後半の旅行先は小豆島。この島は瀬戸内海にある島々の一つで、淡路島に次ぐ大きさである。香川県に属し、人口は2.6万人弱と多くない。昭和30年代には5万人ぐらいだったので、半分程度になっている。主要な産業は、オリーブ栽培、醤油醸造、手延べソーメン、佃煮製造、観光業、農業と漁業である。
小豆島から連想するものは何かと尋ねられたら、シニア世代は『二十四の瞳』、若い世代は『からかい上手の高木さん』と答えるだろう。これらの映画は、小豆島をロケ地としている。『二十四の瞳』は2回映画化され、昭和29(1954)年に公開された高峰秀子さん主演の作品(木下恵介監督)と、昭和62年(1987年)の田中裕子さん主演のリメイク作品(朝間義隆監督)がある。『からかい上手の高木さん』は、山本崇一朗による漫画がベースで、2018~19年にテレビアニメ化、昨年には実写映画化された。我々は、話題では若い人たちに負けないようにしようということで、『からかい上手の高木さん』とラッピングされたタクシーを利用して小豆島を巡った。
最初に訪れたのは『二十四の瞳』のゆかりの地である。作者は壷井栄さんで、小説は昭和27年(1952年)に発表された。昭和29年版の映画のストーリーは次のようである。師範学校を出たばかりの大石先生(高峰秀子)は、女性教師が珍しく、また、新米だったことなどから、「おなご先生」と呼ばれた。赴任してすぐの先生に12人の子供たちはなつくものの、洋服でさっそうと自転車に乗るハイカラな先生と保守的な親たちとの間には溝があった。子供たちがいたずらでつくった落とし穴で、大石先生がアキレス腱を切断したことがきっかけとなって、親たちの心も和んだ。そして、村の人々との心温まる交流へと変わり、大石先生が分教場を離れたあとも続く。しかし、時代は暗い方向へと向かい、教え子たちは出征していく。教え子の何人かは戦死し、ある者は体も心も病んで帰還する。戦後すぐに、英軍用機が島に不時着する。複雑な思いを抱えながらも、住民たちは英兵をサポートし、軍用機が飛び立てるようにする。そして、心を病んでいた教え子も分教場の先生になってやり直そうと決意する。ざっとこのような感じのストーリーだが、この時代をよく映した反戦映画である。
最初に見学したのは高峰秀子さん主演の映画に出てくる「岬の分教場」である。昭和46年まで苗羽(のうま)小学校田浦分校として利用されていた校舎である。

分教場の教室。とても懐かしい気がする。小学校での机と椅子は学年が上がるごとに少しずつ大きくなっていった。机の物入れは忘れることをおそれて、私はあまり使わなかった。

二十四の瞳映画村。ここは、昭和62年版の『二十四の瞳』の撮影で使用されたオープンセットを利用して作られた。昭和初期の村の風景を再現しているので、昭和ブームの昨今、テーマパークとして人気を博しているようである。
分教場が再現されている。手前・苗羽小学校田浦分校、奥・男先生の家である。

男先生の家。赴任してくる先生のために、村が用意したという想定なのだろうか。私は小学校の頃は社宅に住んでいたが、6畳・6畳・4.5畳の3部屋、玄関、台所、トイレのつつましい平屋だったのを思い出した。

大石先生と12人の子供たち。我々の頃はさすがに着物という子はいなかったが、小学校までは下駄で通っていた。時々、鼻緒が切れるので、子供たちはいっときのしのぎ方は知っていた。

平成3年(1991年)創建の二十四の瞳天満宮。九州・太宰府天満宮から分霊を受けた正式な神社で、菅原道真を祀ってる。

壷井栄文学館。名前の通り、壷井栄さんの生涯と作品を紹介している。夫で詩人の壺井繁治さんも紹介されている。二人とも小豆島生まれで、仲の良い夫婦だったようである。

ロケセットだったのだろう。左手前・みさき屋、左中・大正堂、左奥・海洋堂、右手前・瀬戸屋、右奥・からかさ亭。昭和初期の街並みの再現となっている。

この後は、醬の郷に向かう。小豆島の醤油醸造の起源は、記録に残っていないものの16世紀末の元禄年間とされている。小豆島では中世以前から製塩業が盛んで、赤穂に次いで生産高が多かった。ところが、江戸時代後期になると、瀬戸内海各地で製塩業が行われるようになった。活路を見出すために、塩を主原料とする醤油への転換が図られた。醤油を作るためには、塩の他に、大豆と小麦を必要とする。海上交通の要所であることを活かして、これらの産地から有利に搬入でき、また、製品としての醬油を搬出しやすかった。さらには、温暖少雨の気候も醤油醸造に適していた。これらの要因により、盛んになったようである。
マルキン醬油記念館。マルキン醤油は明治40年(1907年)の創業である。

記念館の内部。かつての醤油づくりの方法がミニチュアで再現されていた。

そして、魔女の宅急便のロケ地にもなったオリーブ公園である。世界でのオリーブ栽培の歴史は古く、5000年以前に小アジア(トルコやシリア周辺)で始まったとされ、地中海地方に伝わり、ギリシャやローマ帝国を通じてヨーロッパに広がった。ギリシャ神話では、女神アテナが人々にオリーブの木をおくったと伝えられている。
日本では、1860年代に医師・林洞海がフランスから苗木を輸入し、試験的に栽培を始めた。本格的に成功したのは、明治41年(1908年)の小豆島での栽培試験がきっかけである。小豆島の温暖な気候がオリーブ栽培に適していて、国内最大の生産地となっている。
オリーブ公園の中心的な施設であるオリーブ記念館。

