bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

懐かしい田園風景が残る横浜市北部の寺家ふるさと村を訪問

オンラインでの国際会議の発表も無事すみ、やっと開放された気分になった。秋雨前線の影響を受けて長いこと雨の日が続いていたが、この日(9月7日)の朝は久しぶりに秋晴れとなった。うきうきとした気分となり、本当は旅行に出かけたいところだったが、コロナによる緊急事態宣言が出ているので、ちょっと我慢して近場でと戦略を練った。人込みのないところを優先したため選択肢はそれほど多くはなかったが、懐かしい田園風景が残っている横浜市北部の寺家(じけ)ふるさと村を訪問をしてみようと決めた。ここはウォーキングコースともなっていて、青葉区のホームページには桐蔭横浜大学から鴨志田公園までのコースが紹介されている。ダウンロードした地図を見ていると、「桐蔭学園からわざわざ行く人はいない、近くまでバスで行くのが自然」と横やりが入った。このコースは、桐蔭横浜大学の協力を得て作成されたため、同校からの出発になっているようだ。朝散歩をしたので、それほど歩く必要もないだろうと判断し、田園都市線青葉台駅から鴨志田団地までバスを利用することにし、ふるさと村を重点的に観察することとした。

寺家町(図中白い部分)は、小田急線と田園都市線の中間地点、子供の国の東隣に位置している。東側は川崎市、西側は町田市で、行政区域の地理的なはざまである。
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昭和14年発行の横浜市町名沿革誌によれば、「元、寺家村と称して都筑郡の内なり、天正頃の文書に村名見へたれば古くより開けし地なるペし此村古き領主の名を伝へず、德川氏に至り正保の頃、村高百九十八石の内其一部をさきて旗下筧三郎左衛門正重に賜ひ、他は御料となせり、私領の方は筧喜太郎の代に至り、同族筧半兵衛に分割し二給となり子孫世襲明治維新後は神奈川県の管轄に属せり、明治二十二年町村分合改称を行へる際は、下谷本町の條に同じく中里村を立て其大字寺家となる、昭和十四年四月一日橫浜市に編入港北区に属し旧村名を採りて町名に付せり、村名の起りを伝へず。」と紹介されている。すなわち、安土桃山時代の古文書に寺家とあるので古い地名のようだがその由来は分かっていない、また江戸時代には旗本の筧家が知行していたと説明されている。昭和14年の世帯数は35、人口176人であった。

今昔マップで、明治39年測図と現在の地図を比べると、谷戸に拓かれた水田がほとんど変わっていないことが分かる。この図で、中央部にある谷戸が、左側の山側から、右側の平野部に向かって、水田として切り拓かれたことが分かる。さらに、谷戸の奥の高いところに、溜池が設けられていることも分かる。
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この場所を航空写真と地形図で観察すると、水田が谷戸に深く切り込んでいることがよく分かる。
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谷戸の中央付近で、奥の方を撮影した写真。実りの季節を迎えて、しっかりと実をつけた稲が黄色く変わり始めていた。
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小さな谷戸のどん詰まりのあたりも同じような光景だが、この田の持ち主は遊び心があるようだ。
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谷戸の中頃には水車小屋があった。電力によるモーターが出現するまでは、農作業で必要な動力を得るための重要な装置だった。
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谷戸の上流には溜池がある。このあたりの主だったと思われる小動物に因んだのだろうか、むじな池と名付けられていた。
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谷戸を出て平地部に行くと、傾斜を利用して、全ての田に水が行き渡るようにと、立派な水門があった。
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子どものころイチジクの木が庭にあったが、ほとんど口にすることはなかった。悪い印象しかないイチジクだったが、最近では味が良くなったので好んでお店で購入している。道すがら商品としてのイチジクの栽培状況を観察することができた。何とこれは一本の木。下の方で、二本の枝を左右にわけ、地面に這わせるようにして横に枝を張らせている。収穫しやすいように細工したのだろう。イチジクの木によく登っていたので、弾力があることは知っていたが、ここまで利用できることに感心した。
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ぶらぶらと散策しながら、秋の花を楽しんだ。白い花がきれいな蔓性のセンニチソウ。
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つる草の花かと思ったが、絡まってそのように見えたようで、よく見慣れたサルスベリの花。
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道路わきに咲いていたフジカンゾウ
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ハーブの植え込みではセージの花が真っ盛りだった。
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また谷戸を離れて、コナラの木が多い山の中に少しだけ入ったところに、下三輪玉田谷戸横穴墓群と名付けられた横穴墓があった。大正14年に調査され、家形彫刻を有する横穴墓として著名なそうで、古墳時代後期(6,7世紀)の遺跡だ。こちらのお墓は、横浜市ではなく、町田市の所在である。
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短い時間の散歩だったが、谷戸に拓けた田を見ることができ、色々と参考になった。この地から少し離れたところに、弥生時代の集落跡の大塚遺跡がある。丘の上に集落が形成されていて、炭化した米が出てくるので、米作をしていたことは確かなのだが、どこで耕作していたのかは分かっていない。大塚遺跡は谷戸に囲まれ、さらには早淵川が周辺を流れている。谷戸か川岸のどちらかで水田をしていたと考えられていて、谷戸の可能性が高いらしい。もしそうだとすると、今日見学した谷戸の水田を原始的にしたものではと想像ができ楽しかった。また横穴墓が存在しているので、古墳時代には、豪族に次ぐような有力な農家がこの辺りを仕切っていたことも想像できる。谷戸での水田が、今日まで綿々と続いてきたと考えると、現在の整備された環境は、長い間の叡智の蓄積と言える。これからも、長く維持されることを期待してこの地を去った。