bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

辻本雅史著『江戸の学びと思想家たち』を読む

幕末から明治にかけての変革はすさまじいスピードで進行した。西洋の政治・経済・技術を取り入れてのものだが、全く異質の世界を、なぜかくも早く吸収できたのだろう。その真相を知りたくて、江戸時代の思想史をいろいろと読みあさっている中で、この本に出合った。読む前は荻生徂徠をはじめとする思想家の紹介かと思っていたのだが、それだけではなくて、メディアと関連付けての教育論であった。

この本のキーワードは「知の身体化」。馴染みのない言葉だ。現代人の我々にも身についているだろうか。身近なところでは「九九」、その延長での「そろばん」から「暗算」だろう。暗算では、頭の中でそろばんと思しきものが勝手に動いて計算してくれる。そこには四則演算という知が、形のないそろばんとして身体の中に埋め込まれている。

江戸時代には、『大学』や『論語』からなる四書五経が身体の一部となっている人たちが少なからず存在した。これをなしえた教育法は素読である。これは意味を考えることなく、本の文字を声に出して読み上げ、最後には暗唱してしまうことだ。現代人の我々は、お坊さんを通して「知の身体化」を確認できる。お坊さんは、若いころから何回もお経を素読したおかげで、どの様な場面でもお経が自然と口から出てくる。お経が身体の一部となっている。

お坊さんたちは意味を理解して唱えているだろうが、そうでない例を孫に発見した。兄の方が九九を暗唱しているときに、そばで聞いていていた弟が、それをオウム返ししているうちに先に覚えてしまった。小学校に入学する前だったので、掛算の意味を理解しないままに、九九を身体化した。小学校に入って、どの様な気持ちで九九に臨んだのだろう。

江戸時代の子供たちが学んだのは、漢文で書かれた儒学の冊子であった。子供は、6~7歳の頃から素読を始めた。小学校・中学校を通して漢字を学んだ時の苦労を考えると、就学前の子供に漢字を読ませたことだけでもすごいが、読み下し文による漢文となると想像を絶する。

どのくらいの期間をかけて暗唱したのだろうか。このことについては、本の中で、貝原益軒が言ったことを引き合いに出している。四書は総計で52,800字からなる。1日100語100回復唱すれば528日かかる。ざっと1年半で四書が身体化される。これが済めば、漢文はすらすら読めるようになるそうなので、とても効率的である。ちなみに英語を学ぶときに、不自由なく使いこなせるようになるには、8000時間かかると言われた。毎日8時間かけても1000日かかる。こちらの方が大変である。

江戸時代の子供たちが学んだのは儒学だが、松平定信の「寛政異学の禁(1790年)」にみられるように、南宋朱熹創始者とする朱子学が重きをなした。島田虔二さんはこれを、➀存在論(理気論)、②倫理学(性即理)、③方法論(居敬・窮理)、④古典注釈学(『四書集注』などの四書注釈)、⑤具体的な政策論の五つに区分している。この区分に沿って、この本での説明➀~③を引用する(一部変更)と次のようになる。

存在論:天の秩序(大自然の理法)を「理」もしくは「天理」の語で考える。そして天は、地とセットになって生命ある万物を生み出し、秩序正しく「流行」し動く。「理」は天の持つ法則性や秩序性を想定した概念で、正しく行くための道筋の意を込めて「道」ともいう。万物(この世の生物)は、生命力を帯びたある種の物質的な「気」によって生み出されて存在する。「気」には必ず「理」がついている。だから万物のいずれにも「理」がそのうちに宿る。ただ個別に宿る「理」は、一つ一つ多様である(それぞれの立場によって違いが生じる)。しかし全体としてみれば、自然界はバラバラではなく、秩序正しく整然と調和して存在している。これが「理一分殊」論である(天地万物を貫く法則は一つであるが、それを形成する一つ一つの「殊」(立場)は「分」である)。

