bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

国宝・円覚寺舎利殿を初冬に訪れる

何回となく訪れたことがある円覚寺だが、舎利殿だけはいつも遠目に見るだけで、訪れたことがない。今回(12月10日)、運よく、舎利殿を訪れるイベントがあり、それに参加した。

円覚寺は、鎌倉時代の1282年に建立された。モンゴル帝国(元)が日本を攻めてきた元寇、即ち、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)で戦死した両国の武士たちの魂を鎮めるために、第八代執権北条時宗が創建した寺である(モンゴル兵士の鎮魂をも願った時宗の優しい人柄がしのばれる。この他にも国家の鎮護と禅の普及という目的が創建にはあった)。

鎌倉時代の日本の人口は500万人。モンゴルが二回目に攻めてきた弘安の役では、元・高麗軍を主力とした東路軍が約40,000~56,989人、旧南宋軍を主力とした江南軍が約100,000人であったとされている(兵士数はウィキペディアによるが、なぜ、端数があるのだろう。それもとても細かな)。当時の日本の人口の3%にも及ぶ軍隊が押し寄せてきたことになる。現在の人口で換算すると、その数は300万人にも及ぶことになる。想像を超える国難であったが、いわゆる神風、台風が来襲したために、この難を逃れた。

このことによって、我々が学んだ教科書では、時宗はモンゴルの侵略を阻止した英雄として高く評価されていた。しかし、中世の時代の見直しが進むにしたがって、時宗についても評価が分かれている。

元寇が始まる前の1268年には、大蒙古國皇帝奉書をモンゴル皇帝から受け取っている。その内容は次のようになっている。

天の慈しみを受ける大蒙古国皇帝は書を日本国王に奉ず。朕(クビライ・カアン)が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(天下)を悉く領有し、遠方の異国にして我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというがその歓びは父子のようである。
この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来時には中国と通交している。だが朕の代に至っていまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに、王国(日本)はこの事をいまだよく知らないのではないか。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ朕の志を布告させる。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結びもって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
兵を用いることは誰が好もうか。王は、其の点を考慮されよ。不宣。
至元三年八月 日

古続記(吉田経長の日記)によれば、この国書を受け取った時、朝廷は返書を送ることを提案したが、幕府は黙殺せよと判断したそうである。どちらをとればよかったのかは、この書の読み方によって異なる。

判断の前提に、中国の手紙での「不宣」は対等な関係にあるときに使う結びである、ということを利用できる。これを念頭において、「兵を用いることは誰が好もうか」を解釈すると、圧倒的な兵力で日本を制圧するよりも、穏やかに和平したいと望んでいたのではないかと読める。

さらに、モンゴル皇帝の使者である趙良弼(ちょうりょうひつ)は、1272年に、モンゴル皇帝のクビライに、日本は「占領に値しない」と伝えていた。そのため、クビライは積極的に攻めようと思ってはいなかったのではないかと考えるのが妥当なように思える。

時宗は、漢文で書かれた国書を理解することができず、南宋から来た禅僧の意見を求めたのではないかと予想される。モンゴル帝国に敗れて日本に亡命してきた彼らは、モンゴル帝国と対決するように文章を捻じ曲げて意見を述べたのではないかと想像される。

このような理由から、もし返書を出していれば元寇はなかったのでと考えている学者もいる。

さらに、時宗は、自から戦場に赴こうとすることもなく、また、北条家の名だたる武士を九州に送ることもなく、九州在郷の少弐氏(しょうにし)を大将にするなどして、他人事のように、モンゴルの襲来をかわそうとしている。これは国の命運を握る職にあるものの施策とは思えないということで、時宗の統治者としての能力を疑っている学者もいる。

このように評価の分かれている時宗だが、元寇での犠牲者が多大であったのには、よほどショックだったのであろう。両国の戦死者を鎮魂するために円覚寺を創建した。

円覚寺の開山となったのが無学祖元(むがくそげん)である。彼は、南宋(現在の中国浙江省寧波市)出身の臨済宗の僧である。南宋がモンゴル軍の侵入を受けた後の1279年に、時宗の招きに応じて来日した。彼よりも前に南宋から渡来していた禅僧の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の死後、彼を引きついで建長寺の住持となり、その後、円覚寺を開山した。

