切なく、江戸での勤務の様子が淡々と描かれている。文章だけだとそれほど面白くはないのだが、そこに描かれているイラストが漫画チックで、それを観ていると楽しくなる。

日記を書いたのは松平酒造助で、家禄1400石の上級藩士庄内藩は、徳川四天王の一人の酒井忠次を始祖とする譜代の名門で、14万石。酒造助は、江戸市中取締役を指揮する組頭として、酒造助組の25名を率いて出府した。それではイラストを見て行こう。

町に繰り出して、皆でスイカ割り。スイカを担いで深川の大門を出るところ。この時代の庶民や武士の姿が描かれ、この辺りはとても賑やかだったことが手に取るようにわかる。

海水浴に行ったときにスイカ割りをしたことはあるが、橋の上で、しかも他の人を排除して、刀で割るとは。特権の活かし過ぎでは。
王子に投網(魚とり)に繰り出し、道すがら酒や油揚げを頂戴。鳥や魚を取ることは彼らの道楽だったが、道すがら酒盛りを始めたようだ。

上野向島にお花見。自由奔放に、享楽的に、江戸の人々は桜を楽しんだ。

吉原見学。真ん中の黒い着物が酒造助。生真面目な酒造助は、何を思って歩いたことだろう。

普段の生活。


酒造助は最新の鉄砲が勝敗を決することに気がつき、自費でたくさん購入した。彼には先見性があった。


ブランケットにくるまって睡眠中。このころにはすでに毛布が使われていたようである。

ハエたたき。江戸の町にはうるさいぐらいにたくさんいたようで、とても苦労した。

1本のカステラを4つに切って、一気食い。さぞかしや美味しかったことだろう。

お正月に御具足餅を頂く。2番目の上席にいるのが酒造助。

一通り見たあと、最寄り駅の桜木町の近くの大岡川沿いの桜を見学に行った。こちらの客は、時々声が聞こえるぐらいで、散策を楽しみながら、静かに愛でていた。大騒ぎをしながら、桜もそっちのけで、羽目を外す景色は、過去のものとなってしまったようである。


大岡川に浮かぶ日本丸。全長110m。黒船のサスケハナは78m。酒造助は、戊辰戦争の前年に、35歳で亡くなっている。もしも長生きしていれば、彼の先見性が活かされたのではないかと、惜しまれている。

研究成果報告書が、神奈川県立歴史博物館のホームページにあり、日記とイラストの全てを見ることができるので、参考にされるとよいと思う。

カリフォルニアから来た知人と小石川後楽園を楽しむ

今年の桜は、いつもよりとても早く開花したものの、天気に恵まれることが少なく、楽しむことができず、残念な思いである。カリフォルニアから知人が来日していて、桜が綺麗な一番いい時期だと紹介しておいたのだが、彼らも落胆しているのではないかと心配している。前々から会おうと約束していた昨日(27日)は、晴れることはなかったが、桜を見るには曇りのまずまずの天気だった。

知人は甥の結婚式に出席するために来日した。甥御さんは、日本で働いているアメリカ人、仕事をしている中で日本人の女性と知り合い、ホテルニューオータニ神道により挙式した。最近はこのような結婚式が増えているようで、ホテルのホームページを開くと、神前での国際結婚の様子が動画で紹介されている。

知人は奥さんを伴っての今回が2回目の来日である。最初に訪れたのは2019年で、そのときはあらかじめ20時間の「日本の歴史」講座を履修してきたとのことであった。ちなみに彼の職業は弁護士。息子さんもそのお嫁さんも弁護士なので、弁護士一家である。彼らはアメリカ人の例にもれず、アクティブでチャレンジ精神に富んでいる。今回も、結婚式が終わった後、金沢に行き、能登半島をドライブして観光地巡り、松本にいる知人を訪ねて城巡り、我々と東京であった後、日光へと旅立った。

この日の午前中は、千鳥ヶ淵の桜が綺麗なので見学に行くとよいと教えてあげたので、すごい混雑の内で楽しんだようだ。飯田橋の馴染みの店でゆっくりとランチを取りながら会話を楽しんだ後、日光へ向かう前の短い時間を、小石川後楽園で散策した。ここの桜はそれほど本数は多くはないが、全ての種類が満開であった。




庭内の風景も、

桜を愛でようという日本人は千鳥ヶ淵靖国神社に行ってしまったようで、小石川後楽園は日本庭園を楽しもうという外国人観光客がいた程度で、静かな中を散策でき、とても良い再会の日であった。

井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』を読む

エマニュエル・トッドさんの家族分類を大別すると、親子だけで構成される核家族、三世代で同居する直系家族、大家族をなして男(あるいは女)の子供たちの家族全部と親が同居する共同体家族となる。家族構成の変遷は、核家族で始まり、直系家族を経て、共同体家族に至ったとされている。イギリス・アメリカ・フランスは核家族、日本・ドイツは直系家族、中国・ロシアは共同体家族である。このようになった理由は、中央部での変化が周辺部に伝わっていくので、変化の中心にあったところが最も進んだ共同体家族に、周辺部が原始的形態の核家族にとどまったとされている。古い歴史を有する中国が中心部というのは理解できるが、歴史が浅いとしか思えないロシアがなぜ中心になっているのだろうと常々疑問に感じていた。

西洋の歴史は、ギリシャから始まり、ローマ帝国へと引き継がれていく。ロシアの歴史を調べると、モスクワは「第三のローマ」であると説明される。15-16世紀にかけて形成されたモスクワ公国が、神学的・政治的な主張として「第三のローマ」を謳い、ローマ帝国を引き継いだと言われている。

それではその一つ前のローマ、「第二のローマ」はどこかと言えば、コンスタンティノープル(ビザンティン)である。ローマ帝国は4-5世紀には東と西に分裂し、東側のビザンティン帝国は1453年までの千年にわたって歴史を紡いだ。今日のロシアの歴史は、また家族システムでの共同体家族は、ビザンティン帝国に負うところが多いと考えられる。そこで井上浩一さん著作を読んでみることにした。

何処の国家にも国家の英雄と言われる人がいる。コンスタンティヌス1世(在位306-337)はその一人であろう。彼が歴史に登場した頃には、ローマ帝国は複数の皇帝によって分割統治されていたが、彼はそれを再統一した。またローマ皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物でもあり、キリスト教の歴史にとっては欠かすことのできない人物でもある。彼の名を付したコンスタンティノープルは、その後のビザンティン帝国(東ローマ帝国)の首都となり、正教会の総本山となった。このような彼に対して、野心に憑かれた男なのか、偉大なキリスト教皇帝なのかで評価が分かれている。井上さんは、歴史を「自然界における慣性の法則と同じように、人間社会にも現状を維持しようとする力が働く。それにもかかわらず社会は変化し、歴史は発展する。それは危機への対応として起こる」と観察している。それではコンスタンティヌス1世に対しての井上さんの観察を見ていこう。

コンスタンティヌス1世時代の版図 (Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10719570)

井上さんは歴史を慣性と脱皮(危機への対応)と見ているので、コンスタンティヌス1世が出現する時の慣性をまず観察する必要がある。紀元1-2世紀は良く知られた「ローマの平和」を謳歌していた時代とされている。ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位までの時代(5賢帝時代)が、世界史の中で最も人類が幸福でありまた繫栄した時代である、とギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で述べている。しかしこれは楽観的すぎると井上さんは指摘する。すなわち「ローマの平和」の時代にローマ帝国の危機は深いところまで浸透し、生産の中心地はガリアからゲルマニア国境地帯へと移り、中心地イタリアでは産業の空洞化が進行し、退廃的な生活が広がっていた、と「変化」を強調している。

さらに次のように説明している。進行中の危機は紀元3世紀にはいると一挙に表面化し、ローマは軍人皇帝時代と呼ばれる内乱の時期を迎える。いったん終止符を打ったのがディオクレティアヌス(在位284-305)で、皇帝の地位をプリンケプス(市民の第一人者)からドミヌス(主人)へと変えた(皇帝と臣下の関係を主人と奴隷に)。またディオクレティアヌスは、キリスト教徒に対して激しい迫害を加えた。彼の死後、かつての軍人皇帝時代が再現、20年近くに及ぶトーナメント戦を勝ち抜いたのが、コンスタンティヌス1世である。最後まで争ったもう一人の皇帝リキニウスとの間で、合意文章を作成し、キリスト教を含めた信仰の自由と迫害されたキリスト教徒への損害賠償を認めた(ミラノ勅令)。彼はコンスタンティノープルを新しい都(330年)と定めた。しかしこの町が本当の意味で帝都となるのはかなり後の時代である。彼は生涯の最後においてキリスト教に改宗し、「神の名において他人を支配する」体制が築かれた。コンスタンティヌス1世の「脱皮」をこのように鮮やかに井上さんは説明してくれた。

話は脱線するが、井上さんはヒューマニズムと宗教の関係についても興味深い意見を披露している。人間の歴史がより豊かな社会、搾取や抑圧のない社会を目指すものであるとすれば、それを支えた思想は、ヒューマニズム(ギリシャ・ローマに端を発し、ルネッサンスで復活、近代思想の主流となった人間主義)と宗教である。ヒューマニズムは基本的に正しいが、一方で、人間をモノとして扱う奴隷制を生じさせ、ルネッサンスにより人間の欲望を解放したときにあらゆる悪徳を噴出させた。これを批判する思想として宗教が現れた。ヒューマニズムに伴う人間の高慢さ、利己主義、悪徳に対して、キリスト教は人間の小ささ、愛、倫理を説いた。しかし、宗教が抱える問題は、法学者エンゲルが言うように、神とともにあることに満足した信者は一人もおらず、自ら神に服従しようとするものは、他人をもこの神に服従させようとすることである。

そして井上さんはコンスタンティヌス1世を次のように評価している。彼の時代には、支配階級と言えどもヒューマニズム謳歌することができず、彼らもまた己のひいては人間の無力さを感じ、神という超越的な存在にひれ伏し、さらにこの超越的権威への服従を被支配者に説くことも怠らなかった。ローマ帝国は、危機を克服し、生き延びてゆくために、このように国家と宗教が一体となった「神の名において他人を支配する」体制を作り上げた。

コンスタンティヌス1世の後、名前がよく知られる皇帝は、民主政治の伝統を終焉させ、ビザンティン専制国家をもたらしたユスティニアヌス1世(在位527-565)であろう。井上さんは彼についても、コンスタンティヌス1世のときと同じように、慣性と脱皮を用いて説明している。ユスティニアヌス1世の下で、コンスタンティノープルは繁栄の頂点に達し、聖ソフィア教会は栄華の象徴で、ローマに代わる都市としての地位を獲得した。

ユスティニアヌス1世時代のビザンティン帝国(赤)(Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19926428)

