bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

トーハクで『大覚寺展』を観る

トーハクでは大覚寺展が開催されている。テレビなどで紹介されると混雑するようになるので、それを避けるために開幕3日目に訪れた。ゆっくり見られるのではと願いながら行ったのだが、どこの展示の前にも複数人おり、淡い期待は裏切られた。それでも、しばらく待っていると一番前に立つことができ、遮られることなく見学できた。良しとすべきだろう。同時に開催されていた西洋美術館の『モネ展』は、入場するのに80分待ちとプラカードにあったので、これとは比べ物にならないほど恵まれていた(もちろんお客さんにとって)。

大覚寺という名前を聞くと、建造物としての寺院よりも、天皇家の歴史を思い出す人もいることだろう。鎌倉時代の終わりごろ、天皇家は二系統に分かれた。二系統になる前の天皇後嵯峨天皇で、彼には天皇になった息子が二人いた。一人は後深草天皇、もう一人は亀山天皇である。治天の君*1であった後嵯峨上皇が彼の後継者を決めずに崩御すると、後深草上皇亀山天皇とが治天の君をめぐって争った。鎌倉幕府に裁定が持ち込まれ、これ以降の治天の君鎌倉幕府が決めることになった。おそらくは面倒くさかったのだろう、それぞれの皇統から交互に選ぶようにした。後深草天皇の系統を持明院統亀山天皇の系統を大覚寺統という。なお、大覚寺統という用語は、亀山天皇の子の後宇多天皇が京都郊外の嵯峨野にある大覚寺の再興に尽力し、出家後は大覚寺に居住して院政を行ったことに由来している。同じように、持明院統後深草天皇の子の伏見天皇持明院殿を継承したことによっている。

会場には後宇多天皇に関係するものがいくつも展示されていた。後宇多天皇の肖像も、出家前と出家後のものが展示されていた。出家前のものがウィキペディアにも掲載されている。

後宇多天皇によって自ら書かれた文書類も展示されていた。『後宇多天皇宸翰御手印遺告』は21か条の教えで、弟子たちの間で守り伝えられていくことを願ったものである。同じものがウィキペディアに掲載されている。

今回の特別展は、開創1150年記念となっている。貞観18年(876)に清和天皇から寺号を勅許された。そして、来年(2026年)はそれから数えて1150年目を迎えることになる。開山は恒寂入道親王である*2。この寺の始まりはもっと古く平安時代初期まで遡る。親王の叔父の嵯峨天皇(786~842年)が退位後の御所としたのが嵯峨院である。ここは嵯峨天皇親王時代の山荘として始まり、天皇在位中は毎年のように北野遊猟の地として訪れた。退位した後はここに居住し、そしてこの地で崩御した。嵯峨天皇には空海(774~835年)との逸話もある。弘仁9年(818)、悪疫が蔓延し国民が塗炭の苦しみに見舞われていたとき、どうしたらこの惨状から救うことができるのかを空海に相談した。空海から「般若心経」の写本を勧められた。実行したところ、たちまち疾病が去り、安穏が訪れたとのことである。

会場には、嵯峨天皇空海の肖像が飾られていた。嵯峨天皇肖像画ウィキペディアにも掲載されている。

空海肖像画ウィキペディアにある。

また、空海離宮内に五大明王*3を安置する持仏堂の五覚院を建て、修行を行ったとされていた。会場には、平安時代に円派の明円によって作られた五大明王像が飾ってあった。また、室町時代に作られたとされる五大明王像も見ることができた。

展示では、後宇多天皇関連の展示が第2章、嵯峨天皇空海に関するものが第1章で、第3章は歴代天皇と宮廷文化であった。ここのコーナーで興味を持ったのは、大覚寺本と呼ばれる源氏物語の写本と、清和源氏に伝わるとされる大覚寺の太刀・膝丸と北野天満宮の太刀・髭切であった。

そして、最後の第4章は女御御所の襖絵である。すべてが重要文化財という素晴らしい展示である。大覚寺の中心に宸殿がある。この建物は、元和6年(1620)に後水尾天皇に入内した徳川和子(東福門院)の女御御所を移築したものとされている。内部を飾る襖絵・障子絵などの障壁画は、安土桃山・江戸時代を代表する画家・狩野山楽(1559~1635)の作である。山楽は、狩野派の代表的な画人である狩野永徳(1543~1590年)の弟子である。永徳は東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気(過労死)になり、それを完成させたのが山楽である。永徳のあと狩野派は、濃厚華麗な画風の京狩野派瀟洒淡白な画風の江戸狩野派に分かれる。山楽は京狩野派を代表する画家である。大きな会場に展示されている山楽の障壁画を楽しむことができた。また、この場所は写真を撮ることも許されていた。

宸殿(境内図で④)の襖絵は、山楽によって描かれた。柳松の間には、二種類の襖絵がある。
松鶴図、

柳桜図。

牡丹の間の襖絵。

寝殿の襖絵も展示されていた。正寝殿は歴代門跡の居室で、その中で最も格式が高いのが「御冠の間」である。
竹林七賢図(伝渡辺始興筆)、

野兎図(渡辺始興筆)、

鶴図(渡辺始興筆)、

松に山鳥図、

立木図、

御冠の間

室町時代後期から安土桃山時代にかけて大覚寺は数度の火災に見舞われる。応仁の乱ではほとんどの堂宇が焼失した(1468年)。天文5年(1536年)には木沢長政の放火により堂舎は炎上した。天正17年(1589年)に空性が門跡になり復興にとりかかった。また、元和3年(1617)には、徳川秀忠により1016石の知行を追認されている。宸殿と正寝殿の移築は元和から寛永年間にかけての後水尾天皇の時代に行われた。36~39世の門跡空性・尊性・性真・性応は天皇の近親者でこの時代に寺観がほぼ整えられた。

Google Earth大覚寺を俯瞰すると次のようである。

感想は一言、「百花繚乱」でした。

*1:治天の君とは、院政において政治の実権を握った上皇である。この頃は上皇は一人でなく、複数人の場合もあった。

*2:平安京に遷都した桓武天皇には、天皇になった息子が三人いた。平城天皇嵯峨天皇淳和天皇である。平城天皇の子の高丘親王淳和天皇恒貞親王は一度は皇太子になるものの、のちに廃されている。二人は僧門に入り、高丘親王は真如となり、恒貞親王は恒寂となった。なお、恒寂の師は真如である。嵯峨天皇の子が仁明天皇となった。

*3:五大明王とは、不動明王降三世明王、軍荼利(ぐんだり)明王大威徳明王金剛夜叉明王のことである。