イベント広場モニュメント。古代ギリシャの「オストラキシモス」に使用された投票片をモチーフにしたモニュメントである。これは、中央の心棒があれば「無罪」、なければ「有罪」を示す。このモニュメントは、平和の象徴として「罪のないこと」を表現している(分かりにくいが中央の心棒がある)。周りの景色とマッチしていて、地中海的な落ち着きを感じる。

オリーブの木々とギリシャ風車。この風車は、ギリシャのミロス島との姉妹島提携を記念して平成4年(1992年)に建設された。エーゲ海を思わせる美しい景観を醸し出している。

「ハーブクラフト館ミロス」。ギリシャのサントリーニ島をイメージした建物で、白い壁と青い屋根が特徴的である。

お昼は小豆島自慢の生そうめんを食べる。写真はオリーブ生そうめん。

お腹が満たされたところで、寒霞渓(かんかけい)を見学する。ここは、日本三大渓谷美の一つとして知られ、絶景スポットである。小豆島は、8000万年前ごろにできた花崗岩類が基盤になっている。そのうえに1300万年前の火山活動によって噴出した瀬戸内火山岩類が堆積し、そのあと1000年以上もの長いこと地殻変動や浸食を受けて形成された。寒霞渓は安山岩層や火山角礫岩層からなり、表12景、裏8景と称される奇岩や断崖が生まれた。
ここで、岩石の説明を加えておこう。マグマが冷えてできた岩を火成岩という。その中で急激に冷えてできたものを火山岩、ゆっくり冷えてできたものを深成岩という。火山岩には、流紋岩、安山岩、玄武岩があり、この順番で有色の鉱物を含む割合が多くなる。深成岩には、同じ順で花崗岩、閃緑(せんりょく)岩、斑糲(はんれい)岩がある。そして、同じ順位の岩は成分が似ている。例えば、流紋岩と花崗岩はおなじような成分からなる。
ロープウェイから見た景色。



展望台より。


この島には「小豆島八十八ヶ所霊場」と呼ばれる巡礼地がある。これは、四国八十八ヶ所霊場を模したものである。宝生院は、小豆島霊場第54番札所として知られる高野山真言宗の寺院である。この寺院には、特別天然記念物に指定されている樹齢1600年以上の「シンパク」という巨樹がある。このシンパクは、古墳時代に第15代応神天皇が手植えしたと伝えられ、周囲約16.9メートル、樹高約20.9メートルの大きさである。また、境内には小豆島霊場第51番、第52番の札所も併設されている。
宝生院を見ていこう。客殿である。巡礼者や参拝者が休憩したり、祈祷や法要が行われる場である。

地蔵大菩薩を本尊として祀る本堂である。

内部。本尊は真正面に安置されていることだろう。

壁面に描かれている阿吽の双龍。
日の出を物事の始まりと控えて口を開いた阿龍。

口を閉じ、指馬4本から5本へと成長した吽龍。

特別天然記念物のシンパク。

龍。たしかに。

象。なるほど。

亀。そうですか。

弘法大師(空海)を祀る大師堂。

境内で桜が咲いていた。ヤマザクラ群サトザクラ系の栽培品種で静香という。別名はマツマエシズカ。ここは、51番札所宝幢坊の境内だそうだ。

さていよいよ小豆島で最後の見学地エンジェルロードに行く。潮の満ち引きによって現れる砂の道で、1日2回、干潮時に海の中から道が現れ、向かいの島まで歩いて渡ることができるようになる。もう少し待てば道がつながりそうだったが、船の時間があるのでここまで。

土庄港から高松港へ高速フェリーを利用し、高松駅から児島駅までマリンライナーを使い、この日は倉敷市・児島のホテルに泊まった。
次の日に見た日の出。

この日の見学場所は倉敷美観地区。まずは大原美術館へと思って近くの橋に着いた時、少しだけ説明させてと公認の腕章を付けたガイドさんが近づいてきた。イントロのところを説明した後で、詳細を聞きたければ10分で1,000円、20分で2,000円という。我々も、急ぐたびではないので、10分のガイドをお願いした。まずは、記念撮影。さらには思い出になりそうな場所の撮影もしてくれた。その中の一枚がこれ。江戸情緒豊かな川舟を利用しての結婚風景である。

大原美術館の前で美術館の説明を受け、彼が私のケータイを門の中に差し込んで撮影してくれたのが、ロダン作『洗礼者ヨハネ』である。

その後、美観地区の中心地を案内してくれた。そして、ガイドさんと別れて、大原美術館をゆっくり鑑賞、近くでお昼を食べ、散策しながら帰路に着いた。旅の最終場所となった倉敷駅。

コロナが明けた2年前から、この時期になると、同じ仲間と小旅行を楽しんでいる。毎年、歳を重ねるので、だんだんとハプニングも増えている。一人が直前に手術をして不参加、私は足の痛みで参加が危ぶまれた。もう一人もやはり足に故障があったとのことである。姫路駅の待ち合わせ場所で顔を合わせるまで、参加者が判然としなかった。明らかに、不確実の度合いが増している。そして、別れたあと、誰も予想できなかった大ハプニングがおきた。それは、後の記事でのお楽しみである。
しかしともかく、無事に旅を終了できたことに感謝する。一緒に旅した友人の皆さん、運転手さん、美観地区のガイドさん、ありがとうございました。