飛鳥を歩くと、そこかしこに古代国家の痕跡が息づいている。なかでも今回訪ねた飛鳥宮跡は、日本古代国家の原点として知られる場所である。その舞台であった飛鳥宮は人々の心に今も残る「ふるさと」であり、古来、数多くの歌に詠まれてきた。奈良県立万葉文化館の万葉百科データベースにも収められており、遷都後の飛鳥を懐かしむもの、亡き人をしのぶもの、あるいは恋歌など、多様な感情が込められている。その中から、天智天皇の皇子で『万葉集』に六首を残した志貴皇子の歌を挙げてみたい。
- 原文(一部):采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
- 現代語訳(要約):采女(うねめ)の袖を揺らす明日香の風も、都が遠くなったためにむなしく吹いている。
- 出典(解説):明日香宮から藤原宮へ遷都した後に詠まれた歌として伝わる。
Google Earthで飛鳥宮跡を俯瞰すると、広大な地に複数の宮殿跡が重なり合う様子が見て取れる。

かつて「飛鳥の都は転々と移り変わった」と学んだが、実際には、飛鳥地域の同じ場所に形を変えながら宮が造営され続けたのである。飛鳥宮とは一つの宮殿ではなく、豊浦宮・小墾田宮・飛鳥板蓋宮・飛鳥浄御原宮など、複数の宮都の総称である。現在「飛鳥宮跡」とされる遺構には、こうした宮殿の痕跡が層状に重なって確認されている。むしろ『名前を変えて同じ場所に続いた』のではなく、『飛鳥という地域が政治の中枢であり続けた』と理解するのが正確だろう。
時代背景
飛鳥宮が営まれた7世紀の飛鳥時代は、日本が国家形成へ大きく転換する時期であった。蘇我氏の政治的支配が強まる一方、中国・朝鮮半島との交流が活発化し、律令制度や仏教など新しい思想・制度が導入された。推古天皇・聖徳太子による冠位十二階や憲法十七条は国家体制整備の始まりであり、大化改新(645年)によって豪族支配から中央集権国家への改革が進んだ。飛鳥の宮はその政治の中心として機能し、日本古代国家成立の舞台として歴史に刻まれた。
飛鳥宮の役割
飛鳥宮は天皇が政治を行う中心地であり、儀式・政務・外交が行われる国家機関として機能した。律令制度に基づく政治が展開され、官僚が政務を執り、遣隋使・遣唐使を通じた国際交流の決定もなされた。また仏教の受容と国家宗教化が進む中、宮中での仏教儀礼も重要な役割を担った。飛鳥宮は単なる住居ではなく、権威を視覚化する空間であり、天皇中心の統治理念を象徴する場でもあった。その存在は宮殿制度の確立につながり、以後の藤原京・平城京へと受け継がれていった。
飛鳥宮の構造
飛鳥宮跡に確認される構造は、複数の宮殿が同じ場所で建て替えられた複合的な遺跡であり、板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮などが知られる。建築には瓦葺建築や礎石建物が導入され、中国・朝鮮半島の宮殿設計思想を踏まえた左右対称の計画性が見られる。政務空間・儀式空間・生活空間が区分され、大王権(のちの天皇制)の政治拠点にふさわしい整然とした都市設計が採用された。また宮殿周辺には寺院や祭祀空間、水路などが整備され、飛鳥地域全体が国家の中心都市として形成された。
後世への影響
飛鳥宮で確立した宮殿配置、都市設計、政治制度は、藤原京、さらに平城京へと引き継がれ、日本初の本格的都城制へ発展した。都城設計における碁盤目状区画、宮城と市街の明確な分離、官僚制中心の政治運営といった特質は、後の日本古代国家の基盤となった。また、飛鳥宮で行われた宗教・儀礼・外交形式は制度化され、律令国家の象徴体系へ組み込まれた。飛鳥宮で確立された制度や構造が、日本の宮都文化・統治理念・都市構造の始点となり、その影響は後世に長く響き続けたのである。
それでは、飛鳥宮跡を実際に見ていこう。この時の足跡は地図に示す通りで、下側(南)にある明日香郵便局のところで曲がって、飛鳥宮跡(南門側)から畑の中に入り、前殿跡で見学した後、正殿跡にたどり着き、そのあと少し離れた苑池休憩所から、苑池遺跡を望んだ。その後、吉野川分水を経由して、志貴皇子歌碑近くの飛鳥宮跡へと向かった。