ユスティニアヌスバルカン半島北西部イリリア地方の農家の出身。彼を引き取って面倒を見た叔父も百姓であったが、若いころに軍隊に入り出世して皇帝となった。血統や家柄に関係なく実力と運があれば皇帝になれる。このようにビザンティン帝国は開かれた社会であった。ユスティニアヌスの妻テオドラは、サーカスの熊使いの娘で、踊り子。ユスティニアヌス1世は、旧西ローマ帝国領を奪還し、大ローマ帝国を再建するという夢を抱いていた。征服戦争の準備として内政の充実に努め、『ローマ法大全』の編纂にあたった。まとめられたローマ法は、ビザンティン帝国基本法となっただけでなく、西欧諸国の法律に大きな影響をもたらした。その中でも空中税(高層住宅に住む者に課税)はユニークである。

戦争準備は市民に大きな負担を強いたため、その反動で市民の蜂起「ニカの乱」を惹起した。ローマ世界では戦車競走の歴史は古くホメロスの時代から見られる。首都ローマの市民はパンをはじめとする食料が国家から供給され、娯楽として様々な見世物が提供された。戦車競走では金をかけ、勝敗に一喜一憂した。この「パンとサーカス」は、ローマ帝国では栄華を極めた。コンスタンティノープルでも「パンとサーカス」は引き継がれた。競馬場の収容人数は5万人、年間開催日は百日を超え、1日数十レースも行われていた。パンの源は帝国の属州支配。穀物産地エジプトからの租税として積み出された穀物が市民のパンとなった。レースは色の名で呼ばれる厩舎によって運営され、このころは「青」と「緑」が人気を二分していた。ユスティニアヌスは「青」に肩入れし、「青」は調子に乗って、蛮行を繰り返した。見かねた市総督は、ユスティニアヌスが病のとき、「青」の犯罪者を一斉検挙した。病が癒えた時、市総督は追放された。しかし、ユスティニアヌスは、戦車競走に現を抜かす市民を軽蔑するようになる。

そのような時、些細なことから応援団が起こした喧嘩で死者が出て、犯人が逮捕される。市民たちは犯人の釈放を求めて、「ニカ(勝利せよ)」と叫んで蜂起した。ユスティニアヌスは、競技場の貴賓席から今回の件は自分に落ち度があると宣言するが、市民からやじられる。彼は絶望して逃亡を決意するが、皇妃テオドラが「帝衣は最高の死装束である」と彼を鼓舞する。彼は競技場に軍を突入させ、3万人の市民を殺害した。ユスティニアヌスは、古代の民主政治の伝統を最終的に否定し、ビザンティン専制国家への道を開いた。このあと彼は、西方の領土を奪い返し、聖ソフィア教会をたて、「偉大なローマ皇帝である」と確信したことであろう。しかし「ローマ帝国」という建前を現実にした時、それは重い負担となって国家と民衆の上にのしかかった。ゴート戦争に勝利したものの、取り戻したイタリアは著しく荒廃しており、ローマ市の人口は500人に過ぎず、ローマ帝国の復興がいかに虚しいものであるかを知ることとなった。

ユスティニアヌスの理想が色褪せ、袋小路の行き止まりの壁が見えたとき、「ただ一つの救いとなることができたものは、完全な革命であった」とエンゲルスは書いている。奇しくも、アラビア半島の彼方から「革命」がやってきた。7世紀の初頭にマホメットイスラム教を起こし、短期間に世界史の地図を塗り替えていく。それに遭遇したのがヘラクレイオス(在位610-641)である。彼はペルシャ帝国との26年に及ぶ戦いに勝利し、奪われていた土地を取り戻したものの、イスラム帝国に敗れその土地を再び失った。彼の晩年から8世紀にかけては、ビザンティン帝国史の中では暗黒の時代となった。

ビザンティン帝国の中で最も評判が悪いだろうと思われる皇帝はコンスタンティノス5世(在位741-775)である。彼はイスラム教徒の攻撃からコンスタンティノープルを守り抜いたレオーン3世の息子である。コンスタンティノス5世はコプロニュモスとあだ名された。コプロスはギリシャ語で「糞」を意味し、彼の宗教政策に由来する。彼は偶像崇拝の禁止と聖像(イコン)の排除を行ったが、後に聖職者たちによってこの行為が神を冒涜することと見做された。このことについても井上さんは興味深い論を展開している。聖書では神の像をつくってはいけないし、キリストをかたどるものは、ミサにおけるパンと葡萄酒のみであるとなっているにもかかわらず、(コンスタンティノス5世が聖書通りのことを言っているにもかかわらず)偶像崇拝禁止を神への冒涜と聖職者たちが見做したのは、聖書に書かれている事を糊塗するためだろうと言っている。

コンスタンティヌス5世時代のビザンティン帝国 (Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11597554)

宗教についても優れた説を井上さんは提示している。古代の地中海・オリエント世界には二つのタイプの神が存在する。一つはオリエント型と名付けられた全知全能で近づきがたい超越的な神。もう一つはギリシャ型と呼ばれた人間の姿を持ち人間と同じような感情を持ち、不死であることを除けば、人間とさほど変わらない神。ギリシャ型の神は、ギリシャヒューマニズム、民主政治と結びついた。ローマも基本的にはギリシャ型の神だが、エジプトやパレスチナと言ったオリエント型の神を伝統とする地域を支配下に置くようになり、オリエント型の神を受け入れる下地が出来上がった。3世紀の軍人皇帝時代の内乱期には、ローマ帝国の衰退とともに、オリエント起源の宗教が急速に広がる。キリスト教もその一つだが、他の宗教とは神の在り方において異なっている。ユダヤ教から全能不可知の神というオリエント型の性格を受け継ぐ一方で、「受肉」という「奇跡」によって人間に近づく神となり、ギリシャ型の特徴も合わせ持った。このためキリスト教では、キリストの神性と人性にどちらに比重を置くかで常に問題になった。初期キリスト教会の多くの神学論争はこの問題をめぐるものであり、偶像崇拝禁止問題もこれに帰着する。偶像禁止派はオリエント型を強調し、イコン崇拝派はギリシャ型である。

そして以下のようにまとめている。「キリスト教の歴史において偶像崇拝問題が占めた位置は次のようになろう。本来オリエント起源の宗教であったキリスト教が、ローマ帝国においてギリシャ文化と出会って、ヘレニズム化してゆく過程で起こった、オリエント的要素の反動である、と。この反動を乗り切ることによって、キリスト教ギリシャ文化は最終的に融合し、独自の文化としてのビザンティン文化が完成する。聖像崇拝論争の影響は帝国の政治体制にも及んだ。皇帝が宗教問題において指導的役割をはたすという、コンスタンティヌス1世以来の原則は、この聖像崇拝禁止運動の中で再確認され、聖像崇拝復活後の時代にも受け継がれたのである。」

コンスタンティノス5世の頃にビザンティン帝国は、教育レベルも高く、小規模で効率の良い官僚制に支えられ、8-10世紀の新たな発展へと進んだ。絹織物は大宮殿やソフィア教会と並んでビザンティン帝国の栄華を象徴した。ユスティニアヌス1世の時に西域地方から蚕の密輸に成功し、その後に原料を自給し、絹織物はビザンティン帝国の重要な生産物となった。

10世紀後半からのニケフォロス2世(在位963-969)、ヨハネス1世(在位969-976)、バシレイオス2世(在位976-1025)はいずれ劣らぬ軍人皇帝で、バシレイオス2世の時代に至ってビザンティン帝国は繁栄の頂点に達する。東はアルメニア・シリアから西は南イタリアまで、北はドナウ川から南は地中海の島々まで、大きく広がった国境はどこまでも平和で安定し、宮殿の倉には金銀財宝がうなるほど積み上げられていた。彼が残した帝国は、平和と繁栄を謳歌する中で、深刻な問題が生じていた。農民の間では貧富が広がり、租税や軍役の義務を果たせないものが増えた。しかし後継の皇帝たちは大体が無能で、危機は一挙に表面化した。セルジュク・トルコが1055年に小アジアに攻め入り、現在に至るまで、この地域はトルコ人の世界となってしまった。

バシレイオス2世時代のビザンティン帝国 (Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4078443)

8世紀から10世紀の発展期におけるビザンティン帝国の軍隊は主に農民から徴募された。税金を納める代わりに軍役に就くものも多かったので、兵士への出費が抑えられ士気も高かった。しかし10世紀中ごろから、納税や軍役の義務を果たせない農民が増えてきた。かつては裕福な農民が肩代わりしたが、帝国が発展したために、遠い地方への出兵が要請され、農業との両立が困難になり、助け合い機関としての機能が村から奪われ、農地を手放して小作人となって税金や軍役を逃れるようになった。逃げ出した農民と捨てられた土地は、貴族の元へと集まった。その結果、戦う人としての軍事貴族と、働く人としての小作農民へと「兵農分離」が進んだ。

貴族たちは、かつては国家の文武の官僚で「皇室の奴隷」であったが、経済力・軍事力を持つに至って「皇帝の友人」とという意識をロマヌス4世(在位1068-1071)は持ち始めた。貴族の中には、皇帝に対して敵意を抱くものもおり、戦場から離脱するものもあらわれ、帝国の力は衰えていった。このあと紆余曲折を経て、1453年に千年の歴史を閉じた。1453年4月5日、オスマン帝国の若きスルタン、メフメト2世はコンスタンティノープルの城壁の前に到着。5月29日、1千年以上にわたって破られることのなかった大城壁に三日月の旗が上がった時、コンスタンティノス11世は、死に場所を求めてトルコ軍の中へと消えていった。

コンスタンティノープルの城壁(Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=880970)

ビザンティン帝国については、ローマ帝国から分離した国で、正教会という少しわかりにくいキリスト教の国家という程度の認識しかもっていなかった。しかし周辺の国から戦いを挑まれながら、千年の長きにわたって歴史を紡いだ国であった。井上さんがエピローグで、キリスト教と結合した「ローマ」理念に支えられながらも脱皮を繰り返したと書いている。そこには、「ローマ帝国の危機を前にして、キリスト教を取り入れたコンスタンティヌス1世、古代民主主義に否を突き付けたユスティニアヌス1世からはじまって、イタリアよりもスラブに目を向けたコンスタンティヌス5世、地方貴族の台頭を前にして、彼らとの提携と支配体制を根本的に転換したアレクシス1世(在位1081-1118)、みずから国営模範農場に力を注いだヨハネス3世(在位1222-1254)、バルバロイ(野蛮人)と軽蔑されてきた西洋に援助を求めたマヌエル2世(在位1391-1425)、いずれの皇帝もただ伝統を守ったのではなく、新しいことを行った」とある。最後の言葉がとても重要と感じてこの本を閉じた。

