bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

鎌倉五山第一位の「建長寺」を見学する

天気がなかなか定まらないこの時期に、外での活動が楽しいものになるかならないかは、運次第ということになる。かつては雨が降ると、あなたが雨男/雨女だからと、責任のなすりあいをして、憂さを晴らしたものである。天気予報の精度があがり予測が大きく外れることがなくなった昨今だが、数日前の突然の雷雨に見られるように、どうも今年の天気はそうではないらしい。翌日の天気でさえ外れることがあり、天気予報士がMCに茶化される場面を見かける機会が多くなってきた。今回の鎌倉・建長寺の見学はラッキーなことに、天気予報よりもずっと素晴らしい日和となった。きっと誰だかわからないが、良い運を引き寄せてくれる人がいたのだろう。さらに良いことに、歴史博物館の館長を務められた方が案内をしてくれ、普段は見ることができないところも見学することができた。

建長寺はとても有名な臨済宗の寺院であるが、交通の便があまり良くないのが欠点である。来客とともに鎌倉を見物しようとするときは、あまり歩かせてはいけないと配慮するため、どうしても北鎌倉駅の裏手にある円覚寺へと足が向いてしまう。禅門・臨済宗では、特に寺格の高い五つの寺院を鎌倉五山としている*1建長寺が第一位、円覚寺は第二位の寺院で*2建長寺の方が上であるが、人気の方はどうなのだろう。

建長寺を開基したのは鎌倉幕府第5代執権・北条時頼である。時頼は執権権力を強化し(三浦泰村一族、千葉秀胤を滅ぼし、反北条氏傾向の御家人勢力を排除した)、御家人や民衆に対して善政(撫民)を敷いた。そして、鉢の木物語*3の逸話が残されるほどに質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であったと見られている。建長寺の創建は建長5年(1253)である。開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、第二世は同じく南宋の兀庵普寧(ごったんふねい)である。

開山の蘭渓道隆の足跡は、ウィキペディアをベースにしてまとめると次のようになる。彼は嘉定6年(1213)の生まれで、寛元4年(1246)に、渡宋した泉涌寺僧・月翁智鏡との縁で来日し、宋風の本格的な臨済宗を広めた。時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、鎌倉・常楽寺の住持となった。そして、先に述べたように建長5年に建長寺開山となった。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国聖福寺に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間で、住持はほとんどが中国人で、円覚寺開山となった無学祖元をはじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例であった。

それでは、建長寺を参観することにしよう。最初に目の前に現れるのは三門である。山門とする寺院が多いが、ここはそうではなく、三解脱門*4の略称である。蘭渓道隆五百年忌に当たる安永4年(1775)の再建で、東日本最大規模の三間二重門である。建長寺大工・河内長兵衛が棟梁を務め、「建長興国禅寺」の大扁額*5をかけるために上層に軒唐破風が設けられている。この門は国重要文化財に指定されている。

楼上も参観できた。ここからの眺めは素晴らしい。入口方向を見る。三門を撮影している観光客の姿がある。

三門に向かって右手にある妙高院(建長寺塔頭の一つ)が見える。

嵩山門(すうざんもん)と鐘楼が見える。嵩山門奥の西来庵には、蘭渓道隆(大覚禅師)の塔所(たっしょ)がある。

三門の先の仏殿の景色、

楼上には釈迦如来像が安置されている。

その周りには銅像の五百羅漢が安置されている。各像ごとに変化をつけたとても丁寧な鋳造群で、江戸期の彫刻の良さがうかがえる。原作者は江戸仏師・高橋鳳雲である。木型は身延山三門に納められたが、焼失した。鋳物師は整珉と弟子の是行斎栗原貞乗解空居士である。天保安政ごろの作とみられている。

五百羅漢から選び抜かれた十六羅漢(反対側に8像ある)。

仏殿。禅門規式では「仏殿を立てずにただ法堂を構うるものは仏祖より親授せる当代を尊となすを表すなり」とあるので、禅門はもともとは仏殿を設けなかったようであるが、建長寺はそうなっていない。創建当初の仏殿は、左右に土地堂(つちどう)・祖師堂を従え、堂内には時頼の梁碑銘が掲げられていた。現在の建物は、正保4年(1647)に芝増上寺の霊屋を譲り受けたものである。霊屋に祀られていたのは徳川2代将軍秀忠公夫人崇源院(お江の方、織田信長の妹お市の方浅井長政との末娘)である。死後20年後に造替されたとき譲り受けた。方五間、重層の寄棟作りで、内部はすべて漆が塗られ、各所に透かし彫りの金具が使われている。仏殿は国重要文化財に指定されている。

仏殿には本尊の地蔵菩薩座像が安置されている。本尊は釈迦如来阿弥陀如来とする寺院が多いが、ここはそれとは異なっている。それには次のような話が伝わっている。ここの谷はもとは処刑場で地獄谷と呼ばれていた。そして、処刑された者の死後の救済をするために、地蔵菩薩を本尊とする心平寺*6が建てられていた。後に、建長寺が建立されると僧たちがその使命を引き継いだとされている。天井は格天井で絵が描かれているが、何が書かれているかは判然としない。