こうして整理すると、飛鳥宮跡が日本史においていかに大きな意味を持つかが改めて浮かび上がる。だが、文字と写真だけでは伝わらない空気がある。だからこそ、私は現地を歩いた。

毎日新聞(2025年11月5日付)の報道によれば、橿原考古学研究所はここから7世紀後半の掘立柱建物遺構を確認したと発表している。1979年に西半分(上の写真で柱があるところ)から見つかった遺構の東側である。前殿は、日本書紀に「大安殿(おおあんどの)」と記される天皇が臣下を招く賜宴の場と見られている。
次の写真で、手前は前殿跡、後ろの方に見えるのが正殿跡である。

こちらはWikipediaからの2025年の現地説明会の模様である。飛鳥宮跡における「正殿」は、古代7世紀の宮殿群(飛鳥浄御原宮 など)の中心的な儀礼建物と考えられてきた建物跡である。発掘により、掘立柱(木の柱を地面に直接立てる)構造の大きな建物跡が確認され、石敷きの床面がそのまわりに広く敷かれていたことが明らかになった。特に最近の調査では、東西約20メートル、南北約11メートルの建物跡で、屋根の庇が四方に巡る構造だった可能性が示されている。柱のそばまで石が敷かれ、内部の石敷きが外側より高くなっていることから、「格式ある建物」であり、天皇の儀礼や政務など重要な場として機能した「正殿」にふさわしい場所と判断されている。

次は苑池遺跡である。ここでも写真を撮らなかったので、Wikipediaから2018年に発掘調査したときに撮影したものを利用する。飛鳥京跡苑池は、飛鳥宮跡(奈良県明日香村)の北西に隣接する、7世紀に造られた宮廷付属の庭園池の遺跡である。苑池は「南池」と「北池」の二つの池からなり、南池は観賞用の浅い池で、池底に石が敷き詰められ、島(中島)や石造噴水施設などもあったことが確認されている。一方、北池はやや深く、平らな底面とされ、実用的な性格を持っていたとみられている。この苑池は、7世紀中頃――特に斉明天皇の時代に造られ、のちの天武天皇・持統天皇の宮殿(飛鳥浄御原宮)の時代まで使われていた可能性があり、史料にある「白錦後苑」に該当するとの見方が強い。日本における最古級の宮廷庭園であり、後の日本庭園の起源を考えるうえでも重要な遺跡とされている。

志貴皇子歌碑近くの飛鳥宮跡である。ここには石敷き井戸の復元遺構があった。こちらもWikipediaのものを利用する。飛鳥宮跡にある「石敷き井戸」は、7世紀後半の飛鳥浄御原宮期の宮殿遺構のひとつです。発掘調査で、内郭の北東部から大井戸の跡が見つかり、その周囲は石が敷き詰められ地面が整備されていたことが確認されました。この井戸は、王宮の給水・用水を支えた重要な施設であり、井戸そのものだけでなく、石敷きの舗装と掘立柱建物との組み合わせで、当時の宮殿空間の構造の一端を伝えています。現在では、石敷き井戸は復元され、遺構の位置と規模を示す標示とともに公開されており、古代宮殿の日常と設計思想を感じられる貴重な遺産となっています。

訪れる前は、飛鳥宮跡はそれほど広大な土地ではないだろうと過小評価していた。ところが歩き始めると、王宮としての機能が整えられていたことに気づき、さらにその施設群が広大な敷地に築かれていたことを実感するようになった。やがて私は、その広さを確かめることに夢中になり、途中から写真を撮ることすら忘れてしまった。写真を忘れたことは惜しいが、風景は記憶に残った。風は変わらず吹き続け、人の営みは移ろいゆく。その儚さの中で、飛鳥の風だけが今も変わらず私に寄り添っている。