bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早島大祐ほか『首都京都と室町幕府』を読む

一般に、歴史の本は出来事を辿りながら説明している場合が多い。室町時代であれば、観応の擾乱(1350-52)、享徳の乱(1455-83)、応仁の乱(1467-77)など、幕府を二分しての戦いを中心に描こうとするだろう。しかし出来事だけを追っていると、大きな流れを見逃してしまうことになりかねない。最近、室町時代への関心が高まり、従来にない研究成果が表れている。その一端を示してくれたのが、早島大祐さん他の『首都京都と室町幕府』である。この本は、財政に着目しながら15世紀室町時代を説き起こしている。

古代から近世までの財政の移り変わりについては、高橋正憲著『経済成長の日本史』に詳しく書かれている。その中から中世を抜き出すと次のようになる。

推移
農業生産量 人口 1人当たり農業生産量
(1000石) (100万人) (石/人)
730
6,329
6.10
1.04
950
7,990
5.00
1.60
1150
9,035
5.90
1.53
1280
8,298
5.95
1.39
1450
14,016
10.05
1.39
1600
25,879
17.00
1.52
成長率
期間 農業生産量 人口 1人当たり農業生産量
730-950
0.11
-0.09
0.20
950-1150
0.06
0.08
-0.02
1150-1280
-0.07
0.01
-0.07
1280-1450
0.31
0.31
0.00
1450-1600
0.41
0.35
0.06

高橋さんは、山田邦明さんの『戦国の活力』を引用し、「それ(戦国期)までの日本社会は、京都や鎌倉などの都市部の荘園領主が列島各地の所領を支配し、そこから年貢などを集めるという散財的なネットワークの上に成立していたのが、戦国期になるとそうした支配体制は崩壊し、列島の各地の戦国大名が領国内の土地と人を支配するようになった」と中世の時代を特徴づけている。上の表を見ると、室町時代(1336-1573)には人口が増加し、その後半(戦国期)には農業の生産量も上昇していることが分かる。乱が続いた室町時代には、人口も生産力も落ちたのではないかと想像しがちだが、統計データはこれとは反対である。

気候の温暖化は今日では地球規模の大きな課題であるが、中世も気候変動に見舞われていた。この時期は、地質学では小氷期と呼ばれる時期にあたり、14世紀後半から19世紀半ばまで寒冷な期間の中にあった(地球のどこかに1年中氷床があるときを氷河期と言い、その中でも寒い時期を氷期、そうでない時期を間氷期という。11,700年前から現在まで間氷期である)。下図はIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)が2022年に発表した気候変動に関する報告書からの図である。これから、14世紀半ごろから寒冷化が始まり、さらにクワエ火山の噴火(1452-53)で急激な寒冷に見舞われ、その影響が薄れたあとも寒冷な時期が続いたことが分かる。この噴火の影響を受けて、日本では長禄・寛政(1459-61)の飢饉が生じた(享徳の乱応仁の乱もこの時期)。


氷期の時代に、ヨーロッパでは中世から近代へと時代が大きく変わるが、日本でも中世から、近世・近代へと時代は移っていく。寒冷化を克服するために、人々は、政治・経済・社会・文化・技術の面で様々な工夫をしたのであろう。

それではこの本のさわりの部分だけ紹介しよう。15世紀室町時代の財政論で始まる。これによれば、他を圧する都市「京都」に大きく依存した財政構造が変化し、それが政治・経済・社会・宗教に影響及ぼしたというのがこの本でのテーマ主題である。財政の変化は次のように説明されている。

室町幕府開創期には、足利家所有の荘園(家産)と、守護たちへの課税である守護役(主従制原理による家臣からの上納金)とが、収入の核をなしていた。このころの出費は、軍事と寺社の運営と再建であった。天龍寺、熊野速玉社、相国寺の造営は、幕府や守護からの負担で賄ったが、寺社の再建については、所領を安堵することで自助努力に任せた。

3代将軍の義満の頃になると、明徳4年(1393)に土倉酒屋役が設けられた。しかし延暦寺が足利家に恭順を示すためのもので、額としてはそれほど大きくはなかった。それよりも日明貿易による収益が莫大な額に上った。義満が晩年の頃は一種のバブルのような状況をきたしていた。

4代将軍の義持の時代になると、土倉酒屋役と守護役からの収入が主となり、都市依存型の財政となる。日明貿易は廃止されたが、6代将軍の義教のときに再開した。しかし往時の勢いはなかった。もし義持のときに継続していたとしても、それほどの収入は期待できなかっただろうと著者は見ている。また義政の正室である日野栄子が投資・浪費をしたことが注目されるが、これについては後で説明する。

この時点で、領主階級は都市生活者である。さらに本来は領地と密接な関係がある守護、守護代、荘園荘官(土倉)たちも、現地支配・経営を別の人間たちに任せ、都市生活者の性格を強めた。これによって次の三つの現象が生じた。

➀現場担当者の裁量権が拡大した。これは後々の下剋上につながる。②守護による荘園の侵略化が正当化された。守護役は、守護からその領地さらには荘園住人へと転化され、15世紀には日常化した。このため代官に依存していた荘園は、守護からの圧力に抗しきれず、有事の兵粮米名目で納めていたものが、平時でも行われるようになった。その結果、守護は荘園を領国化した。③所領経営と農業生産とが乖離した。所領経営がマネーゲーム化し、女性が新たにゲームに参入した。この時代になると、女性の荘園所有に変化がみられ、慣行として相続しないようになった。しかし土倉酒屋役から上がる将軍家の私的財産を、日野栄子のような特権的な女性が運用して利益を挙げるようになった。

嘉吉元年(1441)には徳政令があり(将軍は義教)、土倉(金融業)は経営悪化した。それにもかかわらず家産の運用で腕を上げた女房達は経営手腕をばねに、日野富子(8代将軍義政の正室)にみられるように、資産運用を続け、彼女たちの奢侈は維持された。

15世紀初頭には徳政一揆が頻発し、先に述べたように金融業を直撃した。政所執事伊勢貞親(将軍は義政)は、家政運用で得た知恵を活用して、幕府財政を再建した。このとき、➀免税特権廃止:天皇家の駕輿丁にも課税、最終的には全商人にも、②地口銭:間口に応じた住民税、③段銭:田地にも税を課した。これは商業都市に対する課税強化であった。さらには所有する美術品コレクションを売却して、財政をやりくりする。桜井さんはこれを贈与依存型財政と名付けている。

応仁の乱によって守護在京制は崩壊する。そして16世紀になると京都の市場規模が縮小し、都市から地方へとシフトし、土地への課税に戻る。以上が15世紀の室町時代の財政である。これをもとに守護在京制度、禅宗寺院との関係・宗教儀礼皇位・皇統、北山・室町文化を新たな切り口で説明してくれる。特に酒の話は面白いので読んでください。

鎌倉時代から江戸時代へと移っていくはざまにあった室町時代は、京都という他を圧する都市からの収入に依存しようとしたが、それを維持することはできなかった。都市依存型の収入で財政を賄えるようになるのは、開国後の近代まで待つことになる。それでは室町幕府ではなぜ達成できなかったのかという疑問が湧いてくるが、これについてはいずれまたの機会に触れたいと思う。