bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

川崎市の日本民家園を訪ねる

川崎市の日本民家園が50周年を迎えていて、その記念のコンサートをしたという記事を週末に見た。春の温かい日差しに恵まれ、また、懐かしさも手伝って、昨日(27日)訪れた。田園都市線と南部線が交差する溝の口から向ヶ丘遊園行のバスを利用した。最近のバスはどこでもそうなのだが、老人たちで混んでいる。市が提供する無料パスを利用する人々が多いためだ。この日に利用したバスも例にもれず、市外から来た我々夫婦を除いては、無料パスを見せながら、運転手席の横にある料金箱をパスしていく。

向ヶ丘遊園行は二系統あって、我々のバスは府中街道に沿って進む。この街道に沿って二ヶ領用水が流れている。川に沿って、花や木が植えられていて、車窓を楽しませてくれる。この用水は、江戸時代が始まる頃に農業用水として造られたもので、川崎領と稲毛領にまたがったことから二ヶ領と呼ばれたということを、川崎市内の小学校で4年生と5年生を過ごした頃に学んだ。桜で有名な二ヶ領用水の方はこれの分流だ。

最寄りの停留所でバスを降り、民家園へと向かう。車通勤をしていた頃に抜け道に使っていた道で、付近の丘陵地は一方通行で狭く対向車が来ないことを祈りながら運転したものだが、いまでは、歩道も付いた立派な道になっている。

日本民家園は、生田緑地と呼ばれる広大な丘陵地の一角にある。この緑地には、このほかに、岡本太郎美術館藤子・F・不二雄ミュージアムなどがあり、入口(東口)にはビジターセンターもある。
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日本民家園には、18軒の住宅と、水車小屋や蔵など7軒の建物がある。合わせて25軒の展示民家だ。五つにグループ分けされ、入口の方から、宿場、信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村となっている。また、国の重要文化財に指定されている住宅も7軒ある。

入り口から入ってすぐのところに、番号0、どのグループにも属さない原家住宅がある。大正時代に竣工したため、江戸時代の他の建物とは離して移築したのだろう。
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原家住宅のすぐ横は、宿場だ。門の右側に見えるのは、鈴木家住宅で、奥州街道の八丁目にあった馬宿だ。白河での子馬の競り市に往復する馬喰と馬方が泊まっていた。
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さらに奥へと進むと、佐地家の門・供待・堀がある。250石取り尾張藩士の武家屋敷入口部分だ。今年の大河ドラマは「せごどん」だ。その主人公は西郷隆盛だが、父の吉兵衛は下級武士で、石高は41石である。家老の小松帯刀は2600石だ。1石で一人暮らせる時代だった。中級武士というところだろうか。
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宿屋地区の最後は、伊奈街道の宿駅、伊那部宿にあった三澤家住宅だ。農業を主とし、代々組頭をつとめてきた村の有力者の家である。板葺の屋根で、置石があるのが特徴だ。
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次は、信越の村だ。小学6年から中学2年まで、長野で暮らしたので、親しみの持てる場所だ。最初の建物は長野県南佐久郡のもので、千曲川沿いの名主の家である。長野県と言うだけで雪深いところと思いがちだが、そうではない。左側が佐々木家だ。柱の細さに気が付く。そして、正面が江向家住宅だ。富山県岐阜県との境にある越中五箇山の合掌造りの家だ。豪雪地帯のため、雪の重みに耐えるために様々な工夫が凝らされている。二つの家とも国の重要文化財に指定されている。このほかにも、越中五箇山の合掌造りの家が2軒、飛騨白川郷の合掌造りの家が1軒ある。また、白川郷の家はお蕎麦屋さんになっていたので、ここで、お昼を食べた。
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腹ごしらえも済んだところで、関東の村へと進んだ。これまでとは趣を異にする家に出くわす。千葉県の九十九里浜から移築された作田家住宅だ。網本の家で、棟(屋根)が、横の方に向かうものと、奥の方に向かうものとに分かれていることが分かる。分棟型民家と呼ばれている。この家も国の重要文化財である。
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次の廣瀬家住宅の家は、妻の部分の柱が曲がっていて、目を楽しませてくれた。山梨県甲州市の民家だ。
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今度は、茨城県笠間市の名主さんの家だ。大戸の上に定書きがあり、それを読もうとしていたら、ボランティアの人が近づいてきて、助けてくれた。定書きは慶應4年に太政官(明治政府)から出されたもので、次のように書かれていた。なお、変体仮名のところはカタカナに変えてある。
一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事

この建物も分棟型民家で、国の重要文化財に指定されている。ボランティアの方の説明によれば、太田家住宅はここで火災に遭遇したそうだ。1990年の夏、近くの公園で遊んでいた若者たちの打ち上げ花火が屋根に落ち、母屋を中心に焼けてしまった。その後、復元されたが、焼けた跡が柱に残っていると言って、見せてくれた。文化財の保護の難しさの一面を知ることができた。
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次は、神奈川の村だ。最初に現れるのが、秦野市の名主をしていた北原家住宅だ。移築解体をするときに、墨書が発見され、貞享4年(1667年)に建築されたことが分かる貴重な家で、国の重要文化財となっている。
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そして、いよいよ伊藤家住宅だ。日本民家園発祥の建物だ。関口欣也さんは、1955年に横浜国立大学で農村の近代化の推進についての卒業論文に取り組んでいるときに、江戸時代に名主であった伊藤家の古民家に出会う。建築史の大岡実教授にも相談して、古民家の建築時期を判断しようとしたが、寺や城などと違い、その当時は古民家の基準を示すものがなかった。大岡教授はそのあと古民家の調査に乗り出し、伊藤家住宅は17末~18世紀初ということが1960年に判明した。歴史的に貴重なこの住宅を保存するために、国重要文化財に指定し、横浜の三渓園に移築する方針が決まった。

川崎市文化財を担当していた古江亮仁さんは、その計画を1964年に知り、大岡教授を訪ね、川崎市に残せないかと相談する。民家園の構想が持ち上がり、それが現在へとつながった。1967年4月にオープンしたが、何ともさみしいことに、初日の入館者は0だったそうだ。しかし、2016年度の実績は116,053人となっている。
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最後は東北の村。村の構成が分かりにくかったことと、疲れてきたこともあって、国重要文化財に指定されている工藤家住宅を見学しそこなったが、山形県鶴岡市の菅原家住宅は、見ごたえがあった。豪雪地帯のため、冬用の出入り口が二階にあり、雪の重みで家が沈むために、引き戸にはコロが付いていた。酷寒に耐えるには隙間が多すぎるように感じたが、わらの中で睡眠するとのこと、耐え忍んだのだろうと哀れさを感じた。
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妻の目的である桜見学を達成していなかったので、出口で警備の人にこの辺に桜の見どころはないだろうかと聞くと、舛形城がいいのではと言われた。180段の階段を上った先に、お城の跡がある。かつては広場だけだったような気がするが、いくつかの施設が建築されていた。入口には門があった。
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舛形城は鎌倉時代に、秩父党の流れをくむ小山田有重の子の稲毛三郎重成によって築かれたとされている。広場には見晴らし台がある。
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見晴らし台から見た桜がきれいだった。桜は見上げることが多いのだが、見下ろすのもなかなか壮観だ。
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帰りは向ヶ丘遊園駅まで歩くことにした。途中に、生田長者穴横穴墓があるので見学した。7世紀の築造で、10程度の横穴がある。勾玉を始めとする副葬品も出土している。
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天気にも恵まれ、夫婦二人、まぶしいほどに明るい春を楽しむことができた。