bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』を読む

喉に刺さっていた魚の骨が取れた瞬間はほっとする。同じような気分を味わったのが、お彼岸のお墓参りのために、お供えの花を手に入れた瞬間だった。ジャック・デリダ(Jacques Derrida)の考え方がよくわからず、それを理解するために贈与に関係する参考資料を読んだ。そこには、贈与はあり得ないと書かれていた。贈与とは、見返りを求めずに、他者に贈り物をする行為だ。

贈与と対をなす言葉は交換である。贈ったものに対して他者から何らかの見返りを得る行為である。物を買う行為も交換だし、贈り物をしてそのお返しをする行為も、瞬時ではないが時間的な遅れを伴った交換である。建前上は寄付となっているので贈与だと思いがちだが、ふるさと納税は、納税者が見返りを明確に期待しているぶんだけ質の悪い交換である。もう少し厳密に定義すると、贈与とは、物質的にも精神的にも、お礼という負担を、贈与する側にもされる側にも感じさない行為である。このような条件を満たす贈与は存在しないと参考資料には書かれていたが、果たして正しいのだろうかということが、読んだ時から引っかかっていた。

お供えの花を手に取ったとき、これこそは間違いなく贈与であると感じた。花は私から両親への贈り物である。私は物質的なあるいは精神的なお返しを、両親から期待していない。また亡くなっている両親は、私に対して物質的にも精神的にもお返しなどできようはずもない。見事な贈与だと認識し、喉の骨が取り払われたようなすっきりとした気分になった。これは余談だが、意地の悪い人は、生前の親の恩に対するお返し、すなわち交換だと指摘するだろうが、このことはあまり深入りしないことにしよう。

デリダは、プラトン以降の西洋哲学の中心をなすのは、階層秩序的二項対立であると言っている。二項対立の例を挙げると、善と悪、男と女、内部と外部、本質と見かけ、真理と虚偽などである。さらに、二項のあいだには、優劣関係があって、強者が弱者を制圧しようとする階層秩序が存在すると言っている。

西洋哲学に従えば、先ほど挙げた交換と贈与は、「ものをもらう・代わりをわたす」という行為に対する二項対立である。先ほど説明したように、死者へというとても特殊な例を除けば、贈与というものはない。二項対立という考え方に立てば、贈与はないので、交換が優で、贈与が劣となる。この優劣関係は、かなり暴力的で、贈与を忘却(存在しない)というレベルにまで貶めている。このため、忘却されている贈与を、階層秩序的二項対立という考え方で、説明することは不可能であると、デリダは言う。

贈与という概念を生き返らせるためには、階層秩序的二項対立を中心に据えた西洋的な考え方を、ひっくり返し、構築し直す必要がある。これはデリダの言う脱構築である。これには、二項対立を包み込む仕掛けが必要である。この仕掛けをデリダは、差延という造語で用意した。差延はフランス語ではdifféranceと綴る。もともとのフランス語にはこのような単語はなく、似た単語にdifférenceがある。これは名詞であるが、その動詞はdifférerで、「~を延期する」と「異なる」の二つの意味がある。名詞のdifférenceには、「異なる」だけが残り、「~を延期する」は欠落し、意味は「違い」を表す。そこで、デリダは、発音は同じだが、スペルが異なるdifféranceを造語し、動詞が持っていた二つの意味を復活し、「違い」と「遅れ」の両方の意味を持つ単語とした。日本語では、「差延」と表記される。

理解を深めるために差延の具体例を示そう。人間の細胞は、時間とともに入れ替わる。6カ月も経つと筋肉の細胞の殆どは入れ替わるし、骨の細胞でも、3年もすればどんな年寄りでもほぼ入れ替わっている。それでは6か月前の自分あるいは3年前の自分と、現在の自分は同じなのだろうか。細胞のほとんどは入れ替わっているので、細胞のレベルで見れば別人。考え方だって、この歳月の中でいろいろなことを学んでいるのだから、違っているだろう。それでも同じ人なのだろうか。時間が経過し、すなわち遅れがあって、違っているのにもかかわらず、同じ人と見なして生活している。このように、「違い」と「遅れ」という二つの要素が入っているものを、差延と称している。

二項対立の関係にある二つの概念は、一つの差延で説明できるというのが、デリダの哲学である。冒頭に出現した贈与と交換では次のようになる。交換は物をもらいそして代わりをわたすことだが、「もらうこと」と「わたすこと」の間には遅れと違い、すなわち差延があるというのがデリダの説明である。交換の一つの例である商品の購入では、商品をもらうと同時に、お金をわたす。クレジットカードでの購入では、商品をまずもらい、しばらくたってからすなわちある遅れを持たせて、お金を払う。贈与は、贈り物をもらっても見返りを渡さないということなので、遅れを無限とすれば、交換と同じに説明できる。お彼岸のお供えの花も、遅れを無限にした交換、すなわち贈与である。