倫理学:天の秩序は一般的なことについて述べたもので、これは人についても同じことが言える。人に内在する「理」は特に「性」(人の本性)といわれる。それが性善説のテーゼで、「性」は仁義礼智などの「徳」に具体化されるが、その徳は生まれながら全ての人に内在している。これが性善説の根拠である。自らの「性」を知り、それをもとに「徳」を養い、さらに「徳」を形象化した「礼」に従って生きていくことが求められる。

③方法論:核心的概念である「理」を認識する行為が、朱子学における「学問」にほかならない。その方法は二つあり、「格物窮理(かくぶつきゅうり)」と「持敬静坐(じけいせいざ)」(居敬(きょけい)ともいう)である。格物窮理は帰納的方法で、万物に内在する個別の「理」を一つ一つ解明していく方法である。その積み重ねの過程で、ある瞬間に全体の「理」に「豁全(かつぜん)として貫通する」。持敬静坐は主観的方法で、仏教の禅定の読み替えとも言えるもので、内面的な思索によって直接真理をつかみ取ろうとする。

著者は「知の作られ方」には、「伝える知」と「伝えるメディア」が不可分と考えている。江戸時代では、「伝える知」は儒学で、「伝えるメディア」は「教育社会」としている。教育社会とは、知や文化を次の世代に計画的に伝える組織を組み込んだ社会である。現在は、学校教育を通しての教育社会である。今日とは異なる江戸時代にこの役割を果たしたのは、日常のなかの手習塾(読み書きから始めて文書作成上の約束事である書礼までを学ぶ。上方では寺子屋と呼ばれた)、様々な学習塾(儒学、医学、算学、国学蘭学兵学など)、各地の多様な郷学、武士の学ぶ藩校、幕府学問所などである。これらの組織には、現在の学校のように、教科書を用いての定められた教科法はなく、それぞれの組織の指導者の独創性・独自性で成り立っていた。

この時代の儒学の学びは、➀「素読」から②「講義」③「会業」④「独看」へと進んだ。➀の素読は前に述べたように、声を出して読み、音として自然に口から出てくるようになるまで鍛錬することである。これにより四書五経は、これからの学習のための骨組みとなる。この本の言葉では「身体化される」。ここまでの学び方は、「型」にはまったものだが、ここからは学習者による独自性が段階的に要求される。②の講義は、現在の形態とは異なり、身体化した経書の「義」(意味)を、師匠が一定の注釈に基づいて解釈を授けた。師匠が一人一人の学生に差し向かいでおこなう「講授」と、大勢の学生を前にした「講釈」とがあった。③の会業は、同じレベルの学生たちがグループで行う共同学習で、会読と輪講があった。いずれも、輪番で当番が発表し質疑・討論を行う。会読では、テキストに史書(中国の歴史)・子(諸子百家)・集(詩文集)の類を用いた。また輪講では、経書を用い、朱子学の場合には四書集注も用い、異端と正統との弁別をしながら正しい解釈を、質疑・討論を通して探求した。④の独看は自習で、不審の部分を明らかにして質問・討論に進んだ。

手習塾で教えられた書流は「御家流」でほぼ統一されていた。そして御家流は、幕府・諸藩から民衆まで広まり、書式ばかりでなく書体の定式化も定まり、文字文化が成立した。これは商業出版の出現とも深くかかわっていた。17世紀初頭には京都に出版を業とする書肆(しょし)が現れ、さらに半世紀後と遅れて、大坂、江戸でも賑わいを見せるようになった。これによって、公家や知識人の間で細々と伝写されてきた本が、出版されるようになり、テキストとなって人々の前に現れ、メディア革命を迎えた。これが江戸時代の学びに大きな影響を及ぼしたと言える。

テキストの出版というメディア革命によって江戸時代の学びのスタイルは前の時代をは大きく変わったが、今日も同じような状況に置かれていると思う。コロナウイルスによって社会活動が制限される中で、通信技術の発達によって、オンライン授業・テレワークが可能になるとともに、膨大な量の知識・情報を携帯端末・コンピュータを通して収集できるようになってきている。またAI技術の発展に伴って、これまでには考えられなかったような人工的な<高等な知>を得られるようになってきた。将棋や囲碁では、AIの方がプロに優っている。翻訳でもDeepLを用いると、冒頭の文は、次のように訳してくれる。

