bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

四国・中国旅行ー松山城・道後温泉

浄土寺石手寺を参拝し、それぞれから御朱印もいただいた。午前中にはもう少しいくつかの寺をまわる予定でいたが、後半の見学が窮屈になるということで寺巡りを切り上げ、ミシュラン2つ星の評価を受けている松山城へと向かった。ここには国の重要文化財がひしめいている。松山市の中心街にあり、交通が便利なところで、多くの人々から親しまれている城である。その沿革は次のようである。

標高132mの勝山山頂に本丸があり、西山麓に二之丸や三之丸が設けられている。本丸と曲輪(二之丸と三之丸)を連なるように並べた連郭式の平山城である。本丸の中枢である本壇には、天守・小天守・櫓を四方に配置して渡櫓でつないだ連立式天守がそびえている。広大な城構えである。

創設者は、賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名な加藤嘉明である。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでの成功を認められ20万石の大名となった嘉明は、居城を正木城(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に移し、この地を「松山」と命名した。

着工から25年たった寛永4年(1627)に、松山城の完成を目前にして嘉明は会津へ転封となる。代わって入封したのは蒲生氏郷の孫・蒲生忠知(がもうただとも)である。二之丸を完成させたが、同11年8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子なく断絶した。

寛永12年(1635)7月、伊勢桑名城主・松平定行が伊予松山15万石に封じられた。定行は寛永16年から3年をかけて本壇を改築し三重の連立式天守を築造した。

天明4年(1784)、9代定国のとき天守が落雷で焼失した。すぐに復興許可は下りたものの、財政難などにより工事は難航し、12代勝善の嘉永5年(1852)にようやく竣工し、安政元年(1854)に落成式典が盛大に行われた。現在の天守はこのときのもので、幕末に造られたにもかかわらず創建時の桃山文化様式が見事に再現されている。 

明治維新後は、公園として整備・活用された。昭和に入って放火や戦災により櫓など一部が焼失したが、昭和41年(1966)から全国にも例を見ない総木造による再建が進められ、現在は重要文化財21棟を含む51棟が建ち並び、往時の姿を取り戻している。

それでは見学を始めよう。松山城へはいくつかの登り口があるが、我々は労を惜しんでロープウェイを利用した。お客さんの多くは外国からの観光客。みんな旅行ができることを待ちわびていたのだろう。特に物価が安い日本は、格好の観光地になっているようだ。晴れた日にはロープウェイからの眺望もよいのだろうが、小雨の中ではひたすら到着するのを待つしかなかった。
やがて到着してロープウェイから降り、小降りの雨の中、松山城を目指した。

戸無門(重要文化財)

隠門(重要文化財)

右側の建物は隠門続櫓(重要文化財)

太鼓門

文丸より見た天守(重要文化財)



一ノ門(重要文化財)

二ノ門(重要文化財)

三ノ門(重要文化財)

筋鉄門(重要文化財)

天守入口。右側の門は、中側より見た筋鉄門。

天守より外側を見る。あいにくの雨のため、天守から松山市内の眺望を楽しむことはできなかった。


ロープウェイから降り、建物の外に出たところには、坊ちゃんとマドンナの像があった。夏目漱石の小説「坊っちやん」の舞台となった松山市を宣伝するために、民間団体から寄贈されたそうだ。

この後、安藤忠雄さんが設計した「坂の上の雲ミュージアム」で、司馬遼太郎さんが書かれた『坂の上の雲』に関連する資料を閲覧した。同じ敷地内には、萬翠荘があった。この建物は、大正11年(1922)旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が、別邸として建設した。陸軍駐在武官として長くフランスに滞在し、その好みで純フランス風に設計された建物は、当時、最高の社交の場として各界の名士が集まるところとして利用された。

お昼は、「宇和島鯛めし」を食べた。鯛めしにしようと言われたので、米と鯛を一緒に炊き込んだものと想像したが、宇和島の鯛めしは、新鮮な鯛の刺身にタレをかけて、食べるものであった。

この後、万葉集にも登場し、『坊ちゃん』にも登場する道後温泉に戻った。道後温泉本館は修理中。

伊予鉄道後温泉駅明治44年(1911)に建築の旧駅舎が明治洋風建築そのままの外観で復元されている。

復元された坊ちゃん列車。

現在の路面電車

からくり時計。

今日で四国旅行を終える二人を松山空港まで送った後、大街道商店街の中で夕食をとり、市内に宿泊した。
この日の行程。