この日に見る古墳は、日本全国にたくさんある古墳の中でも変わりものであろう。石室の中に装飾が施されている。このような装飾古墳は、熊本県におよそ200基あり、全国には約700基である。熊本から全国へ広がったとみられている。装飾という様式を伝える独自のネットワークが存在したようだ。
ところで、古墳はなぜ生まれたのだろう。松木武彦さんの『はじめての考古学』によれば、今から紀元前3000年前の中央ユーラシアに起源があるようだ。この地に「地面に木材などで墓室を作り、その上に高く大きく土を盛り上げた墓」が出現し、紀元前の数百年で急速に大型化しながら東西に広がった。中国には紀元前5世紀頃の戦国時代から土を盛り上げた同じ系統の墓が発達し、秦の始皇帝の時に頂点に達した。紀元後になると、地球規模の寒冷化に伴って、巨大な帝国(漢・ローマ帝国)が衰退し、滅亡していく。漢の歴代の皇帝も大きな墳墓を築いたが、その滅亡とともに墳墓の造営は廃れていく。逆に、周辺地域の高句麗・百済・新羅・加那・大和の各国では、漢の皇帝たちに倣って、王の権威を示す手段として大きな墓を作るようになる(西ヨーロッパでも同じようなことが起きる)。
中央ユーラシア、中国、新羅、加那では、地面に墓を作って王を埋葬し、その上に礫や土を盛り上げて墳丘を完成させた。高句麗や百済では石を積み上げていく途中で石室を設けた。これに対して、日本列島の古墳は、まず土を盛り石を葺いて墳丘を作り、その後で、頂上に浅い墓穴を作り、その中に作られた石室に王を埋葬した。日本列島だけが埋葬が最後であるのも特徴の一つである。また、墓が墳丘の上部にあるのも特徴で、亡くなると天に登るという思想を、反映したのではないかと松木さんはみている。さらには、中国、高句麗、新羅、百済では大きな墓はほぼ王だけに限定されているのに対し、日本ではあちらこちらに大きな墓が存在しているのも異なる。これはヤマト王権が軍事的な統一ではなく、卑弥呼という女性をみんなの王にしたと魏志倭人伝で書かれているように、合意と連合の産物によるとされている。すなわち、中心のヤマトには大王(王の中の王)の古墳が築かれ、地方にはその土地の王(首長)の古墳が築かれた。墓の大きさは、大王を中心とする連合の中での王の序列を表現していると考えられている。
大和王権が発足したのは3世紀中ごろとされている。奈良盆地で最大の古墳である箸墓古墳が、初代の大王の墓とみられている。この墓と同じ前方後円墳は、大和を中心に近畿・瀬戸内・九州北部に主に分布し、東日本にも小規模のものが散在する。また、前方後方墳は、その最大のものは近畿を中心に分布するが、たくさんのものが東日本に存在する。そのほか、円墳と方墳もかなりの大きさを有するものが全国にある。それぞれの古墳の形には地域性も見られることから、大王との結びつきの濃淡や強弱を表しているのではないかと考えられている。
大和王権成立当初の副葬品は、鏡、腕輪型石製品、銅鏃(どうざく)だが、埋められている数の多さは大和王権との繋がりの強弱を表しているとされている。また、種類での偏りは、大和王権と地方の王たちの間に異なるネットワークが種類毎に存在していたのではとされている。また、副葬品の内容から埋葬者の性別を知ることができる。そこからは、大和政権が発足した当初は埋葬者の男女比は6対4であり、ジェンダーによる違いが小さかったことが分かっている。
大和王権は3世紀中ごろから4世紀中ごろまで奈良盆地に大規模な古墳を築いていたが、4世紀の終わりごろになると大阪平野に築くようになる。ここからは古墳時代の中期とされる。この時代になると大王により強い権力が集中し、前期が重なり合う弱いネットワークであったのに対し、中期になるとネットワークは一元化される。各地の王や有力者の大多数は男性が占めるようになり、甲冑や矢が副葬されるようになる。中期は、中国の史書に記される倭の五王の時代で、朝鮮半島での権益の獲得と保持を狙って、中国南朝・宋からのお墨付きを求め、朝鮮半島の勢力の一部とは緊張関係にあった。この時期の大王の前方後円墳は巨大化し、外交の窓口であった大阪湾沿岸に築かれ、国威を発揚したと考えられている。また、前期にはバラエティに富んでいた各地の王の墓も、中期には前方後円墳に統一されるようになる。さらに、各地の王の古墳にも賑やかな埴輪が飾られるようになる。須恵器や馬など、朝鮮半島から先端の技術が導入されたのもこの時期である。
6世紀は後期と区分される。巨大だった前方後円墳は、規模が小さくなり始める。この時代、5世紀に大陸から伝わってきた横穴式石室が爆発的に普及する。この石室は墳丘の底に近いところに造られる。このため、墳丘を高く大きく作ることの意味が薄れて、石室の内部やその空間を大きく美しく示すようになる。中期の前方後円墳が三段で築かれたのに対し、後期は二段が通例となる。穀類の生産が発展したことで生活に余裕がでてきて、地域のリーダーも小さな円墳や山すそなどに数十あるいは数百基にも及ぶ墓(「群集墳」と呼ばれる)を副葬品を伴って造ることになる。しかし、7世紀になると仏教の影響を受けて寺院建設が盛んとなり、前方後円墳は消滅し、古墳時代の終末期を迎える。
少し、前置きが長くなったが、それでは、熊本の装飾された古墳を見ていこう。この日の行程は下図のように、菊池川に沿って下流に向かう。

