bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

江ノ電沿線巡り

4月の中頃に歴史を楽しんでいる仲間と、江ノ電沿線巡りをした。外国人の姿は多く見かけたが、まだ連休前ということもあり、日本人の観光客はそれほどではなかった。最近は、江ノ電は大変人気のある路線で、地元の人たちの利用もままならないほど、観光客で混んでいるようである。いい時期に行って良かったと感じている。

この散策は、藤沢駅で集まり、極楽寺まで行って、江の島の方に戻ってくるルートである。訪れた主な場所は、社会的弱者の救済で知られる忍性ゆかりの極楽寺新田義貞の幕府討伐で有名な稲村ケ崎、鎌倉入りを許されない義経が頼朝への書状を書いたとされる満福寺、日蓮上人法難の地に建てられた龍口寺などである。

それでは沿線巡りに出発してみよう。極楽寺駅で降りて、左手の坂を上り詰めるとT字路になる。右側に行くと成就院を過ぎ、極楽寺切通しに至る。有料の湘南道路が開通する昭和30年ごろより前は、江の島方面から鎌倉に行くためには、極楽寺切通しを通るしか道はなかった。ここは元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めを行った時の激戦地である。T字路左側に行くと極楽寺である。ここでまず目につくのは、江ノ電極楽寺のトンネルである。これは全長が200m、日露戦争が終了し、恐慌が始まった明治40年(1907)に竣工した。

T字路を左に曲がった後、極楽寺には向かわずにまっすぐ進んで、熊野新宮に向かう。ここは極楽寺の鎮守で、文永6年(1269)に忍性が信仰していた熊野本宮から勧請した。

境内には千服茶臼があり、これは忍性が悲田院癩病所を設けたときに使われたとされている。

戻って、極楽寺の山門(文久3年(1863)に建立)。

極楽寺は、創建が正元元年(1259)で、奈良・西大寺叡尊が中興の祖、空海が高祖で、開山は良観房忍性である。忍性は、福祉と土木事業で貧民・庶民の救済にあたったことで有名である。開基は、北条重時で、彼は鎌倉幕府二代執権・義時の三男で、三代執権泰時の弟である。六波羅探題を17年間務め、その後鎌倉に戻り、五代執権時頼を連署として補佐した。極楽寺は、かつては広大な土地を有し、講堂・塔・七堂伽藍・四十九院を持つ鎌倉有数の大寺院であった。忍性は、域内に、施薬院悲田院(身寄りのない老人・孤児)・福田院(貧困者)・癩病院・馬病屋などの施設を設け、貧民の救済慈善を行った。また、極楽寺切通しの開削をはじめとして多くの道路の改修、橋の造営を行い、和賀江嶋の管理も任され、財源とした。
客殿。

次は、稲村ケ崎後醍醐天皇天皇親政に燃え、鎌倉幕府を倒すために、大社寺や畿内の小武士団を主力に挙兵したが一旦敗北する。しかし護良親王楠木正成らの執拗な軍事行動で幕府軍は分裂。関東の豪族足利尊氏新田義貞らが幕府に背き、元弘元年(1333)の夏に、六波羅探題足利尊氏に、鎌倉は新田義貞に攻められる。新田荘から出陣した義貞は、鎌倉街道を通り、途中、分倍河原の戦いなどを経て、鎌倉へと進軍し、3隊に分割し、化粧坂極楽寺坂、巨福呂坂のそれぞれの切通しから総攻撃をするが、いずれも失敗した。その2日後に義貞は極楽寺方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付け、翌未明に、潮が引いたときを利用して、稲村ケ崎を突破し鎌倉へと侵入し、幕府軍を壊滅した。その稲村ヶ崎

新田義貞が、稲村ヶ崎の岩頭に立って黄金の太刀を捧げて海神に祈ると、みるみると潮が引いて兵が鎌倉に入ったと「太平記」は伝えている。その碑がこれ。

逗子開成中学の生徒が、明治43年(1910)に海難事故で亡くなったことを悼んでの碑。

北里柴三郎が、師のベルト・ゴッホの来日を記念して建てた碑。二人は鎌倉の霊山山を訪れている。

次は義経ゆかりの満福寺。

義経に因んだ鎌倉彫の襖絵がたくさん飾られている。静御前の舞。

腰越状」を書く義経

雪の中、都を逃れる常盤に抱かれた牛若丸。

弁慶とともに雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経

本堂。

腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだといわれる硯の池。

次は常立寺。この寺があるところは、鎌倉時代には「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれ、龍ノ口刑場で処刑された人たちを埋葬する墓域であった。真言宗の回向山利生寺という廃寺があったそうだが、武蔵の碑文谷吉証院法華時の僧・日豪が天文元年(1532)に鈴木隼人という人の寄進を受けて常立寺を建てた。
その本堂。

「元使塚」は建治元年(1275)に斬首となった、蒙古からの使者、杜世忠以下5人の供養塔で、白鵬をはじめとしてモンゴル出身の力士が折に触れて参詣している。

山門。

鐘楼。

7代将軍・徳川家継法名・有章院殿と刻まれた増上寺の石灯篭がある。

最後は龍口寺。ここは日蓮上人が法難にあった地に建てられ、威風堂々とした伽藍の本山である。建立は、延元2年(1337)で、高弟六僧に次ぐ日法上人が一堂を建立した。龍口法難のときに座らされた「首の座の敷石」と「自作の日蓮像」を安置したのが始まりと言われている。慶長6年(1601)に、日蓮宗の信心篤い加藤清正が、池上本門寺12世日尊上人に祖師堂(敷皮堂)の建立を願い出て、御堂が完成した。明治19年(1886)までは住職が不在で、近隣の八ヶ寺が輪番で守務を行っていた。
刑場跡。文永8年(1271)は、前年からの干ばつで大飢饉だった。日蓮禅宗・浄土宗・真言宗真言律宗鎌倉幕府を激しく非難した。鎌倉の混乱を危惧した幕府は、日蓮をとらえて佐渡への流刑を命じるが、実は途中で首をはねるつもりであった。龍ノ口の刑場まで連れてこられた日蓮は、石の上に座らされて太刀で首をはねられようとした時、江の島方面から光の玉が飛んできて、太刀は三つに折れ、他の武士たちも弾き飛ばされて、刑を執行できなくなった。一晩留め置かれたのち、佐渡へ流され、文永11年(1274)に赦免された。

仁王門(昭和48年(1973)竣工)と仁王像(浅草の宝蔵寺の金剛力士などを制作した村岡久作氏の作)



山門。元治元年(1864)に、大阪の豪商・鹿嶋屋が寄進した。

山門の彫刻。江戸彫師の流れをくむ彫師による中国故事の透かし彫り。

大本堂。天保3年(1832)竣工、欅造り銅板引きで、県内の代表的な木造建築物である。

五重塔明治43年(1910)竣工、欅造り銅板引きの禅様式の簡素な造りで、県内唯一の本式木造五重塔である。

猛威を振るったコロナもやっと収束し、久しぶりの集団での散策で、それぞれの知識を披露しあいながら、江ノ電沿線の旅を楽しむことができた。このような機会が増えればよいと思うのだが、観光客がこれ以上増えた折には収拾がつかなくなるのではと、余計な心配もしなくてはならない。どちらにしてもなかなか上手くはいかないようである。