bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

榎本渉著『僧侶と海商たちの東シナ海』を読む

面白そうな本はないかとアマゾンのブログをくくっていたら、日本史の範疇に収まりそうもないタイトルを見つけた。前回紹介した本郷恵子さんの本と同じシリーズ「選書日本中世史」の一冊として10年ほど前に刊行された。評判が良かったのだろう、昨秋、文庫版化された。無料サンプルが面白かったので、電子版をダウンロードして一気に読んでしまった。

この本のタイトルは『僧侶と海商たちの東シナ海』で、著者は榎本渉さん、国際日本文化センターに所属されている。本が対象にしている地域はもちろん東シナ海。古代の大陸への交通は、九州の北の玄界灘から壱岐対馬を経由して、朝鮮半島南部へと、陸を視認できる海路が利用されていた。しかし中世に入ると、航海技術が向上したことで、九州から済州島(耽羅)を経由して明州(寧波)に至る、陸に沿わない東シナ海の航路が利用されるようになった。この航路は、何日も陸を見ないという怖さはあるものの、座礁の危険が少なく大型船にとっては有利である。

遣唐使船も初期の頃は朝鮮半島経由であったが、8世紀にはいると東シナ海航路となった。
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この本が取り上げている時期は、東シナ海に海商が出現した9世紀から、明が民間貿易を全面的に禁止し、海商を強引に抑圧した14世紀までである(ただし文庫本化された新版には、エピローグで遣明使以降の説明がある)。海商は、時代を追うごとに、新羅海商、唐海商、宋海商、元海商、明海商となる。その起源である新羅海商を除いて、その時代の中国王朝名を冠して呼ばれる。

新羅海商については、次のように説明されている。8世紀後半以来、新羅では貴族・民衆の反乱が相次ぎ、飢饉・疫病が頻発していた。そして814年4月には新羅西部で洪水が起こり、翌年には飢饉の中、盗賊の蜂起も生じた。このようなことが続いて起きたため、新羅人たちは新羅の外に活路を見出そうとした。814年以降、日本でも新羅人の来着が相次ぎ、遠江駿河で700人が反乱を起こしたという記録があるので、数千人の規模で日本に流れ込んでいた。

他方、地続きである唐には、もっと多くの人が流入したであろう。さらには奴隷にされた例まである。奴隷たちは、新羅からの要請もあって解放されるが、多くがそのまま沿海部に居留したようである。円仁の日記からも、830年代には唐の各地に新羅人の集落が形成されていたことが分かる。例えば、山東半島先端の赤山浦、楚州・泗州漣水県の新羅人集落である。これらの集落は唐と新羅の交通の拠点であった。このため地の利を生かし、才ある人は海の商人、すなわち海商になった。海商たちは、東シナ海の沿岸部で、交易活動を行うだけでなく、人の移動も助けた。その中には僧侶も含まれていた。

830年ごろには新羅海商が東シナ海での交流を担うようになっていたが、リーダー的役割を担っていた張保皐新羅の内紛で暗殺されると、新羅と海商の間の関係はぎくしゃくし、842年には新羅人の日本国内への入国は禁止された。このため、新羅人たちは、唐海商と称してそのあと交易活動を続けた。

当時の僧侶たちは海商の助けを得て日中間を渡ったが、この僧侶たちを通して9~14世紀の東シナ海交流の歴史を見ようというのが、この本の狙いである。この時期の前後を含めると、著者は、
遣唐使(7~9世紀)、
②唐末~北宋期の入唐・入宋僧(9~12世紀)、
南宋~元代の入栄・入元僧(12~14世紀)、
④遣明使(14~16世紀)、
に四区分している。

それぞれの区分の間には、時代を分ける次のような変化が生じている。
➀と②の間:9世紀前半での新羅海商・唐海商の出現で、海上を日常的に行き来する便が得られるようになった。
②と③の間:12世紀後半、僧侶の移動に関する規制が大幅に緩和され、彼らの出国を管理・統制しようとする考え方自体がなくなった。
③と④の間:1370年代に明が民間貿易を全面的に禁止したことで、商船を通じた僧侶の日中韓往来という9世紀以来の基本的な交流のかたちは終わりを告げた。


