bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

トーハクで特別展『はにわ』を鑑賞する

選りすぐりの埴輪が出展されているとブログで見たので、興味を抱きトーハクに出かけた。連休明けの火曜日は博物館や美術館は通常は休館になるのだが、この展示だけ、この日は例外だった。多くの人は休館と思い込んでいるだろうから、混まないと予想して出かけた。しかし、思惑は見事に外れた。確かに日本人は少なかったが、その代わりにインバウンドの観光客が多く、耳慣れない言葉をたくさん聞いた。彼らはこの日を美術館や博物館で過ごそうと思っていた人たちのようだ。あいにく他の館が閉じていたので、仕方なくトーハクに足を運んだ人たちが少なからずいたようだ。都合の良いことに埴輪に関する歴史を知らなくても、その独特なフィギュアを楽しむことができる。インバウンドで訪れた人たちは興味深げに一つ一つを丁寧に観察していた。そこにアニメのキャラクターを見つけ出したのだろうか、満足した様子であった。

埴輪が造られたのは古墳時代のことである。この時代は3世紀から7世紀で、ヤマト王権の時代と呼ばれることもある。この頃は各地に有力な豪族が現れ、その首長たちはヒコ、ワケ、あるいはオオキミと呼ばれた。特に、大和盆地・河内平野に拠るオオキミが強い権力を持つようになり、各地域の豪族をリードし、連合国家を形成した。首長たちは、彼らの支配領域の人々にその権力を見せつけるために、大きな墓を築造した。特に、ヤマト王権のオオキミは巨大な前方後円墳を造るようになる。同じように地方の首長たちもその権力に応じて大きな前方後円墳を築造した。

この頃の墓には、そこに眠っている首長を守るために埴輪が置かれた。埴輪のきっかけになったのは古墳時代前の吉備地方と言われている。この地域では墳丘墓が築造され、そこに特殊器台・特殊壺が置かれた。これがベースとなって、3世紀後半に円筒埴輪と壺形埴輪が登場、4世紀に家形・器財形・動物形が出現、5世紀以降に人物埴輪が造られるようになった。

それでは、今回の展示を見ていこう。メインは挂甲(けいこう)の武人である。数ある埴輪の中で最初に国宝に選ばれたのは、トーハク所有の挂甲の武人である。選定されてから50年になるので、それを記念しての特別展である。挂甲の武人は、小さな鉄板を閉じ合せた挂甲(鎧)を身にまとい、左手には弓、右手には大刀を持ち、矢を入れた靫(ゆぎ)を背負っている武士である。挂甲の武人はいずれも6世紀に造られている。

以下の5体は同じ工房で作ったと見なされている。いずれも冑(かぶと)・甲(よろい)などの武具がとても丁寧に作られているのに感心する。武人にしては顔が穏やかすぎるようだが、墓守りには恐ろしい形相は必要なかったようである。

これが最初に国宝となった挂甲の武人である*1群馬県太田市飯塚町で出土した。

次は、群馬県太田市成塚町出土で、国重要文化財である。

背中には靫を背負っている。

これは群馬県伊勢崎市安堀町で出土した。

これは群馬県太田市で出土した。今回、アメリカ・シアトルからの里帰りである。

最後は群馬県太田市世良田町からの出土で、国重要文化財である。ここまでの5体は兄弟のように似ている。

埴輪は造られた時は彩色されていたようで、その復元が次である。着色するとイメージが随分と変わる。これならば、墓の中で安心して眠れたことだろう。


次のも頼りになりそうな武士である。トーハクの挂甲の武人の次に国宝にされたのが綿貫観音山古墳の出土品で、これはその中の一つである。

やけに腰が細く、軟弱そうに見えるが、優しい墓守なのだろう。栃木県真岡市鶏塚古墳からの出土である。

この後もしばらく人物埴輪を紹介する。同じようにすべて6世紀造である(人物埴輪は5世紀からとされている)。

天冠を付けた男子。この地域の首長だろうか、顔には彩色(あるいは刺青)を施し、頭にかぶっているのは首長であることを示す冠だろう。手を前に合わせて端正でしかも威厳のあるたたずまいに恐れ入る。福島県いわき市神谷作101号墳出土で、6世紀造で、国重要文化財である。後ろに見学者の顔が入ったので、埴輪の部分だけを切り取った。背景の色は、主体が飛び出ないようにと思い、埴輪のそれに近いものを選んでみた。どうだろう。

次の2体は、群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土で、先に説明した挂甲の武人とともに国宝である。

あぐらの男子。前の埴輪と同じスタイルだが、山高帽に親近感を感じる。

正座の女子。首の周りの飾りが女性らしさを醸し出している。

左:挂甲の武人、右:捧げものをする女子。高貴な香りのする埴輪である。それもそのはず継体天皇の墓と言われている大阪市高槻市今城塚古墳出土である。

踊る人々。冒頭で展示されているのがこの埴輪である。今回の一番の売りはこれなのだろう。ピカソ的な才能を有する古代人の作と見ては言い過ぎだろうか*2。埼玉県熊谷市野原古墳出土である。

