小学生の社会科で「大阪には巨大な古墳がある」と教わって以来、百舌鳥・古市古墳群には長く関心を抱いてきた。しかし実物を訪れる機会は得られないまま年月が過ぎ、今回、奈良・大阪へ古代を訪ねる旅に出て、ようやく念願を果たすことができた。ところが、実際に墳丘の近くに立つと、その規模の大きさゆえに視界に入るのは墳丘のごく一部にすぎず、全体の輪郭を把握することはできない。堺市役所の展望台から眺めてみても、今度は距離がありすぎるためか、巨大古墳は市街地の中の小山の一つにしか見えない。
この「近すぎても遠すぎても形が把握できない」という経験は、巨大古墳が単なる巨大建造物ではなく、古代の政治構造そのものを象徴する存在であることを示しているように思われた。全体像が容易に把握できないその構造は、単純な「王権」像では捉えきれない五世紀政治の複雑さをも象徴しているのではないだろうか。そこで、現地での観察と文献での知見を重ね合わせながら、巨大古墳が築かれた背景について改めて考えてみることにした。
近隣には、この視覚的な制約を補うために有料の気球による上空観察サービスも提供されているというが、今回は利用せず、帰宅後に衛星画像を用いて俯瞰してみた。すると、大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)は三重の濠をめぐらせた前方後円墳の形が鮮明に現れ、周囲の市街地と比較してもその巨大さが際立つ。墳丘長は525m、高さは後円部で39.8mに達し、日本最大規模の古墳である。その規模は世界最大級の墳墓の一つとされ、エジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵と並び論じられることもある。

古墳は、墳丘となる小高い山と、それを取り巻く濠によって構成される。濠を掘る際に生じた土を内側に積み上げ、さらに不足する場合には周辺から土を運び込むことで、人工の丘陵ともいえる巨大な墳丘が形成される。そこには被葬者が葬られるが、古墳の本質的な目的は単なる埋葬施設にとどまらず、被葬者の権力や権威を可視化するための巨大な威信財であったと考えられている。
しかし、現代の私たちから見ると、その規模はしばしば「やりすぎ」と感じられるほどである。なぜ、これほどまでに大規模な構造物を築造する必要があったのだろうか。そこには、当時の政治体制、地域間の競合、対外関係、宗教観や死生観など、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。巨大古墳の存在は、単に一人の権力者の墓というだけではなく、古墳時代の社会構造そのものを映し出す鏡でもある。
3世紀末から4世紀にかけて奈良盆地南東部に築造された大型前方後円墳・箸墓古墳の出現を画期として、古墳時代の始まりとされる。古墳時代は前期・中期・後期に区分されるが、大仙古墳に代表される巨大古墳が築造されるのは中期の始まりであり、4世紀末から5世紀にかけての時期に相当する。
中期には前方後円墳が全国的に主流となり、巨大古墳の築造もこの時代に集中する。また、副葬品にも大きな変化がみられる。前期には弥生的な宗教性を引き継ぎ、銅鏡・玉類・碧玉製腕飾など司祭者的・呪術的性格をもつ宝飾品が中心であったのに対し、中期になると馬具・甲冑・武器・鉄器など軍事的・実用的な副葬品が急増し、朝鮮半島からの技術・文化の影響が一層強まる。
埴輪についても、前期は円筒埴輪が中心であったが、中期には人物・動物・家・舟などの形象埴輪が本格的に登場し、古墳の儀礼空間はより複雑で象徴性の高いものとなる。これらの変化から、前期と中期のあいだには社会構造や政治体制に大きな転換が生じていたことがうかがえる。
6世紀に入ると前方後円墳は減少して円墳が増加し、墳丘規模も縮小する。この時期は後期と呼ばれ、横穴式石室の普及とともに墓制は家族的性格を強めていく。
では、なぜ4世紀末頃に古墳が巨大化したのだろうか。松木武彦『古墳時代の歴史』によれば、この時期には対外関係に大きな変化が生じていたという。奈良県天理市の石上神宮に伝わる「七支刀」の銘文には、東晋の太和4年(おそらく369年)に制作されたことが記されており、『日本書紀』には神功皇后52年(372年)に百済から献上されたとある。これらの史料から、「東晋―百済―倭」という外交ルートが成立していたことがうかがえる。
さらに、高句麗の王都・輯安(しゅうあん)にある「広開土王碑」には、391年から404年にかけて高句麗と倭の間で争いがあったことが記されている。これは、朝鮮半島における「高句麗対百済」の対立構図の中で、倭が百済側に与したことに起因する戦いであったと考えられる。当時、鉄資源を産出しない倭にとって、朝鮮半島南端の加耶(加那)の鉄は極めて重要な基幹物資であり、百済はその供給を倭に約していた。このような朝鮮半島との外交的・戦略的な密接な関係は、武器・武具の変化にも反映されている。
松木によれば、この時代の倭はまだ首長連合的な段階にあり、全面三段の巨大前方後円墳に葬られるような複数の門閥氏族が互いに競い合う状況にあったという。5世紀の初め頃には、ヤマトに三つ、カワチに二つの有力な門閥氏族が存在していたとされる。その中でも、とりわけカワチの門閥氏族が勢力を拡大し、巨大な古墳群を築造するに至ったと考えられている。したがって松木は、いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれるような大王による一元的支配は、この段階ではまだ成立していなかったと指摘する(下図は松木武彦『古墳時代の歴史』からの引用)。