リチャード・フラナガン著『奥のほそ道』を読む

帰りの電車の中で、職場の同僚から「今、イギリスでは、奥のほそ道という本が評判なんです」と教えてもらったことがあった。その彼が退職することとなり、スピーチを頼まれた。話す内容を探しているときに、この話を思い出した。彼はそのときは、どの様な本であるかを教えてくれなかった。イギリス人である彼は、日本人の私には抵抗がありすぎると思ってのことだろう。話を聞いた直後に、紀行文なんだろうと勝手に想像して、Amazon電子書籍で見つけ入手した。タイトルは"The narrow road to the deep north"。これは『奥の細道』の英語訳そのものである。しかし手に入れたものの、仕事が忙しい時期と重なったりして、少し読んだだけでそのまま電子書籍リーダーの奥深くに納まってしまっていた。

今回スピーチのネタを仕入れようと思って取り出して読み始めたのだが、英文だと時間がかかって読み終わりそうにない。グーグルの検索で日本語訳が出ていることを知り、近くの図書館から借りた。電子図書のときは気がつかなかったが、図書館で借りてきた本は446ページもある大書。水曜日の夕方借りて、スピーチするのは金曜日の夕刻、木曜日は一日雑用が入っている。どうやってこの課題をこなしたらよいのだろうと、久しぶりに、過大な宿題を課せられた学生時代に戻された。

この本の主役はドリゴ、作者の父親をモデルにしている。ドリゴはオーストラリア・タスマニアの、人々からは忘れさられた田舎町クリーブランドの出身、父は鉄道保線員、家族の中で彼だけが(12歳での)能力試験に合格、奨学金でローンセストン・ハイスクールに進学、やはり奨学金を受けてメルボルン大学医学部へ進学。オーモンド・カレッジ(寮)では名だたる家系の子弟に出会った。

外科医の訓練を終えようとする頃、エラを知る。父親はメルボルンの高名な弁護士、母親は有名な農場経営者の娘。外科医として将来を嘱望されるドリゴ、名家の娘のエラ、二人は間違いなく優雅な家庭を築くだろうと期待される。

ドリゴは、オーストラリア・アデレードのワラデール駐屯地で最後の訓練につく。本屋に立ち寄った時、ある女性と出会い印象に残る。叔父のキースに逢うように言われていたので、彼が経営するホテルを訪問する。そこでキースの妻エイミーを紹介されるが、彼女こそ本屋で会った女性であった。ほどなくして二人は密会するようになる。

ワラデールでの訓練が終了し、エラと婚約、衛生隊の軍医として従軍し、シンガポールで日本軍の捕虜になる。そのあとシャムに送られ、死の鉄路建設で地獄のような日々と戦う。終戦となり、しばらく後に帰国してエラと結婚、3人の子供に恵まれ、著名にもなり、外見は恵まれた家庭に見える。しかしドリゴは名声を得れば得るほど、孤独になっていく。エラに対しては愛情を感じることはなく、ひたすらエイミーのことを思う。ぎくしゃくした家庭を平穏にするために、生まれ故郷への家族旅行を計画する。先に到着した妻と子供たちは、森林火災に巻き込まれてしまう。ドリゴは警察の制止も無視してその現場に急行し、やっとのことで4人を助け、ヒーローとなる。

スピーチに向かう電車の中まで利用して一生懸命に読んだが、20ページを残して、退職を祝う会場の人となった。残りは帰りの電車の中で読んだが、夢にも思わなかった妻エラからのしっぺ返しが待っていた。

この小説は「人間とは何なんだろう」と深く考えさせてくれる。ドリゴは、名門家庭の娘のエラと結婚するが愛情を感じることはない。不倫相手であったエミリーに思いを寄せ続ける。死と背中合わせの鉄路建設では、部下たちから兄貴と頼られながらも、日本軍からの部下への暴力を制止できない不甲斐なさに陥る。またあれだけ暴力をふるった日本の軍人が、戦後は予想すらできないほどの穏やかな生活を送っている。

この本は5部から成り立っていて、各部のタイトルは芭蕉や一茶の俳句である。最初の章は、"A bee staggers out of peony"(牡丹蘂(しべ)ふかく分出る蜂の名残哉)である。ちなみにこの俳句は、芭蕉が門人の林七左兵衛の屋敷に逗留したときの手厚いもてなしへの感謝を述べたもので、林とその家族が牡丹の雄しべと雌しべ、蜂が芭蕉である。俳句はその解釈を読者に任せているが、この本も人々の行動を淡々と提示することで、その解釈は読者の方でお願いしますと言っているようである。

私は、アデレードに一年、タスマニアにも一週間、メルボルン大学には一日、滞在したことがある。オーストラリアでの光景を懐かしく思い出しながら、感慨深くこの本を読んだ。今回は時間が極めて限られていたので日本語訳で読んだ。著者のリチャード・フラナガンはこの作品で、カズオ・イシグロも受賞したブッカー賞を得ている。大変評判の高い本なので、次回は英語でと思っている。日本語訳の本もとても良くできているが、やはり原文には迫力がある。特にこの本の英語には、鮮烈なストーリーもさることながら、芸術的な素晴らしさがあるので、じっくりと味わいたい。

知る人も少なくなった古刹の證菩提寺に行く

横浜市栄区にある證菩提寺は、大河ドラマの影響もあり、知る人も多くなったことだろう。ここは源頼朝との関係が深いことで有名である。彼が治承4年(1108)に兵をあげて石橋山で戦った時、この戦いに馳せ参じた真田義忠(佐奈田与一)は討死してしまう。その菩提を弔うために、建久8年(1197)に建てられたと伝えられている。義忠は現在の平塚市真田の武将で、岡崎義実の嫡男である。義実の拠点は現在の平塚市伊勢原市に広がる岡崎(真田は西に隣接)である。義実の兄は三浦義明で、彼は石橋山の戦いに間に合わず、追ってきた畠山重忠に討たれ、衣笠城合戦で戦死する。

義忠を討ったのは長尾新六定景である。彼は後に頼朝に降伏し、(義忠の父の)義実に預けられる。法華経を唱えている定景を見た義実は、彼を殺すのをやめて頼朝に助命を願い出る。以後、三浦党の郎党として定景は名を残す。彼の子孫が、後に上杉謙信となる長尾景虎である。

菩提寺鎌倉市に隣接した栄区上郷町にある。最寄り駅は根岸線港南台駅。この駅は横浜駅から23分。港南台駅から證菩提寺までは徒歩で23分かかる。

寺までの道のりはありきたりの新興住宅街の風景だが、大正の終わり頃の地図を見ると全く異なっている。いたち川に沿った谷戸一面に水田があり、山麓にそって集落がぽつりぽつりと見える。昭和14年横浜市に合併されるまで、この辺は鎌倉郡本郷村であった。

さらに時代を遡ると、鎌倉時代は山内荘で、後白河領から長講堂領に、さらに持明院領となった。13世紀初めから中頃にかけて本所の支配は有名無実化するが、山内首藤氏の本領であったと見られている。山内首藤氏は代々源氏の家人で、前九年(1051-62)・後三年(1083-87)の役では山内首藤資通が源義家に従い、保元の乱(1156)・平治の乱(1159)では山内首藤俊通・俊綱父子が源義朝に従って戦い、二人は平治の乱で討死する。乱のあと合戦に参加しなかった経俊が惣領となり、山内荘を継承した。

しかし頼朝挙兵のとき、経俊が平家方に与したために没収され、土肥実平に与えられた。経俊は斬罪に処せられることが決まっていたが、母で頼朝の乳母でもあった山内尼が、一族の源氏への奉公などをあげて助命を願い出でた。ところが頼朝の鎧の袖に経俊の矢が刺さっているのを見せられて退出する。しかし経俊は許され頼朝に臣従した。

建暦3年(1213)の和田合戦のときに実平の孫の土肥維平は和田義盛に与したために誅せられ、山内荘は北条義時の所領となった。これを機会に六浦道とともに山内道が幕府によって整備された。鎌倉の四境は、東は六浦・南は小壺・西は稲村・北は山内とされ、山内荘・六浦津は都市鎌倉の内部とされた。

話を證菩提寺に戻そう。この寺は先に述べたように、建久8年(1197)に建立されたとされている。吾妻鏡によれば、正治2年(1215)に老いた義実が鳩杖をつきながら尼御台(政子)を訪ねた。哀れに思ったのだろう尼御台は、早く所領を与えてあげるようにと頼家に指示している。ある研究者は證菩提寺はこのとき義実の所領になったのではと言っている。義実は尼御台を訪ねたこの1か月後に亡くなっている。鎌倉幕府はこの寺を大事にしたようで、建保3年(1215)に実朝が密議で参詣、同4年には北条義時が追善し、建長2年(1250)には4代頼嗣が荒廃した寺の修理を命じている。

鎌倉幕府での證菩提寺の位置づけは、鎌倉八幡宮との関わりから分かる。頼朝は鎌倉八幡宮を治承4年(1180)に現在の地に移転して鎌倉寺社の頂点とし(このころは神仏習合で、八幡宮八幡宮寺である)、武家鎮護と将軍護持の祈祷や法要を実施させ、また官僧を常駐させた。初代の別当には園城寺(天台宗寺門派)から頼朝の従兄弟である円暁を引き抜いた。さらに文治元年(1185)には、父の菩提を弔う寺である勝長寿院にやはり園城寺より公顕を招いた。

鶴岡八幡宮の北には二十五坊が設けられた。寿永2,3年には円暁を始めとして25人の供僧が任命され、彼らにはそれぞれの坊と供料所(その場所は山内荘に多い)が与えられた(源平合戦で敗れた平家一門からも多くの供僧が任命された)。一方、證菩提寺には、嘉禎元年(1235)に北条泰時の娘・小菅ヶ谷殿によって、新阿弥陀堂が建立された。この新阿弥陀堂には、静慮坊・頓学坊の僧など二十五坊から、鎌倉幕府から供僧が任命された。證菩提寺文書によれば、仁治元年(1240)と文保元年(1317)には、供料未進の訴えが出されており、また正応6年(1293)には北条貞時が、建武元年(1334)には足利直義が供僧を任命している。これらのことから、鎌倉幕府が、鶴岡八幡宮を頂点に、證菩提寺などをその傘下にして、寺院社会を形成していたことが分かる。

それでは現在の證菩提寺を見て行こう。大きくはないが山門、

本堂、

岡崎義忠の五輪塔

鐘楼、

なお、ここには貴重な仏像が安置されている。横浜市重要文化財に指定されていて、ケヤキの一財を用いての一本造りの技法で彫成され、仏像の表現形式を理解していない地方の仏師により彫られたと思われるとても素朴な平安時代の作とされる薬師如来立像。国の重要文化財に指定され、平安時代後期の作とされる阿弥陀三尊像。この仏像は、證菩提寺が建立される前の作であり、治承4年(1180)に岡崎義実が、頼朝の父義朝の菩提を弔うために鎌倉亀谷に建立した仏堂のために造られ、そのあとここに移されたのではと考えられている。そして鎌倉時代の作とされ、先に述べた小菅ヶ谷殿が新阿弥陀堂を建立したときに造られ、神奈川県の重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像がある。これらは歴史博物館で展示されることが多い。