熊本の古墳は他の地域ではあまり見られない横穴式石室を持つ。肥後型横穴式石室と呼ばれるが、これには二つの構造がある。一つは単室構造、もう一つは複室構造と呼ばれる。単室構造は羨道と玄室からなり、複室構造は羨道と玄室の間に前室が設けられる。この場合には、玄室は後室と呼ばれることもある。玄室には、主たる埋葬者の遺体が安置される石屋形がある。石屋形は前面に開いていて、死者が見えるようになっている。そして、後方と側面には装飾が施されている。側面の屍床にも死者を安置できるので、この墓には複数人が埋葬される。また、天井がドーム型になっているのも特徴である。図は熊本県装飾古墳総合調査報告書(1984)からのコピーである。


最初はチブサン古墳とオブサン古墳である。チブサンは、石屋形に描かれた文様が乳房に見え、オブサンは「お産」に由来しているとのことである。チブサン遺産の横穴式石室には、山鹿市の職員の方が扉の鍵を開けてくれたので、石室の中を見ることができた。石室は複式構造で、扉の中に入るとそこは羨道である。さらに進むと保護扉に行きつく。そこの扉も開けてもらい、這うようにして中に入ると前室である。前室と玄室の間には観察窓が設けられているので、そこから、石屋形を観察する。内部は写真を撮れなかったが、近くにその複製がある。壁面には三角形や丸を用いて幾何学模様が描かれている。そして、左側に、白い大きな丸の中に小さな黒い丸が二つ並んでいるが、乳房に見えるだろうか。私にはどうしても目のように見える。

この古墳は、6世紀初め(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、墳丘長が約55m、後円部の高さが約7mである。

前方部と後円部の間のくびれ部分に立てられていたと伝えられている石人(石人は九州地方に多く出土する)、

朝顔形埴輪と円筒埴輪が出土している。このほかには、須恵器・土師器が見つかっている。

次のオブサン古墳は円墳で、直径は約22m、高さは約5mである。6世紀後半に造られたとされた。複室構造の横穴式石室で、その入口両脇は突き出している(この形は珍しい)。

前室を閉じるための閉塞石。この辺りは西南戦争の時の激戦地で、薩摩軍はこの石室の中に立てこもった。閉塞石には砲弾のあとが残っている。

玄室を閉じるための閉塞石。途中で折れてしまったようで、下部だけが展示されている。元の大きさは、壁面に沿って描かれているとおりである。

出土品の復元。古代から近世のものまで多数見つかっているが、玄室付近からはあまり発見されていない。これは盗掘にあったためとされている。また、石室の装飾の多くも傷つけられ、ほとんど残っていない。

二つの古墳を見学する前に、山鹿市立博物館を訪れた。展示を撮影することは禁じられていたので、玄関先にあった首のない石人を撮影した。山鹿市の臼塚古墳に立っていた武装石人のレプリカである。

次は、熊本県立装飾古墳館(左側)と岩原(いわばる)古墳群である。古墳群は5世紀(古墳時代中期)に造営され、双子塚古墳(右側)とその周りに大小11木の円墳がある(図は右側が北)。

熊本県内最大級で、全長107mある前方後円墳の双子塚古墳。左側が祭式を行うための前方部で、右側が死者を埋葬する後円部である。墳丘は3段築盛で、墳長は107m、高さ9m、後円部直径97mである。発掘調査が行われていないため埋葬施設については不明だが、地中レーダー探査などからは家形石棺が直接埋められているとみられている。

双子塚古墳(左側)と周囲の円墳。

円墳。

それでは館内で、復元された装飾古墳を見ることにする。
鴨籠(かもこ)石棺(宇城市)。5世紀の後半円墳で、直弧文を浮き彫りで描いて、赤・灰で彩色している。

井寺古墳(嘉島町)。6世紀の円墳で、直弧文、同心円文などを線刻のあと、赤、白、緑で彩色している。

小田良古墳(宇城市)。5世紀の円墳で、円文、鞘、楯などを浮き彫りで描いている。


千金甲1号墳(熊本市)。5世紀の円墳で、鞘、同心円文などを浮き彫りのあと、赤・黄・緑で彩色している。

チブサン古墳(山鹿市)。6世紀の前方後円墳で、人物、三角文、円文などを赤・白・黒で彩色している。

大坊古墳(玉名市)。6世紀の前方後円墳で、連続三角文や円文などを赤・灰・黒で彩色している。

弁慶が穴古墳(山鹿市)。6世紀の円墳で、同心円文、舟や馬などを赤・白・灰で彩色している。


永安寺東古墳(玉名市)。7世紀の円墳で、三角文や円文、舟などを赤で彩色している。

以上は熊本県の装飾古墳であるが、参考に、福岡県の王塚古墳(嘉穂郡桂川町)も、復元されていた。6世紀の前方後円墳で、鞘、楯、騎馬、星、双脚輪状文、わらびて文、三角文などを赤・黄・緑・黒・白で彩色している。


