bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

日向薬師・宝城坊で初詣

今年の初詣に選んだところは、神奈川県伊勢原市にある日向薬師。神奈川県立歴史博物館には薬師如来像と両脇持像が飾られていて、その実物がこの寺院にある。薬師如来像は平安時代後期の作とされ、鉈彫という手法で作られた。ノミ跡が残る荒々しい削りで、クッキリとした立体感を与えてくれる。着衣部が光線の具合によって浮き上がったり、沈んだりする。中国地方から東国にかけてのこの時代の作風である。

日向薬師は通称で、正式には宝城坊である。かつては日向山霊山寺と呼ばれ、12坊を有する大寺院であった。明治時代の廃仏毀釈によって多くの堂舎が失われ、別当坊(最高位の僧が住む坊)が寺籍を継いでいる。吾妻鏡には、源頼朝北条政子が安産祈願のために読経させた寺であり、頼朝が大姫の病気平癒祈願のために参詣したと記されている。

寺伝によれば開祖は奈良時代行基である。吾妻鏡にも行基によるとなっているので、鎌倉時代には行基草創伝説が確立していたようである。実際の創建は10世紀頃とされる。銅鐘の銘には天歴6年(952)に村上天皇より賜ったと記されている。日向薬師が文献上で初めて出て来るのは平安時代で、歌人で大江公資(きみより)の妻である相模が「さして来て日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやも」と読んでいる。公資が相模の守であったのは寛仁4年(1020)から万寿元年(1024)なのでこの間に読まれたとされている。この歌から平安時代後期には日向薬師霊場となっていたことも分かる。

この寺院には国の重要文化財(国重文)がたくさんある。本尊の薬師三尊もそうで、正月三が日には本尊が納められている厨子が開扉される。拝観したかったのだが、人込みが大嫌いなので、そろそろ落ち着いただろうと思われる5日に訪れた。新東名の伊勢原大山ICからは車で10分程度の所で、近くには大山阿夫利神社がある。また小田急線の伊勢原駅からは日向薬師行のバスも出ている。車の場合には、行き交いに困るくらいの細い薬師林道を登った先の境内入り口駐車場に停めればすぐに境内である。バスの場合には、境内までの坂道が続く参道を通って徒歩で15分ぐらいである。

バス停のあたりから日向薬師までは次のようになっている。

参道には途中に仁王門がある。

江戸時代末に造像された市重文の木造金剛力士像。


仁王門を参道の中側から見たところ。

きつい坂道の参道。途中に先ほど述べた相模の歌碑があった。



国重文の宝城坊本堂(薬師堂)。数度にわたり改修されたが、現存の本堂は万治3年(1660)に、丹沢の立木とその前の本堂の古材を使って修造された。平成22年からは7年間かけて大修理が行われた。この修理によって、延亨2年(1745)には外陣の床を土間にする大改修が行われたことが、また部材には万治の頃のほかに鎌倉後期と前期のものが使われていたことが分かった。修理にかかった費用は約8億7千万円である。本堂には、県重文の平安時代作の薬師如来坐像平安時代作で江戸時代に修理された十二神将立像、市重文の木造賓頭盧尊者坐像(撫で仏)など、たくさんの仏像が祀られていた。


鐘堂と銅鐘。前述した銅鐘だが、村上天皇から賜ったのち、傷んだので仁平3年(1153)に改鋳、さらに暦王3年(1340)に改鋳して今に残っているとされている。銅鐘は国重文、鐘堂は市重文。

幹が空洞になった霊樹に祀られている虚空蔵菩薩像。

空海像、

駐車場から境内へ抜ける道には両側に旗が並んでいた。

宝仏殿では、国重文の薬師如来坐像阿弥陀如来坐像、日光菩薩立像、月光菩薩立像、四天王立像、十二神将立像、いずれも鎌倉時代の作を、拝観した。さらに本尊を納めている室町時代作の厨子も国重文である。

静かにそして厳かに初詣し、良い年の初めを迎えることができて喜んでいる。