最近の世界情勢を見ると、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃、さらにアメリカによる自由貿易から高関税を伴う保護主義への転換など、国際秩序の流動化が著しいことがわかる。このように政治・経済・社会の体制が激しく変化する中で、普通の人々はどのように生きていけばよいのだろうか。特に、自身の生命が脅かされるとき、その対応は極めて難しい。

『東ドイツ ある家族の物語』は、地域の体制が左から右へ、そして右から左へと何度も大きく揺れ動く中で、著者の家族四世代がそれぞれにどのように生き抜いたかを克明につづっている。著者は歴史家マキシム・レオ(1970年生)である。彼の両親は戦後の東ドイツで育ち、二人の祖父は第一次世界大戦の頃に生まれている。父方はドイツ系、母方はユダヤ系であり、この事実だけからも、彼の家族が20世紀の激動のなかを生き延びたことが推察される。さらに、彼らの暮らしたドイツ東部は、政治的にも経済的にも常に大きな変動にさらされてきた地域であった。
本書に登場する四代の人物は次のような人々である。母方の曾祖父ダーゴベルト・ルビンスキーは共産主義者であり、アウシュヴィッツで殺害された。母方の祖父ゲアハルト・レオはフランスへ亡命し、パルチザンとして抵抗運動に参加して共産党員となった。戦後は東ドイツ(GDR)を選び、ジャーナリストとして活動した。「反ファシズム国家」としての理想を体制に重ね合わせ、それを信じて貢献した。彼の仕事には東ドイツの新聞・通信社での報道、外国(とくにフランス)との交流、国際報道などが含まれていた。父方の祖父ヴェルナー・シュヴィーガーはナチ党員となり、戦後は東ドイツで「小スターリン主義者」として体制に順応した。要職に就いたわけではないが、社会の中で尊敬を受ける立場を築いた。母アンネ・レオは社会主義の理想に忠実に育ち、父ヴォルフ・レオは体制に批判的であった。著者自身は青年期、政治に無関心だったという。

この家族の生き方は、圧倒的な権力のもとで人々がいかに生き延びるかという問題を浮かび上がらせる。ミシェル・ド・セルトーは著書『日常的実践のポイエティーク』で、権力に包摂された人々が、制度の隙間を縫うようにして日常を生き抜く「戦術(tactique)」の重要性を説いた。ゲアハルトは体制内で信念を保ちつつも矛盾と共存し、ヴェルナーは制度に巧みに適応して自己の生を確保した。対照的な両者の姿は、セルトーの理論を通して、抑圧的な社会のなかで人間がいかにして「日常の自由」を見いだそうとしたかを考察する好例である。
そこで、ここでは進歩の著しい生成AIのChatGPTを用い、小論文の作成を試みた。以下にその成果を示すが、その完成度の高さには目を見張るものがあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
タイトル
「日常的実践」としての生の戦略と戦術――マキシム・レオ『東ドイツ ある家族の物語』にみるゲアハルトとヴェルナーの比較
要旨(Abstract)
本稿は、マキシム・レオの自伝的著作『東ドイツ ある家族の物語』(Haltet euer Herz bereit, 2009)に描かれた二人の祖父――ゲアハルト・レオとヴェルナー・シュヴィーガー――の生き方を、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』(1980)の理論的枠組みに基づき比較・分析する。両者はともに20世紀ドイツの歴史的転換期(ナチズム・戦後分断・東独体制)を生きたが、その実践は理念と日常、戦略と戦術という異なる次元において現れた。ゲアハルトは体制内部から理想の実現を試みた「戦略的主体」として、ヴェルナーは体制の外縁に位置しながら日常生活の中に自由を確保した「戦術的実践者」として理解される。本稿は、これら二つの生を通じて、東ドイツ社会を「支配/抵抗」の二項対立ではなく、「生の実践史」として再構成する試みを行う。
Ⅰ 序論――制度史から実践史へ
東ドイツ史の叙述は、しばしば国家社会主義体制の政治的抑圧構造やイデオロギーの硬直に焦点を当ててきた。しかし、個々の人間がその体制の中でどのように生を織りなし、意味を見出してきたかという「ミクロな実践史」への視線は、近年になってようやく注目されるようになった。社会学的転回以降の文化研究では、制度的枠組みの中に潜む「生の創造的契機」に光を当てることが試みられている。
この文脈で重要な理論的契機を提供したのが、フランスの思想家ミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau, 1925–1986)である。彼の主著『日常的実践のポイエティーク(L’invention du quotidien, 1980)』は、制度的権力の中における個人の「実践(pratiques)」を、単なる従属ではなく創造的行為として再定義したものである¹。セルトーは「戦略(stratégie)」と「戦術(tactique)」という二つの概念を導入し、前者を権力・制度・組織の側の構想的行為、後者をそれらの内部で生きる人々の微視的・臨機的な実践とした²。