あごひげの男子。童話の世界に導かれたような、ファンタジーな気分になる。茨城県出土である。

琴をひく男子。この時代は琴を弾いたのは男性である。前回のブログで紹介したように支配の道具として用いたならば、弾き手はこの地域の首長だろう。茨城県桜川市出土である。

ひざまずく男子。亡き首長の徳をたたえ、新たな首長に忠誠を誓う公式儀礼のようである。左:茨城県桜川市青木出土、右:群馬県太田市塚堀り4号墳出土で、共に国重要文化財である。

力士。この頃から存在していたようで、祭祀などの公式行事で相撲を披露したのだろう。福島県泉崎村原山1号墳出土である。

盾持人。相手の攻撃から身を守るため盾を身に付けている。顔が誇張され、緊張した面持ちが伝わってくる。埼玉県本庄市前の山古墳出土である。

両面人物埴輪。遊び心で作ったのだろうか?和歌山市大日山35号墳出土である。国重要文化財である。


人物埴輪はここまでで、ここからは古墳時代を通して存在した円筒埴輪である。

冒頭で説明したように埴輪の起源とされる特殊器台・特殊壺である。岡山県新見市西江遺跡出土で、2〜3世紀造である。

朝顔形円筒埴輪。奈良県天理市東殿塚出土で、3~4世紀造である。

円筒埴輪。一緒に写りこんだ人と比較しても分かるように、とても大きく高さ2.5mである。ヤマト王権の力の強さを示しているのだろう。奈良市桜井市メスリ山古墳出土で、4世紀造で、国重要文化財である。

円筒埴輪。奈良県天理市東大寺山古墳の出土で、4世紀造で、国宝である。

盾形埴輪。大阪市高槻市今城塚古墳出土で、6世紀造である。

ここからは動物埴輪を紹介する。4世紀以降に造られたが、ここに展示されているのは5世紀以降の造りである。

馬形埴輪。もともと馬は日本には存在せず、古墳時代朝鮮半島を経由して入ってきたとされている。戦いや運搬に使われたことだろう。三重県鈴鹿市石薬師古墳群63号出土で、5世紀造である。

旗を立てた馬形埴輪。戦いに使われたことの象徴だろうか、運動会での旗取りゲームを思い出した。埼玉県行田市酒巻14号墳古墳出土で、6世紀造で、国重要文化財である。

次の二つの写真は動物たちのオンパレードである。生活の一部となっていた動物が分かる。手前から、子馬形埴輪(四条畷市忍ヶ丘駅前遺跡),魚型埴輪(千葉市柴山町白桝遺跡)、馬型埴輪(前橋市白藤古墳群V-4号墳)、鵜形埴輪(高崎市保渡田八幡塚古墳、5世紀)、馬型埴輪(熊谷市上中条、国重文)、水鳥形埴輪(行田市埼玉)、(この後ろにわずかに見えるのが鶏型埴輪(真岡市鶏塚古墳) )、馬型埴輪(春日井市味美二子山古墳)、翼を広げた鳥形埴輪(和歌山市大日山35号墳、国重文)、鹿形埴輪(浜松市辺田平1号墳、5世紀)である。5世紀と記述あるもの以外はすべて6世紀の造りである。

左から、わずかに見える鶏型埴輪(真岡市鶏塚古墳)、馬型埴輪(春日井市味美二子山古墳)、翼を広げた鳥形埴輪(和歌山市大日山35号墳、国重文)、鹿形埴輪(浜松市辺田平1号墳)、鹿形埴輪(伊勢崎市剛志天神山古墳、国重文)、牛形埴輪(高槻市今城塚古墳)、猪形埴輪(伊勢崎市剛志天神山古墳、国重文)、犬形埴輪(伊勢崎市剛志天神山古墳)である。すべて6世紀造である。

上記の中から選んだ牛形埴輪。馬と同様に牛も古墳時代に日本に広まったとされている。大阪市高槻市今城塚古墳出土で、6世紀造である。

猿形埴輪。表情豊かなサルで、今と同じようにいたずらをしたのだろう。伝茨城県行方氏大日塚古墳出土で、6世紀造で、国重要文化財である。

水鳥形埴輪。背に子供を載せた愛らしい水鳥である。兵庫県朝来市池田古墳出土で、5世紀造で、国重要文化財である。

次は家形埴輪とそれに関連する埴輪で、4世紀以降に造られた。

家形埴輪。大阪市高槻市今城塚古墳出土で、6世紀造である。先に説明したようにこの古墳は継体天皇の墓とみられている。この建物も当時の王の館を表したものだろう。当時の建物がどのようなものであったのかが良く分かる。

家型埴輪。当時の普通の家は竪穴住居なので、それとは比べ物にならないほどの立派な住居で、屋根は切妻か寄棟で、二階建ても見られる。在地の豪族の長に関係するものだろう。一番奥は伊勢崎市釜ノ口遺跡、その他の5点は伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土で、いずれも5世紀造である。

子持家形埴輪。複雑な構造の屋敷である。宮崎県西都市西都原古墳群出土で、5世紀造で、国重要文化財である。

椅子形埴輪。首長が座る椅子なのだろうか。群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土で、5世紀である。