この本では、この区分にそって僧侶の渡航例が挙げられている。最初の例は、区分➀から②へと変わるときである。838年の遣唐使船に、円仁は請益僧(同じ船で帰国)として、円載は留学僧(次の遣唐使船で帰国)として、乗船した。遣唐使船が派遣される間隔は20~30年。このため留学僧の場合には人生の一番活躍できる時代を唐で暮らすことになるので、相当の覚悟が必要であった。現実の歴史はもっと悲愴で、次に遣唐使船が検討されたのは894年、実に60年後のことで、しかもこの計画は中止となってしまった。まともに考えると、円載には帰る船は用意されていなかったことになる。

円仁は、請益僧として天台山に巡礼することを目指したが、唐から旅行許可が下りなかった。仕方なく帰国の途についたように見えるが、帰路の途中で不法滞在を決行する。山東半島の赤山浦で新羅海商の助力を得て、唐滞在に成功する。五台山・長安の求法巡礼を経て、847年にやはり新羅海商(帰国船の乗員は唐人江長・新羅人金子白・欽良暉・金珍)の助けを借りて、帰国した。

円載も、唐海商李延孝の助けにより、877年に帰国しようとするが、途中で難破して没してしまう。著者は、円仁・円債の留学の目的はハクをつけることとしている。
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次は区分②の例で、乗船する船が遣唐使船から、新羅海商あるいは唐海商の商船へと変わった時期である。国内外での許可を得ることは変わらず、利用する船が商船となったために、出国・入国できる日時への制限が大幅に緩和された。

下図は、円珍が許可を得たときのプロセスを示すものである。次のようになっている。
円珍藤原良房・良相の兄弟に求法巡礼したい旨を伝えた。
②これを受けて右大臣良房は、文徳天皇にその旨を伝えた。
天皇より内供奉光定に詔勅が下された。
④光定が円珍に伝えた。
⑤唐での許可を受けやすくするために、良房の助力で、伝統大法師位を得たことを証明する僧位記と内供奉持念禅師に任命されたことを示す治部省牒を得た。
⑥従者ともども出国許可を示す公験を得た。
⑦唐の先々で行く先々の通過を許可する公験を得た。さらには留学に必要な費用も十分に給付された。
この本を読むまでは、古代の渡航手続きがどのようになっているのかを考えなかったが、このプロセスを知り、精緻であることに驚きまた感心した。
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下図は、円珍と同様に、勅許を受けて唐・五代十国のときに渡った僧侶を示す。唐では、845年に会昌の仏教弾圧、875~84年の黄巣の乱、907年の唐の滅亡などもあり、9世紀後半ごろから魅力が薄くなったのだろう、渡航する僧侶は少なくなる。
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北宋になり、奝然・寂照がだいぶ間隔をあけて派遣される。さらに相当な間隔をあけて、成尋が入栄する。しかも60歳という高齢である。朝廷に願いを出したもののなかなか許可が下りず、待ちきれなくなって密航する。しかし宋側では、成尋提出の文書によって入国が認められ、行く先々で次の目的地までの移動許可が下り、滞在費までも支給され、苦労はしなかったようである。最初から帰国するつもりはなかったのか、宋で没している。

12世紀後半の非常に短い一時期、すなわち平清盛日栄貿易を振興したときは、重源・栄西・覚阿などが入栄している。平家からの承認を受け、さらに南宋も平家から依頼されての受入れであったと考えられる。

ここからは③の区分での渡航の例である。

平家が滅亡し、鎌倉時代に入ると入栄僧の数は激増する。これまでは太師号や紫衣を持つ高僧で、典籍の獲得・難儀の解決・修法の獲得にあったが、この時代になると、禅宗諸派・新義律宗などの宋風仏教寺院に弟子入りし、他の僧とともに集団生活を過ごし、印可(師がその道に熟達した弟子に与える許可)を得ることが目的となった。

宋の寺院生活を体験した僧侶たちは、日本に宋風文化をもたらし、鎌倉仏教の興隆、禅の隆盛、さらには喫茶の習慣までも日本にもたらした。

元での交流については、東洲至道・龍山徳見の例が挙げられているので、これについては本の方で確認して欲しい。
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このあと、中国は明王朝へと変わり、遣明使での交流の時代へと移る。これ以降についてはエピローグに記述されているが、読者の方で楽しんでください。

この当時の僧侶たちにとって留学は、不慮の事故に見舞われる危険性も高く、帰国できない可能性もはらんでいたので、相当な決意を必要としたことと思われる。この本からは、中世初期ではハクをつけることであり、中世後期では免状(印可)をもらうことになったと説明されている。エリートたちの留学から一般の僧たちへの留学へと層の広がりを見せた中世のグローバリゼーションを知ることができ、得るところが多い本であった。