冒頭の文章:「幕末から明治にかけての変革はすさまじいスピードで進行した。西洋の政治・経済・技術を取り入れてのものだが、全く異質の世界を、なぜかくも早く吸収できたのだろう。」
DeepLの訳:"From the end of the Tokugawa shogunate to the Meiji era (1868-1912), change proceeded at a tremendous pace. This was due to the introduction of Western politics, economics, and technology, but how was it possible to absorb such a completely different world so quickly? "

明治以来の教室で一律に教えるという学校教育は、黒船来航のときのように、今日のテクノロジーの進歩によって大きな変革を迫られている。個性に合わせての教育を可能にした新しいメディアを最大限に利用する時期が来ていると言える。江戸時代の教育方法も参考にしながら、デジタル社会での教育の在り方について叡智を集めて頂きたい。

最後に、素読という「型」から入る江戸の学び方が、多様な思考を生み出し、異質な西洋の知の習得を容易したことについての明解な説明は本を参照して欲しい。付録として、江戸時代の思想家がどのように学び、どの様な知を生み出したかを表にまとめたので、本を読むときの参考にしてください。



名前

山崎闇斎(1618-1682)

伊藤仁斎(1627-1705)

荻生徂徠(1666-1728)

分野

朱子学

朱子学古義学・人倫日用

朱子学古文辞学、「先王の道に学ぶ」→五経

学問感(道の解釈)

朱子学での道は、天地自然と人の心を一つの原理で貫く「理」である

人の関係性における「人倫日用の道」である

道とは「先王の道」。すなわち古代中国に実在した王たちが、世を平安にするためにつくった具体的な制作物「礼楽刑政」である。道は社会に秩序を与える文化や諸制度の総称

家庭環境

京都・父は鍼医の浪人

京都・父は裕福な商家

江戸:綱吉侍医→南総

幼少期の環境

禅仏教寺で侍童・僧

王朝文化につながる裕福な京都上層で育つ

7-8歳の頃は父が口述するその日の出来事を漢文で筆記、11-12歳の時は漢文の読み書きに不自由しなくなる

勉学手法

体認自得:朱子の思考を己の身に身体化

父について幼い時から素読(朱子学のテキスト家蔵)

『訳文筌蹄(せんてい)』(漢文を正しく読み、書くための辞典)で、「華音」で読んで、日本語の口語に置き換える(訳す)

方法論

居敬:ゆるぎない「心」の確立とその方法。考え方の似ている仏教排撃

スタートは居敬:学問によって順に己を道徳的に成長させていけば身に着けた徳によって世の中を治めることができる。
転向:同志会(サロン)を中心に、『論語』と『孟子』の内部に深く入り込み、繰り返し読み続け、体験的に理解する

初学者は訓読。自在に読めるようになったら、看読(書を看る→スキャナーのように文字を読み取る)。最後には、目で原典に直接向かうだけで、そのテキストを正確に理解できる

教授対象

藩幕領主・武士層(会津藩保科正之の賓師)

京都町衆

(31歳で柳沢吉保に禄仕。綱吉・吉宗の政策ブレーン)

教授方法

講釈話法(特定の論点に集中して語る)

対面的な学問交流、自著テキストの利用、出版無し

会読や輪講といった共同的な学習法

教育体制

闇斎塾:門人6000人

古義堂(論語空間(孔子とその門弟たちが構成した対話空間)に、自分たちの知的共同の場面を重ねる):門人3000人

蘐園塾(けんえんじゅく)。著作を積極的に出版

備考

 

朱子学禅宗系の「白骨観法」(あらゆる生命間隔が脱落し白骨に見えてくる)→これらは儒学的価値の対極→古義学(『論語』と『孟子』を「実理」に即して読み直す)