円覚寺にまつわる説明が長くなったが、さて、昨日のイベントの道順に従って、円覚寺を訪れてみよう。

円覚寺は、何度も火災にあっているそうで鎌倉時代からの建物は残っていないそうである。関東大震災(1923年)でも壊滅的な被害を受けたそうで、その時に被害を受けなかった建物はたった二つとのこと(何とも恐ろしい)。そのうちの一つが、三門(山門)である(他の一つは舎利殿がある正続院内の一つの建物)。この門は三つの解脱、空・無相・無願を象徴しているといわれている。江戸時代(1785年)の建物だそうだ。この門を通るときは、「門を通らずに門を通る」ことと、案内をしてくれた副住職の方が仰った。なお、この門は夏目漱石の『門』という小説の舞台になった。『門』の書き出しは次のようになっている。

宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。

三門の写真は、
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また、紅葉も綺麗であった。
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副住職の方によれば、今年は11月の初めに寒い時があり、その月の終わりに温かくなったので、早く紅葉になった木と、遅くそのようになった木があるそうで、12月のこの時期に紅葉を楽しめることはあまりないことだそうだ。

次に訪れたのが仏殿である。仏殿は関東大震災で倒壊し1964年に再建された。鉄筋コンクリート造りの建物である。殿内には、円覚寺の本尊である宝冠釈迦如来坐像が安置されている(通常、釈迦如来は頭には何もつけていないが、円覚寺の釈迦如来は宝冠をかぶっているのが特徴である)。
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また、天井には前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いた天井画の「白龍図」がある。
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次に説明を受けたのは、選仏場である。ここは僧のための座禅道場である。
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この右隣には、居士林があり、一般の人を対象に座禅が行われていた。この日、案内してくれた副住職の方も、民間企業に勤めているときに、この禅道場に通ったそうである。何か思うところがあったのだろう、企業をやめて、修行僧になり、今日に至ったとのこと、彼にとっては今のきっかけとなった場所であると感慨深げに話をしてくれた。

舎利殿に向かう道すがら妙香池を見る。岩が虎の頭に見えるそうだ。その気になれば何となくだが、
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さて、今日の目的である舎利殿に入る。舎利殿は神奈川県唯一の国宝建造物である。
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舎利殿は、入母屋造で、柿(こけら)葺である(屋根の下部が寄棟造、上部が切妻造のものを入母屋造という)。舎利殿は最初から円覚寺にあったものではないそうだ。尼寺の太平寺の仏殿を移築したもので、室町時代の建物と推察されている。1556年に安房の国の里見義弘が鎌倉を攻めたときに、太平寺も攻撃を受けた。青岳尼と本造聖観音菩薩立像が奪われ、青岳尼は、その後、里見義弘の正室となった。太平寺は廃寺となり、仏殿が円覚寺に移築されたそうだ。

なお、舎利殿関東大震災で倒壊したが、その写真が文化庁のホームページに掲載されていた。
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舎利殿の内部には、仏舎利(釈迦の遺骨)を安置した厨子がある。
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舎利殿の周りには、鎌倉でよく見かける「やぐら」があった。
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舎利殿の奥の開山堂には、さらに建物があり、無学祖元の像が安置されていた。
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また、舎利殿の右横には禅堂があり、修行僧はここで座禅を組むそうである。7日間寝ずに座禅を組む修行も含まれているそうで(午後11時から2時まで横にならずに坐禅の姿勢のままで休む。座睡という)、ゆめゆめ臨済宗の僧侶になりたいと思ってはいけないと感じた。修行僧たちは、ここで、畳一枚での生活をする。座禅を組むときはその半分となる。円覚寺には25人の修行僧がいるとのこと。臨済宗のお寺の中では最大の人数だそうだ。
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この後、今日のもう一つの行事を楽しむため大方丈へと向かう。方丈は、大きさを表し、一辺が一丈、即ち、3メートルの正方形である。これが転じて、禅寺での住職の居室あるいは寺の住持を表すようになった。円覚寺の大方丈も、元々は、住職の居場所だったそうだが、禅を広めるために、一般に開放したそうだ。
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大方丈の裏には庭園がある。
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修行僧の足元にも及ばないのだが、その後、大方丈の横の建物で1時間ほどの座禅をして、帰路に着いた。

初冬にもかかわらず、真っ赤に色づいたもみじに迎えられて、普段見ることができない舎利殿、その内部、さらには、開山堂まで鑑賞することができ、さらには、初めての座禅を体験することができ、有意義な一日であった。