以上のような社会的・国際的変動を踏まえると、巨大古墳の出現を単なる「王権の象徴」と理解する従来の図式は再検討を迫られる。松木は、大王権の発展ではなく、門閥氏族の勢力拡大こそが巨大古墳出現の背景であることを強調する。その核心部分を、松木の記述から確認してみたい。
以上のように、五世紀にピークに達した巨大前方後円墳それ自体は、これまで言われていたような、『王権』の体現者としての倭王の地位などを示していないと理解できるのである。それは互いに競合し、牽制しながら、政治・社会・経済のさまざまな面での権益や地位を争っていた門閥氏族の長たちのために築かれたものであって、『倭王』のそれとして『王権』の発展に伴って巨大化したものではない。
続けて、同書の別の箇所では次のように述べられている。
本章では、370年前後、百済との通交の確立を契機として力を伸ばした門閥氏族の一派が、カワチを本拠として力を強め、百舌鳥・古市の両古墳群を営んだ二大門閥氏族に分かれて支配的地位を競うようになったようすをみてきた。おそらくは婚姻などを通じたかれらの介入や主導によって、九州から関東までの各地に『ミニ古市』『ミニ百舌鳥』というべき大型古墳群を築く男系大氏族が新たに形成されたとみた。これらの男系大氏族が、カワチの二大門閥氏族を両軸に、そこからもたらされた大量の鉄製武器・武具を用いた埋葬儀礼とその世界観を共有して連合し、東アジアの緊張した国際関係に立ち向かう様子を明らかにして、それを『応神新体制』と呼んだ。
ここで重要なのは、巨大古墳を「王の墓」ではなく「競合する門閥氏族の表現装置」として再定義している点である。この視点から現地の印象を振り返ると、墳丘が巨大すぎて全体像を一望できないという事実は、五世紀の政治構造もまた単純な「王権」モデルでは捉えきれないことを示唆している。百舌鳥・古市の巨大古墳群は、二大門閥氏族が互いに競合しつつ形成した複雑な権力構造を可視化したものだった可能性が高い。
それでは、実際の見学の様子をたどっていきたい。午前中は堺市の百舌鳥古墳群を中心に巡った。訪れたのは、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、巨大古墳(主墳)の周囲に点在する陪冢(ばいちょう)古墳が集まる大仙公園、そして大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、さらに少し離れた黒姫山古墳である。

まず上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)を拝所から見学した。墳丘長約365m、高さ約27.6mを測り、日本で三番目に大きい前方後円墳である。しかし、あまりに規模が大きいため、拝所から見えるのは墳丘のごく一部にすぎず、全体像を把握することは難しい。写真に写る池のように見える部分が外濠であり、その内側にさらにもう一重の濠が巡らされている。
上石津ミサンザイ古墳

上石津ミサンザイ古墳

巨大古墳の前では、その規模を実感することすら容易ではないと感じつつ、大仙公園の内部へと進む。最初に現れたのは寺山南山古墳で、短辺39.2m・長辺44.7mの方墳である。そのすぐ近くには七観音古墳があり、墳丘径32.5m・高さ3.8mの円墳である。さらに進むと旗塚古墳が見えてくる。墳丘長57.9m・高さ3.8mの帆立貝形前方後円墳である。このあたりは山茶花や梅が咲き、早春の穏やかな雰囲気に包まれていた。
寺山南山古墳

七観音古墳

旗塚古墳

大仙公園

続いて孫大夫山古墳に至る。墳丘長65m・高さ7.7mの帆立貝形前方後円墳である。さらに竜佐山古墳へ進むと、墳丘長61m・高さ2mの帆立貝形前方後円墳が現れる。このように陪冢古墳には多様な墓型がみられ、被葬者の身分によって墳形が選択されたと考えられている。
孫大夫山古墳

竜佐山古墳

大仙公園を抜けると、大仙陵古墳が姿を現す。拝所から眺めると、ただの大きな丘のようにしか見えないが、これは墳丘があまりに巨大であるためである。近くには復元模型が設置されており、築造当時は葺石によって覆われ、周囲とは明確に区別された特別な空間を形成していたことがうかがえる。
大仙陵古墳

拝所

復元模型

次の目的地は古市古墳群であったが、その途中に位置する黒姫山古墳に立ち寄った。この古墳は、軍事集団を率いたと考えられる丹比(たじひ)氏の首長墓とされ、百舌鳥と古市の両勢力の中間に位置することから、両者の調整役あるいは軍事的中核を担った氏族の存在を示すものと考えられている。墳丘は二段築成の前方後円墳で、墳丘長は114〜122mと推定される。敷地内には石室の復元も設置されていた。
丹比氏の首長墓

