bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

熊本・宮崎の古墳・神社巡り(三日目)―大規模古墳群

いよいよ旅行の最終日になった。この日は、大規模な古墳群を見るために、熊本から人吉盆地を抜けて宮崎への大移動である。

そして、天気の方も荒い歓迎をしてあげようと思ったのだろうか、熊本の山間部では雪が予想されていた。案の定、八代から人吉へと山中を抜けていく九州縦貫自動車道では、長いトンネルを出ると必ず雪に見舞われた。運転手さんは大変だったことだろうが、乗客である私は久しぶりの雪景色を楽しんだ。

人吉盆地に到着し、ここでの見学場所は青井阿蘇神社である。この神社の境内にある楼門・拝殿・幣殿・廊・本殿は国宝である。人吉藩主・相良氏による江戸時代初期の建築で、球磨地方独自の意匠が施されていることが評価されての結果である。これらの建物は、黒漆を基調とし、組物を赤漆で装飾し、急勾配の茅葺屋根を特徴としている。創建は大同元年(806)とされ、阿蘇神社から12柱のうち3柱(阿蘇大明神(健磐龍命)、阿蘇津媛命(妃)、速甕玉命(はやみかたまのみこと・初代阿蘇国造))を勧請したとなっている。
楼門。

組物の赤漆。

拝殿。

左が拝殿、右が幣殿。

左が幣殿、中央が廊、右が本殿。

幣殿の内部。

欄間は仏教様式。一般に、寺院は装飾し、神社は簡素にするが、青井阿蘇神社はそうなっていない。仏教様式の装飾になっているのは、江戸時代は神仏習合であったことによる。

「みそぎばし」から楼門を望む。

左は御神木(くすのき)、右は建築家の隈研吾さんが設計した参集殿。

次の見学場所は、かつては新婚旅行のメッカであった宮崎・青島である。

青島への橋。左が青島、中央が青島神社の鳥居、右が奇岩「鬼の洗濯板」である。「鬼の洗濯板」は、中新世後期(約700万年前)に海中で出来た水成岩(固い砂岩と軟らかい泥岩が繰り返し積み重なった地層)が隆起し、長年にわたって波に洗われ、砂岩層だけが板のように積み重なって残り、このような形状になった。

「鬼の洗濯板」。亀の頭みたいである。

亀甲のような小さな枠が造られ、その内側が削られている。

青島神社拝殿。

元宮。

亜熱帯性植物のビロウ樹。樹林の中を散歩していると、南国にいるような気がしてきた。

やっと、古墳群の見学である。訪れる場所は宮崎市の生見(いきめ)古墳群と西都市の西都原(さいとばる)古墳群である。宮崎県には3600基の古墳があるとされている。川の流域ごとにどのような古墳があるかは、シンポジウム「世界文化遺産としての古墳を考える Part IV」から読み取ることができる。

上図から、生見古墳群は前期(4世紀)がピークで、中期(5世紀)には勢いを失っていくことが分かる。それに対して、西都原古墳群は前期には小規模な古墳が多数あり、中期の初めになると突然大規模な古墳が造られ、その後同じように威勢がなくなる。

それでは、生見古墳群から見ていこう。この古墳群は、宮崎市街地の西部に位置し、大淀川右岸の標高約20mの丘陵上に南北約1.3㎞、東西約1.2㎞の広さである。Google Mapで見ると南北に展開していることが分かる。

Google Earthを用いて3次元で見る。墓の形状が分かりやすい。

2003年の宮崎市教育委員会発行の「史跡生見古墳群―保存整備事業 発掘調査概要報告書Ⅳ―」によると古墳群の概略は以下のようである。また、この古墳群の前方後円墳は4世紀から5世紀初めに造られたとされている。

生見古墳群のガイドブックから、それぞれの古墳が造られた時期が分かる。

5世紀初めに造られた5号墳。前方後円墳で墳長は57mである。この古墳では、後円部と前方部は2段に造られ、墳丘の表面は河原石を並べた葺石になっている。また、墳丘の東側の平坦な場所に埴輪が並べられていたことが分かっている。この古墳の復元は当時と同じようにほとんど手作業で行われ、表面には約90,000個の葺石が当時の並べ方そのままに再現されている。

前方部より後円部を望む。埴輪が並んでいたのは、左側の奥の平坦なところだろう。

4世紀に造られた14号墳。前方後円墳で墳長は63mである。発掘調査では、当時のままを残す葺石が発見された。また、5号墳で出土した埴輪と同じ形状のものが発見された。

4世紀中ごろに造られた3号墳。前方後円墳で墳長は143m、高さ12.7mである。この古墳群の中で最大で、九州でも3番目の大きさである。

4世紀に造られた21号墳。前方後円墳で墳長は35mである。この古墳群の中では最小の規模である。この古墳の周りで13基の地下式横穴墓が確認された。ここでの地下式横穴墓は、周溝の底に竪穴を堀り、そのあと周溝の外側に向けて横穴を掘り、羨道と玄室を設けて墓を造っている。

生見の杜遊古館では発掘品を見ることができる。

円筒埴輪。

復元埴輪。

須恵器(7号墳)。

地下式横穴墓。古墳時代の南九州には、「地下式横穴墓」が多く存在し、これは名前の通り地下に造られた墓で、平坦な大地の上に造られた。これまでに1000基以上見つかっていて、中には前方後円墳に埋葬された人物の副葬品と見劣りしない多様な品々を出土するものもある。地域の有力者が前方後円墳ではなく、地下式横穴墓に埋葬されたこともあったとされている。ここの古墳群では50基を超えている。また、前方後円墳の周囲で発見されることが特徴である。写真で人がいるところに竪坑が掘られ、そのあと横穴が掘られる。そして、死者が埋葬されたら竪穴は埋め戻される。

