東京都にも国宝の建造物はあるが、二つだけと少ない。そのうちの一つは明治時代に建てられた迎賓館赤坂離宮である。国宝に指定されている(国内の)建造物はすべて江戸時代かそれ以前なので、赤坂離宮は例外的といえる。従って、残りの一つは、木造建造物では東京都唯一の国宝と言っていい。そして、それは東村山市にある。室町時代の応永14年(1407)に建立*1された正福寺・千体地蔵堂であり、その姿を今に伝えている。
Google Earthで、正福寺の周りを見ると、都会と田舎が入り混じった地域と表現できそうな景観で、家々と畑が混合している。

正福寺は西武線の東村山駅から歩いて12分程度のところにある。

東村山駅は、高架駅にするための改良工事中で、駅前にはタワーマンションもある。

それでは正福寺を訪れてみよう。山門、奥に見えるのが千体地蔵堂。山門は元禄10年(1701)の建立で、建築様式は禅宗様の四脚門・切妻である。

千体地蔵堂を正面から見る。構造は桁行三間・梁間三間 で周囲に一重裳階(もこし)が付いていて、屋根は入母屋造・こけら葺である。

近づいてみると、禅宗様建築であることが分かる。屋根の強い反り、白木の丸柱、花頭窓、素朴な板壁、弓欄間、三手先出組などからその様子がうかがえる。

正面には、国宝千体地蔵堂と記された扁額がある。扁額の下の弓欄間、さらにその下の桟唐戸上部の連子もきれいである。

紅色のニシキギの向こう側に朝の陽光を浴びて地蔵堂が輝いている。

裏から見た地蔵堂。地蔵堂の本尊は木造の地蔵菩薩立像で、文化8年(1811)に江戸神田須田町の万屋市兵衛の弟子善兵衛によって造られた。また、地蔵菩薩像の両脇の棚には、千体の小地蔵尊像が安置されている。これは江戸時代に奉納された20cmほどの木造小型仏像で、祈願者はこの仏像を一体持ち帰り、成就すれば別に一体添えて奉納したことから、たくさん集まり、千体になったとのことである。千体地蔵堂と呼ばれるのはこのためである。

逆光の中の地蔵堂。

屋根を支えている三手先出組と垂木。

境内に安置されていた十三仏像。


本堂。正福寺の建立については次のような逸話が寺伝として残されている。鎌倉幕府の8代執権・北条時宗が東村山の地に鷹狩りに来た時に大病にかかり、命が脅かされる状態になった。夜眠っていると、夢の中でお地蔵様が現れ、この丸薬を飲めば良くなると差し出された。時宗が夢の中でその薬を飲んだところ、翌朝からどんどん体調が良くなったとのことである。自分を救ってくれたお地蔵様への供養のために、正福寺を開創したそうである。

境内の槇の木。

朝の陽を浴びての鐘楼。

聖観世音菩薩像。

北条家縁の寺であることを示す三つ鱗の家紋が入った鬼瓦が展示されていた。

隣には八坂神社があった。


千体地蔵堂はかねがね訪れたいと思っていた寺院である。それは次のことによる。鎌倉の円覚寺・舎利殿(建造物では神奈川県唯一の国宝)の建立時期は不明であるが、千体地蔵堂と建物がよく似ていることから、同時期のものと考えられている。下の写真は2016年に私が撮影したものだが、瓜二つと言っていいくらいよく似ているのに驚かされる。

建造物の国宝は、関東では、栃木県3件、埼玉県1件、群馬県1件あるので、来年はこれらの見学を目標にしようと思っている。
追伸:境内に貞和5年(1349)の板碑があったのだが、見逃してしまった。正福寺は西口からであるが、東口にはこの地の出身の志村けんさんの銅像があったことも、帰宅してから知った。彼は、先般猛威を振るった新型コロナウィルスの初期の頃の犠牲者である。みんなが知っている彼が亡くなったことで、国民みんながコロナウィルスの恐ろしさを知ることとなった。これを契機としてと言ってもいいと思うが、自主的な行動自粛が徹底されるようになった。他国と比較して少ない犠牲者で済んだのは、志村けんさんの文字通り命をかけた貢献と言っていいのではないかとさえ思う。