装飾古墳館。建築家の安藤忠雄さんが設計した。

次の訪問地は江田船山古墳。この古墳は5世紀末から6世紀初頭にかけて築造され、全長が62m、高さが10mの前方後円墳である。

大刀復元。この古墳は銀象嵌の銘文入りの鉄刀が出土したことで有名である。

刀の峰に銀象嵌の銘文が記されている。読み下し文で表すと、「天の下治らしめししワカタケル大王の世、典曹に奉仕せし人、名はムリテ。此の刀を服する者は、長寿にして子孫は洋々、□恩を得る也、其の統ぶるところを失わず、刀を作る者、名はイタワ、書する者は張安なり」と記されていた。ワカタケル大王は雄略天皇とされている。
江田船山古墳の周りにはいくつかの古墳が存在し、公園になっている。肥後古代の森には、無人の和水町歴史民俗資料館があって、銀象嵌銘大刀を始めとする江田船山古墳からの副葬品を復元したものが展示されている。本物はトーハクにある。

この日の最後の訪問地は大坊古墳と玉名市博物館である。ここの古墳のレプリカは装飾博物館で見学したが、現地で実際に確認した。パンフレットには次のように紹介されている。大坊古墳は、菊池川右岸の玉名平野を望む丘陵の先端に位置しており、6世紀前半から中頃に造られた古墳で、全長40mを超える前方後円墳と考えられている。大坊の集落の北側丘陵裾部に大坊天満宮が位置し、その背後に古墳が築かれている。後円部には、南に開口する横穴式石室が設けられている。石室内部は、手前に前室、その奥に玄室(奥室)があり、複室と呼ばれる構造である。玄室は、平たい石を積み上げて構築され、中に遺体を安置する石屋形が設けられている。石屋形は、板状の石を組み合わせて箱状に造られており、奥壁には、赤・黒・青・灰色などの顔料で連続三角文、円文が描かれている。
山梨の職員の方が内部を案内してくれ、前室前に設けられた見学窓から見ることができる。

毛綱毅曠(もづなきこう) さんが設計した玉名市立博物館。

この博物館では玉名市の歴史が紹介されているが、今回見学したのは、古墳時代に関するものだけである。
舟形石棺(山下古墳)。古墳時代前期から中期を中心とした、九州の刳抜式(くりぬきしき)石棺が始まったのは、讃岐地域と考えられている。これとつながりのある舟形石棺は、菊池川流域に50基ほど分布し、下流域には34 基が確認されている。また、この玉名で製作された石棺は、5 世紀中頃になると大牟田・みやま・佐賀の他、瀬戸内海沿岸、大阪の有力者古墳の棺として舟で運ばれた。

これだけ古墳を見たのだから古代人の死生観を知りたくなる。装飾博物館にその説明があったので、その部分をコピーすると次のようである。古代の人たちはこの世で死ぬことは、あの世で生まれることであると固く信じていた。したがって、あの世の生活のために、大きな古墳を作り永遠に壊れないように石積みの堅固な家を作り、部屋を少しでも美しくしようと、赤や青や白などの絵を描いたり、いろいろな文様を彫ったりした。その絵や文様から、古代の人の死生観が想察される。
古代人が死後の世界と考えた所は、①あの世は地下にある:古事記や日本書紀に、愛する妻を失ったイザナギノミコトが妻を訪ねてユモツヒラザカから、黄泉の国に下りて行き妻と問答する話がある。この物語をよく示しているのが横穴式石室である。
②死ねば魂は鳥になる:神話の中にヤマトタケルノミコトの話がある。東国退治に行ったミコトはノボノで死ぬ。塚を築いてミコトを葬り祭っているとミコトの魂は白鳥となって古里ヤマトをさして飛んでいく、という話である。弁慶が穴古墳や珍敷塚(めずらしづか)古墳に描かれている鳥の絵はその好例である。
③あの世は海の彼方にある。万葉集の「おきつ国しらさむ君がしめ屋形 黄染めのやかた 神の門わたる」の歌は「あの世の君となるべき貴人を乗せた舟が山の狭門を静かに流れていく」という光景をうたったものとされる。隋書倭国伝には「葬におよび、屍を船上におき陸地にこれを牽く」とある。
④あの世は山の上にある:民俗学では、「死出の山といわれるように死ねば魂はそれぞれの村を見下ろせるような高山や霊山に行くという信仰があった」という。万葉集にも柿本人麻呂が、死んだ妻を求めて山に行こうと詠んだ歌がある。村を見下ろす高いところに古墳があることが多い。装飾古墳の文様にはないが、古代から確かにその思想はあったものと思われる。
古代の人々の死生観が分かったところで、次の日は日向国(宮崎)の古墳巡りである。