「版画って、なに」と聞かれれば、真っ先に浮かぶのは浮世絵である。これらが生み出されたのは今から200年前の江戸の後期である。町田市の国際版画美術館での特別展は、『日本の版画1200年』となっている。さらに1000年も前なので、なぜなのだろうと興味を持って出かけた。
文化面で日本に大きな影響を与えたのは、中国からの仏教の伝来である。版画の歴史も同じようである。最初に大量印刷が行われたのは経である。絵ではなく文字である。奈良時代の中ごろに、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・恵美押勝との間で紛争が生じ、恵美押勝が乱を起こした。上皇側が勝利し、恵美押勝は斬られ、淳仁は廃位する。上皇は重祚して称徳天皇となる。称徳は鎮護国家を祈って発願し、木製の小塔とその内部に納める無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)を、法隆寺などの十大寺に10万基ずつ施入した。現在は法隆寺だけに残されている。無垢浄光大陀羅尼経は、木版で作成されたようであるが、あまりにも摺る部数が多かったので、耐久性の観点から銅板の可能性もあるとされている。そして、これは制作年代が分かる世界最古の印刷物として貴重である。

平安時代後期になると、スタンプのように連続して押すことで、あるいは、連続して摺ることで仏教版画が造られる。前者は院仏、後者は摺仏と呼ばれる。これは毘沙門天立像印仏(1162年)である。

16世紀になるとイエズス会がキリスト教布教のために中国を訪れるようになり、持ち込まれた文物が影響を及ぼし、中国の絵画分野では遠近表現が使われるようになる。これは西湖十景図(清18世紀)で、西洋から渡来した遠近法と、中国伝統の山水画が図中で入り混じっている。日本の版画でも後に同じことが起きる。

次の八種画譜は中国の明代(1610~20年)に編纂された木版画の画譜集で、文人画(南画*1 )の学習や模倣のために作られた。唐詩や花鳥画などのテーマが含まれており、絵画の技法や構図を学ぶための教材として広く利用された。中国南宋画に強い憧憬を抱いていた日本の文人(南画家)にも多大な影響を及ぼした。展示されていたのは黄鳳池編の八種画譜(和刻本)(1672年)である。

南蘋(なんぴん)画*2で知られる江戸時代中期の画家・建部凌岱(りょうたい)は、弘前藩の家老・喜多村家の次男として生まれ、文武両道の教育を受けた。しかし、兄嫁との道ならぬ恋の噂により20歳で出奔し、俳諧で身を立てたがその道もあっさりと捨ててしまう。そして、俳諧を通して出会った彭城百川(さかきひゃくせん:日本南画の先駆者)に影響を受けて長崎へ遊学した。唐通事の熊代熊斐(ゆうひ)や唐絵目利の石崎元徳らに色鮮やかで写実的な花鳥画を学び、山水画で知られる来舶清人の費漢源(ひかんげん)に師事し、中国舶来の最新様式を自らのものにし、独自の画風を確立した。海の魚が乱れ泳ぐ「海錯図(1775年)」は、ユーモアにあふれている。

宋紫石も江戸時代中期の画家である。長崎で熊代熊斐・清人画家宋紫岩に画法を学び、江戸に帰り宋紫石を名乗る。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。山水・花卉に優れている。これは古今画藪後八種(1771年)である。

司馬江漢は江戸時代中期の絵師で蘭学者である。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重を名乗り、中国より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画(遠近法をいち早く取り入れた)も学んで作品として発表した。日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。彼の作品の不忍池(1784年)である。

葛飾北斎は、江戸時代後期を代表する浮世絵師である。風景画、人物画、妖怪画など多岐にわたるジャンルで活躍し、生涯にわたって約3万点以上の作品を残した。北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼした。
初期の頃は、狂歌絵本に挿絵を寄せていた。これはその一つの東進(1799年)である。

次の作品は、『諸国瀧廻り』シリーズの一作品「相州大山ろうべんの瀧(1833年)」である。舶来の原料であるベロ藍を用いている。

歌川広重は江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。次の絵はシリーズ『東海道五拾三次之内』の一作品で「箱根 湖水図(1833~34年)」である。透視図的な視覚に基づいて風景を水平に捉え、豊かな奥行を確保し、実景感と情緒性豊かな画面を作り出している。

歌川国芳(くによし)は江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人である。画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない作品を多数生み出した。これは『唐土廿四孝』の一つ「大舜(1848-50年)」である。廿四孝とは、二十四人の孝行者を指し、中国元代に確立した題材である。明確な陰影表現を用いている点に西洋画への傾倒を見ることができる。

月岡芳年(よしとし)は、幕末から明治時代前半にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵は迫力ある大胆な構図が特色である。これは、『魁題百撰相』の中の一つの「駒木根八兵衛(1868年)」である。このシリーズは南北朝から江戸時代の賢臣を題材としているが、この時期の戊辰戦争の見立てでもある。下の図では分からないが、瞳には白い点が描かれている。これは瞳からの光の反射を表していて、西洋画からの影響である。

