bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北山忍著『文化が違えば、心も違う?──文化心理学の冒険』を読む

ずいぶん前のことだが、ある娯楽番組の冒頭で、出演者の芸能人たちがそれぞれ自分の名前を名乗ったあと、アナウンサーが「TBSアナウンサーの〇〇です」と自己紹介した。それを聞いた私は「なんだか変だな」と思い、隣にいた妻にそう告げた。すると彼女は「どこが?」と不思議そうな顔をした。「せめて『TBSのアナウンサーの〇〇です』と言ってくれれば、まだ納得できるんだけど」と私が言うと、妻は「そう?」と軽く受け流した。このやりとりは今でも平行線をたどっている。

ところが最近、北山忍著『文化が違えば、心も違う?──文化心理学の冒険』を読んで、ようやく合点がいった。あの時の番組は、他局ではなくTBS自身の制作であり、視聴者もそれを前提にしている。だからこそ、わざわざ「TBS」と付ける必要はないというのが、第一の疑問である。

次に浮かんだのは、「TBSアナウンサー」という表現が、普通名詞として使われているのか、それとも固有名詞としてなのかという曖昧さに関する疑問である。「TBSの〇〇です」と言えば、TBSという固有名詞を通じて職場との関係性が示される。一方、「アナウンサーの〇〇です」と言えば、職種としてのアイデンティティーが前面に出る。では、「TBSアナウンサーの〇〇です」と言った場合、関係性と特性のどちらが主となるのか。固有名詞と普通名詞を組み合わせたとき、意味の焦点はどちらに置かれるのか。この曖昧さに、私は悩まされてきた。

ビジネスの場で初対面の人に会ったとき、私たちは自分をどのように紹介するだろうか。日本国内であれば、たいてい「XX会社に勤めている〇〇です」と、所属先を軸に自己紹介することが多い。ところが欧米の会議などに出席すると、会社名よりも「何をしているか」が重視される。「XX職をしています、〇〇です」といった具合に、職能を前面に出す。転職が一般的な欧米社会では、「どの会社にいるか」よりも「どんな仕事ができるか」が重要視され、自己紹介も、自分のスキルや専門性を売り込む機会として捉えられている。

夫婦だけで会話しているのをなんとなく聞いていた時に、「パパ」「ママ」と呼び合っているのに、「おや!」と不思議に思ったことがある。妻から「パパ」と呼ばれると、「私はあなたの父親ではない」と言いたくなるところだが、今でも多くの家庭でごく自然に使われているのだろう。これは、子どもを介した関係性の中で形成された呼称なのだろうが、やはり不思議な印象を受ける。

ちなみに欧米では、夫婦がお互いを名前で呼ぶことの方が一般的である。名前を使わない場合は、「Darling」や「Honey」などの愛称を用いることが多いようだ。これは、相手を独立した個人として尊重する姿勢の表れとも言えるだろう。

こうした違いを少し普遍化して捉えると、日本社会は「関係性」の中で、欧米社会は「アイデンティティ」の中で生きているように思われる。言い換えれば、日本では「自分が集団の中で他者とどのような関係にあるか」が重視される集団主義的な文化であり、欧米では「自分がどのような特徴を持ち、それをどう活かしているか」が問われる個人主義的な文化だと言える。北山さんも同様の見解を示しており、非西洋文化は関係志向的・集団主義的・協調的な文化的特性を持ち、西洋文化個人主義的・独立志向的な文化的特性を有するとしている。

心理学は「心」を扱う学問であり、心とは憧れや嫉妬、喜びや悲しみ、誉れや落胆といった感情を含む。北山さんは、従来の心理学とは異なり、感情そのものが文化によって形成されると考える。従来の心理学では、「基本感情」は人類に普遍的であり、文化によって異なるのはその表出様式であり、それは社会的規範によって決まるとされてきた。この立場に立てば、同じ人が異なる文化圏に移動すれば、その文化の表出ルールに従って感情を表すようになると考えられる。しかし北山さんの立場では、文化が異なれば、それに応じて心理そのものが形成される。したがって、感情表現が一見似ていても、その背後にある文化的背景は大きく異なる可能性があるとしている。

協調的文化は、欧米を除くユーラシア大陸やアフリカなどに広く分布しているが、その具体的なあり方は、地域の地勢や気候、食物、風土などによって多様である。たとえばサブサハラ・アフリカに住む人々も協調的文化を持つことで知られている。しかし、文化心理学者グレン・アダムスによるガーナでの調査・実験研究では、「最悪の敵は自らのグループ内にいる(かもしれない)」という信念が広く共有されていることが明らかになった。これは、自らの利得に対する強い動機づけが存在し、他者への配慮よりも自己の利益追求が優先される傾向があることを示している。一見すると個人主義的に見えるが、実際はそうではない。

