bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

中先代の乱の戦場「井手の沢(菅原神社)」を訪ねる

東京都のコロナウイルス感染者は特定の場所に限定されているようであり、都下のはずれに感染者がいるはずもないと考え、空っとよく晴上がった17日に、近くの歴史遺跡を訪れた。

その場所は、町田市の菅原神社。この場所は、鎌倉幕府が終わり、建武の新政が成った翌年の1335年に、鎌倉幕府の復活を目指した北条時行が戦をしたところである。この戦いを含め、時行が鎌倉を支配するまでの一連の戦いは、中先代の乱と称せられる。鎌倉を支配した先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、わずかな時期ではあるが(20日間)支配したことからこのように呼ばれる。

北条氏が滅亡したあと、鎌倉幕府最後の執権高時の遺児の時行は信濃に潜伏したが、御内人(みうちびと)の諏訪頼重によって擁立され、鎌倉を目指した。武蔵国に入って、女影原で渋川義季・若松経家を、小手指ヶ原で今川範満を、武蔵府中で小山秀朝を打ち破り、現在は菅原神社となっている「井手の沢(井出の沢とも書かれる)」で足利直義(ただよし)と決戦に臨んだ。下図には、時行がたどったであろう、女影原(図では霞野神社)から井手の沢(菅原神社)を経て鎌倉へ至る鎌倉街道上道を示す。
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この当時、鎌倉には後醍醐天皇の皇子成良(なりよし)親王を長に直義を執権とする鎌倉将軍府が設置されていた。時行は、井手の沢に出陣してきた直義を破り、直義は、成良親王や尊氏の嫡子の義詮(よしあきら)らと鎌倉を落ちた(このとき幽閉されていた護良親王は殺害される)。時行は鎌倉に入り、短期間ながら支配した。

この後、尊氏は後醍醐天皇から征夷大将軍の号を与えられなかったにもかかわらず出陣し、直義と合流して勢力を盛り返し、時行を鎌倉より追い出した(その後の時行は、後醍醐天皇から赦免され南朝方の武将として戦っている)。

井手の沢にはいまでは菅原神社が建っている。この神社は鎌倉街道に面し、その裏手に井手の沢の碑があり、背面には由緒書きが残されていた。
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新しい説明書きもあった。
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その周辺はちょっとした木立となっていた。
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鎌倉期の歌謡、宴曲抄「善光寺修行」には、井手の沢について、「かれいい(乾飯)食うべしいにしえも、かかりし井手の沢辺かとよ、小山田の里に来にけらし」と詠まれている。きれいな水が湧きだし、弁当の干し飯を食べるのに都合のよい場所であったようだ。いまでも水が湧いているのだろう、御神水の碑があった。
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菅原神社の由緒は以下の通り。
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室町時代に大沢左近正次が京都北野天神に詣でたときに得た天神像をこの地に奉安したのが始まりで、江戸時代の初期、その子孫の大沢玄蕃(げんぱ)が新たに天神像を奉安し、享保7年(1722)に本殿が再建、天明5年(1785)に社殿が造られたとのことである。平成24年に竣工した社殿はなかなか立派な建物である。
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平成29年に竣功した参集殿、
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雅楽などの芸能を神様に奉納する神楽殿
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火伏の神様を祀る愛宕社と狛犬
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最後になったが鳥居。
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とてもこじんまりとした歴史散歩ではあったが、久しぶりの外出を楽しむことができ満足した。さらに近くに公園があることを思い出し、今の時期にはあじさいがきれいに咲いているだろうと考えて、立ち寄ってみることにし、古戦場跡を離れた。