神社と同じぐらいたくさんの古墳が存在すると言われているので、その全てを見ようなどというとんでもない夢を抱くことは決してない。しかし、口の端に上ったものは見ておこうと古墳好きの人なら考えるだろう。今回、そのような人を対象にしていると思われるガイド付きツアーを見つけたので、それに参加した。
数年前に北九州の古墳を見学しがてら大分の友人を訪ねたとき、奥さんから宮崎にも大きな古墳があると教えられた。機会を見つけてと思っているうちに、コロナによる妨害にあった。やっと、世の中も落ち着きを取り戻しインバウンドも急増してきたので、それほど混まないうちにと思って調べてみると、公共の交通機関ではとても行けないところにあることが分かった。レンタカーを借りてという手もあるが、疲れてくるとウトウトと寝てしてしまう危険があるので、リスクをとることはできない。
思いあぐねていたあるとき、南九州の古墳巡りをキーワードにしてググってみた。すると、ツアーの案内が出てきた。それほど人気がないだろうと予想して先に進めてみると、このツアーはすでに定員オーバーだった。でも、キャンセル待ちの枠がまだ残っていた。旅行代金を払い込むときになると取り消す人が少なからずいるという話を聞いていたので、参加できなくて元々と考えて申し込んだ。幸い、こちらの予想はあたりとなった。
出発日は月曜日であった。博物館利用者だと知っていることだが、この曜日は多くが休館である。博物館をめぐる旅行を計画するときは、火曜日スタートか日曜日エンドとするのがほぼ常識である。今回のツアーはこのルールに反しているのだが、そのような施設を利用しなくてよいように工夫されていた。この日は阿蘇山の外輪山近くの二つの神社と、古代山城の見学である。

今年の冬は暖かい日が続きとても過ごしやすいのだが、この日は大違いだった。大寒の名に恥じない冷え込みであった。しかも、熊本の気候は日本海側のそれに似ていて、冬季には太陽との縁は薄いようだ。阿蘇山の山並みを見ながらのお昼を楽しんでもらおうと思って、道の駅「あそ望の郷くぎの」を選んだのだろう。しかし、残念ながらそうはならず、山は雲の中にあった。

道の駅は阿蘇山のカルデラの中にある。Google Earthで、上部を北にして見ると次のようである。食事をした場所は、赤いバルーンがあるところである。

この日の前半のルートは、西側(上の図の左側)からカルデラに入り、阿蘇山にゆかりのある神社に立ち寄り、ほぼ一周して抜けるようになっている。カルデラの大きさは、南北25km、東西18kmで、面積は380k㎡である*1。カルデラの中央には火口丘があり、そこには高岳・中岳・根子岳・烏帽子岳・杵島岳の五岳がある。今回はこれらの山を見ることができず、誠に残念であった。また、カルデラの周りは外輪山で囲まれている。
最初の見学場所の上色見(かみしきみ)熊野座神社は外輪山の中にある。神主さんは常駐していない。ここの御朱印が欲しい人は、最寄り駅(南阿蘇鉄道・高森)の近くに観光センターがあるのでそこでもらうようになっている。このような状況からもわかる通り、かつては寂れていた。しかし、最近になって幸運が続いた。熊本県出身の漫画家・緑川ゆきさんの漫画・アニメ「蛍火の杜へ」の舞台となった。さらに、映画「るろうに剣心」最終章のロケ地となった。これらをきっかけに、国内外から多くの若い人が訪れるパワースポットへと変貌を遂げた。この日も、雨にもめげず、中国語や韓国語を話す若者たちでにぎわっていた。

右側が拝殿、左側に見えるのが本殿である。この神社は、国産みの神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)、そして阿蘇大明神の荒魂*2である岩君大将軍を祭神としている。創建は不詳である。

さらに奥には「穿戸磐(うげといわ)」があり、そこには巨大な風穴が開いている。この穴は、阿蘇大明神の従者「鬼八」が大明神の怒りをかって逃げる時に開けたと言い伝えられている。

穿戸磐から拝殿を望む。

次に訪れたのは肥後国一宮の阿蘇神社である。創建は第7代天皇の「幸霊天皇」の御代と伝わっている。平安時代の『延喜式(927年』では、名神大社に列せられていて、格式の高い神社である。主祭神は神武天皇の孫である「阿蘇大明神(健磐龍命:たけいわたつのみこと)」と11柱の家族神を祀っている。本殿3棟(一の神殿・二の神殿・三の神殿)と3門(楼門・神幸門・還御門)が国の重要文化財に指定されている。いずれも江戸時代末期の建築である。
楼門。熊本地震(2016年)で倒壊し、大きな被害を受けた。地震から約7年半を経て復旧した。