マキシム・レオ(Maxim Leo, 1970–)の著作『東ドイツ ある家族の物語』は、このセルトー的視座においてきわめて示唆的である。著者は自らの家族史を通じて、政治体制の推移を「理念の闘争」としてではなく、「生き延びる実践」として描き出す。彼の二人の祖父――ゲアハルトとヴェルナー――は、同じ時代を生きながらも、全く異なる仕方で制度と向き合った。本稿では、両者の生を「戦略」と「戦術」というセルトーの二項で読み解き、その比較を通じて、東ドイツ社会を「日常の詩学」として再構築する可能性を探る。
Ⅱ ゲアハルト・レオ――戦略的主体としての理想主義
ゲアハルト・レオは、第二次世界大戦期においてナチス政権への抵抗運動に参加し³、戦後は東ドイツにおける社会主義再建の要職に就いた知識人である。彼は、戦前・戦中を通じて経験したファシズムへの反発から、社会主義こそが人間的解放の道であると信じた。彼の信念は倫理的確信に基づくものであり、その行為は理念の実現を目指す「戦略的実践」であった。
セルトーが「戦略」と呼ぶのは、自己の領域を確保し、そこから外部に対して作用を及ぼそうとする構築的なロジックである⁴。ゲアハルトの政治的行為はまさにこの構造に適合する。彼は国家という制度的空間の中に位置し、その理念(社会主義的正義)を媒介として現実を再構成しようと試みた。
しかし、この戦略的行為は体制の硬直化とともに限界を迎える。理念を制度に託したとき、その理念は往々にして制度の自己保存的論理に取り込まれる。ゲアハルトは晩年、体制の腐敗と理想の乖離に直面し、内面的な苦悩に沈む。彼の生涯は、理念を信じながらも制度の内部でそれを実現しえなかった知識人の悲劇を体現している⁵。
それでも、セルトー的視点からすれば、ゲアハルトの実践は単なる敗北ではない。彼は制度を「占有」しつつ、それを倫理的に再定義する試みを行った。すなわち、戦略的行為とは、権力の内部で理想を保持するための「倫理的創造」であったと考えられる。
Ⅲ ヴェルナー・シュヴィーガー――戦術的実践としての日常
これに対し、もう一人の祖父ヴェルナー・シュヴィーガーは、ナチ時代には国防軍兵士として従軍し、戦後は東独で機械工として生活した。彼は政治的イデオロギーに関与せず、国家との距離を保ちながら静かな生活を送った人物である。表面的には「非政治的」「従順」に見えるが、その生き方はセルトーのいう「戦術(tactique)」の典型である。
セルトーによれば、戦術とは「領域を持たない者の知恵」である。権力の場を設計することはできないが、その中をすり抜け、ルールを転用し、隙間で自らの目的を達成する実践である⁶。ヴェルナーにとって、東独体制は避けがたい現実であった。だが、彼はその現実を「翻訳」し、形式的な同調の背後で家族と労働を守る独自の生活世界を築いた。
たとえば、彼が政治行事や職場の会合に参加する際、それは忠誠の表明ではなく、制度の言語を最小限に受け入れながら自己を保つ一種の戦術的演技であったと考えられる。セルトーが述べるように、「消費とはもうひとつの生産である」⁷。ヴェルナーは体制のスローガンを「消費」し、それを生活の文脈に再利用した。
このような日常の工夫は、東独の庶民が制度の中で自らの生を確保した無数の「戦術的行為」の一例である。彼の沈黙と慎重さは、政治的受動性ではなく、「生き延びるための知恵」であり、弱者の創意的レジリエンスを示すものであった。
Ⅳ 戦略と戦術の共鳴――二つの実践のあいだで
ゲアハルトとヴェルナーの生は、理念と現実、体制への関与と回避という対照的関係にある。しかし、セルトーの理論において両者は二項対立ではなく、相補的な実践形態である。戦略が「場所を持つ者」の構築的行為であるのに対し、戦術は「場所を持たない者」の遊撃的行為である。だが両者はいずれも、与えられた条件の中で生を編み出す「創造の技術(arts de faire)」である⁸。
ゲアハルトは理念を制度に託すことで生を形づくり、ヴェルナーは制度を生活の中で翻訳することで生を守った。前者の実践が「上からの倫理的構想」であったのに対し、後者の実践は「下からの生活的知恵」であった。彼らは異なる位置から、同じ体制の中で人間的尊厳を維持する方法を模索したのである。
両者の比較は、東ドイツ社会における「支配/抵抗」の構図を超えて、体制の中に生きる個人の創造的実践を照らし出す。セルトーが指摘するように、「人間はつねに、自らの生を詩的に編み出す存在」である⁹。ゲアハルトとヴェルナーの生は、その詩学の二つの異なる変奏にほかならない。
Ⅴ 結論――歴史を「生の詩学」として読む
マキシム・レオの『東ドイツ ある家族の物語』は、政治体制の変遷を語ると同時に、日常生活の創造性を描き出す物語である。ゲアハルトは理念の戦略によって体制を内側から変えようとし、ヴェルナーは戦術的知恵によって体制をすり抜けながら自らの生活を守った。両者は異なる方法で「制度とともに、しかしその内部でずらしながら」生を生きた。