朱子学が、人が生きる道徳規範が基本の問いであったのに対し、徂徠は個を超えた社会全体から「道」を構想



名前

貝原益軒(1630-1714)

石田梅岩(1685-1744)

本居宣長(1730-1801)

平田篤胤(1776-1843)

分野

朱子学

朱子学+神儒仏老荘

朱子学国学(漢文の学問圏からの脱出)

朱子学国学

学問感(道の解釈)

民生日用:生活上の日用性→術(cf.人倫日用:人間同士の関係性→礼)

開悟体験(人の道→孝悌忠信)

儒学は屠龍の技と認識(←聖人の道(治国安民の道))。人情の価値(和歌詠歌)を追求

宣長もののあわれではなく、霊魂の行方(人は死後どうなるのか→神道の体系化と宗教化)

家庭環境

父は福岡藩祐筆役。五男

亀岡、父は中農。次男(相続すべき田畑無し)

松坂、父は木綿問屋(伊勢商人)

父は秋田佐竹藩大番組頭、四男

幼少期の環境

父が不遇のとき城内から出て、福岡市内や山間部の田舎で生活→庶民生活の正確な理解と関心。長崎,京坂,江戸へ遊学→多くの人と知のネットワーク(意見を異にした伊藤仁斎・東涯父子は含まれず)

11歳で京都に出て丁稚奉公したが、15歳で一時帰郷、23歳のときふたたび上京し、商家に奉公。幼年時代より理屈好きで求道的な性格をもち、人の人たる道を探求したいと願い、業務に励みながら独学で神儒仏の諸思想を研究

江戸で商人修行→挫折、商家に婿養子→離縁、商人には向いていなかった

詳細は不明だが恐らく薄幸であった

勉学手法

独力で必要な教養を習得。素読は14歳から(遅いスタート)

独学自習(訓句点つきの和刻本程度)→耳学問(学びのメディアは、「文字」以上に「声」)

23歳のとき医学修業のため上京。堀景山に儒学を学び,契沖に国学を学び,徂徠学に共鳴。

脱藩して江戸に出、備中松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子となり、独学によって国学者

方法論

格物窮理(人倫世界だけでなく自然世界も含めて学問をとらえた)

 

和歌詠歌を媒介に、王朝文化に連なる我が国の「古学」すなわち国学を再構成→『古事記』に注目

在来的秩序の解体(内憂外患←西洋諸国の圧力への危機、大飢饉・一揆)。記紀神話の神々と民衆の信仰とをつなぐ論理を提供(地方の名望家層には、みずからが天皇の政治世界につながる回路を開いた→尊王論者へ)

教授対象

(漢文)朱子学の初学者→(和文)読書する民衆

文字や書物では届かない民衆

松阪や京都などの和歌を嗜む都市町人という教養人

地方の庶民・地方名望家層。地方の神社の神官(白川家・吉田家)。

教授方法

出版による和文実用書

声の復権(講釈)、読者、静坐工夫、会輔、講釈→梅岩の対話(dia-logue)から、手島堵庵による心学道話(mass-logue,不特定多数に向けた通話形態)へ

声の復権(文字よりも声)→音声言語主義(メディアとしての和歌)→歌会(会衆の共感)

講釈。遠隔の門人たちは、同志的な仲間との読書会や学習会→テキストを作成して出版

教育体制

経学(儒学)・地誌・紀行・本草・啓蒙的教訓・字書・辞典類・礼奉書など膨大な著述(家や村の人々のための教訓、農耕・生産などのための平易な実用書)

石門心学の組織化(後継者は手島堵庵)

古学:文字で書かれた古文献をもとに形成され、文字(和文)を通じて表現され、著作として発信→知識人で「書斎の人」

口語体の講釈聞書本。門人数は500を超え、気吹舎は幕末には4000名に

備考

知識人の評価は低いが、読者一般には支持

声を重視したが、著書も2つ