プラトン以降の西洋哲学は、二つの概念を対立させ、一方の概念が他方の概念を暴力的に抑圧するという、階層秩序的二項対立という考え方を中心に据えていた。しかし、デリダは、二つの対立構造の間に優劣はなく、二つの概念を共通の差延で説明できるということを示した。デリダは、このような行為を脱構築(フランス語でdéconstruction)と名付けた。

それでは、この他の脱構築の例をいくつか説明しよう。まずは言語である。これは、二項対立させるとパロール(parole:話し言葉)とエクリチュール(écriture:書き言葉)の二つの概念で表され、どちらが真の表現に近いかという観点から優劣をつけ、パロールの方を優位としてきた。話し言葉は、頭の中に浮かんだことを、間を置かずに口から発するので、話者の意図がそのまま伝わってくるので真実性が高い。これに対して、書き言葉の場合には、文章で示されるので、本当は誰が書いたかわからないので真実性が低いと見なされた。哲学的な言葉では、現前性という言葉で、真実性を表している。しかし、実際のところは、両者の間にこのような真実性で差があるわけではない。書き言葉の方が正しく、話し言葉の方が間違っていることさえある。そこで、対立するパロールエクリチュールを一つの差延で説明してみよう。ここで差延に用いるのは、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の記号論である。

一般に辞書は、単語と意味で構成されている。単語の方は、英語であればアルファベットが並んだもの、日本語であれば漢字あるいは仮名が並んだものである。意味の方は、内容を表した平易な文章である。ソシュールは、言葉は記号の体系であるとし、記号はシンフィアン(signifiant:単語)とシンフィエ(signifié:意味)の対であるとした。そこで、シンフィアンは、話し言葉では音素をならべた一続きの音で、書き言葉では英語やフランス語であれば、アルファベットを並べた単語である。ソシュールの言葉の定義を利用して、話し言葉も書き言葉も、シンフィアンとシンフィエとが、時間の経過の中で意味の変化を伴いながらそして時間的な遅れを伴いながら、すなわち差延によって結びつきながら、変化していくものと再定義することができると、デリダは説明した。言葉でのこの差延は、話し言葉と書き言葉に先立って生まれているものであるとし、デリダは原エクリチュールと名付けた。

最近、『ある画家の数奇な運命』という映画を見た。現代美術界の巨匠のゲルハルト・リヒターの生涯を描き、感動的な場面が溢れている作品だが、その中のたわいもない場面に興味を持った。美術の教授が最近興味を持ったことを説明してくれと学生に尋ねたとき、主人公のクルトが、数字の並びは意味を持たないけれども、それが宝くじの番号と同じであるとき、その数字は特別な意味を持つと言った。教授は感動し、クルドの作品を見せてくれという。映画を見ているときは、なぜこのように感動したのが分からなかった。しかし、デリダを読み、シンフィアンとシンフィエの関係を理解したとき、数字の並びと当選番号とがこれと同じ関係にあることを知った。シンフィアンとシンフィエを言い出したソシェールは、構造主義を切り拓いた人としても知られているので、この場面は隠喩的にクルドの作品が構造主義であることを示し、教授がそれに興味を示したのだと理解した。隠されている意味が、時間はかかったが差延によって、分かってよかったと思った瞬間であった。

それではもう一つ例をあげよう。今度は「法」に関する話題だ。二項対立は自然法/実定法である。これはピュシス(自然本来のもの)/ノモス(人為的なもの)との対立でもある。神が万能であることから、自然法が優で、実定法が劣と見なされる。しかし、両者とも法である限り、悪に対して罰を与えるという正義において同じである。そして、自然法/実定法に対する差延は正義であるとデリダは考えた。男と女の関係も二項対立で、これまで男が優位にあった。この関係を覆すだけでなく、さらには両性が対等になる関係を肯定的に導き出せれば、デリダ脱構築を成し遂げたものとなる。

ここまで高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』を頼りに、デリダの中心的な哲学である差延についてまとめた。クロード・レヴィ=ストロースは、西洋と未開という二項対立の中で、未開の文化が決して西洋の文化に劣っていないことを示したが、デリダは優劣関係を反転させただけだと厳しく批判した。そして、二項対立を反転させ、差延により対立していた両者を共通の一つの考え方でまとめる脱構築を考え出した。ポスト構造主義の始まりと言われるが、差延という仕組みで新たな構造を作り出しているように見える。形を変えた構造主義と見えるのだが、間違っているだろうか。

2014年秋にスペイン北部、バスク地方ビルバオを訪問した。この町には脱構築の建築として有名な美術館がある。このときは、脱構築がどのようなものであることを知らず、変わった建物や造形物があるとしか認識しなかった。差延により、正しく理解するようになったと思われるので、再度訪れる機会があればじっくりと味わいたいと思っている。写真は、美術館の入り口と、造形物のクモである。
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