bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

群馬県高崎市の保渡田古墳群を見学する

今回の旅行もいよいよ最終日、前々から行きたいと思っていた保渡田古墳群を訪ねる時が来た。群馬県には古代の遺跡がたくさんある。その中でも古墳は際立って多く、4~7世紀の時代を知るのには格好の場所である。先ず群馬県の古墳がどのように推移したのかを見ておこう。かみつけの里博物館で次のように紹介されていた。


古墳時代のある時までは、関東北西部は毛野(つけの)と呼ばれていた。そのうち、群馬県のあたりは上毛野、栃木県のそれは下毛野と呼ばれるようになった。平安時代に書かれた『先代旧事本記』には、仁徳天皇のとき、毛野国は二つに分けられたと書かれている。最近の研究によれば、5世紀末から6世紀初頭の頃、栃木県小山市周辺に大型前方後円墳が生まれているので、その頃に栃木県域に強い政治勢力が生まれ、これを下毛野と呼び、毛野と呼ばれていた群馬県の地域を上毛野と呼ぶようになったとされている。保渡田古墳群がつくられたのもこのころであり、上・下と呼び分けられたころの上毛野地域の中核は榛名山東南麓にあったようだ。

時代は少し遡り古墳時代前期(4世紀)には、太田市地域・前橋市南部・高崎市西部に、全長100m内外の大型古墳が造られ、東日本では傑出していた。各地域では前方後方墳(東海地方起源)が造られ、続いて前方後円墳(ヤマト起源)が築かれた。土器の研究から、4世紀初めに群馬県固有の弥生土器(樽式土器)が急速になくなり、東海西部の流れをひく土器が新しく定着する。古墳時代の最初は東海地方の影響が強く、この地方から来た人も加わって群馬県域が大幅に開発され、前方後方墳が造られたという説が有力である。やがてヤマトの権力が及び、有力者の墓は前方後円墳に統一された。

古墳時代群馬県各地には大小の豪族たちがおり、特に高崎市南部と太田市に起点を持つ豪族は有力であった。高崎市南部・烏川流域は、5世紀初頭にピークを迎え、全長170mもの浅間山(せんげんやま)古墳が築造された。これは、この時期には、東日本で最大であった。大田市地域の王は5世紀初め浅間山古墳に匹敵する別所茶臼山古墳を残し、5世紀半ばには古墳時代を通じて東日本最大の全長210mの太田天神山古墳を築いた。このとき大田市地域の王は、上毛野を統合する巨大な勢力になったと考えられる。太田天神山古墳と伊勢原市の御富士山古墳では、ヤマトの大王や有力豪族と同じ棺・長持型石棺となっている。また5世紀前半には藤岡市に全長140mの白石稲荷山古墳が築かれた。

5世紀の半ばに巨大化した太田市地域の王は、その後半になると急速に衰え、巨大古墳はみられなくなる。同様に浅間山古墳に勢力を築いた高崎市烏川流域の古墳もかつての勢力はなくなる。これに代わって、西群馬の井野川流域が台頭する。わずか50年足らずの間に、綿貫古墳群や保渡田古墳群をはじめ100m級の前方後円墳が数多く築造され、ヤマトと関係を結んだようで、いち早く馬具や人物埴輪などの先進技術を取り入れた。しかしこのときは傑出した巨大古墳は見られず、上毛野の地域勢力にとって大きな変革があったようである。

榛名山東南麓(井野川・烏川流域)は、5世紀後半の大型前方後円墳が集中する全国でもまれな地域で、この頃の上毛野の中心であった。50年足らずの間に、直径10㎞圏内に8基もの大型前方後円墳が造られた。これはヤマト地域を除けば特異な現象である。この状況は農業生産力の高まりだけでは説明できず、ヤマトとの特殊な政治関係や、農業以外の特殊な経済基盤などが考えられる。これらの前方後円墳には舟形石棺を内蔵しており、相互の緊密な関係が伺われる。

6世紀初め、保渡田古墳群を築いた王が榛名山の火災災害をきっかけに移動すると、前方後円墳の過密集中地域はなくなる。赤城山南麓に勢力を伸ばした大室古墳群がやや傑出するものの、上毛野の主要地域ごとに100m級前方後円墳が点々と造られ、王たちの勢力は比較的均質だったようだ。その中で、藤岡市の七興山古墳だけが全長140mととびぬけた大きさを誇り、6世紀では東日本最大の名古屋市断夫山古墳とほぼ同規模である。この古墳は6世紀の中で確定していないが、ヤマト王権の直轄地「緑野(みどの)屯倉」が設置された場所でもある。

7世紀になると全国的に前方後円墳が造られなくなり、有力な豪族の墓は方墳に変化し、横穴式石室の中を豪華にする。上毛野各地では7世紀になると多くの王たちの墓は円墳に変わる。この中で方墳を代々築いたのは前橋市の総社古墳群のみである。家形石棺を持つ愛宕山古墳、切石室の蛇穴山古墳などの総社古墳群は7世紀上毛野の最有力士族「上毛野氏」宗家と推定されている。

それでは、5世紀のところで簡単に説明した保渡田古墳群を見学に行こう。この古墳群は、榛名山の南麓の保渡田・井出の地に分布しており、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っている。

新幹線が傍を通っているので交通の便は良さそうに見えるが、公共の交通機関を利用していこうとすると、なかなか不便である。高崎駅前橋駅からバスでということになるが、本数がとても少ない。前橋駅からの方が便数が多いので、といっても一日5便だが、ここからのバスを利用した。行きも帰りもほとんど貸し切り状態であった。

綺麗に整備されている八幡塚古墳は、墳丘長120m、後円部径56m、高さ現存6m、前方部幅53mで、周濠は馬蹄形で二重に取り囲み、さらに外側は幅の狭い外周溝が巡っている。墳丘には葺石が置かれ、円筒埴輪列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁にある。
全景。


内堀。

埴輪。

葺石。

前方部より後円部を望む。

後円部より前方部を望む。

中島。内堀の中に4基あり、それぞれ直径18m、葺石が施され、円筒埴輪列が巡っている。

舟形石棺

二子山遺跡は墳丘長74m、後円部径56m、高さ10m、墳丘部は三段築成で、前方部幅71m、高さ7m、周濠は馬蹄形で二重に造られており、内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島4基を配置している。墳丘・中島・中底部とも川原石で葺石としている。また円筒埴輪列を巡らしている。
全景。

後円部。

奥の寺のあたりが薬師塚古墳。延光寺の堂宇や墓地のため、かなり削られている。墳丘長は100mを越え、二重に周濠を巡らしていると推定されている。

巨大な前方後円墳というわけではないが、二つの墓はきれいに整備され、古墳の様子がとてもよく理解できた。この後、かみつけの里博物館を見学した。