余り有名ではない寺、しかし貴重な仏像がかつての繁栄を伝えてくれる魅力的な證菩提寺、現在は横浜市だが、かつては鎌倉都市の内部に位置していた證菩提寺、儚く移ろう時を感じさせてくれた證菩提寺であった。

都筑民家園で「雛祭り」

弥生時代の集落と墓地で構成される大塚・歳勝土遺跡公園の一角に、都筑民家園がある。この古民家を利用して、お雛様が所狭しと飾れらている。この公園は、横浜市の港北ニュータウンの中にあり、横浜市地下鉄のセンター北駅が最寄り駅である。都筑民家園に向かう途中には河津桜は1本だけだが、周囲の葉を落とした木を圧して、綺麗に咲いていた。

民家園は江戸時代中期に建てられた農家で、この地域の村の名主や庄屋を務めていた。建物のあった場所がニュータウンの開発地域になり、公園の一角に移築された。

庭から板敷の広間に近づくと、まず目につくのは、素朴な味わいの日本三大土人形である。低火力の素焼きに、胡粉をかけて色絵の具で彩色。粘土質の土と像をつくる型があれば容易に制作可能で、江戸時代には武士の副業であった。

長崎の古賀人形。江戸時代、京都の土器師(かわらけし)が旧古賀村にある茶屋に立ち寄った時、そこの主人に土器の伝わり方を伝授したのがルーツとされ、現在は郷土玩具となっている。

京都の伏見人形。江戸時代に世の中が落ち着き、往来する人が多くなり、伏見稲荷への参拝者も増え、土産物として重宝されるようになった。旅人、小人、大名交代行列によって、日本各地に伝わり、それぞれの土地の土人形・郷土玩具の原形となった。

仙台の堤人形。仙台藩が粘土資源を活用、産業発展と生活安定に役立つようにと、焼き物や人形などを足軽の副業として作らせたのが始まり。文化・文政(1804~30)には、西の伏見人形、東の堤人形と並び称せられた。東北の土人形や張り子人形に大きな影響を与えた。


広間の隣の畳敷の部屋には、東西を代表する雛人形が飾られていた。江戸時代の普通の農家には畳敷の部屋はない。この家は村の責任者を務めていた。そのため代官・役人を迎える特別な部屋を備えていた。二組の雛人形も、床の間をバックにして、この特別な部屋があてがわれていた。

東京永徳齋の雛人形。山川永徳齋は江戸・東京日本橋を代表する人形司。初代から四代にかけて有識雛や次郎左衛門雛などの雛人形、市松人形、毛植人形など、人形美の極致と言われるものを残した。

京都丸平の雛人形。京都の丸平大木人形店は明和(1764~71)に創業。雛人形、有識人形、御所人形などの京人形を制作。現在も各地に納めている。

ところで、東京と京都では、男雛と女雛の並び方が異なる。東京は西洋式を取り入れて向かって左に男雛。京都は都が京都にあった時の倣いのまま。各国の皇室での座る位置を観察すると面白いと思う。

親王三人官女、五人囃子、随臣、仕丁がそろった七段飾り。

伊豆地方に多く見受けられるつるし雛。

家族団欒とその背後のお雛様

紙を折って作られたお雛様。

手毬利用の自家製?

最後は都筑民家園の五節句。左上から人日(じんじつ,1月7日の七草)、上巳(じょうし,3月3日の桃)、端午(たんご,5月5日の菖蒲)、左下から七夕(しちせき,7月7日の笹)、重陽(ちょうよう,9月9日の菊)の節句

民家園の庭では、ボランティアの方が、篠笛(篠竹で作ったシンプルな笛)で雛祭りのメロディーを奏でてくれ、子供の頃に戻ったような気分にさせてくれた。春はもうそこまで来ていることを感じ、ウキウキとした気分になった。

あつぎ郷土博物館で「企画展 人形とともにー相模人形芝居の50年ー』を見学する

小学校の6年生ごろ、社会科の授業の一環だったのだろう。大きくはない講堂に集められて、文楽を観劇させられたことがある。三味線を伴奏に、大夫が節をつけながら語り、黒子に操られて人形が演ずるという古典芸能である。話の筋は分からなかったが、操られている人形の動きが面白く、今でも思い出せるほどの強い印象を与えてくれた。

先日、雑談をしているときに、神奈川県の西部に人形劇が残されていることを聞いた。江戸時代後半には、近松門左衛門竹本義太夫によって、江戸で人形浄瑠璃が隆盛した。しかし明治時代になると、洋風化や歌舞伎の興隆によって衰退し、人形遣いたちは関東一円に散らばった。人形浄瑠璃は、三味線に合わせて節をつけて歌う浄瑠璃(義太夫節とも言われる)と、人形を操って演じる人形芝居とで成り立っている。神奈川県西部では、その頃義太夫節が盛んで、それを演じる機会も欲しかったものと思われるが、村の有力者が、江戸の人形遣いたちを人形操法の師匠として招き、さらには村に定住させるなどして、地域での伝承に努め、今日に至っているようである。

昔ほどの勢いはなくなったが、今日では相模人形芝居は五団体によって演じられている。そのうち三座は国の、残りの二座は神奈川県の無形文化財に指定されている。人形は三人によって操られる。顔の動かし方にもいくつかの流儀があるようで、相模では鉄砲ざしという方法がとられている。

グーグルで調べたら、あつぎ郷土博物館で相模人形芝居の展示をしているということだったので、見学に行った。
入り口に飾ってあった頭と人形


展示室。様々な顔

衣装と頭

頭の作り方

三人遣いの様子

人形芝居のためのメモ書き

人形芝居の舞台模型

この日は、文化庁の調査官だった齊藤裕嗣さんが「国指定重要民俗文化財・相模人形の今後」という題目での講演があり、これを聴くことも目的の一つであった。話から、相模人形芝居を維持していくことの大変さがよく理解できた。①大人数の観客を入れての興業は人形の大きさからいって困難であること、②人形の衣装は麻や絹で作られているが、現在ではとても高価になっていること、③人形遣いを持続的に養成していくことが困難なこと、④演目が近松門左衛門の頃のもので若い人には魅力的でないことなどをあげられていた。一方で、NHKの「ひょっこりひょうたん島」や「三国志」のように人形劇が人気を博したこともあったので、工夫次第の面もあるとも話されていた。

人形浄瑠璃は、義太夫節太夫、三味線を弾く三味線方、人形を操る人形遣いからなるが、相模人形芝居は、人形遣いだけがメンバーで、大夫と三味線方は依頼している。人形遣いの方々も高齢化を迎えているようで、若い人への継承が課題となっているようだが、メンバーの方々の工夫次第ですというのが、今回の講演のまとめであった。何処も同じという状態だが、義太夫に興味を持つ人も少ないだろうし、人情噺も魅力的ではなくなっていくだろうから、伝統をそのまま残すことの難しさを改めて認識した一日であった。

神奈川県立歴史博物館へ「縄文人の環境適応」を観るために出かける

我々現代人は、世の中が刻々と移り変わり、うっかりしていると流れに後れを取っていることに気づかされる激動の時代を生き抜いている。これに対して縄文人は、一万年ものあいだ狩猟採集の生活をし続けたというその長さと変化のなさに驚かされる。我々から見るととても退屈そうに感じられるのだが、どうなのだろう。

神奈川県立歴史博物館の今回の展示は、「イエイエそんなことはありませんよ。縄文人たちも環境の変化の中で、それにうまく適応しながら営々と生活を育んだのですよ」と反論したいのだろうと思い出かけた。

縄文時代の時代区分は研究者によって異なり、土器が発見された16,000年前頃とするのが多勢だが、氷期(更新世)が終わり間氷期(完新世)が始まる11700年前からとする研究者もなかにはいる。後者は、新石器時代が始まり、人々が定住生活を始めたことを拠り所としている。私もこちらの方が良いように感じている。

ちなみに縄文時代は、おおかた草創期(16,000~11,700前)、早期(11,700~7,000前)、前期(7,000~5,500前)、中期(5,500~4,400前)、後期(4,400~3,200前)、晩期(3,200~2,400前)に区分されている。

更新世(約258万年前から約1万年前)の最終氷期(約7万年前から約1万年前)の頃には現在よりも7度程度気温が低く、終了するころ(縄文時代草創期)には、気温は乱高下し、現在と同じ温暖な時期があったかと思うと、とても寒い時期もあったりする。

完新世(11,700前から現在)になると現在とほぼ同じ気温となるがそれでも小さく変動する。完新世が始まったころ、すなわち縄文時代早期から前期にかけて、現在よりも少し高い程度(+2℃程度)まで気温は上昇し始める。これにより大陸を覆っていた氷が解け、海面が上昇を始める。東京湾は、更新世の頃は陸地だったが、縄文海進により湾の奥深くまで海となった。

しかし前期末から中期初頭にかけて、気温の上昇は止まりかえって寒冷化し、海面も低下(縄文中期の小後退)するが、中期前葉からは温暖化が始まる。そして縄文時代の最盛期を迎え、中部・関東では、住居跡数、集落規模などが爆発的に増大する。発掘された遺構の集落は、中央の広場・墓地を囲むように住居跡が環状に並んでいる(環状集落)。この時代の人々は、サークルが好きなように感じるが、どのような意味があるのかを見出すことが出来ない。

今回の展示は中期から晩期までの神奈川県を中心とする縄文時代が対象で、縄文人の環境適応については壁面のパネルで紹介し、当時の遺物はパネルの前面に展示されていた。中期の土器は、新潟県の火焔型土器に見られるような装飾に優れた大型のものが多い。神奈川県の土器はそれには及ばないが、やはりその傾向を認めることができる。

把手に装飾がみられる深鉢(平塚市原口遺跡)

幾何学的な模様の繰返しが美しい鉢(平塚市原口遺跡)

渦巻き模様が綺麗な釣手土器(前は横浜市鶴見区生麦八幡前遺跡と相模原市緑区川尻中村遺跡・後は伊勢原市上粕谷・秋山遺跡)。照明用と考えている人が多いが実際はどうだったのだろう。

上は円、下は直線の組合わせが楽しい深鉢(相模原市緑区川尻中村遺跡)

日常的に食する実の形に似せたクルミ形土器(相模原市中央区田名塩田遺跡群)

漆を塗って装飾した鉢(伊勢原市西富岡・向畑遺跡)

黒曜石(平塚市原口遺跡)の産出できる場所は限定されている。物々交換によって入手したのだろうが、貴重品であったため隠し場所に大切に保存したようだ。このような場所はデポ(埋納遺構)と呼ばれている。

昨年10月7日に水道管布設替え工事の掘削中に出土した顔面把手で、今回の展示が初登場(座間市蟹ヶ澤遺跡)