人類(ホモサピエンス)は約20万年前にアフリカで誕生したが、そこは猛獣との生存競争が熾烈な環境であった。猛獣に遭遇した際には、他者を気遣うよりも、いち早く逃げる(その結果、他の人も早く逃げられる)、あるいは猛獣を危険を顧みず打ちのめす(多くの人が助かる)ことで生き延びることが求められた。こうした環境では、他者を出し抜くことが生存戦略として評価され、称賛される文化が適していたと考えられる。北山さんは、サブサハラ・アフリカではこのような歴史的・環境的背景に根ざした文化が現在まで維持され、「仲間をも出し抜く」という心理が文化的に形成されていると説明し、この文化を「自己促進的協調の文化」と名付けている。

5〜7万年前、一部の人々はアフリカを出てユーラシア大陸オセアニアアメリカ大陸へと移動していった。猛獣との戦い方を身につけた人類にとって、人間との戦い方を知らない猛獣を絶滅(あるいはそれに近い状態に)させた世界は、比較的安全であった。そうした環境に適応していく中で、人類は各地において、自己促進性を必ずしも必要としない協調的文化を育んでいった。ただし、この協調性の背景には単一の要因ではなく、多様な歴史的・地理的・文化的要素が複雑に絡み合っている。北山さんは、こうした文化の違いを地域ごとに分類し、東アジアを「他者中心的協調性」の文化を特徴とする地域として位置づけている。

東アジアの温暖で湿潤な気候は稲作農業を可能にし、それが地域社会における集団的性質の形成に寄与した。稲作は集中的かつ協働的な労働を必要とするため、安定した社会的ネットワークの構築が不可欠であり、その維持には厳格なルールや明確な上下関係が求められた。また、集団外部との関係構築が限定的であったことから、閉鎖的なコミュニティが形成されやすく、社会関係の流動性は低く抑えられた。これらの特徴は、東アジアの歴史的社会構造において、個人よりも集団や対人調和を優先する文化を支える基盤となった可能性があると北山さんは説明している。

さらに、こうした文化的特徴が心理傾向に与える影響として、北山さんは「包括的な注意志向」の存在を指摘する。東アジアでは、規範や期待といった状況的要素への感受性が高いため、社会的説明において個人の属性に過度に注目する「原因知覚の根本的誤謬(the fundamental misperception of causes)*1」が弱い、あるいはほとんど見られないとされている。

他の地域における文化とその心理的傾向については、以下の図に示されている。

西洋について北山さんは、今日の西洋文化のグローバルな展開はごく最近の現象であり、近代西洋の黎明期にはむしろ「非西洋→西洋」という文化的流れが存在していたと説明する。この時期、特に中東・北アフリカサブサハラ・アフリカなどから、自己高揚、感情表出、議論・弁論とそれに伴う分析的思考といった行動様式が西洋に流入した。その後、宗教改革ルネサンス、16世紀のプロテスタント主義、17世紀以降の啓蒙思想など、さまざまな社会政治的・経済的・宗教的要因が関与しながら、近代ヨーロッパでは個人主義が徐々に熟成されたという見解を示している。

北山さんの議論の中で特に印象深かったのは、「親切」という感情に関する考察である。ボブ・ディランの「フォーエバー・ヤング」からの引用を用いた説明は、文化心理学の視点を鮮やかに浮かび上がらせていた。

一般に「親切」は協調的文化の専売特許のように見なされがちである。しかし北山さんはその見方に疑問を投げかける。たとえば先のサブサハラ・アフリカの事例のように、協調性を重視する社会でも裏切りや利己的行動が観察されることがある。統計的には、むしろ独立性の高い人々の方が親切の度合いが強く表れる傾向があるという。

ディランの歌詞には “Let others do for you.” という一節がある。日本語に訳すと「他の人に親切にし、そして人からも親切にしてもらえますように」となるが、英語では使役動詞 “Let” が用いられている点が重要である。これは決して受け身ではなく、「他者があなたに親切にするようにしむけ、そして促す」というように、相手の能動的な姿勢を引き出す表現である。北山さんはここに、西洋文化における親切の特徴を見出している。すなわち、西洋の親切は、自身に利益がもたらされるように、他者が自発的に動くよう促す積極的な行為であり、非西洋文化における親切は、状況や関係性の中で自然に生じる受動的なものとして捉えられる傾向がある。

本書の結びでは、分断が深まる現代社会において、「文化が心理を形成する」という認識は、異なる文化への理解と尊重を促し、共生社会の構築に向けた実践的な指針となり得ると提言されている。そして、憎しみではなく親しみを育むための具体的な方法が示され、文化心理学現代社会の複雑な問題に対して有効な視座を提供しうることが明らかにされている。まさに、学術的にも実践的にも有益な一冊であった。

最後に、冒頭で触れた「TBSアナウンサーの〇〇です」という表現への違和感についても、改めて考えさせられる。これは、日本の文化が協調性から独立性へと移行しつつある過程で生じている文化的変容の一端と捉えれば納得がいく。我が家でも、妻が孫に自分をどう呼ばせるかを思案し、アイデンティティを示す「自分の名前」と、関係性を示す「おばあちゃん」とを組み合わせて造語を作ったが、これもまた文化的転換期における集団主義から個人主義への転換の中にいると私は納得した。

*1:人は他者の行動を説明するとき、状況要因よりも個人の性質に帰属しすぎる