明治時代の浮世絵師である小林清親が光線画(光と闇を強調して描いた作品)を手がけはじめたのは1876年である。まだ江戸時代に由来する伝統的な浮世絵が多かったころ、西洋の絵画に近い表現を木版画でも行おうとした。輪郭線を省略・排除し、色の面で人物を捉え、ぼかしや網目、短い横線によって陰影をつけた。その一つの作品である「新橋ステンション(1881年)」である。

明治から昭和にかけて活躍した石井柏亭は、幼少期から日本美術協会や日本青年絵画共進会などに日本画を出品し、その後、洋画を浅井忠に学び、中村不折(ふせつ)の指導も受けた。織田一磨、山本鼎(かなえ)らと美術雑誌「方寸」を創刊、他方で木版画制作にも注力し、日本の版画運動の先駆者的存在となった。「よし町(1910年)」は、ジャポニズムを逆輸入するかたちで当時生みだされた「江戸趣味」の流れの中で描かれたもので、浮世絵の代表的な題材である美人画と風景(ここでは、木場の様子)を描き、江戸の趣を表現している

竹下夢二は、大正ロマンを代表する画家・詩人である。下図の「治兵衛(1914年)」は、やはり「江戸趣味」の流れに乗ったもので、彫師・刷師との協業によって制作され、近松門左衛門の世話浄瑠璃を題材としている。

織田一磨は明治から昭和にかけて活躍した版画家で石版画・木版画で知られている。「東京風景」や「大阪風景」といった連作を通じて都市風景を描き、独自の技法と美的感覚を発展させた。また、浮世絵研究にも力を注ぎ、葛飾北斎に心酔し浮世絵に関する著作も残した。晩年には花鳥画や仏画風の石版も見られる。これは『東京風景』の中の一つで「愛宕山(1916年)」である。

橋口五葉は、明治から大正時代にかけて活躍した日本の画家、版画家、装幀家である。特に、浮世絵やアール・ヌーヴォーの影響を受けた美人画で知られている。この「髪梳ける女(1920年)」は、江戸時代の浮世絵のような、あるいは日本画のような作風の伝統に根ざした絵であるが、アール・ヌーヴォーの曲線を、自然な髪の流れを表すために使っている。

小早川清は、大正から昭和時代にかけて活躍した日本の画家で、特に美人画や版画で知られている。小児麻痺の後遺症のため左手一本で描いた。次の作品は、『近代時世粧』シリーズのなかの「瞳(1930年)」である。

川瀬巴水は、大正から昭和にかけて活躍した新版画運動を代表する版画家で、風景版画を中心に活動した。日本各地を旅して、その土地の美しい風景を情緒豊かに描き、「旅情詩人」とも「昭和の広重」とも称された。つぎの「霧之朝(四谷見附)(1932年)」には、北斎・広重などのジャポニズム絵画から学んで、目の前の松を画面いっぱいに表し(近像型)、遠近感を強調した大胆な構図がとられている。

山元中学校の教師であった無著成恭は、自身の「生活綴り方(作文教育)」の教育実践を「やまびこ学校ー山形県山元中学校生徒の生活記録」としてまとめた。無著が不在の時に、箕田源二郎・小口一郎が中国木刻を携えて「やまびこ学校」を訪問した。彼らから木版画の指導を受けた生徒たちは、版画文集『炭焼き物語』を制作した。これがつくられたのは1951年で、この頃は中学生が生活を支えるため、炭を作る仕事に携わっていたことが題材になっている。

棟方志功は、「板画」と呼ばれる独自の木版画技法で知られ、日本を代表する版画家である。幼少期から絵画に興味を持ち、ゴッホの作品に感銘を受けて画家を志した。次の作品は『二菩薩釈迦の十大弟子』シリーズのなかの「文殊菩薩の柵(1948年)」、「迦旃延の柵(1939年)」、「富樓那の柵(1939年)」、「阿難陀の柵(1939年)」、「羅睺羅の柵(1939年)」、「優婆難の柵(1939年)」である。この作品を作るとき、版木に向かって一気に掘り進めたとのことである。板が持っている性質を大切にし、木の魂を掘り起こすつもりで制作した。版木の端いっぱいまで使って彫られた仏たちはユーモラスでもある。

招瑞娟(ZHAO Ruijuan)は、中国出身の女性画家で、戦後の日本の美術界にも影響を与えた。東京美術学校の女性一期生として学び、民衆版画運動に参加した数少ない女性作家の一人で、現代社会に対する鋭い視点をもって制作活動した。次の『求む』もその一環の中で制作された。

特別展の展示を鑑賞した次の日に、あるところで「狩野派の歴史」の講義を受けた。狩野派の絵画は漢画(中国の山水画・花鳥画)として始まったが、途中でやまと絵の手法も使い、江戸後期になると西洋画の影響を受けたというのがその大筋だった。そして、透視図法、光と影などが西洋画からの影響であると教えてもらったが、今回の版画の移り変わりとも重なるところがあり、大きな文化の流れは同じであったと納得した。
今回の展示は前期と後期とに分かれていて、後期にもすぐれた作品が展示されるようなので、もう一度訪れたいと思っている。