中期末頃から後期初頭にかけては、長期にわたる寒冷期となり、大規模であった環状集落は一気に没落し壊滅状態になってしまう。海水面は、最も温かった前期には現在よりも2〜3m高く、中期にいたっても1m程度上にあったが、後期になると現在よりも低くなり始め、晩期には1mも低くなる。後期の初頭頃には温暖な気候が戻り、集落の規模が大きくなることは抑えられるものの、遺跡跡の数は再び隆盛期となる。また海水面が低くなった干潟を利用しての食生活が活発になり、貝塚を伴った遺跡も多く現れる。

後期には人々は精神的なよりどころを求めたのであろうか。土偶が多くみられるようになる。入口には大型中空土器(秦野市菩提横手遺跡)が飾られていた。


怒肩の中空土偶(平塚市王子ノ台遺跡)

頭部が欠如したが、内部の様子がわかる中空土偶(綾瀬市上土棚南遺跡)

デフォルメが著しい筒型土偶(鎌倉市東正院遺跡)

丸い顔の筒形遺跡(横浜市都筑区原出口遺跡)

土器も洗練された装飾を持ち、実用的になる。
浅鉢(横浜市南区稲荷山貝塚)

注口土器(清川村宮ヶ瀬遺跡郡)

注口土器(平塚市王子ノ台遺跡)

注口土器(伊勢原市三ノ宮・下谷戸遺跡)

注口土器(上土棚南遺跡)

使い道がわかりにくい単孔壺(平塚市王子ノ台遺跡)

果物入れになりそうな浅鉢(藤沢市遠藤広谷遺跡)

日常の生活には関係なさそうなので、非日常的な道具として使われただろう石剣(川崎市多摩区下原遺跡と町田市なすな原遺跡)

海岸近くに住む人々は、浅瀬での漁だけでなく、沖合に出てイルカ漁もしていた。それに使われたであろう有肩型銛頭(横浜市金沢区称名寺D貝塚)

神奈川県が晩期を迎えるころは、九州地方ではすでに弥生時代が始まっていたが、関東では集落数は激減し、遺跡を探すのが難しい状態になる。
今回の展示で唯一の重要文化財である土製耳飾(東京都調布市下布田遺跡)。群馬県桐生市千網谷戸(ちあみがいと)遺跡で作られたものが、調布市まで持ち込まれたと見られている。美しいものを求めて、人々は交易したのであろう。幾何学模様が美しく、とても繊細な造りである。制作にはかなりのノウハウが必要だったことだろう。



上記のような耳飾りは、そこにあるからといってすぐに使うことはできず、準備が必要である。幼いころに耳たぶに孔をあけ、最初はとても小さい耳飾りを入れ、段々に大きくしていくことで、びっくりするような大きさの耳飾りもつけられるようになる。このことを想像させてくれる大きさの異なる土製耳飾(相模原市緑区青山開戸遺跡)

耳飾りをつけていたことが分かる土偶(両方とも秦野市大岳院遺跡)


この時期の土器。装飾性に劣る香炉型土器と鉢(いづれ川崎市多摩区下原遺跡)

縄文人の環境適応というテーマでの展示だったが、パネルに気候変動などの説明はあるものの、土器や土偶などの展示がそれとうまくマッチしていない。展示担当者の意図が今一つ読みにくかったが、縄文時代中期から晩期にかけての移り変わりについては一通りの知識を得ることができた。重要文化財の耳飾りの制作法については、何人かの人と意見を交わし、主催者の方の意見も聞くことができた。どうやら胎土で丸いお餅のようなものをつくり、そのあと削り込んで繊細な形状にし、最後に焼いたようである。マニアックな疑問が解決してよかった。当初の目的は達成されなかったが、土製耳飾に日本の優れた技能の原点を見ることができ、まずまずであった。

日向薬師・宝城坊で初詣

今年の初詣に選んだところは、神奈川県伊勢原市にある日向薬師。神奈川県立歴史博物館には薬師如来像と両脇持像が飾られていて、その実物がこの寺院にある。薬師如来像は平安時代後期の作とされ、鉈彫という手法で作られた。ノミ跡が残る荒々しい削りで、クッキリとした立体感を与えてくれる。着衣部が光線の具合によって浮き上がったり、沈んだりする。中国地方から東国にかけてのこの時代の作風である。

日向薬師は通称で、正式には宝城坊である。かつては日向山霊山寺と呼ばれ、12坊を有する大寺院であった。明治時代の廃仏毀釈によって多くの堂舎が失われ、別当坊(最高位の僧が住む坊)が寺籍を継いでいる。吾妻鏡には、源頼朝北条政子が安産祈願のために読経させた寺であり、頼朝が大姫の病気平癒祈願のために参詣したと記されている。

寺伝によれば開祖は奈良時代行基である。吾妻鏡にも行基によるとなっているので、鎌倉時代には行基草創伝説が確立していたようである。実際の創建は10世紀頃とされる。銅鐘の銘には天歴6年(952)に村上天皇より賜ったと記されている。日向薬師が文献上で初めて出て来るのは平安時代で、歌人で大江公資(きみより)の妻である相模が「さして来て日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやも」と読んでいる。公資が相模の守であったのは寛仁4年(1020)から万寿元年(1024)なのでこの間に読まれたとされている。この歌から平安時代後期には日向薬師霊場となっていたことも分かる。

この寺院には国の重要文化財(国重文)がたくさんある。本尊の薬師三尊もそうで、正月三が日には本尊が納められている厨子が開扉される。拝観したかったのだが、人込みが大嫌いなので、そろそろ落ち着いただろうと思われる5日に訪れた。新東名の伊勢原大山ICからは車で10分程度の所で、近くには大山阿夫利神社がある。また小田急線の伊勢原駅からは日向薬師行のバスも出ている。車の場合には、行き交いに困るくらいの細い薬師林道を登った先の境内入り口駐車場に停めればすぐに境内である。バスの場合には、境内までの坂道が続く参道を通って徒歩で15分ぐらいである。

バス停のあたりから日向薬師までは次のようになっている。

参道には途中に仁王門がある。

江戸時代末に造像された市重文の木造金剛力士像。


仁王門を参道の中側から見たところ。

きつい坂道の参道。途中に先ほど述べた相模の歌碑があった。



国重文の宝城坊本堂(薬師堂)。数度にわたり改修されたが、現存の本堂は万治3年(1660)に、丹沢の立木とその前の本堂の古材を使って修造された。平成22年からは7年間かけて大修理が行われた。この修理によって、延亨2年(1745)には外陣の床を土間にする大改修が行われたことが、また部材には万治の頃のほかに鎌倉後期と前期のものが使われていたことが分かった。修理にかかった費用は約8億7千万円である。本堂には、県重文の平安時代作の薬師如来坐像平安時代作で江戸時代に修理された十二神将立像、市重文の木造賓頭盧尊者坐像(撫で仏)など、たくさんの仏像が祀られていた。


鐘堂と銅鐘。前述した銅鐘だが、村上天皇から賜ったのち、傷んだので仁平3年(1153)に改鋳、さらに暦王3年(1340)に改鋳して今に残っているとされている。銅鐘は国重文、鐘堂は市重文。

幹が空洞になった霊樹に祀られている虚空蔵菩薩像。

空海像、

駐車場から境内へ抜ける道には両側に旗が並んでいた。

宝仏殿では、国重文の薬師如来坐像阿弥陀如来坐像、日光菩薩立像、月光菩薩立像、四天王立像、十二神将立像、いずれも鎌倉時代の作を、拝観した。さらに本尊を納めている室町時代作の厨子も国重文である。

静かにそして厳かに初詣し、良い年の初めを迎えることができて喜んでいる。

梶谷懐・高口康太著『幸福な監視国家・中国』を読む

犯罪関係のニュースを見ていると、犯人が分かる時間がとても短くなってきたように感じられる。街のいたるところに監視カメラが設置され、犯罪が起きた場所とその周辺で撮影された映像が、画像認識システムによって瞬時に分析され、犯人が高い確率で割り出されるためだろう。

AIによるビッグデータの広範囲な利用が進むにつれて、監視社会の功罪がつまびらかに論じられるようになっている。この問題を逸早く指摘したのは、戦後を代表するフランスの哲学者ミシェル・フーコーで、次のように述べている。近代の国民国家では国民の一体性を確立し保持するために、同じ場所に集めて規律訓練するシステムが形成された。その典型は監獄だが、学校・会社・役所・軍隊・病院などでもおなじで、これらは社会的な秩序を維持するための監視装置として働いている。すなわち他人の生き方を考えて良い方向に導こうと行動する人々(権力者)に見られる利他的な性質は(とても良いように感じられるけれども)、実は監視によって人々の自由を奪ってしまうため権力的(暴力的)である。

フーコーは監獄を例に監視がもたらす怖さを述べている。そこでは、19世紀初頭の哲学者で功利主義を構築したジェレミ・ベンサムの考案になるパノプティコンを説明に用いた。パノプティコンは、中心に監視塔があり、それを囲むように個室が並んでいる建物があり、囚人間ではお互いに見えないようになっている。収容者には職業選択の自由が与えられ、刑期終了後は社会復帰することができ、更生するための教育が施される。看守の姿は逆光のため囚人からは見えない。しかし囚人は監視されていることを知っているので、始終その目を気にし、強制されることなく更生に励むこととなる。すなわち社会が求める人に自発的に改造される。

ベンサムは、当時の劣悪な監獄の状況を改善するために、パノプティコンを理想的な刑務所として提案した。しかしフーコーは利他的で一見素晴らしく思えるパノプティコンに潜んでいる権力の本質を見て監視社会への警鐘を鳴らした。

この本の第3章「中国に出現したお行儀のいい世界」で、社会信用システムが紹介されている。中国がIT技術で先行していることはよく知られていることだが、信用システムでも同じである(良いか悪いかの問題は残されているが)。著者は金融、懲罰、道徳の分野での信用システムを紹介している。最初の二つは受け入れやすいが、最後の道徳はフーコーの指摘を思い出させる。

信用システムでは各人が信用スコアを有し、良いことをすればそれが上がり、悪いことをすれば下がる。そしてスコアが上がれば、生活の中で良いサービスを享受することができ、下がれば我慢を強いられる。

例えば、栄成市では、道路で穀物を乾かしたら5減点、広告をばらまいたら5減点、お墓参りで爆竹を鳴らしたら20減点、墓の面積が基準より大きい場合は100減点、派手過ぎる結婚式は10減点などとなっている。これからは行政側が村の悪習を糺そうという意図が見え隠れする。子供の頃の親のしつけを思い出して思わず吹き出しそうだが、まじめに履行しようとしているのだろうか。

今のところスコアの上がり下がりによって、生活が影響されることはないようだが、これがもし社会的な賞罰(これによってローンができなくなったり、遠方への旅行ができなくなったりする)と結びついたときは、人々は大きな強制力を感じることなく否応なしに、信用システムを受け入れていくようになるだろう。

