bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』を読む

本の副題が「美しくも過激な量子論」となっているので、量子力学について一般向けに分かりやすく説明した本だろうと勝手に思い込んで読み始めたら、期待は見事に裏切られた。アインシュタインファインマンも理解できないと言った「不思議なことが起きる量子力学の世界」を、斬新な思考方法でどの様にして考察したらよいのかを語った本であった。「思索の方法」、あるいは「哲学」といったほうが適切な内容で、著者の考え方を理解するまでに(まだ不完全とは思うが)、随分と時間を費やした。

本の主題は「世界は関係でできている」となっている。内容もこの通りで、量子力学の世界、そして物理学の世界、さらには情報の世界を「関係(コト)」で考えてみようというものである。これまでの我々の思考方法は、モノ(対象物)が中心であった。ニュートン力学でのリンゴの落下、アインシュタイン相対性理論での時空間をゆがませる質量、そして量子力学シュレディンガー方程式での電子や光子などの状態に見られるように、モノを中心として考えてきた。

モノを中心にした考え方は、ニュートン力学相対性理論では破綻をきたさなかったが、量子力学ではこの考え方に立つと不思議な現象がいくつも生じる。アインシュタインが、「時間は一定でない」と想定して相対性理論を生み出したように、量子力学でも視点を変えることが必要だと訴える(時間は一定でない:感じることはできないが地面に近いほど時計はゆっくり進む)。

著者のカルロ・ロヴェッリは、相対性理論量子力学を統一するために、ループ量子重量理論を主導するイタリアの理論物理学者であり、彼の理論のベースとなっているのは「関係」である。ところでモノとは何だろう。先ほど出てきたリンゴを考えてみよう。高いところから落とすと、それは粉々に壊れてしまうかもしれない。落ちる前の一つの塊としてのリンゴと、粉々になったリンゴは、同じリンゴと言えるのだろうか。リンゴは状況によっていろいろに見える。何をもってリンゴと言えるのだろう。

いきなり仏教の話を持ち出して戸惑うかもしれないが、カルロ・ロヴェッリも同じように使っているので許してもらう。彼曰く、モノは全て「空」、すなわち「色即是空」である。そう、リンゴは一つのものにも見えるし、見方を変えれば別にも見えるし、定められないようにも思うことさえある。マクロの世界では、モノで考えても問題が生じないが、非常にミクロな世界をモノで考えると、「色即是空」となり、いきつくところモノは空となると、カルロ・ロヴェッリは認めている。そこでモノで考えることはやめようとなる。そしてモノとモノが相互に作用したときだけの「関係(コト)」で考えようというのが、著者の主張である。

モノを中心として考えたときは、観測者はモノを外から観察している。それに対して、モノとモノのコトで見るときは、観察者もその中に入る。すなわち、モノと観察者の間でも作用が生じ、コトが発生すると見る。ともに実在論ではあるが、観察者が外側にいるのか内側にいるのかの違いがあり、後者はとくに自然主義と呼ばれている。

それでは本に沿って説明しよう。

この本の原書はイタリア語で書かれているが、英語訳のタイトルは”Helgoland: Making Sense of the Quantum Revolution”である。ヘルゴラント島(聖なる島)は、量子力学の聖地である。弱冠23歳のハイゼンベルクがアレルギーの症状(花粉症?)を和らげるために訪れていたときに、この地で新たな理論を打ち出した。この当時、ボーアの原子模型から電子は決められた軌道を巡り、電子は光を放出・吸収することで軌道を飛躍するということが分かっていた。しかしそれを説明する理論は見出されていなかった。ボーアは、研究を推進するために、コペンハーゲンの彼の研究室にハイゼンベルクを招いた。ハイゼンベルクは様々なことを試みたが上手くいかず、療養に(息抜きに?)ヘルゴラント島を訪れた。

ハイゼンベルクは、これまでの物理学の考え方にとらわれることなく、「観測可能」なものだけを取り出してみようと考えた。そして飛び出す軌道を行とし、飛び込む軌道を列とした数の表(行列)を作成し、各要素に電子の位置(座標)や運動量の値を書き込んだ。この表を用いて、ボーアの規則を裏付ける結果を得ようとした。