船形埴輪。当時、物の運搬は水路を利用した。それに使われたのだろうか立派な船である。大阪市長原高廻り1号墳出土で、4〜5世紀造である。国重要文化財である。

埴輪は墓を守るために造られたが、亡骸を治めた棺には、首長が使用していた道具類が一緒に埋葬された。

金銅製環状鏡板付轡。馬に付けられた轡である。裸馬ではなく、ちゃんと馬具を付けて馬に乗っていたことが分かる。群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土で、6世紀造で、国宝である。

ここからの4点は、奈良県天理市東大寺山古墳の出土で、4世紀に造られ、すべて国宝である。古墳時代の初めごろ、畿内の豪族を中心にしたヤマト王権は、各地の豪族、特に西日本の豪族と連合し、連合国家の範囲を広めていった。次に見るのは、近隣の豪族の墓からの副葬品で豪華である。

象嵌銘大刀。副葬品の一つで見事な大刀である。

次の3点は、腕飾りとして使われた。
鍬形石。

車輪石。

石釧。

次の4点すべては、熊本県和水町江田船山古墳の出土で、5〜6世紀造で、国宝である。ヤマト王権の力が強まり、この頃には、すでに九州まで勢力が及んでいたのだろう。出展されていないが、ヤマト王権よりこの地の有力者に銀象嵌銘大刀が贈られている。

画文帯同向式神獣鏡。

衝角付冑・頸甲・横矧板鋲留短甲。埴輪の挂甲の武人は、実際にはこのような武具を付けていた。さぞかし重かったことだろう。

金製耳飾。在地の豪族の長の装飾品だろう。

金銅製沓。同じく首長が履いた高価な靴である。

次の2点は群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土で、6世紀造で、国宝である。

金銅製鈴付大帯。腰につける帯で身分によって装飾が異なった。

金銀装頭椎大刀。ヤマト王権から授かったのだろうか、立派な大刀である。

締めくくりは明治天皇陵を護る埴輪である。大正元年(1912)に吉田白嶺さんにより制作された。近世の兜が使用されているのが、特徴である。

各地の古墳を訪れるたびごとにそこの埴輪を見学した。記憶がバラバラなので、一度まとめて観察したいと思っていたので、今回の特別展は絶好の機会となった。国宝、国重要文化財となっている埴輪をたくさん見ることができ、また、相互に比較することもでき、埴輪に関する知識をまとめることができた。最後は、時代背景を知らないインバウンドでの見学者と同じ気分になって、フィギュアとしての埴輪を楽しんだ。お気に入りは、「挂甲の武人」、「天冠を付けた男子」、「あぐらの男子」そして二つの「馬形埴輪」である。出口で人気投票をし、終了後にその結果を公表したら面白かったのではと考えるがどうであろう。

*1:文化遺産オンラインには次のように説明されている(一部変更)。挂甲の武人は、全身を甲冑で固め、大刀と弓矢をもつ勇ましい姿の人物埴輪で、6世紀の東国の武人のいでたちを知ることができる貴重な資料である。冑(かぶと)は顔を守る頬当てと後頭部を守る錣(しころ)が付いた日本列島独自の武具で、鉢の部分には粘土の小さな粒が貼り付けられ、鉄板を組み合わ、鋲でとめて作られていたことを忠実に表現している。甲(よろい)も小さな鉄板を綴じあわせて作られていて、腰を守るスカートのような草褶(くさずり)がついている。さらに、肩や膝を守るパーツ、手を守る籠手(こて)や、臑当(すねあて)、沓甲(くつかぶと)など、細かい部分や構造までしっかりと表現されている。後ろ側には蝶結びにした紐がついている。武器は次のようになっている。腰には太く長い大刀を提げ、左手に弓を持っている。左手首に巻かれているのは弓を引くときに、手首を守る鞆(とも)である。背中には鏃(やじり)を上に向けた5本の矢が入った靫(ゆぎ)を背負っている。この埴輪が出土した群馬県東部の太田市周辺では、同じような特色をもつ武人埴輪が数体出土し、これらに共通する高い技術とすぐれた表現力から、この地域には埴輪作りを専門とするプロ集団がいたのではないかと考えられている。

*2:トーハクのブログには次のように紹介されている(一部変更)。ポカンとあいた目と口の愛らしい表情。左手をあげて右手を胸前に出すポーズ。埴輪と言えばこのフォルムを思い浮かべる人も多いだろう。「踊る埴輪」として親しまれているが、近年では左手で馬の手綱を引く馬子とみる説もある。小さい方の埴輪は、腰に鎌を着け、顔の両脇で髪を結って束ねる美豆良(みずら)という男子の髪型をしている。一方、大きい方の埴輪にはその特徴がみられず、男女のどちらかよくわかっていない。ただ、女子の埴輪によくみられる胸部や服飾の特徴的な表現がないことから、男子の埴輪であるとも考えられている。衣服や武具、アクセサリーを身に着ける埴輪も多くあるが、この作品はどちらの衣装も帯のみと大胆にデフォルメされている。この素朴さ、そして生き生きとした動きが作品の魅力でもある。