上記の信用システムは、安心で安全な社会を構築するための施策に見えるが、思わぬことで減点されてしまった人にとっては厄介な話である。信用システムのように社会という「公」を大切にするのか、そうではなくて個人としての「私」を大事にするかによって、結果が大きく異なることがある。この本でも紹介されているが、いわゆるトロッコ問題がそれである。違いを強調するために、この本で紹介されている内容を少し変えて、ここではこの問題を次のように設定した。

問題1:トロッコが暴走し、線路に沿って谷を勢いよく下ってくる。あなたが立っているところで、線路は2つに分かれていて、あなたはスイッチで行先を切り替えることができる。片方の線路の先では囚人5人が保線作業をしている。他方の先ではあなたの恋人が花を摘んでいる。あなたがスイッチを押せば、トロッコは恋人の方に突き進んで行き、恋人の命が失われる。何もしなければ、5人の命が失われる。さてあなたはどうする。

かなり悩ましい問題だが、「私」を大事にする人だとすると、恋人がいなくなってしまった後の人生など考えることもできないので、スイッチをそのままにしておくだろう。「公」を大切にする人だとすると、たとえ囚人といえども同じ人間であり、片方は5人、他方は1人ということで、多くの命を救ったほうが良いという判断のもとに、スイッチを押すだろう。

これは社会がどのように処罰を定めているかによって、選択時の悩み方にも差異が出てくる。犯罪に対する法は大きく2つに分類できる。一つは、日本の現状システムだが、個別の事件での判断を汎用化・体系化して基本的な考え方をルールとして定めておき、それぞれのケースに当てはめていくものである。他の一つは、江戸時代の大岡裁判に似ているが、それぞれの事件に対して、聖人・君主のような立派な人がそのときの事情・状況に照らし合わせて判断していくものである。前者は「ルールとしての法」、後者は「公論としての法」とこの本では名付けられている。「ルールによる法律」では、スイッチを押す行為は「殺人未遂罪」に問われるかもしれないので、スイッチ操作の資格を持たないあなたはスイッチをいじらない方に、すなわち恋人が犠牲にならない方に、後ろめたさを感じることなく、より強く傾くことであろう。しかし「公論による法」で、もし為政者が私利私欲が大嫌いだったという状況にある場合には、恋人を犠牲にしてまでも5人を救ったと称賛され、たくさんの褒美を貰えるだろうと期待して、スイッチを押すことにもっと魅力を感じることであろう。

そのまま(囚人へ) 押す(恋人へ)

問題2:線路の先にいる人々を入れ替えた場合はどうする。すなわち押せば囚人5人が亡くなり、何もしなければ恋人が犠牲になる。

選択の傾向は弱まるものの、「私」を大事にする人は殺人未遂罪に問われるかもしれないが、スイッチを押してやはり恋人を助けるだろう。逆に「公」を大切にする人は、囚人を救ったとしても「当たり前だね」と言われかねないだろうが、それでもスイッチをそのままにするだろう。大学生の孫の一人にどうすると聞いたら、恋人と一緒に死ぬと思いがけない答えが返ってきた。読者の皆さんはさてどうする。

そのまま(恋人へ) 押す(囚人へ)

先ほど述べた功利主義も公を大事にする考え方と見なすこともできる。功利主義は、①帰結主義(ある行為の正しさは行為選択の結果によって生じる事態の良し悪しにより決まる)②幸福(厚生)主義(道徳的な善悪は個人の主観的幸福(厚生)によってきまる)③集計主義(社会状態の良し悪しや行為選択の正しさは、社会を構成する個人が感じる幸福の総量による)から成り立っている。功利主義によれば、諸個人の自由や自立といったものは統治者が何をなすべきかにおいては本質的に無関係で、そうした方が結局は幸福の総計の最大化に資すると思うならば、諸個人の自由や自立を侵害するような統治や立法をよしとするだろうと、安藤馨の言葉を借りてこの本では説明されている。

集団の幸福の最大化のためには個人の事由や自立を侵害してもよいとすると、権威主義に陥る可能性がある。中国の道徳は儒教に基づいている。私利私欲は嫌われて悪とみなされ、皆のために行動することが善とされる(兄弟は平等で財産分けも均等)。このような道徳観の場合、幸福主義の定義から「私」のためではなく「公」のために働くことが個人の主観的幸福感となる。このため、「私」を滅し「公」に殉じる社会では、功利主義は集団の利益を追求することとなり、安藤馨の説明の通りとなる。そして今日の権威主義は「公」が大切であることを強調していないだろうか。

これに対して「私」を大事にする社会はいわゆる民主主義だろう。この本ではないが『日本と中国「脱近代化」への誘惑』の中で、ジャン=ジャック・ルソーの一般意志を説明している。ルソーは「近代化の父」と称せられ、18世紀のフランスの哲学者である。日本大百科全書によれば一般意志は次のように説明されている。一般意志とは国家(政治体、政治社会)の全体および各部分の保存と幸福を目ざし、法律の源泉また国家の全成員にとって彼ら相互の間の、および各成員と国家との間における正と不正との規準となる政治原理で、この一般意志は公共の利益と個人の利益を同時に尊重する市民相互の結合によって生じるとされる。数学的な概念での説明を好む人には、東浩紀の次の説明が分かりやすい。特殊意志(各個人の意思)を数学のベクトルに見立てて、それらのベクトルの総和が一般意志である。ルソーは、人間をその自由と生命を守るための最高権力(主権)を持つ政治社会(国家)を形成する主体として位置づけることによって、今日の国民主権論や人民主権論の原形を作った。

コンピュータが人間よりも優れた判断・決断をするようになったとき、公を大切にする社会と私を大事にする社会とでは、どの様な違いが生まれるのだろうか。著者は、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの心の二重過程理論を用いて、一つのモデルを示してくれた。脳には直感的・感情的な速い思考と意識的・論理的な遅い思考とがあり、通常の生活をしているときは、命に及ぶような危険がいつ襲ってくるか分からないので(人類の起源時の狩猟採集時代に形成された本能によって)、速い思考をしている。しかし熟慮して正しい解答を出さなければいけないようなときには遅い思考をしている。会話をしているときに思わず失言し後で後悔するのは、会話時は早い思考で、そのあとでは遅い思考で脳が機能しているためである(沈黙は金)。

二重過程理論をさらに進めてきたカナダの心理学者キース・E・スタノヴィッチは、「道具的合理性とメタ合理性」という概念を打ち出した。「道具的合理性」は、あらかじめ決められた目的を達成しようとする場合に発揮される合理性で目的自体が正しいのかは問わない。これはカーネマンの速い思考にあたる部分である。メタ合理性は、あらかじめ決められた目的の下で振る舞うときに、どの様な場合に合理的で、どの様な場合にはそうでないのかという問いかけを求めるもので、遅い思考に相当する。

市民社会の中で生活しているとき、ルソーの考え方を発展させた市民的公共性が求められるが、そのような機能はメタ合理性の基盤の上にあると著者は見ている。そして法の支配や民主主義がきちんと整っている社会には、より広い合理性の観点から判断するような仕組みが備わっているとして、著者は下図のように概念図化した(著者の図を一部改編)。

上の図で、ヒューリスティックベースの生活空間には、経験や先入観に基づいて生活する市民、しかも彼らは「私」を大事にする人々で構成されている。メタ合理性ベースのシステムには、議会・内閣・NGOなどの統治の組織で、ルソーの考え方につながる市民的公共性を有する。市民と統治組織の間では、ルソーのところで言及したように、個人の利益と公共の利益とを尊重し、インターラクションが存在する。そして道具的合理性ベースシステムは、巨大IT企業や政府が、人々の行動パターンや嗜好などをビッグデータとして吸い上げて、功利主義的な目的(治安を良くする)の観点から望ましいとして設計したアルゴリズムからなりたっている。道理的合理性ベースシステムは、統治システムであるメタ合理性ベースシステムとのやり取りの中で法的な規制を受ける。また、ヒューリスティックベースの生活空間ともインタラクションを行い、市民からビッグデータを直接吸い上げ、市民的公共性を尊重してアルゴリズムを作成し、それを活用する。

これに対して社会信用システムがこれから幅を利かせるのではないかと思われる儒教的道徳の中国は、下図のようになると著者は概念図化している(ここも一部を改編)。中国では「私」よりも「公」が大切にされるというよりも「私」は儒教的な考え方では、倫理的・道徳的に悪とされる。私利私欲は良いこととは見なされず、これをなくすことが良いとされる(逆に民主主義・自由主義を良しとするところでは、私欲がなければ発展はないと見なす。過ぎることは良くないと個人的には思うが)。「公」を大切にする国あるいは権威主義的な国では、功利主義的な考え方がより強くなる。そのため、道具的合理性ベースシステムとヒューリスティックベースの生活世界との結びつきが強く現れる。さらに功利主義が強い結果、道具的合理性ベースシステムからメタ合理性ベースシステム、すなわち統治システムへの影響も強く受ける。

儒教的な倫理的・道徳的な考え方と功利主義との親和性が良く、道具的合理性ベースのシステムによって人々の生活がコントロールされたとしても、この本のタイトル「幸福な監視国家」のように中国の人々はその恩恵に浴していると感じることの方が多いだろう。また道具的合理性ベースのシステムは、権威主義体制とも親和性が高いので、両者は共進してより堅牢になる可能性も高い。イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、これから訪れると予想される「データ至上主義」の世界像は上の概念図に近く、これからの世界が権威主義体制になるのではと危惧している。

最後にこの本を読んで危惧したことを述べておこう。上記の概念図は儒教的な考え方と相性が良い。儒教思想では、聖人・君主は超越的に清く正しい人とされ、小人(市民)は彼らによって導かれるとする。上記の概念図で、道具的合理性ベースのシステムを理(宇宙を成り立たせている原理で、聖人・君主のみが知る空間)、ヒューリスティックベースの生活空間を気(混濁とした現実の世界で、小人が住んでいる空間)、メタ合理性ベースのシステムを格物致知(修養に一生懸命に努めることで知を究める空間)とすると、儒教的概念とぴったりと一致する。儒教的なアルゴリズム(AI)で国が運用されることに問題はないのだろうか。儒教が理想とする社会が実現されたことはこれまでになく、小人閑居して不善をなすということもあったし、またさらに悪いことには、聖人・君主が小人のためと偽って悪政を働くこともあった。AIによって生成されたアルゴリズムが幅を利かすようになると、歯止めが利かなくなるのではと心配である。これは「公」を大切にする場合だけでなく、「私」を大事にする場合であっても同じであって、AIによるアルゴリズムは計算の過程を説明してくれない。ただ結果のみを知らせてくれるので、個の利益が阻害されていることが分かりにくくなる。アルゴリズムの生成の中で、市民的公共性をいかに埋め込んでいけるようにするのかが今後の大きな課題である。