解決の糸口を得たハイゼンベルクはヘルゴランド島を発ち、ゲッチンゲン大学に戻って友人のパウリと研究室を主宰しているマックス・ボルン教授に結果を送った。ボルンは、この論文を学会誌に投稿してくれた。さらにその内容をはっきりさせるために、ハイゼンベルクはボルンとそして研究室の学生だったヨルダンと研究をつづけた。

その結果、これまでの古典物理学と変わりはなく、これまでの変数が行列で置き換えられているだけであると分かった。すなわち、電子の位置が一つの変数\(x\)ではなく、行列\(X\)によって取りうるすべての位置が示されていた。なお行列は新しい概念で、その扱いは3人には余るほどに難しかったので、その計算を切れ者で尊大なパウリに頼った。ボルン、ハイゼンベルク、パウリはのちにノーベル物理学賞を受賞するが、ナチス・ドイツへの忠誠心があまりにも露骨だったヨルダンは逃がした。

ハイゼンベルクの行列から位置\(X\)と運動量\(P\)の間に\(XP-PX=iħ\)が成り立つことが分かるが、この説明は後にして、量子力学のもう一人の偉大な貢献者に登場してもらおう。

その人はシュレディンガーである。彼もまたその成果を研究室で得てはいない。それは秘密の恋人とスイスのアルプスで甘い休暇を楽しんでいるときだった。そのとき彼はド・ブロイの論文を携えてアルプスに逗留した。ド・ブロイは電子のような粒子は小さな波と見なすことができると示唆していた。そこでシュレディンガー素粒子の軌道も波と見なして、原子の中にある電子が満たすべき方程式を探求し突き止めた。

ハイゼンベルクの理論と比べたとき、波という見方はとても単純で受け入れられやすかった。シュレディンガーの方程式は波動関数と呼ばれ\(Ψ\)で表される。そしてのちに波動関数ハイゼンベルクの理論と数学的に事実上同じであることが示され、どちらも電子が存在している確率を表していることが明らかになった(正確を期すれば、\(Ψ^2\)が確率である)。

波という見立てで導入された波動関数\(Ψ\)は、連続という性質を有している。これに対してハイゼンベルクの理論では、電子の軌道がとびとびになっていて、その軌道は粒(本ではばらけた包みと記載されている)のようにいくつかの決まったエネルギーを持つようにしか見えなかった。これに対してシュレディンガーは「電子は蚤のように跳躍するのか」と皮肉ったが、軍配は次に示す事実によりハイゼンベルクに上がった。すなわち、オットー・シュテルンが考案しヴェルター・ゲルラッハとともに行った実験で、原子の角運動量が連続的ではなく、離散的な値だけをとることが示された。

ここまでに出てきた原子、電子、素粒子、そして光子などのようにとても小さな物質は、量子と呼ばれる。量子に対するハイゼンベルクの着想は、観測、確率、粒状性といえる。すなわち粒状の量子は、観測したときに、与えられた確率で見つけ出されるとなる。

粒状性という言葉が出てきたので、前に提示した\(XP-PX=iħ\)という式を少しだけ検討してみよう。\(X\)は位置、\(P\)は運動量である。運動量は質量と速度の積なので、この式は位置と速度の積と考えてもよい。古典力学では、積は計算の順序に依らないので、\(XP-PX\)は0になる。しかしハイゼンベルクの式はそうはならない。位置を測った後で速度を測ったものと、速度を測った後で位置を測ったものでは異なると言っている。この疑問には、もう少し後で答えることにしよう。

それでは物理現象を物という視点から見たときに、とても奇妙な現象が起きることを示そう。量子力学には「重ね合わせ」という現象が知られている。先に粒子は粒状のものと見たが、それにもかかわらず二つの波が重なった時に生じる干渉を、量子の世界で見ることができる。この本では、アントン・ツァイリンガーの実験が紹介されている。実際に、著者は彼の実験室でこの実験を見たそうである。実験に使われていた光学装置は、レーザー装置やレンズ、分光するためのプラズマ、光子の検知器などからなっていて、次のような現象を見せてくれた。

