bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

武相寅歳薬師如来霊場(3):大蔵寺・無量寺・東漸寺を訪ねる

昨日(16日)は横浜線に沿って南に下り、三つの寺を参拝した。前日までの冬を思わせるような肌寒い雨の日が続いたあとの、少しだけ良い方に向かっていた午後に出かけた。現在の中原街道(県道45線)、かつて鎌倉往還を下って(江戸に向かって)の寺巡りである。
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最初に訪れたのは、中山駅近くの大蔵寺で、鎌倉期(1200年頃)に開創された。この辺りは、鶴見川と恩田川を望む景勝の地で、軍事的にも要衝の地であった。開山は不明、開基は鎌倉浪人の兵衛尉相原左近(源頼朝の家臣で、中山村の相原家一族の祖)である。400年後の大火で堂塔・伽藍を焼失、今日では土中から当時の屋根瓦破片や敷石が発見されるのみである。焼失の10年後に120m程度離れた現在の地に再興された。

大蔵寺の参道。住宅が参道を埋め尽くしていた。奥の方にわずかに寺らしき建物が見える。
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本堂(1970年に落慶)。中央に守本尊の薬師如来(木造)が飾られていた。
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境内はとても賑やか。中国天童山の典座和尚と若き日の道元(曹洞宗の開祖)の像、
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大慈悲観世音菩薩像(和田光太郎作)、
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可愛らしい掃除小僧、
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次は、朝光寺の住職さんが薦めてくれた佐江戸の地にある無量寺。開山の時期は明らかではないが、鎌倉時代中期には無量寿福寺(尼寺)という寺が存在していたことが資料から知られている。裏手の台地には佐江戸城の跡があり、北条氏小机衆の猿渡氏により築城されたと伝えられている。

寺の入り口近くは、八重の桜が満開だった。
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本堂、
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最近建てられた堂に、とてもモダンな薬師如来が祀られていた。
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最後は、ここから近い場所にある東漸寺。奈良時代天平13年(741)に、行基(東大寺の仏像建立)がこの地に草庵を結び、文殊菩薩を造顕奉安したことが開基とされている。現在の本堂は昭和40年代に建立された木造建築、この中に入りとても近いところで薬師如来を拝観した。小ぶりだが、金色に輝く像で、左右に日光・月光の菩薩も祀られており、荘厳であった。
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文殊堂には、文殊菩薩が祀られている。
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帰りは鶴見川に沿って鴨居駅に向かった。何とボートで川を下っている人がいた。
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川縁にはサクラソウもきれいに咲いていた。
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現在はららぽーと横浜になっているが、若いころに勤めていた会社の工場がここにあり、ここへ出張するときは中原街道を利用した。当時のこの街道には、のどかな田園風景が広がり、北側に小高い丘、南側に田んぼや畑があり、小さな集落が街道に沿って散在していた。出張のたびごとに、江戸時代にタイムスリップしたかのようなこの風景を楽しんでいたが、今は寺の周りに残すだけとなって寂しい気がした。当時は横浜線も単線運転で、複線化が始まったのは昭和42年(1967)、その完了は昭和63年(1988)である。今日の横浜線周辺のにぎわいは、かつてのイメージからは隔世の感があり、時の移ろいを感じさせてくれた一日であった。