地下式横穴墓からの頭蓋骨、土師器と須恵器。

同じく土師器と須恵器。

同じく高坏。

同じく鉄刀・鉄斧・鉄鏃。

それでは最後の訪問地である西都原古墳群を見ていこう。この古墳群は、標高50~80mの台地上に東西約2.6㎞、南北4.2㎞と広大である。3世紀後半から7世紀前半にかけての古墳が300基あまり、点在している。
Google Mapで見た古墳群。

Google Earthで俯瞰してみる。

九州に古墳を見に行きたいと思うようになったのは、ある人から宮崎には広大な古墳群があると知らされたときからである。それがこの西都原古墳群である。このため、ゆっくりと見学したいという希望を抱いていたが、帰りの高速道路が交通事故のため使用不可能ということで、帰りの飛行機に間に合わせるための急いでの見学となった。

見学できた古墳は、鬼の窟古墳だけとなった。この古墳の名前は通称で、正式には206号墳である。西都原台地のほぼ中央部に位置し、直径37m、高さ7.3m、土塁の高さ約2~2.6m、土塁の基底部幅約9mを有している円墳である。西都原古墳群では唯一の横穴式石室を持ち、墳丘の周囲には土塁(外堤)を廻らす特異な形状をなし、全国的にみても他に例がない。

石室の天井石は畳3枚程の大きな石を使用し、石室の規模は、羨道の長さが4.82m、幅2.29m、高さ1.8m、奥方の玄室は、長さが4.82m、幅2.29m、高さ2.15mである。全てが加工された切石で積み上げられている。築造時期は、古墳時代後期から終末期の6世紀後半から7世紀初頭頃とされている。

鬼の窟古墳の外堤手前。

横穴式石室入口。

石室内部。

外堤より周囲を望む。周りには古墳が見える。

宮崎県立西都原考古博物館近くの古墳。

西都原考古博物館。地元の那須設計が設計した。

埴輪 子持家。

埴輪 船。

壺。

器台。

さて、埴輪に関係するものが出てきたので、埴輪の起源について説明しておこう。古墳時代に先立つ弥生時代に、器台の上に壺を逆さにして乗せたものを、農耕祭祀の道具として用いた。古墳時代になると、この形式が死者を祀るために使われるようになった。そのとき、器台と壺は特殊器台と特殊壺に変化し、昨年のトーハクの『ハニワ展』で見たような形となった。

地下式横穴墓から出土した頭蓋骨。

女性の頭髪復元模型。竪櫛が付いたままの頭蓋骨が発見されたので、それをもとに復元された古墳時代の女性の頭髪である。

西都原古墳群には、九州地区では最大級の古墳が二つある。男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)で、前者は天孫降臨したニニギノミコト、後者はその妻のコノハナサクヤヒメの御陵である*1。男狭穂塚古墳は墳長154.6mで国内最大の帆立貝形古墳であり、女狭穂塚古墳は、墳長176.3mの前方後円墳で九州最大規模を誇っている。陵墓参考地であるため、特別参拝日以外は見学できない。館内では映像で紹介している。左側が女狭穂塚、右側が男狭穂塚である。

3日間かけて、古墳と神社を巡った。一人で計画を立てて廻ったとしたならば、このような短い時間の中で、これだけのものを見学することは不可能だっただろう。この分野に詳しいガイドさんが、上手に選択し、効率よく見学させてくれたことで、予想以上に大きな収穫を得ることができた。特に、装飾古墳と地下式横穴墓については全く知識がなかったので、古墳時代の九州の特殊性を知るうえで、良い材料が得られたと感謝している。最後の西都原遺跡は見学する時間が短く消化不足であった。しかし、これだけの広大な古墳群を見ようとすると、少なくとも一日はかかるので、次の機会があることを期待したい。

*1:神話では二人は次のように伝えられている。高千穂の地に天下った天つ神の皇子「ニニギノミコト」は、ある日小川で美しい姫「コノハナサクヤヒメ」に出会い、一目で心を奪われてしまう。ニニギノミコトコノハナサクヤヒメの父「オオヤマツミノカミ」に姫との結婚を申し入れ、めでたく結婚する。しかし、夫婦としてともに過ごした一夜が明けるとニニギノミコトは反乱部族の討伐へと旅立って行く。時が過ぎ、無事帰還したニニギノミコトコノハナサクヤヒメの懐妊を告げられる。一夜限りの逢瀬で子どもを授かったことが信じられないニニギノミコトは姫の貞節を疑う。「子どもはほかの国つ神の子ではないのか」と言われ、姫の心は深く傷つく。あらぬ疑いを掛けられ、悲しみに怒りをおぼえた姫は、「もし生まれてくる子がほかの国つ神の子であるなら、無事に生まれないだろう。 しかし、天つ神ニニギノミコトの子であれば、たとえ火の中でもきっと無事に生まれるだろう。」と言って、姫は出口のない産屋にこもった。出産の時が近づき、姫は産屋に火を放った。燃えさかる炎の中で無事に3人もの子を産み、姫は身の潔白を証明した。