箱根駅伝は正月の恒例行事の一つとなっている。テレビにくぎ付けになった人も多かったことと思う。出場校が家族と関係がある場合は特別だろう。駅伝は「公」を大切にするスポーツだと思う。最近は管理が行き届いてきたためか、途中で落後する選手を見かけなくなったが、かつてはチームのためにタスキを繋げなければという意識が強い余り、生命さえもが危ぶまれる事態が起きたこともあった。あちらへフラフラこちらへフラフラと倒れそうになりながら、懸命に前に進もうとした選手を見たことがある。私の周りには熱狂的な人が多いが、私はどちらかというとあまり好きなスポーツではない。仮にもし選手になって走らされる立場になったら、チームからの圧力で押しつぶされてしまうことだろう。

これに対して「私」を大事にするスポーツはテニスだと思う。グランドスラムともなると5時間を超えるような苛酷な場面もあるが、負けたところで、プレーヤーは誰かに対して申し訳ないと思うことはない。すべては自分の実力のなさによるものでストレスを感じることもない。ここまで戦えた自分を誇りにさへ感じることだろう。

脱線したついでにもう一つ。最近の藤井竜王を見て、AIとは異なるアルゴリズムで、差し支えなければ人間らしいアルゴリズムで、彼は将棋をしていると感じている。彼が全てを読み切ったときは、プロでも思いつかないAIと同じ差し手をする。しかし読み切れていないときは、AIが示している手を打たない。AIが示している手は、おそらく剣ヶ峰をずっと歩き続ける状況に似ていて、少しでも踏みはずすと命にかかわるほどに危険なのだろう。そのようなときは、手数は多くなるのだが、精神的な緊張感を強いられない手を選んでいるように思われる。昨年最後の将棋は、相手の戦力を全て奪って、戦う前に勝に導いてしまった。これまでとはまるで異なる戦法であった。AI将棋にも組まれていなかった手である。当然のことだが、状況が変わるとアルゴリズムは変化することを改めて認識させてくれた。

ある倫理観あるいは道徳の下で社会システムをAIで構築することの危険性を、藤井竜王の将棋観からも見出すことができた。今回紹介した本は、AI化された時の民主主義と権威主義の社会システムの概念図を示してくれた。これはこの問題について考える貴重な枠組みを与えてくれるので、良い本に巡り会ったと思っている。

錦爽どりの丸焼きとピーナッツカボチャのスープで、豪華な歳末・年始の料理をつくろう

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

元旦の記事は、思い出になる日の特別な料理を紹介することにしよう。愛知県産の錦爽(きんそう)どりとピーナッツカボチャを使った料理である。この料理を作ったのは昨年の暮れである。と言っても数日前だが、年が改まるとなんとなく遠いことのように思える。前置きはこれくらいにして本題に入ろう。

毎年クリスマスにはターキーを丸焼きにして祝っていたのだが、今回はロシアのウクライナ侵攻による影響で価格が高騰して入手が困難であったので、仕方なく鶏で代用することにした。しかし普通の鶏では落差が大きすぎるので、美味しいと評判の冷凍の錦爽どりをミートガイより手に入れた。レシピもホームページで紹介されていたので、それを参考にした。

解凍にかかる日にちを考えて、食する3日前に届けてもらい、冷蔵庫で3泊させた。

3泊した後は、綺麗に解けていた。

食事をする時間は夕方5時として、全てはそこから逆算して計画を立てた。鶏は2kg。その日の朝の6時に、解凍された鶏から余分な水分を除くために、ソミュール液(水400cc,塩と砂糖それぞれ20g,ローズマリー)に浸して、冷蔵庫に保管した。

正午に取り出し、2時までキッチンで室温に馴染ませた。

角皿にクズ野菜(玉ねぎ、キャベツの芯、セロリ、ニンジンの皮、パセリの茎)などを敷き、その上に仰向きの鶏肉をおき、塩・胡椒をし、バターを一面に置き、最後にアルミホイルを被せた。

190度に温めた電子オーブンの中で1時間ほど焼いた。

電子オーブンより取り出し、背中を上に向け、ジャガイモを加えて、体内の温度を測る。70度を超えていればOK。

表面に焦げ目をつけるために、オーブンの温度を220度にしてさらに30分焼いた。

鶏を焼いている間にたくさん時間があるので、ピーナッツカボチャのスープを作った。
大きなカボチャで1400kgもある。

皮を剥く。柔らかいので作業はしやすい。

二つに割って、種を取る。


火の通りを良くするために、2cm角に切った。


さらに玉ねぎ1個半(600g)を輪切にする。

一緒にして電子レンジの根菜を利用して温める。

全部では多すぎるので半分位に分けて、一方は冷凍庫で保管した。
水(400cc)を加えて、ミキサーで液状にした。

重量を計ったら650gほどであった。カボチャが700g、玉ねぎが300g、水400gの総計1400gを用いたのに、半分程度の重さになっていることに驚いた。
食事をする30分ぐらい前になったら、牛乳1000ccとマギーブイヨン5個を加え、沸騰するまで煮たて、胡椒を入れて味を整えた。

最後に鶏肉にかかるためのグレイビーソースを作る。これは鶏を焼いて出てきた肉汁に、マギーブイヨン1個とウイスキーを加え、沸騰させ、アルコール分を飛ばす。

鶏の皮はパリパリで、肉は柔らかいとても美味しいローストが出来上がり、またピーナッツカボチャの甘みが最高で、楽しい食卓となった。

中島隆博著『悪の哲学』を読む

万物の創造主は神であるとする宗教や神話は多いが、中国の人々は神に代わるものとして「気」を用いた。今日の日本語の中にも、空気・天気・気分・気配など気を用いた熟語は沢山あるが、これらの多くは「気」を語源としている。「気」は宇宙を生成・消滅・変化させるとともに、人の中にも満ちていて、身体的・精神的な状態はすべて「気」から生じる。日本語で、陽気・気晴らし・気まぐれなど精神的な状態を表すときに「気」を用いるのはこのためであろう。また中国語では人の身体的な状態を表すために、医療の言葉の中でも「気」が用いられる。「気」は目には見えないものであるが、これが凝縮したときは事物を構成する。人・動物・雲・雨など物理的な物として、あるいは、綺麗だ・けだるい・活動的などのように情緒的な事として表れてくる。

宇宙はこれまでに説明した「気」と、これから説明する「理」とから成り立っているとする。「気」が凝縮されると事物が生じるとしたが、「理」はそれぞれの事物に付けられた名前であり意味であり原理である。「理」の世界は知識や知恵が充満している世界と考えてよい。

宇宙は「気」と「理」の二元であるが、人の心も同じように二元であると朱子学では考える。それは心の動きを表す「情」と心の本体を表す「性」である。「情」は「気」に対応し、「性」は「理」に対応している。「情」は「気」に包含され、その影響を受けて様々な感情を表出する。それらは優しさであったり、思いやりであったり、怒りであったり、憤りであったりと色々である。「性」は人間が本来持っている性質である。

朱子学では、「理」の見え方は「気」によると考える。「気」が曇っていれば、十全な「理」が現れることはなく、このとき「情」すなわち心の動きは私欲となり悪となる。曇っている度合いが少なくなれば「理」が見えるようになり、清明即ち透き通っていれば「理」が完全な形で現れる。そのときは私欲がなくなり悪が取り払われ善だけとなる。

それでは善に至るためにはどのようにすればよいのだろうか。それは、①礼(文公家礼:南宋の時代に成立した礼儀作法)を守ることであり、②誠意を尽くすことである。後者を説明すると、悪(私欲)は自身を欺くこと(これは心の動き)から生じるので、自己欺瞞から解放されるように意(思い)を充実させる必要がある。そして意(思い)を充実させるための方法は自己を啓蒙することである。

朱子学では性即理である。「理」は宇宙のことわりあるいは法則を表している。朱子学的に捉えた真理(正しいこと)と考えていいのだろう。そうすると理は正しいこと(宇宙の真理)なので、性は善すなわち心は本来は善であるとなる。従って「理」を知れば心は本来の善となるので、一事一物(宇宙)の理を十分に窮めそして知る(格物致知)ために誠意を尽くすべきであるとなる。これが朱子学を興した朱熹(1130~1200)の考え方である。

中国の考え方でもう一つ大事なことがある。それは君子と小人である。先ほどの説明で出てきた自己啓蒙(敬居)を行えるのは君子だけである。従って本来の性である善を獲得できる人は君子だけということになる。小人はそのような君子に出会いその人の行動を見習うことで、不善を行わないようになれるとした。このような人々は、新民(『大学』の親民を読み替えた)と朱熹は呼んだ。

ところで、小人は出会った人が君子であることをどのようにして知るのであろうか。小人は君子であるかどうかを判断できない人たちである。このため全ての人が新民になれるとは限らない。彼らは「小人閑居して不善をなす」こととなる。朱熹も小人の中に悪人がいることを認めていた。

理は万人に共通するものなので、どれだけの理を知ったかによって他の人と比較することができる(現代流には偏差値で表すことができる)。理をマスターしていなければあるいは元来の性に至っていなければ不徳である。不徳であると災厄に見舞われることになるので、その起こり具合によって君子がどれだけ自己啓蒙を尽くしているかが分かる。これから朱子学は君子に厳しい修練を強いると見ることができる。

明末になると王船山(1619~1692)が朱熹を批判する。中国の考え方では君子は徳のある人ということになっているが、そうでない人が出てきた時はどうなるのかと攻撃した。君子が自己啓蒙をせず格物致知に至らないとき、君子は大悪となり小人の小悪など問題にならないほどの巨悪をもたらすと王船山は非難した。同時代の傅山(ふざん:1607~1684)もさらに強く、聖人は救済者としての悪のみを自覚し、あくまでも果敢に悪(殺人)を行おうとすることで秩序を再興しようとすると批判した。

ここからは朱子学から離れて、しばらくは中国明代の儒学者である王陽明(1472~1529)が興した陽明学の話をしよう。陽明学朱子学と対立的に論じられることが多いが、そうではなく朱子学をある仕方で徹底化したと見ることができると筆者は述べている。朱子学では外にある理を究めることにしているが、王陽明はそうではなく「内面」に根拠を求めた朱子学の原点に立ち返った。そして「心即理」すなわち心にこそ理があるとした。

朱熹格物致知を前述したように「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ究めていくことで獲得される知識を発揮して物事の是非を判断することと解釈した。これに対して王陽明は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」とした。すなわち格物に対しては(外に求めるのではなく内の)心の不正をただすこと、致知に対しては「知」を「良知」と解釈し、心に本来備わっている良知を拡充し発揮することと解釈した。つまり人間が生まれたときは心と本体(理)は一体であり、心が後から付け加わったものではないとした。そして心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するとした。従って私欲によって曇っていない心の本体である良知を推し進めていけばよいとした。