わずかな数の光子からなる弱いレーザー光線が二つに分かれ、各々の経路をたどる。それらを「左」と「右」と呼ぶことにする。「左」と「右」の経路は、再び一緒になって合流する。このあとさらに二つに分かれて、二つの検知器に到達する。これらを「上」と「下」と呼ぶこととする。➀「左」と「右」の経路のいずれかをふさぐと、「上」と「下」の両方の検知器で光子は半分ずつ発見される。しかし、②経路をふさがないと、下の検知器でしか光子は発見されない。光子が波ならともかく、粒状であるとすると、何とも理解しがたい現象である。

見方を変えれば、上記の不可思議な現象はそうでなくなると著者は指摘し、二点を挙げている。一番目は、光子というモノを中心に考えたことに問題があるという。この実験では、光子と観察者というモノ同士の関係で捉えることができるので、視点をモノから「関係」に変える。二番目は、古典力学に加えられたハイゼンベルクの式を活用する。

そこで再び\(XP-PX=iħ\)に登場してもらおう。この式から\(ΔXΔP≥ħ/2\)が導き出される。この式は、位置\(X\)の値を正確にしようとすればするほど、速度(運動量) \(P\)の値はどんどん不明確になると言っている。これは一般にハイゼンベルク不確定性原理と呼ばれている。

「関係」という視線に立ち、さらに不確定性原理を用いると先の実験は次のように説明できる。➀の実験では、一番目の経路(左か右)を決めているので、二番目の経路(上か下)は不確定になる。従って、両方の検知器で光子を発見できる。②の実験では、一番目の経路を不確定にしているので、二番目の経路を決めることができる。実験装置ではそうなるように検知器が置かれていたので、下の検知器のみで検出された。

そして量子力学の中で不思議な現象と見なされているシュレディンガーの猫も同じように説明できると著者は言っている。シュレディンガーの猫では、箱の中に閉じ込められた猫の状態を、外部の観察者が観察する。箱には睡眠薬の投入口があり、投入口が開いているとき猫は眠った状態に、閉じているとき起きている状態にある。ここでは、睡眠薬をツァイリンガーの実験での光子と同様に量子と見なしている。

箱の外にいる観察者は、猫が起きている状態と眠っている状態の二つの状態を「重ね合わせ」として観察する。そして箱の中を覗くと、どちらかの状態しか観察できない。これがシュレディンガーの猫と呼ばれる現象だが、ここでは観察者からの視点でとらえているため、不可思議な現象となる。

しかし著者の立場では、猫と睡眠薬投入口、観察者と箱の関係で論じることになる。➀猫と睡眠薬投入口の関係(コト)では、睡眠薬が投入されているときは、猫は眠っているが、そうでないときは起きている(ツァイリンガーの実験での➀)。②観察者と箱の関係(コト)では、猫は眠っているか起きているかの重ね合わせの状態にある(ツァイリンガーの実験での②)。このため、➀の事実と②の事実は異なるが、量子力学の世界では、あるモノにとっては現実だが、他のモノにとっては現実ではない。すなわち相対的であると著者は述べている。

世界が相対的というのは、絶対的な神は存在しないと言っていることに等しいので、一神教を信じる人々にとっては受け入れにくいだろう。しかし諸行無常の世界と考えている人にとっては、当たり前のように思える。

関係という立場に立って、ハイゼンベルクの式を解釈してみよう。それぞれのモノには、位置や速度や運動量や、馴染みのあるところでは温度というような物理量がある。\(XP-PX=iħ\)の式からは、物理量は連続的ではなく、離散的であることが分かる。一つの物理量の選択肢が多ければ多いほど(一つの物理量がたくさんの値をとれればとれるほど)、それはより乱雑な状態といえる(例えば太陽の温度は地球と比べるととても乱雑である)。これは情報という言葉で置き換えることができ、乱雑であるモノは情報量が多いとも言える。

情報という言葉を用いると、\(XP-PX\)の式が0でないことから、すなわち離散的であることから、⑴ある対象物(モノ)に関連する情報の最大量は有限である。⑵いかなる対象物(モノ)に対しても、常に新たに関連する情報を得ることができる。⑵は、関連する情報は、対象物の将来の振舞いを予測するうえで価値のある情報で、これが手に入ると古い情報の一部は関連がなくなるといっている。