この対照的な実践は、セルトーの理論を通じて、「生の詩学」として再評価できる。彼らはともに体制を単なる抑圧の場ではなく、創造の場として捉え直した。東ドイツという閉ざされた世界の中で、理念と沈黙、戦略と戦術、信念と慎重さが交錯しながら、一人ひとりが「可能な自由」を紡ぎ出していたのである。
この視点は、20世紀の全体主義的体制を「抵抗か服従か」という二項で捉える従来の史観を超え、日常の中で行われる微視的な実践の歴史へと転換する契機を与える。セルトーの理論が示すのは、権力の構造の中においても、人間は常に「工夫し、翻訳し、生き延びる」存在であるという事実である。
ゲアハルトとヴェルナーの生の比較は、そのことを静かに証言している。すなわち――どのような体制のもとでも、人間の生は、制度の外にではなく、制度の内部において詩的に創造され続けるのだ。
参考文献
1. Michel de Certeau, L’invention du quotidien. 1. Arts de faire, Paris: Gallimard, 1980.
(ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、筑摩書房、1987年)
2. Maxim Leo, Haltet euer Herz bereit, München: Blessing Verlag, 2009.
(マキシム・レオ『東ドイツ ある家族の物語』高橋文訳、新潮社、2015年)
3. Axel Honneth, Das Recht der Freiheit, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 2011.
4. Hartmut Rosa, Resonanz. Eine Soziologie der Weltbeziehung, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 2016.
5. 宮下志朗「ミシェル・ド・セルトーの思想的射程」『思想』第1032号、岩波書店、2009年。
6. 大澤真幸『ナショナリズムの由来』講談社、2009年。
7. 田中聡『東ドイツ社会の文化と日常』人文書院、2018年。
脚注
1. Michel de Certeau, L’invention du quotidien, p. XL.
2. 同上, pp. 45–60.
3. Maxim Leo, Haltet euer Herz bereit, p. 27.
4. セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田訳、p. 45。
5. 同上、pp. 120–125。
6. 同上、p. 50。
7. 同上、p. 75。
8. 同上、p. 91。
9. 同上、p. 101。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最後に、背景となったこの当時のドイツの歴史を簡単に紹介しておこう。
19世紀後半、ドイツはプロイセン王国の主導によって統一を果たし、1871年にヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国(いわゆる第二帝国)が成立した。ビスマルクの指導のもと、強力な官僚制度が整備され、工業化と軍事力の増大によって列強の一角を占めるようになったが、帝国は同時に君主制的権威と社会主義運動の対立を内包していた。第一次世界大戦(1914–18)での敗北により帝政は崩壊し、1918年にヴィルヘルム2世が退位して、ヴァイマル共和国が成立した。
ヴァイマル共和国は、民主主義的憲法と文化的繁栄(いわゆる「黄金の二十年代」)を特徴としたが、戦後賠償・インフレーション・失業など経済的困難に苦しみ、急進的政治勢力が台頭した。1933年、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を掌握し、全体主義体制である第三帝国が出現した。ナチズムは極端な民族主義と反ユダヤ主義を掲げ、侵略戦争とホロコースト(大量虐殺)を引き起こし、第二次世界大戦(1939–45)の惨禍に至った。
敗戦後のドイツは連合国(米・英・仏・ソ)によって占領統治され、非ナチ化と民主化が進められたが、冷戦構造の深化により1949年に西側のドイツ連邦共和国(FRG)と東側のドイツ民主共和国(GDR)が成立し、東西分裂が確定した。西ドイツは市場経済と議会制民主主義を基盤に「経済の奇跡」を実現し、西欧統合に参加した。一方、東ドイツは社会主義体制のもとでソ連圏に組み込まれ、国家保安省(シュタージ)による監視体制を特徴とする国家となった。
1989年のベルリンの壁崩壊を契機に冷戦が終結し、1990年にドイツは再統一を果たした。こうして、帝政から民主共和国、全体主義、分断と再統合に至るまで、ドイツの近現代史は政治体制の実験と変動の連続として展開してきた。