日本と中国との関係は、世界の歴史の中でも最も長く続いている二国間関係の一つだろう。『後漢書』には、後漢の光武帝が朝貢してきた「倭の奴の国」に「印・綬」を与えた(西暦57年)という記載がある。そして、これに符合するとされる金印は、江戸時代に博多湾口の志賀島で発見されている。二国間の関係はこれよりも前にさかのぼることとなるので、少なくとも2000年以上は続いていることが分かる。このように長い二国間の関係をたどってみようというのがこの本である。

両国の関係は、日本の戦国時代を境にして変化する。室町時代までは朝貢貿易により中国の文化を積極的に受け入れていたが、江戸時代になると長崎の出島を窓口とした国交なき貿易から分かるように細々とした交流になり、明治以降は競合するようになる。
大陸国の中国は、農業を生業とする人々と遊牧をそれとする人々の間でのせめぎあいの歴史であった。このような環境の中にあって、国家を統治する方法は早い時期に確立された。最初の王朝が成立したのは、今から4000年以上も前のこととされている(この頃は日本はまだ縄文時代である)。長い歴史を経る中で、中国が育んできた外交政策は冊封*1である。先に金印を説明する中で、奴国が朝貢したと説明したが、これがそうである。冊封が終了したのは19世紀末とされている。
中国は、後漢のあと、短命の国が複数分立した五胡十六国の時代を迎える。この時代に、倭の王権の体制保証と国際的優位性を付与してもらうために、5世紀には倭の5代の王が南朝の宋に入貢し冊封を受けている。
6世紀末には中国大陸を統一した隋が出現する。これを受けて、朝鮮半島の三国が冊封を受ける。倭国は冊封を受けないものの、これに遅れまじと遣隋使を送って朝貢する。その後すぐに隋が倒れ唐が建国すると、すかさず遣唐使を送る。さらに、8世紀初頭には中国の律令制度に倣って大宝律令を制定し、その少し前には国名を日本、倭国の大王を天皇と称した。
8世紀前半に10~15年おきぐらいに遣唐使が派遣されたものの、その後半には唐で安史の乱が発生したこともあり国家間の交流は消極的になる。しかし、天武系から天智系へと天皇の系統が変わった9世紀初めの平安時代初頭には、唐の勢いが衰えているにも関わらず王権の力を誇示する目的から遣唐使が派遣された。遣使には、この後の時代の仏教を興隆に導く最澄・空海が含まれていた。しかし、9世紀末になると、予定された遣唐使は唐の衰えを理由に菅原道真によって中断された。
10世紀初めに唐が滅びると、中国は再び短命国が複数並び立つ五代十国の時代となる。この頃の日本は、平安時代後期から鎌倉時代前半で、交流したのは宋である(五胡十六国時代の宋とは異なる)。宋は10世紀後半から13世紀後半まで続いた王朝であるが、12世紀半ばに女真族の金に華北を奪われて南遷した。これより前を北宋、後を南宋という。宋は、貿易振興の目的で各地に市舶司を設置し、日本、高麗、南海との貿易を行った。日本は、大宰府の統制下で鴻臚館貿易を行ったが、刀伊の入寇の頃から太宰府権能の衰微が始まった。日宋間では正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は表向き禁止されたが、宋の商人は主に博多や薩摩坊津そして越前敦賀まで来航し、私貿易を盛んに行った。
11世紀初めには入宋僧の活躍も目立つ。例えば、奝然は円融天皇から宣旨を受け、海商陳仁爽・鄭仁満の船で入宋している。寂照・成尋も同様である。彼らは依頼主の罪業消滅を期待されている場合もあった。12世紀中頃には、東大寺大仏殿を再建した重源、禅宗を伝えた栄西も入宋している。
鎌倉時代の13世紀から14世紀初めには、禅宗を広めた俊芿(しゅんじょう)・道元・円爾も入宋するが、反対に宋からの渡来僧も目立つようになる。蘭渓道隆(時頼)・兀庵普寧(ごったんふねい、時頼)・無学祖元(時宗)・東明慧日(貞時)などが招聘され、鎌倉の建長寺・建仁寺・円覚寺の住持となった。
