bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

精緻な石組みに息を呑む――飛鳥・岩屋山古墳を訪ねて

この日は、今年のなかでも指折りの好天に恵まれた。空には雲ひとつなく、初冬の冷たさを和らげるようにやわらかな陽光が体を包み込む。奈良盆地東南の端、古代国家成立の舞台となった飛鳥が、今日の目的地である。旅の起点は飛鳥駅。電車が到着するたび、バックパックを背負った旅人たちが次々と改札口に姿を現す。リーダーらしき人物が地図を広げ、仲間にルートを説明している。打ち合わせが終わると、彼らは隊列を組むようにそれぞれの目的地へ歩き出す。レンタサイクルのペダルを勢いよく踏む若者たちの姿もあり、駅前には旅の活気が満ちていた。私たちも、その空気に背中を押されるように歩き始める。

向かったのは、観光客の多くが立ち寄らない岩屋山古墳である。駅前の賑わいから離れると、古い家並みが残る細い坂道が続き、その先に岩屋山古墳はひっそりと姿を現した。

岩屋山古墳は奈良県高市郡明日香村越に位置し、国の史跡に指定されている。一般には方墳とされ、墳丘は二段築成で一辺約40〜45メートル、高さ約12メートルと推定されている。一方で、上段部が八角形に近い形状だった可能性も指摘され、八角墳との関わりを論じる研究もある。

埋葬施設は南向きに開口する両袖式横穴式石室で、石材には切石加工された花崗岩、いわゆる「飛鳥石」が使用されている。その精巧な石組み技術は後に「岩屋山式石室」と呼ばれる型式の原型となった。石室全長は約17.8メートル、玄室は長さ約4.9メートル、幅約2.7メートル、高さ約3メートル。羨道は12〜13メートルに達する。ただし早くから開口していたため、副葬品は見つかっていない。被葬者は不明だが、斉明天皇*1や吉備姫王*2を候補とする説が語られてきた。

それでは古墳を見ていこう。

階段を登り墳頂に至ると、石室入口が現れる。内部へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気と静寂に包まれた。斜めに差し込む光が切石面を淡く浮かび上がらせる。

千年以上の時を経たとは思えない精緻な石組みは、今もなお確かな存在感を放っていた。


時間に余裕があったため、近くの梅山古墳にも足を延ばした。古墳時代終末期(7世紀前半)の前方後円墳で、全長は約220メートルに及ぶ。現在は宮内庁により「伝欽明天皇陵」として管理されているが、被葬者は確定していない*3。墳丘には版築の痕跡があり、石室にも高度な切石技術が想定されている。周辺には猿石や石人像など飛鳥文化を象徴する遺物が残り、この地が古代国家形成期の政治・祭祀・埋葬文化の重要な場所であったことを静かに語っている。

猿石は吉備姫王墓のそばに置かれている。「女」「山王権現」「僧(法師)」「男」と呼ばれる四体の花崗岩像で、高さはいずれも1メートル前後。1702年に水田から掘り出されたことが記録に残り、梅山古墳の南側にあったと伝えられている(上の写真で、陵墓の脇に濠があるが、濠の外側の土手に並べられていたとう説もある)。その後現在地へ移されている。制作年代も目的も不明で、陪石説、渡来系工人説、信仰儀礼説など諸説があるが、どれも決定には至っていない。その表情は奇妙で、どこかユーモラスでもあり、見つめているとじっと語りかけてくるようだった。

次の写真が、猿石である。まず「女」、

そして「山王権現」、

さらに、左は「僧(法師)」、右は「男」である。

澄み渡る空の下、岩屋山古墳の精緻な石組み、梅山古墳の雄大な墳丘、そして猿石の不可思議な姿に触れた時間は、静かでありながら強い余韻を残した。千年を超えて残された石々は、言葉を持たぬまま、古代の祈りや権力の影を今に運び続けている。旅の始まりに感じた陽光の温もりは、過ぎ去った時代と現在を結ぶ細い糸のように心にとどまり、歩みを続ける私たちをそっと照らしていた。飛鳥の地は史跡であり、そして問い続ける場所である。その問いは、次の目的地へと向かう私の胸の奥で、ゆっくりと深まっていった。

*1:斉明天皇(在位:655–661)は、日本の第37代天皇であり、推古天皇に次ぐ女性天皇である。重祚前は皇極天皇として即位し、孝徳天皇崩御後に再び皇位に就いた(重祚した例は歴史上珍しい)。蘇我氏滅亡後、政権運営中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が主導した。 在位中には、石舞台古墳周辺で知られる飛鳥の大土木事業(宮跡造営、運河や石敷道路の整備)を推進し、飛鳥文化の景観形成に影響した。また百済復興を支援すべく朝鮮半島へ遠征したが、その最中の筑紫で崩御した。後年の白村江の戦いにつながる政策を進めた天皇としても知られる。

*2:吉備姫(きびひめ)は、『日本書紀』や系譜資料に名がみられる推古天皇の異母妹とされる皇族女性で、父は第29代欽明天皇、母は蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)と伝えられる。したがって、吉備姫は蘇我氏の血を引く皇族であり、政治的にも重要な位置にあった可能性が高い。

*3:欽明天皇(在位:539~571年頃)は、飛鳥時代の幕開けを象徴する存在である。仏教が公式に伝来した天皇として知られ、外交・宗教・国家制度の面で重要な転換点を迎えた時期に在位した人物である。欽明天皇の時代には、百済新羅高句麗など朝鮮半島情勢が激しく動き、その影響を受けながら日本の外交政策や軍事支配が進展した。特に552年(または538年)とされる仏教伝来は転機となり、受容をめぐり蘇我氏物部氏の対立が激化した。蘇我稲目蘇我氏)が仏教受容を支持し、物部尾輿物部氏)が反対したことは後の権力闘争に繋がっていく。