bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

佐藤雫著『残光 そこにありて』を読む

小栗忠順(おぐりただまさ)ほど、生前の行動と死後の評価が大きく揺れ動いた人物は多くない。幕末という激動期において、彼は旗本として将軍家を守る義務を負いながらも、同時に近代国家形成の基礎となる施策を推進しようとした。その二重の要請の狭間で模索しつつも、自らの信念に基づく政策構想を貫徹しようとした点に、忠順の特質が見いだされる。

明治維新後、彼は「薩長と戦うべきである」との主張を理由に、旧体制に固執した幕臣として排除される対象となった。しかし、戦後になり明治国家の成立過程が歴史的距離をもって検討されるようになると、忠順の施策に内在していた先見性が再評価され、その歴史的位置づけは大きく反転した。この評価の変遷自体が、近代日本の成立をめぐる歴史認識の揺らぎを象徴している。

本書は、幕末の激流が時代の先を見据えていた忠順を呑み込んでいく過程を、複数の人物像を対照させながら描き出している。すなわち、旗本としての宿命を背負いながら未来を構想した忠順、幕府の枠組みを超えて国家の将来を見通していた勝麟太郎、そして利に敏く時代の波を乗り越えて三井の大番頭へと上り詰めた利八という、幕末期を象徴する三者の姿が提示される。これらの人物を衝撃的な事件の証人として描くことで、当時の社会構造と価値観の転換が立体的に浮かび上がる。

さらに、忠順を支えた家族との静謐な時間が挿入されることで、物語は一時的な緩和を得る。しかし、その静けさはやがて悲劇的結末へと収斂していく。本書の描写は、歴史的事実と人物の内面を緻密に織り合わせ、読者に強い印象を残すものであった。読了後には、幕末という時代の構造だけでなく、その中で苦悩し、未来を切り開こうとした忠順と周辺人物の姿が鮮明に立ち上がる。本書は、歴史叙述として高い完成度を備えた作品であると感じた。

なお、「小栗忠順の政策構想とその歴史的意義」については、別途レポートとして整理したため、ここに付記しておく。

小栗忠順の政策構想とその歴史的意義
――幕末日本における近代国家設計の試み――

はじめに
幕末日本において、小栗忠順はしばしば徳川幕府崩壊とともに姿を消した「敗者側の官僚」として語られてきた。しかし近年の研究は、彼を単なる幕府の実務官僚ではなく、財政・軍事・産業・外交を統合的に構想した近代国家設計者として再評価しつつある。
本稿の目的は、小栗の行動を個別の逸話としてではなく、体系的な政策構想として再配置し、その歴史的意義を検討することにある。小栗は遣米使節として欧米の制度を直接視察し、国家能力の源泉が理念や武勇ではなく、制度・財政・産業・軍事の結合体にあることを認識した。帰国後は勘定奉行として財政制度改革や貨幣制度の近代化を構想し、横須賀製鉄所建設によって軍需産業基盤の整備を推進した。また、改税交渉や外国借款構想を通じて、国家信用に基づく財政運営を模索した。
本稿では、小栗の政策構想を①財政制度改革、②軍事・産業基盤整備、③外交戦略、④政治構造の安定化という四つの柱に整理し、彼の近代国家観の体系性を明らかにする。

遣米使節
――近代国家観の形成――
万延元年(1860年)の遣米使節への参加は、小栗忠順の国家観を決定的に方向づけた経験であった。日米修好通商条約の批准書交換という外交儀礼の背後で、小栗が注目したのは、アメリカ国家を支える制度的合理性と官僚制、そして財政基盤の強靭さであった。
使節団はサンフランシスコからワシントンへ移動する過程で、銀行、造船所、鉄道、議会制度などを視察した。小栗が強い衝撃を受けたのは、国家が理念や伝統ではなく、制度・財政・産業・軍事の相互補完的体系として機能しているという事実であった。この体験は、小栗を単なる「開国後の対応者」から、近代国家の制度設計を構想する官僚へと転じさせた契機であった。

フィラデルフィア造幣局
――貨幣制度改革の原点――
条約批准後、小栗は一行の一部とともにフィラデルフィア造幣局を訪問した。この視察は、日本の通貨制度の欠陥を技術ではなく制度の問題として理解しようとする、きわめて戦略的な調査であった。
当時の日本では金銀比価の不均衡により金貨が大量に流出していたが、その原因は十分に把握されていなかった。小栗は造幣局の視察を通じて、貨幣価値が国家の制度と信用によって保証されていることを理解した。鋳造工程、合金比率管理、品質検査、発行量調整といった制度的枠組みの観察は、帰国後の造幣構想や貨幣制度改革の基盤となった。小栗はここで、「通貨とは国家主権と信用に支えられた制度である」という認識に到達したと考えられる。