情報には面白い性質があり、二つのモノが相互に作用しあうとき、その情報量は減少する。例えば、今二つの硬貨があったとしよう。二つの硬貨が独立(相互作用していない)とすると、取りうる状態は4である。情報量を4と考えてよい。ところが、二つの硬貨の片方の表と他方の裏を張り合わせたとすると、取りうる状態は2となる。

量子力学の世界には、シュレディンガーの猫の他にも不思議な世界がある。量子もつれ(エンタングルメント)である。量子の世界では、それぞれの粒子の状態が重なり合うだけでなく、複数の粒子がセットで状態の重なりを作ることがあり、量子テレポーテーションなどとして知られている。比喩を用いて説明すると、誕生してすぐに離れ離れになった双子が、相手のことを知らないのにもかかわらず、服装が同じだったり、趣味が一緒だったりと、同じように振る舞うことが知られている。量子力学の世界では、対になっていた原子が遠く離された時でも、片方の状態を見ると、他方の状態が分かるという状況を量子もつれと言う。

著者はこれについても相互作用で説明している。本では蝶を引き合いに出しているが、双子を例にとれば、双子Aを観察している観察者Aでの系Aと、双子Bを観察している観察者Bでの系Bと、観察者AとBが話し合っている系Cとが存在し、これらは相対化して考えなければならない。もし観察者Dがいて、双子AとBを同時に観察しているのであれば、二人の行動は同じであると判断できる。しかしそうでなく別々の人が観察しているときは、同時に観察しているとは言えないので、同じであるという議論は成り立たないと著者は言っている。観察者同士で話し合うと、相手の意見に引きづられることはよくあるとも説明している。

ここまで、モノから関係(コト)への視点の変更について量子力学を中心に説明してきたが、この本では、「ボグダーノフとレーニン」に見られるように、政治・哲学・宗教などの多方面でのモノからコトへの視点の変更について説明していてる。考え方の違いが及ぼす影響を幅ひろい分野にわたって紹介してくれ、楽しい本である。

一神教そして絶対的な真理を中心に据えた西洋の考え方と、多神教そして諸行無常を大事にする東洋の考え方が、物理学の世界でも競い合っていることを知り、多様な見方の重要性を理解させてくれる。哲学者のマルクス・ガブリエルも東洋的な考え方を組み込んでいることと合わせると、東洋と西洋の考え方を知ることにより、様々な面でこれまでになかったような理解が進むのではと期待が持てる。

ここまでエントロピーについて触れなかった。熱力学の第二法則では、「エントロピーは増大する」ととても重要なことを言っている。カルロ・ロヴェッリは『時間は存在しない』という本も書いている。古典力学アインシュタイン相対性理論量子力学では、時間は不可逆ではない。時間を逆回しにしても問題は起きない。ところが、ボールを落下させたとすると、弾む高さはだんだんと低くなり、最後には地面にくっついてしまう。このとき、時間を逆向きにすると、世の中では起こりえないことが生じるので、人は異様な現象だと思う。これはボールが地面に衝突するときに熱を発し、ボールのエントロピーが高くなるためである。エントロピーという物理的な変数は方向を与える。すなわち、エントロピーが増大する方向にしか世の中は変化しない。著者は、エントロピーが増大する世界との相互作用を通じて、我々は時間を感じているのだろうと説明している。エントロピーが増大しない世界に住んでいたら、物事はどのようになるのだろうか。宇宙の起源・消滅ともからんで大きな問題である。

情報科学の世界でもモノで見るのかコトで見るのかは大きな争点である。オブジェクト指向がもてはやされた時期があり、その成果はJavaというプログラミング言語に結実した。一方でバグの元となる副作用から逃れたいということで、関数型言語が現れてHaskellというプログラミング言語が生み出された。前者はモノ、後者はコトに視点を置いている。どちらを推奨するかは人それぞれだが、数学の圏論をベースとしているために論理的な瑕疵が生じにくいHaskellの方が、私は好きだ。奇しくもカルロ・ロヴェッリに与していたようで、親しみをもちながらこの本を読むことができた。

カルロ・ロヴェッリはたくさんの本を書いているが、さらに進んでもう少し物理的な内容を詳しく知りたい方には、彼の『すごい物理学講義』がお薦めである。