bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北部九州を旅行する(4日目午後)-大宰府から鴻臚館へ

筑紫君磐井の岩戸山古墳を見学したあとの午後も、福岡県の歴史的な遺産を訪ねた。最初の目的地は、古代においては九州の中心地であった大宰府だ。

岩戸山古墳からバスで久留米に戻ったが、さらに久留米駅から西鉄の電車を利用して大宰府に行くためには、西鉄二日市西鉄大宰府線に乗り換える必要がある。二日市駅から大宰府駅まではわずか二駅だが、これまでに利用した電車やバスと違って、やけに混んでいることに気がついた。しかも、日本語以外の言葉があちらこちらから聞こえてきた。

駅舎を出てさらにビックリ。太宰府天満宮までの道は人で埋め尽くされていた。人波が切れたときに参道の風景を写真に収めたがこの通り。
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1月12日の土曜日ということがあったのかもしれないが、閑散とした遺跡に馴染んできた身には、この人ごみはこたえた。太宰府天満宮の写真を撮って、早々に退散することとした。
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当初はやはり大宰府にある九州国立博物館をゆっくり見学しようと思っていたが、これも断念し、板付遺跡へと向かうことにした。ここは、西鉄天神大牟田線では井尻駅が最も近い。ここから歩くと25分程度だが、幸いにも駅を出たときにタクシーが来たのでこれを利用した。
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板付遺跡は、日本最古の稲作集落として知られ、その集落は弥生時代の特徴である環濠によって囲まれている。しかも環濠は二重だ。集落を外敵から守るために強固な構えにする必要があったのだろう。集落の周囲からは水田跡が発見された。この水田は、土砂が堆積してできた沖積地に築かれた。次の写真は板付遺跡の外観だ。左側が二重の環濠で囲まれた集落。真ん中が水田だ。
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最初に環濠集落を訪れた。環濠は幅約6m深さが3~3.5mだ。
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住居跡は発見されなかったそうだが、板付集落と同時期の福岡県粕屋町江尻遺跡の発掘例をもとに、竪穴住居が復元されていた。このような竪穴住居は、大韓民国忠清南道の松菊里(ソングンニ)遺跡から発見されたことから、松菊里(しょうぎくり)型住宅とも呼ばれている。
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水田跡は、
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板付遺跡の周囲の地形だ。谷の出口に近いところに築かれたことが分かる
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板付遺跡の模型だ。集落が少し小高いところに位置していることが分かる。
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また板付遺跡弥生館には土器も展示されていた。
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この後バスと地下鉄を利用して、鴻臚館へと向かう。この場所はかつて平和台球場があった場所だ。

鴻臚館は、現在の迎賓館に相当する施設だ。磐井の乱(527~528年)の後の536年に、那津のほとりに那津官家(なのつのみやけ)が設けられ、九州支配と外交を担った。白村江の戦い(663年)の翌年、行政機能は太宰府に移され、那津のほとりには海外交流と国防の拠点施設が残され、この施設は筑紫館と呼ばれ、唐、新羅渤海使節を迎えた。鴻臚館という名称は、駐豪唐王朝の鴻臚寺に由来し、9世紀前半頃から用いられるようになった。菅原道真遣唐使の中止(894年)の後も貿易は続けられ、中国・朝鮮からの商人たちは鴻臚館に滞在した。貿易は10世紀初めごろ官営から民営へと移行するが、鴻臚館は商人たちの滞在場所として維持された。しかし、11世紀半ばごろにはその役割を終えた。

鴻臚館の場所が確定されたのは最近で、1987年に平和台球場外野席改修の際に遺構が確認され、その翌年から発掘調査が始まった。

鴻臚館の外観、
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復元された鴻臚館、
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鴻臚館については、奈良時代に編纂された万葉集の中にも出てくる。新羅に遣わされた使節の一行が763年に詠った「筑紫の舘(たち)に至りて遥(はるか)に本郷(もとつくに)を望みて、悽愴(いた)みて作れる歌四首」がそれである。

志賀の海人(あま)の一日もおちず焼く塩のからき恋をも吾(あ)れはするかも
志賀の浦に漁(いざり)する海人(あま)家人(いへひと)の待ち恋ふらむに明(あ)かし釣る魚(うを)
可之布江(かしふえ)に鶴(たづ)鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来(く)らしも
今よりは秋づきぬらしあしひきの山(やま)松蔭(まつかげ)にひぐらし鳴きぬ

鴻臚館跡からは、当時の貿易によって輸入された白磁器や青磁器が発掘されている。
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また遣唐使船の模型もあった。
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トイレも発見されていて、以下の写真は、その時に使われた籌木(ちゅうぎ)、当時のトイレットペーパーだ。ケガしそうで嫌だが、このようなものが使われていた。
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鴻臚館を出るときに、窓口の方が地図を参照にしながら、福岡城の見学場所を教えてくれた。
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福岡城むかし探訪館」で紹介のビデオを流しているので、それを見てから見学するといいということだったので、まずは探訪館を訪れた。そこには、福岡城の模型もあった。
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また、ビデオによれば、福岡城は戦国時代の武将黒田長政により築かれた城で、関ケ原の戦いでの功績により、豊前国中津16万石から筑前一国52.3万石に転封され、博多を望む福崎の丘陵地に城を築き、明治になるまで、黒田氏が藩主としてこの地に居城したとのことだ。

ビデオを見た後、窓口の方が教えてくれた順路に従って、福岡城を見学した。

三の丸、二の丸、本丸、天守台へと続く城内へと導く主要な門であった東御門跡、
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そして、本丸の北東隅にある祈念櫓(やぐら)だ。
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近くの梅林では梅が咲き始め、香ばしいにおいがした。
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本丸から福岡の市街地を望んだ。
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裏御門跡、
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江戸時代から場内に残る唯一の櫓の多聞櫓、国指定重要文化財になっている。
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西側にあり、日常の通用門として利用された下之橋御門、
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福岡城を抜けたころには、日もだいぶ傾き、寒くもなってきたので、帰路に着くこととした。

これまで北部九州については全く土地勘がなかったので、歴史の書物の中で、これらの地名が出てきたとしても、具体的なイメージを抱くことができず、概念的にしか理解できないでいた。今回、訪問することによって、それぞれの土地の地形も分かり、さらには、それぞれの地域がどのように結びついているのかも、感覚的にも分かるようになった。「百聞は一見に如かず」という諺があるけれども、その通りだと改めて認識し、とても良い旅だったと、旅行から二週間たった今でも思っている。