最近ではほとんど見かけなくなったが、お盆の季節には、先祖を迎えるための風習が各地に存在していた。現在暮らしているこの地域では、どのような風習が残っているのだろうかと思い、農家を営む家を見つけては玄関先をのぞいてみた。しかし、見つけることができたのは、いずれも簡略化されたものばかりであった。
お盆が明けた今朝、散歩の途中で、この辺りでは比較的大きな農家と思われる家の前を通ったところ、野菜はすでにしなびていたものの、飾りを見つけることができた。そこには、茄子で作られた牛と、少し高く盛られた砂が設けられていた。

茄子で作られた牛は「精霊牛」と呼ばれ、ご先祖様にゆっくりと帰っていただくために飾られるという。これと対になるのが、キュウリで作られた馬であり、こちらはご先祖様が早く帰ってこられるようにとの願いを込めて供えられることが多いようだが、今回は見かけなかった。
また、この地域特有の風習なのだろうか、砂を盛った舞台のようなものが設けられていた。調べてみると、これは「砂盛り」と呼ばれ、先祖の霊を迎えるための舞台のような役割を果たすという。そこには、おがらの小片が三本立てられていた。おそらく、13日に迎え火を焚いて先祖の霊を迎え入れ、16日に送り火を焚いて送り出したのだろう。
紹介した農家のある一帯は、江戸時代には武蔵国多摩郡成瀬村に属していた。多摩丘陵の南端に位置し、恩田川の沖積地に広がるこの地域は、自然環境が比較的豊かであったと推察される。主な産業は米や野菜の栽培であり、農業が中心であったようだ。
『旧高旧領取調帳』によれば、成瀬村は旗本による相給(あいきゅう)支配のもとに置かれていた。幕末期の領主は、井戸信八(410石)、三田鋳四郎(200石)、久留左京(100石)の三名である。井戸信八の父は井戸弘道とされ、嘉永6年(1853年)には浦賀奉行としてペリー来航に対応したことで知られる歴史上の人物である。他の二名については、詳細は不明である。
成瀬村には、境界紛争をめぐって処刑された義民・原嶋源右衛門の伝承が残されている。その経緯は以下の通りである。成瀬村と隣接する都筑郡長津田村(現在の横浜市)との間で、入会地「葦沼」の新田開発をめぐる境界争いが発生した。原嶋源右衛門は村民と協力し、湿地帯を排水して水田として開発したが、この土地が争点となった。彼は紛争解決のため、成瀬村が一部土地を譲渡し、境界の画定を図った。しかし、幕府(奉行所)はこの対応を「公儀をたぶらかした」として問題視し、源右衛門を見せしめの罪人として処刑するよう命じた。
享保元年(1716年)10月15日、15人の役人によって源右衛門は打ち首となり、一家は断絶という厳罰に処された。村民は処刑後、源右衛門一家の遺体を焼いて葬り、三日間火を焚き続けて供養を行った。享保14年(1729年)には、処刑地に「崖山地蔵」が建立され、台座には東雲寺八世・考山和尚による銘文が刻まれている。原嶋家屋敷跡にも慰霊碑が建てられ、現在もその姿をとどめている(写真は崖山地蔵)。


この事件は、江戸時代の農村社会における土地開発と入会地の利用、境界紛争の複雑さ、そして幕府による統治の限界を浮き彫りにするものである。原嶋源右衛門の処刑は、地域住民による主体的な開発努力が中央権力によって抑圧された事例として、近世村落史の一断面を象徴している。
原嶋ゆかりのこの地域の人々は、今年も変わらず、源右衛門とその家族の霊に祈りを捧げ、遠い歴史に思いを馳せたことだろう。