陽明は自らの教えのエッセンスを四句教で「無善無悪が心の体、有善有悪が意の動、善を知り悪を知るのが良知、善をなして悪を去るのが格物」と伝えた。彼は悪は意(思い)の発動によって生まれるが、良知によってそれを知ることができ、物を正すこと(格物)によってそれを去ればよいとした。しかし心の奥底には悪は存在しないのに、意によってどうして生じるのか。またこの悪をどのように抑えることができるのか、他人がなす悪に対してはどのように立ち向かうのかが問題になった。上記の問いに対して、王陽明は小人を君主化することで解決した。すなわち人は良知によって善であるか悪であるかを自ら知る。これは他の人との関わりをもたない。他人と関わるという小人の小人たるゆえんがここでは拒まれているので、小人も良知を有していると説明されている。

ところで、朱子学では理は外側にあったので他人と関わることができたが、陽明学では理は内側にあるので他人とどのように関わるかという問題が生じる。これに対して、人は他の人を思いやることができ、さらには動物・植物だけでなく岩石にまでも及ぶとした。仁(他を思いやる心)によって万物一体であるとした。

それでは見ていないもの、接触のないものには、例えば山奥にひっそりと咲いている可憐な花には、どのように思いを寄せるのであろうか。これに対して、陽明はこの花はあなたの心の外には存在しないと説明した。この万物一体は、外部にあるものを自我に還元してしまう独我論に陥いらせる。朱子学では他者の問題を認めていたのに対し、陽明学では他者の問題を消失することにつながり、朱子学以上に悪を放逐してしまうことになる。

小人の君主化と無善無悪の徹底化は、明末の李贄(りし:1527~1602)によって一つの頂点に達する。彼は独我論を徹底し、無善無悪もしくは至善である心を私と断じ、私欲は善であると肯定した。これではすべてが良いこととなってしまうため、ここからはもはや悪の場所はどこにも見出せない。そこで彼はこれを避けるために、欲望をそのまま肯定するのではなく、欲望を明察するという反省の構造を差しはさみ、現実の悪に対抗できるようにした。

この本は、南宋・明の時代に発展した朱子学陽明学を説明したあと、古代に戻って孔子荘子について説明し、最後に性悪説で知られる中国戦国時代の思想家・儒学者である荀子(紀元前298?~238)について次のように述べている。

人間には諸悪の根源と考えられることの多い欲望がある。これを否定的に捉えるのかあるいは肯定的に捉えるのかは、古今東西の思想家たちや哲学者たちにとって大きな課題である。道化・道教の祖とされ中国春秋時代の哲学者である老子(紀元前571?~471?)は、この欲望を減らすことさらにはなくすことで善なる秩序が回復すると考えた。しかし荀子は人間に自然に備わっている欲望を減少させることも無くすこともできないと考えた。人間は自然のままの状態に置いておくと壊れ、そして悪に至る存在であるともした。そこで欲望があるということを前提にして、悪を取り除き善に至るようにするためにはどうしたらよいかを考えた。その解決策に導くために、心は変わることのない「実体」と、変えることのできる「働き」とに分けることができると考えた。心には「性・情・欲」があり、これから欲望が生じるとした。性・情・欲は減らしたり無くしたりすることができない心の実体であるとし、誰の心にも同じようにあるものとした(なお後世の朱熹は性と情を分けたが、荀子は性が情を通して他者につながっているとして分けなかった)。

性・情・欲からは私欲が生じる。これは望ましいことではないので「倫理的には悪」である。そして人間の本来性は私欲によって悪であるとし「性悪説」を荀子は主張した。悪を善に変える方法として、心に働きかけて性・情・欲を節制することであるとした。心へ働きかけるのは思慮で、これも心を構成する一つである。このため性・情・欲という自然なものに対して、思慮というやはり自然なものを働かせることで、心とは次元を異にする倫理的な悪を善に変えられるとした。荀子の論法は、心の実体に働きを加えるという人間に本来備わっているものを利用して倫理的な面が変わるという、このように納得しやすい手法である。

ところで全ての人がこのような能力を要求することは無理であり、聖人だけがこの能力を有する。聖人は思慮によって性・情・欲に働きかけることで私欲から節制へと変化させ、そして偽を起こすことができるとした。ここでの偽は、思慮によって悪を善に変えることを意味する。偽という言葉はあまりいい意味には感じられないが、悪が善に化けたと考えれば適切な用語に思える。そして偽が起きると礼義が生じ、礼義が生じると法規が制定されるとした。聖人が作り出した礼義・法規は、普遍的な規範で万人が共有できるものとした。これが荀子の考え方のミソである。

聖人が礼義・法規を作為したところで、一般の人はこれを理解することはできない。そこで荀子は一般の人にこれらが伝わるようにと「政治的な力」を導入した。しかしここでの政治的な力は、一般的に考えられているような強制されるものではなく、人々が「自発的に」そのプロセスに参加していると感じることができ、それを守ることに価値を感じるようになると、理解されるべきものとしている(コロナ時の同調圧力に近いと思われる)。すなわち君主が礼義・法規・刑罰によって天下を統治するが、一般の人々はその政治的な力によって、それらを遵守することで全てが治まり善となるとした。

聖人は規範を無から創造するのではなく、過去になされた作為を繰り返しながら、新たに規範を作り上げると荀子は述べている。すなわち規範は歴史的なものであるとした。言語においても、これまで述べてきた規範と同じように成立したと荀子は説明している。このように規範や言語は歴史的な物だとすると複数存在しても構わないことになるが、荀子はそれは構わないとした。規範に対してどのような公理系を採用したとしても、また、言語に対してどのような言語システムを採用したとしても、人間の集団が制作しうる規範や言語は同じ原理の差にすぎず、翻訳可能であるとした。

さらに正反対の規範の公理系、例えば「人を殺しても構わない」というような規範が生まれたとしても問題はないとしている。規範や言語には他人への伝達のしやすさが異なり矛盾するような公理系を立てたとしてもそれは伝達することができないので、永らえることはないとした。荀子が理想とするところは、上の文章からも読み取れるように華夷秩序の貫徹する世界である。しかし規範や言語の複数の存在を許す姿勢には、規範を本質主義の中に閉じ込めようとしない現代哲学へと繋がる普遍性がある。これは悪に対する社会的で公共的な構想力の可能性を示してくれると筆者は述べている。

中国の哲学を読むと、君子が国を統治するための倫理的な鍛錬、そして一般の人がそれに従っていくための道徳を説いている感が否めない。最後に説明した荀子性悪説は、現代の哲学にも通じるような論理性・体系性を有してはいるが、聖人が作為した規範を本当に善と言い切っていいのだろうか。文化大革命の頃、中国の多くの人にとって毛沢東主席は聖人で、彼の語録は普遍的な規範だったことだろう。しかしその後の中国の混乱を見たとき、果たしてそうだったのかと疑問である。また今日のウクライナ侵攻を見たとき、ロシア大統領は自身を聖人とみているのだろうか。善とはなにか、悪とはなにか。この倫理的な言葉が含意している深刻さを改めて認識させてくれた良書であった。

紅葉が素晴らしい九品仏浄真寺を訪問

夏の終わりに訪れた九品仏浄真寺に、昨日(2日)紅葉を愛でに出かけてきた。この寺は大井町線九品仏駅からはすぐ、隣の自由が丘駅からも1km足らず、とても便利なところにある。九品仏という名前が示すように9躯の阿弥陀仏像があり、17世紀に建立された寺である。その由来については、前の記事で紹介した。
bitterharvest.hatenablog.com

この寺は、晩秋の紅葉が綺麗なことでも知られている。紅葉はなんと言っても小春日和の中で見るのが一番である。天気予報では午後からは晴れるということなので、その時間を狙っていった。しかし精度が格段に良くなった天気予報も、季節の変わり目は難しいようで、見事に裏切られてしまった。それでも多くの見物客に混じって写真撮りに精を出した。

焔魔堂と三途の川にかかった橋のあたり。




見学客が争ってカメラを構えていた山門前。

山門を越えた先の参道。緑と紅のコントラストが綺麗だ。写真を撮るのに夢中な女性のセーターの赤も際立っていた。

人を避けての周囲は、


さらに本堂の横、


本堂の中から庭園越しに、



最後は本堂の前で本尊の釈迦牟尼佛像を拝み、素晴らしい紅葉を楽しめたことに感謝した。

写真にも小さく写っているが、山門の前には次回の二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)の紹介があった。死後の世界の極楽へ行くにも、それまでの努力や心がけによって、「上品上生」から「下品下生」までの9段階の往生の仕方があり、九品仏の9躯の阿弥陀仏像はそれぞれに対応している。最上級の往生をしたときは、阿弥陀如来が25菩薩を引き連れてお迎えに来てくれるそうで、これを疑似体験できるのが二十五菩薩来迎会である。5月5日に行われるそうなので、そのときにもう一度訪れたいと思っている。

横浜市の郊外にある中山恒三郎家を訪ねる

桜の時期にはまだまだ早いけれども、ワシントンのポトマック河畔に桜の木を植樹することを最初に提案したのは、エリザ・シドモアさんである。この提案は何度も拒絶され、実現には24年を要した。彼女は紀行作家で、在横浜米国総領事館に勤務していた兄を訪ねて明治17年(1884)に来日、そのあとも何度か足を運んでいる。

これらの旅行をもとに明治24年(1891)に"Jinrikisha Days in Japan"を著した。昭和62年(1987)には恩地光夫さんが最初の1/3ほどを翻訳して、『日本・人力車旅情』として上梓された。横浜や東京の訪問地を紹介している(注:外崎克久訳『シドモア日本紀行』はすべてが翻訳されている)。

この記事では、知っている人の方が少ないことと思うが、横浜市都筑区川和町の豪商中山恒三郎さんを取り上げる。この旧家は江戸時代から酒類販売・荒物雑貨・呉服織物を手掛け、明治時代には醬油製造・製糸業などで家業を拡げた。

川和は平塚(徳川将軍家の御殿である中原御殿所在地)から江戸に抜ける中原街道に面した交通の要所で、中山家は地の利を生かして商売をしていたと思われる。

中山恒三郎さんは、商売の傍ら養菊の栽培にも力を入れ、明治末には1500種もの菊を栽培していた。自宅の菊園「松林圃」では、観菊展が開かれ各界から賓客が招かれた。シドモアさんもその一員だったのだろう、写真入りで訪れたときの様子を説明している。

私は、賓客たちが中山家に残した書画の話を聴くために、今週の日曜日(27日)に川和を訪れ、さらに中山家にも立ち寄り、いくつかの建造物を写真に撮った。

静かな佇まいの書院。この日もいっぱいの晩秋の陽を浴びて、訪問客はそれぞれに古き良き日を懐かしんでいたことだろう。

書院の庭先の向こうに、小高くなった場所に「松林社」がある。中山家の守り神だろう。

豪商であったころの名残りを伝える店蔵(左)と麴室(右)。

麹室の中は、民具・農具で溢れかえっていた。

横浜市歴史博物館では、中山家に残されている古文書を整理されているそうなので、いつの日か特別展が開催され、公開されることを楽しみにしている。