鎌倉幕府が倒された後の南北朝時代(14世紀)は戦いに明け暮れ、中国も明王朝が誕生する激動期にあり、両国とも国内体制は安定していなかった。このため、両国の間の安全な貿易は保障されず、前期倭寇と呼ばれる海賊が跋扈した。
14世紀後半に、足利義満と永楽帝が室町幕府と明王朝の政権を確かなものにする。義満は民間貿易を禁じている明と貿易をするための方便として、冊封を受けた。朝貢貿易は、一時的な中断はあったものの室町幕府が衰退するまで続けられた。しかし、幕府の力が衰えた時代には、朝貢貿易を実際に実施したのは、管領の細川氏や守護大名の大内氏であった。室町時代の朝貢貿易は、勘合符を用いて行われた。勘合を所持している船が、朝貢貿易の権利を持っていると見做された。
16世紀前半には、勘合符の所持で争っていた大内氏と細川氏が、中国の寧波で中国側も巻き込んで遣明船を焼き払うなどの激しい争いを起こした。この事件をきっかけにして、私貿易・密貿易が活発化し、後期倭寇が跋扈した。後期倭寇として知られているのは、王直である。後期倭寇(わこう)の首領。中国安徽省出身で、塩商だったが失敗して密貿易に転じた。16世紀半頃の海禁政策のゆるみに乗じて、広東で禁制品の密貿易をした巨大な富をたくわえた。その後、日本の五島列島に拠点を移し、嘉靖の大倭寇とよばれる海賊活動をおこし、数百隻の船団で中国沿岸を襲撃したが、明の総督胡宗憲の勧めに応じて投降し斬首された。
16世紀後半には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって国内は統一され、中国や南アジアとの貿易が盛んとなる。しかし、徳川幕府が落ち着いた17世後半以降、幕府の貿易制限策によって鉱物の輸出は制限された。しかし、生糸・砂糖・朝鮮人参に対する輸入の需要は強かった。8代将軍徳川吉宗の時、これまでの主要な輸入品の国産化が進められた。生糸は18世紀前半には生産が増大し、西陣織に代表される絹織物の生産を発展させ、18世紀後半には中国産生糸・絹織物の輸入は大幅に減少した。砂糖は日本ではほとんど生産できずオランダ船による輸入砂糖に依存していたが、18世紀前半より高松藩・薩摩藩で国産化が推進され、19世紀初めには国産砂糖が輸入品を圧倒するようになった。また、朝鮮人参の国産化にも成功した。
貿易の変化は、長崎経由の貿易だけでなく、琉球・対馬にも及んだ。琉球は、薬種・唐雑物を輸入し、海産物(日本産の俵物・諸色)を輸出し、対馬は銅の輸出と薬種を輸入するようになった。こうして、銀・生糸による日中貿易の時代は終わり、18世紀の日本市場は中国経済から自立していった。
本の後半では近代・現代の日中関係が説明されているが、ここでは割愛する。
ここまで見てきたように日中間では、政権がしっかりしているときは振興策あるいは制限策は官主導の貿易で行われ、そうでないときは海賊行為を伴うこともありえる私貿易が盛んであった。この本を読む前に、上田信著『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』を読んだばかりだったので、戦国時代についての私貿易についてはさらに理解を深めることができた。特に、上田さんの本には、 倭寇の取り締まりを行った鄭舜功の目を通しての戦国時代の日本人像が描かれていたので、この二つの本を合わせて読むと、戦国時代から江戸時代にかけての両国の関係を知るうえで助けになることが多いと感じた。
最後に両国間の貿易品目の推移をあげておく。
・唐との貿易
輸出:琥珀(蝦夷)・瑪瑙(メノウ)・紙・美濃絁(あしぎぬ)・水織絁(みずおりのあしぎぬ)
輸入:あらゆる分野の書物・仏教関係(仏像、図像、香薬)・高級絹織物・高級工芸品
・北宋との貿易(平安後期)
輸出:金・硫黄・巻貝(奄美諸島以南、螺鈿細工)・工芸品(刀剣・扇・蒔絵)
南宋では木材も加わる
輸入:陶磁器・香薬・織物
・遣明船での貿易(室町時代)
輸出:硫黄・工芸品(刀剣・扇・蒔絵)・銅
輸入:生糸・絹織物・銅銭・香薬・書籍
・清との貿易→高級品・奢侈品から民生品へ