次の法堂(はっとう)に向かう。途中に樹齢760年と推定される柏槇(びゃくしん)がある。蘭渓道隆が中国から持ってきた種をまいたとされている。

最近テレビでも紹介された「さわる模型」がある。これは「誰もが共に生きる未来への道を照らす灯」となることを目指していて、そこには「見えなくても旅の感動を一緒に」と記されていた。

法堂。昔は建長寺全体が修行道場であり、鎌倉・山ノ内にいる僧侶全員がこの法堂に集まって住持の説法を聞き修行の眼目とした。今日では、修行道場は、先ほど出てきた西来庵に移り、雲水はそこで修行している。法堂は現在は法要・講演・展覧会などに使われている。法堂は七堂伽藍の制に則って、仏殿の後ろに建てられている。現在の法堂は文化11年(1814)に建立され、関東で最大である。


法堂にはその役割から本尊像を安置しないのが普通であるが、ここには大悲閣にあった千手観音坐像が祀られている。天井の雲竜図は創建750年を記念して、小泉淳画伯によって描かれた。

千手観音坐像の前面にある仏像は釈迦苦行像である。釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現している。パキスタン・ラホール中央博物館には、本物の菩薩苦行像が安置されている。これはシクリ(カイバル・パクトゥンクワ州)の伽藍跡から出土した2~3世紀ごろの作品である。平成17年(2005)の愛知万博でそのレプリカが陳列され、その後パキスタン国より建長寺に寄贈された。 

唐門。この門は桃山風向唐破風*7(むかいからはふう)で漆塗りの四脚門である。透彫金具が各所に使用され、仏殿の装飾技法とよく似ている。先に説明した秀忠公夫人霊屋の門として建立された。正保4年(1647)に、仏殿・西来門とともに移築された。

方丈。方丈は方一丈の居室の意味で、その由来は維摩居士が毘耶離城の一丈の部屋に居し、その部屋をもってよく三万二千の師子の座を入れたという不思議な珍事にちなむとされている。住職の日常生活の場であったが、後に現在のように独立した一堂として、檀信徒の法要・儀式などを行うところとなった。



庭園。方丈の後ろに蘸碧池(さんぺきち)を中心とする庭園がある。この庭園は、大覚禅師(蘭渓道隆)が作庭したもので、創建当時より存在している。この池の名は、緑の木々の色が青い水にひたって輝いていることを表している。

建長寺にはかつて49もの塔頭*8があったが、現在残っているのは12である。一番奥にある回春院を訪ねた。第21世玉山徳璇(仏覚禅師)の塔所である。写真には多くの見学者が映っているが、普段は閑散としている。ここの塔頭を説明してくれた住職の方は、多くの人が訪れて欲しいと希望されていた。

梵鐘。今回案内してくれた元歴史博物館長の方が、若いころに梵鐘に関する小論を書いたとのこと。思い入れが深かったのだろう、その時の経過などについて伺った。梵鐘は、建長7年(1255)、関東の鋳物師筆頭・物部重光が鋳造し、開山の蘭渓道隆が銘文を撰している。総高208.8cm、口径124.3cmで、平安時代の作風を踏襲している。梵鐘は国宝である。

夏目漱石が俳句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」を作ったが、親友の正岡子規はこの句を参考に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作句した。今日では、後者の方が有名で、前者を知っている人は少ないだろう。

とても久しぶりの建長寺であった。高校生の時に天園ハイキングコースを歩くために、建長寺を通り抜けて以来のことではないだろうか。その時も歴史に詳しい1年先輩の方が色々教えてくれたが、今となってはさっぱり思い出すことができない。今回、建長寺について詳しい方の説明を受け、学び直しのいい機会となった。案内をしてくれた方にとても感謝している。

最後に建長寺境内図を載せておく。

*1:鎌倉時代末期にも五山制度はあったようだが定かではない。根幹ができたのは、室町幕府3代将軍・足利義満が、至徳3年(1386)に、南禅寺を別格としてて五山の上とし、京都と鎌倉に五山を決定したことと考えられている。

*2:第三位以下は、寿福寺浄智寺浄妙寺の順である

*3:大雪の夕暮れ、旅の僧が一夜の宿を求めた。家は貧しく、暖を取るたき木がなくなると、主人は大切にしていた松、梅、桜の鉢の木を折って火にくべた。主人は佐野源左衛門常世と名乗った。一族に所領をだまし取られて零落したが、武具と馬は残してあり、「自分も鎌倉武士の子、大事の時は、いの一番にはせ参じ、命懸けでご奉公する覚悟です」と言った。その後、鎌倉に一大事との報で一目散に駆け付けた常世の前に現れたのはあの日の僧で、鎌倉幕府執権・北条時頼だった。常世の本領だった36カ郷を返し、鉢の木にちなんで上野・松井田、加賀・梅田、越中・桜井などの所領を与えた。

*4:三解脱門とは、涅槃に至るために通過しなければならない三つの関門、すなわち空・無作・無相)を指す。

*5:宋僧西燗子曇(せいかんすどん)の筆と伝えられている

*6:心平寺は時頼により巨福呂坂に移され、現在は横浜三渓園に移設されている。

*7:向唐破風では、屋根の端の山形をなすところが、反曲した曲線状になっている。

*8:塔頭は、大寺のいわば寺内寺院で、 とくに禅寺では高僧の基所に建てられた塔、またその塔を守るための庵をいう。