馬高博物館を見終わり、次の見学場所は新潟県立歴史博物館である。徒歩で15分ほどのところだが、1時間近くも見学した後での荷物を引っ張りながらの歩きだったので、はたからはととぼとぼと歩いているようにきっと見えたことだろう。もう歩くのは嫌と感じ始めたころに到着した。嬉しいことに、疲れた体を元気づけてくれるような立派な入口である。


受付で、常設館と特別展のどちらを見るかと尋ねられた。特別展は「動物たちの浮世絵」とのことだった。見学してみたいという気分になったけれども足の方が持ちそうにない。常設館だけと言って、荷物を預けて展示室へと向かった。
「新潟の歩み」と書かれたところから入る。最初に展示されていたのは縄文土器である。氷河期が終わって温暖な気候になり、1万数千年前ごろには人々の生活が変わり始めた。日本では狩猟採集による定住生活が始まり、竪穴住居もつくられるようになったという説明文とともに、縄文土器が展示されていた。

そして農耕社会が始まり、身分差が生じ豪族が現れるようになったとの説明と展示があり、律令制度が始まって奈良・平安時代になったと説明されていた。展示には役人が木簡に文書を書いている姿があった。

文字の使用も始まったので、その証拠として墨書土器・木簡が展示されていた。

墓の跡である柿崎古墓も展示されていた。

鎌倉時代になると、鎌倉幕府から荘園に地頭が送り込まれる。奥山荘の絵図と源頼朝による地頭補任状*1とが展示されていた。

戦国時代には、上杉謙信が越後に勢力を張り、武田信玄や織田信長と覇権を争う。武田信玄との川中島合戦の様子を表した紀州本川中島合戦図屏風が展示されていた。

佐渡で算出する金銀は江戸幕府の財政を支えていた。幕府へ納められる佐渡の「御金荷(おかねに)」は、おもに北国街道で江戸に運ばれた。佐渡・相川を出発した金銀は、海路出雲崎へ運ばれ、さらに、宿場から宿場へと馬で継がれて江戸に向かった。下図は「御金荷」の行列を示す。

明治に入って、高田盲学校が創設されたことを説明する展示があり、そのあと、現代へと展示が続いた。

肝心の火焔型土器の展示がなく、どこにあるのだろうと不思議に思いながらも、探す元気もなかったので、博物館を後にした。この原稿を書くに当たって改めて調べると、飛ばしてしまったようだ。Google Earthで展示室の様子を知ることができる。それによれば次のようである。残念としか言いようがない。

話は変わって、新潟は日本一の米どころで日本酒の一大産地でもある。長岡には、酒造を含む醸造の街として知られている摂田屋地区がある。博物館見学を完了し、昼食をとった後、街の雰囲気を楽しみたくて訪ねてみた。長岡駅隣の宮内駅で降り、旧三国街道沿いに南の方へ歩けばよい。午前中に行った二つの博物館とこれから行く摂田屋地区を地図に落とすと次のようである。

最初に現れたのが、470年の歴史を持つ蔵元「吉乃川」であった。

内部を見学することができる。

長岡は花火でも有名なので、店内には尺玉が飾ってあった。その奥にあるのは、日本酒を絞るために使われる「槽(ふね)」である。

ここでは、「米こうじ」を用いたクラフトビール(発泡酒に属す)も作っている。その機械がこれである。

さらに歩を進めると、懐かしい日本家屋と蔵が見えてきた。看板には機那サフラン酒と書かれている。店のブログによれば、機那サフラン酒は、高貴なサフランを始め桂皮、丁子などの厳選された植物等で調整したリキュールだそうである。これを造った初代吉澤仁太郎が築いた吉澤邸(主屋、離れ、庭園、鏝絵(こてえ)の描かれた土蔵等)は、今でも越後名所の一つとして数えられているとのことである。

さらに進むと、星六味噌が現れた。故郷を思い出すような懐かしい味わいをテーマに長期熟成させたみそを製造しているそうだ。

ここから一本奥の道を駅の方へ引き返す。この道が旧三国街道である。吉乃川の工場内を抜けていく。

竹駒神社にであう。宮城県岩沼市にある竹駒神社は、京都・伏見稲荷、愛知・豊川稲荷とともに日本3代稲荷神社とされている。明治22年にこの地に勧請(分霊)された。

近くには三国街道の岐路を示す「道しるべ地蔵」があった。台石には右は江戸、左は山道と書かれている。

長岡藩時代の天保2年(1831)に創業、以来190年に渡り醤油造りをしてきた「越のむらさき」も間近にあった。

「江口だんご」も通りすがりにあった。

今回歩き回ったところは以下のとおりである。

長岡市は江戸時代は長岡藩であった。明治維新へとつながる戊辰戦争の時、長岡藩は河井継之助*2の主導のもと奥羽越列藩同盟に参加し、激しく薩長軍に対して抗戦したがあえなく敗北し、継之助は会津に落ち延びる途中で絶命した。河井継之助はについては、司馬遼太郎さんの『峠』や役所広司さん主演映画『峠 最後のサムライ』を始めとして、多くの人が紹介している。訪問した博物館で彼について触れている展示があることを期待していたのだが、果たせなかった。長岡駅近くに河井継之助記念館があることを後で知ったので、残念なことをしてしまった。おそらくまたの機会はないだろうから、本あるいは映画で、関連の情報を得ようと思っている。
*1:奥山荘の地頭式は相模国・和田宗実に与えられた。彼は和田義盛の弟である。和田合戦・宝治合戦による一族の反乱・没落に加わらなかったことにより、ここの地頭職は一族の三浦和田により継承された。
*2:長岡市のホームページには次のように紹介されている。河井継之助は文政10年(1827)元旦、長岡藩の中堅藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれる。江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事。長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対した。後に継之助は異数の昇進を遂げると、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げていった。戊辰の戦いには中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で敵を惑わせ、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。雪深い越後の国の小藩・長岡藩の名に、新政府軍も恐れ慄いた。しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざすが、途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。慶応4年(1868)没、享年41。幕末の風雲を駆け抜けた継之助の生涯をまとめたのが司馬遼太郎の<峠>。読み進むうちに、継之助の手腕や思想に魅せられていく。