左は還御門、右は楼門。

拝殿。

一の神殿。

二の神殿。

健磐龍命が江戸時代に雷霊と共に降りたとされる神杉。

初日最後の見学場所は、『続日本紀』に「甲申(698年)に、大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城(みつのき)を繕治せしむ」と記載された鞠智(きくち)城跡である。いつ建てられたかの記述はない。しかし、大野、椽(き)の城が白村江の戦(663年)で敗れた後に防衛のために築かれたと『日本書紀』にあることから、鞠智城も白村江の戦のあとに建てられた山城と考えられている。この城は、米原(よなばる)台地上に立地し、滅亡した百済の職人たちが手掛けたと推定されることから「朝鮮式山城」と呼ばれる。百科事典マイペディアによれば、朝鮮式山城は、「多くは標高300〜400mの急峻な地形にあり、稜線に沿って石塁または土塁を築き、城内に倉庫群があり、谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴としている」と説明されている。
鞠智城もこのようになっている。下図で、中央の米原台地(標高90~171m)と呼ばれるところが城内で、建物群が存在する。土塁は図中の濃紺の線に沿ったところと考えられている。

そして、南側(図の下方)は谷間になっている。おそらく、渓流もあったことだろう。

鞠智城跡は周囲の長さ3.5km、面積55haの規模である。鞠智城跡に到着したとき、急に風雨が強くなり、横殴りの風が吹く中で雨を避けながらの見学となった。持参した傘の骨も折れてしまい散々であったが、なんとかこれというものは見ることができた。
左側は米倉、右側は八角形鼓楼である。

八角形鼓楼。柱のあとが八角形という特殊な形で配置されていた。このため、特別な性格の施設だろうと考えられ、鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元されている。掘立柱建物で、高さは15.8mである。また、重量約76トンの瓦がのっている。軒丸瓦の様式は朝鮮式で百済系の単弁八葉蓮華文である。

米倉。発見された21棟の礎石建物跡は規則正しく石が並べられ、それを土台にしている。その中の1棟は、重い荷物に耐える造りであり、かつ周囲から大量の炭化米が出土したので、食料である米を蓄えるための「米倉」として復元された。この建物は、長さ7.2m、幅9.6mの3間×4間である。

校倉(いたくら)。柱穴を建物の内側にまで配置した総柱の掘立柱建物跡が見つかった。その中の1棟は、荷物を保管するための高床の造りで、「兵舎」の近くにあった。このため、武器や武具などを保管するための倉庫として復元され、「板倉」と呼んだ。この建物は、長さ6.9m、幅12.0mの3間×4間である。

兵器庫。柱穴が建物の外壁部分だけに掘られた掘立柱建物跡が見つかり、その中の1棟は日常的な生活をうかがわせる土間床の比較的大きな建物であった。このことから、鞠智城の守りについた防人たちが共同で暮らすための「兵舎」として復元されている。建物は、長さ26.7m、幅7.8mの3間×10間の建物である。

中央に貯水池跡がある。また、建築の木材を保管する貯木場や、水汲み場の跡も見つかった。池の中からは百済から持ち込まれたと考えられる銅造菩薩立像や、木簡、建築部材、木製農耕具などの貴重な遺物が発見された。

鞠智城温故創生之碑。鞠智城のシンボルとして平成8年度に建てられた。中央に防人、前面(左側)に防人の妻と子、西側(中央)に築城を指導したといわれる百済の貴族、東側には八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女が配置されている。北側(右側)には一対の鳳凰が立っている。台座には万葉集からの防人の歌と鞠智城の歴史を解説した6枚のレリーフが掲げられている。

鞠智城を知ったのは、2018年に鞠智城・古代山城シンポジウムに参加してからだ。シンポジウムで得た知識をもとに、頭の中に描いた鞠智城のイメージは、山の奥深く、木立に囲まれた所に広場があり、そこに大きな建物があるというものだった。聞くと見るとは大違いで、広い台地上に建物群が展開されているのを見て、ずいぶんと違ったイメージを抱いていたと思い知らされた。特に三方を山で囲まれている低地では、水と食料を確保できるようになっていた。敵に包囲されたとしても、長い期間にわたって籠城できるように作られていることを知った。激しい風雨を衝いての見学となったが、「一見は百聞に如かず」であることを強く印象づけられ、このような悪いコンディションの中にもかかわらず、得るところは多かった。
この日は神社の見学が主であったが、次の日はいよいよ熊本の装飾古墳をたくさん見ることができる。