石室の復元

近くのみはら博物館では、黒姫山古墳の出土品が展示されている。現地では規模感を十分に把握できなかったが、復元模型を見ると、築造当時の古墳の姿がよく理解できる。副葬品としては24領の短甲と冑のセットが出土しており、その復元模型が展示されていた。実物の短甲・冑のセットも並べられており、実際に身につけた場合の重量感や動きにくさが想像できる。また、円筒埴輪も展示されており、当時の儀礼空間の一端をうかがわせる。これらの短甲・冑は、丹比氏が軍事的性格を強く帯びた氏族であったことを端的に示している。両古墳群の中間に位置するこの古墳の存在は、単純な二項対立では説明できない複層的な政治構造を示しているように思われた。
黒姫山古墳の復元模型

短甲・冑のセットの復元模型

実物の短甲・冑のセット

円筒埴輪

昼食をとった後、いよいよ本日の見学の最後となる羽曳野市の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)へ向かった。この古墳の南側には誉田八幡宮がある。誉田八幡宮は、古代から江戸時代までは「誉田八幡宮寺」と呼ばれる神仏習合の寺院であり、その境内は誉田御廟山古墳の墳頂まで広がっていた。しかし、明治維新後の神仏分離により寺院部分は廃され、誉田八幡宮は神社として再編され、古墳は陵墓として宮内庁の管理下に置かれるようになった。その結果、墳頂にあった寺院建物は撤去され、古墳は立ち入り禁止となった。

それでは、誉田八幡宮を見ていく。祭神は応神天皇(誉田別命)で、中世以降は八幡神と同一視され、鎌倉時代以降の将軍家をはじめ武家から厚く信仰された。南大門は切妻造・大棟葺の四脚門で、寺院建築の様式を色濃く残している。拝殿は入母屋本瓦葺で、間口十一間・奥行三間の細長い木造建築である。割拝殿形式をとり、正面中央部が拝所となり、向拝部分は唐破風造で蛇腹天井を備える。天井板が張られていないため、内部の木組を観察することができる。徳川家によって修復が施されたため、三つ葉葵の定紋が付されている。東門の鳥居に掲げられた「八幡宮」の「八」は、鳩が向かい合う意匠で描かれている。半円形の放生橋は、9月15日の秋季渡御の神事の際、御陵へ向かう神輿が通るために用いられたものである。
南大門

拝殿

三つ葉葵の定紋

東門鳥居

放生橋遠景

放生橋

誉田御廟山古墳の周囲には、主墳に付随する陪冢古墳が点在している。向墓山古墳は一辺68m・高さ10mの方墳である。墓山古墳は墳丘長225m・高さ21mを測る大型の前方後円墳で、陪冢としては最大級に属する。誉田丸山古墳は墳丘径50m・高さ7mの円墳で、ここからは金銅透彫鞍金具が出土している。大鳥塚古墳は墳丘長110mの前方後円墳である。これらの陪冢古墳は、誉田御廟山古墳を中心とした首長層の広域的ネットワークと、被葬者の身分階層の多様性を示している。
向墓山古墳

墓山古墳

誉田丸山古墳

大鳥塚古墳

陪冢古墳からの出土品を確認するため、羽曳野市文化財展示室に立ち寄り、形象埴輪を中心に観察した。
形象埴輪(水鳥形と人形)

形象埴輪(家形)

形象埴輪(靫形)

形象埴輪(靫形)

最後に、誉田御廟山古墳そのものを見学した。前方後円墳で、墳丘長425mを誇り、全国第2位の規模をもつ巨大古墳である。前方部の角から側面を撮影した写真では、その圧倒的な規模がよく分かる。また、拝殿越しに古墳を望んだ写真では、前方部の幅広さと墳丘の量感が強く印象づけられる。
前方部側面

拝殿

今回の見学は、巨大古墳の圧倒的な物理的存在感と、そこに込められた政治的・社会的意味を重ね合わせる貴重な機会となった。文献で学んだ門閥氏族の競合や対外関係の緊張は、実際に墳丘の前に立つことで、より具体的で立体的な歴史像として立ち上がってくる。百舌鳥・古市古墳群は、古代の権力構造を可視化した巨大な歴史資料であり、現地を歩くことで初めて理解できる側面が多い。
松木の指摘するように、両古墳群が血縁的なつながりを保ちながらも、互いに拮抗し競合した門閥氏族によって築かれたとする見解は、今回の実見によってより具体的な像を結んだ。巨大古墳は、その規模の大きさのみならず、複数勢力がせめぎ合う五世紀の政治構造そのものを体現する存在である。墳丘が巨大すぎて全体像を一望できないように、五世紀の政治構造もまた単純な図式では捉えきれない。現地に立ち、距離を変えながら観察することによってのみ、その複雑な構造が浮かび上がるのである。今回の観察と考察を踏まえ、古墳時代の権力構造、とりわけ中央と地域勢力の関係について、今後さらに理解を深めていきたい。