対馬事件
――列強間の力学を利用した現実主義外交――
1859年の対馬事件は、日本の主権が直接脅かされた初期の事例であった。小栗はこの事件を、列強による分割・蚕食の前兆として捉え、武力衝突を避けつつも曖昧な譲歩が危険であることを理解していた。
彼が選択したのは、国際政治の力学を利用する現実主義的外交であった。イギリスの利害を巧みに利用し、ロシアの行動が勢力均衡を乱すことを強調した結果、イギリスの圧力によりロシアは撤退を余儀なくされた。この対応は、軍事力不足を外交戦略で補う試みとして評価できる。

勘定奉行
――財政を国家運営の中枢機構へ再設計する試み――
小栗忠順勘定奉行として活動した時期、幕府財政は慢性的赤字に陥り、開国後の軍事・外交支出が急増していた。小栗の最大の特徴は、財政を単なる歳入歳出の調整ではなく、国家運営の中枢機構として再構築しようとした点にある。
彼は勘定所の機能強化と財政状況の正確な把握を重視し、帳簿管理の改善や支出の把握を進めた。さらに、金流出問題への危機感から、貨幣制度の統一と造幣制度の近代化を構想した。これらの政策は、国家信用に基づく財政運営を志向するものであった。
また、小栗は横須賀製鉄所建設などの軍事・産業投資を将来への投資と捉え、外国借款構想も単なる財政補填ではなく、近代化を加速させるための戦略的手段として位置づけていた。

改税交渉
――関税自主権回復をめざす制度的外交――
安政五カ国条約による低関税制度は、日本の財政と産業に深刻な影響を与えていた。小栗にとって改税交渉は、財政問題であると同時に、国家主権と制度的対等性の回復をめざす外交課題であった。
彼は国際慣行に基づき、日本のみが例外的に低関税を強制されている不合理性を理論的に主張した。しかし列強の抵抗と幕府の不安定な政治基盤により、交渉は成果を得るに至らなかった。それでも小栗は、交渉を継続すること自体が主権国家としての意思表示であると考えていた。この問題意識は、後の明治政府による関税自主権回復の前提となった。

横須賀製鉄所
――軍事・産業・技術を統合する近代国家構想――
横須賀製鉄所は、小栗の近代国家構想を最も端的に示す政策である。蒸気軍艦の建造・修理を自国で行うための近代工業施設であり、軍事・産業・技術教育を統合した総合拠点として構想された。
フランス人技師ヴェルニーを招聘し、技術移転と人材育成を制度化した点は、後の官営模範工場政策の先駆と評価できる。借款構想は最終的に実現しなかったものの、国家信用を前提とした長期的産業基盤整備という発想は、明治国家の方向性を先取りしていた。

大政奉還
――政治構造の空白を警戒した制度主義的視点――
1867年の大政奉還に際し、小栗は形式的な政権返上よりも、その後に生じる政治構造の空白を強く警戒していた。制度の空白は必ず実力を持つ勢力に奪われる、というのが彼の論理であった。
薩摩・長州など軍事力を持つ諸藩が主導権を握る危険性を見抜き、幕府が整備してきた財政・軍制・外交機構を徳川家主導で維持する枠組みを先に固めるべきだと主張したが、この構想は受け入れられなかった。

上州権田村とその後の家族
――沈黙に託された覚悟――
幕府崩壊後、小栗は新政府への出仕を拒み、上州権田村に退いた。村人との関係を大切にしながら静かに暮らしていたが、やがて新政府軍により処刑される。
家族は「逆賊の家」として厳しい境遇に置かれたが、声高な名誉回復運動を行うことはなかった。この沈黙は、小栗自身の覚悟を受け継いだ姿勢とも言える。後年、蜷川新らによる研究を通じて、その先見性は再評価されていった。

結論
――近代国家設計者としての小栗忠順――
小栗忠順は、幕末という過渡期において、財政・軍事・産業・外交・政治構造を統合的に捉え、近代国家の制度的基盤を先駆的に構想した人物であった。その多くは幕府崩壊によって実現を見なかったが、彼の発想は明治国家に継承され、日本の近代化を支える土台となった。
制度なき国家は存立しえない――。小栗の生涯は、直接的な成功としてではなく、後に継承された制度的発想の残光として、今日の我々にも影響を与え続けている。